複雑な夜
トリエンテからヴァルトガルドに戻ると、ちょうど夕方だった。宿にテイラーを送り、第一師団の交代の騎士に彼女を任せて一度城に戻る。
「くそ。今日は疲れた」
歩きながらリオンが毒づく。シャロンもそれには同意だ。妙に身体がだるい。
しかし、城に向かう道の先にさらに状況を悪化させる事態が待っていた。
その姿を見つけて思わず足を止めたシャロンを、怪訝な顔でリオンが振り返る。
シャロンの視線の先にいた彼女も、シャロンに気づいて目を見開いている。その顔に親しげな笑みが浮かび、こちらへ歩いて来た。
「久しぶりね、シャロン。元気だった?立派になっちゃって。ヴァルトガルドにいるとは思わなかったわ」
「アン……」
名前を呼ぶと、従姉はにっこり微笑んだ。
「あの人は貴方の上司?本当に立派になったわね。ねえシャロン、少し話せない?まだ仕事中かしら」
「え、あ、うん、あの……」
リオンを見ると、行ってこいと手で追い払う仕草をされた。
「じゃあご飯一緒に食べましょ。シャロンのおすすめのお店教えて」
「あ、うん、じゃあ商店街のはしっこなんだけど……」
シャロンはリオンに頭を下げ、アンを連れて何度か行ったことのあるレストランへ行った。
おしゃれな内装にはしゃぐアンにおすすめはキッシュだと言うと、彼女はそれに決めたらしい。結局シャロンと二人、ホウレン草とベーコンのキッシュを頼んだ。
料理に舌づつみをうち、アンが騎士団の話を聞きたがるので話してやると、意外にも葉梨が弾んだ。仲が良かった昔に戻ったようだ。
「アン、ジムと結婚したんだよね?ジムは来てないの?」
食後にコーヒーが来たタイミングでそう訊くと、アンは「そうなの」と頷いた。
「ジムの家、農場やってたじゃない?今あそこ大変なのよ。もしかしたら農場を売らなきゃいけないかもしれないの」
「そうなの?それは困ったね……」
「結構お父さんの代から無理してたみたいなのよ。結婚した時は全然知らなかったんだけど」
アンは困ったように眉を寄せる。
「ねえ、シャロン。悪いんだけど、少し貸して貰えないかしら」
何を、なんて聞かなくてもわかる。
シャロンは思わず黙ってアンの顔を見た。その途端、ふっと鳩尾が冷たくなる。
これが本題かーー……。
一瞬でも昔に戻れたと思った自分が馬鹿みたいに思えた。
「騎士の待遇もそんなに良いものじゃないよ」
「そうなの?でも良いじゃない。衣食住は保障されてるわ」
シャロンが騎士になった理由を言われた。
アンの目は、昔シャロンを蔑んでいた時の目に変わっていた。微笑みだけが不自然に顔に貼り付いている。
どんどん身体が冷たくなっていく気がする。
気持ち悪いーー……。
「少しなら何とかなるかもしれない。明日届けるから宿を教えて」
「そんなこと言って、逃げたら嫌よ?」
茶目っ気たっぷりに言うが、もはや顔すら笑っていない。
早く帰りたい。怖いーー……。
逃れたい一心で、シャロンは胸元のエンブレムをひきちぎった。
「これ、騎士の証のエンブレム、預ける。明日必ず届けるから」
そう言うと、アンはやっと宿を教えてくれた。
「ありがとう、シャロン。貴方って素晴らしい従妹ね。デザートでも食べない?」
「ごめん、あたし門限があるの」
まだ随分早かったが、シャロンはそう言って立ち上がった。
「アンはゆっくりしていって。ここのガトーショコラ、おいしいよ。あたし、払っとくから遠慮しないで」
「そう。悪いわね」
アンは悪びれずにそう言った。
シャロンは不自然にならないようにできるだけ素早く席を離れ、会計を少し多めに払いを足りなければ後日自分に請求するように頼んだ。
そしてちぎったエンブレムに罪悪感を覚えながら外に出るとーー……。
「班、長……?」
「単細胞が門限を忘れちゃ困ると思ったんだが、思ったより賢かったらしいな」
リオンがたっぷり憎まれ口を浴びせてきた。
「え……何でここ……?」
「サラに聞いた」
「あ、そう……でしたか。ごめんなさい、心配かけて」
「化け物に会ったような顔すんな。帰るぞ」
リオンはそう言って歩き出した。
シャロンも後に続いたが、二人とも無言である。
ふと足を止めたリオンが、ふらりと広場の屋台に寄って行った。ぼーっと見ていると、何やら包みを二つ持って戻って来る。そして、小さい方の包みをシャロンに押し付けた。
「腹が減った。付き合え」
そう言って広場のベンチに腰かける。シャロンもおずおずと隣に座り、包みを開けてみた。エッグタルトだ。
リオンはおおぶりのバケットサンドにかぶりついている。夕食を食べ損ねたのだろう。
もしかして、結構長い間待っててくれたのだろうか。
何か言おうと思うのに、言葉にならない。昔、あの家にいた時みたいだ。
何も言えないので、エッグタルトをかじる。隣から「うまいか」と訊かれて頷いた。
シャロンが食べ終えた頃合いで、リオンが「帰るぞ」と立ち上がった。
「不寝番は第一師団に任せたし、明日はヴァルトガルドで待機だ。ゆっくり休めそうだな」
「そう、ですね……」
リオンがちらりとシャロンを見たが、何も言わなかった。そのまま二人、また無言で歩く。
城の一階にある宿所まで来て、リオンが振り返った。
「……ちょっと寄ってけ」
そう言って自分の部屋にシャロンを入れる。無言で従うシャロンをそのまま椅子に座らせて、リオンが紅茶を淹れてくれた。普通の紅茶とはどこか違う、おいしい紅茶だ。
不思議に思ってカップを見ていると、「隠し味だ」とリオンが得意気に言った。
エッグタルトを買ってくれたり、隠し味を自慢したり、今日の班長はちょっとレアだ。
思わず頬が緩み、それを見たリオンの眉間からしわが減った。
「大丈夫なのか」
その問いにこくりと頷く。
「あれが前おまえが言っていた従姉か」
またこくりと頷く。それから紅茶をもうひとくち飲んだ。
「シナモン……」
「ほう。よくわかったな」
リオンが感心したように言った。
「食べたり飲んだりするの、好きですから……。騎士団に入ったの、それが理由だし」
カップの中に映る自分が泣きそうな顔をしている。なぜだろう。
「騎士団は、衣食住の保障がされてて……お給料も貰えて……良いところですよね」
「そう言われたのか、従姉に」
「そうじゃないんです。あたしが、そう思って……騎士団に……」
手からカップが取り上げられた。それがガチャンと乱暴にテーブルに戻され、気付いた時には座ったまま傍らに立ったリオンの腕のなかにいた。
班長、乱暴なんだから。紅茶こぼれちゃう。
頭がまったく関係ないことを考えている。しかし、リオンの手が優しく背中を叩いてくれているうちに、やっと思考が戻ってきた。同時に、腕の力強さと温かさに気が緩み、鼻がつんとする。
「はんちょ……どうして、様子見に来てくれたんですか」
声がぐずぐずになった。
「おまえの従姉が出てきた店を見たら、質屋だったからだ」
「そっか。それで……」
アンはやはり初めから、シャロンにお金の無心をするつもりだったのだ。
「あたし馬鹿みたい」
そう呟くと、リオンの腕に力がこもった。
「また仲良くなれるかもって期待して、居場所ができるかもって思って、なんて馬鹿……」
「おまえの居場所はここだろうが」
頭の上でリオンが乱暴に言った。
涙が止まらなくなる。嗚咽を我慢していたら、「泣いちまった方が楽だぞ」と言われてそれも止まらなくなった。
まるで小さな子どもみたいに、シャロンはリオンに甘えて泣き続けた。
瞼が重い。妙に頭も重い。
今日、何の日だっけ。
朝の調練だっけーー……。
重い瞼を無理矢理開けたシャロンは、そのまま固まった。あまりの衝撃に頭がすごいスピードで回転し出す。
何で隣でリオン班長が寝てるの!?
昨日、班長にすがって泣いてーーわあ、恥ずかしい!ーーその後、どうしたんだっけ。その後ーー何でこの人、寝顔はこんなに可愛いんだろーーその後ーー……。
リオンが身じろぎし、うっすら目を開けた。彼は状況の混乱がないらしく、至極冷静に「手」と掠れた声で言った。
手?
見ると、自分の手がリオンの服をしっかり掴んでいるではないか。思わず「わっ」と叫んでそれを離す。
「おまえが昨日そのまま寝ちまったから俺もそのまま寝ただけだ。心配すんな」
「いえ、あの、ご迷惑おかけしてすみません」
そこでアンとの約束を思い出す。
「ごめんなさい、あたし行かなきゃ」
「シャロン・ブレイズ」
いきなりフルネームで上官の口調になったリオンに、思わず背筋を正して向き合った。ただし、ベッドに乗ったままだ。
「おまえに任務を申し付ける。第一師団に合流し、午前中いっぱい訓練を受けろ」
「はっ。……いえ、あの、駄目なんです班長、あたし……」
「命令だ。従え。てめえの身体が鈍って迷惑すんのは俺だ」
冷たい声音で言われ、シャロンは頷くしかなかった。
部屋に戻って新しい制服に着替え、エンブレムがない部分をそっと撫でる。アンは行かないと怒り狂うだろう。こっそり渡しに行こうかと思ったが、宿所から出た途端にサラに見つかった。
「ちょうど良かった。呼びに来たの。今日の訓練日うちだから。リオン班長がわざわざシャロンを頼むって言いに来たわよ。意外と律儀ね」
それは逃亡防止だ。手回しが早すぎる。
「リオン班長も強いけど、うちの分隊長も猛獣だから、気をつけて」
サラが微笑んだ。
シャロンは苦笑いだったが、結局午前中丸々書類仕事から解放されてご機嫌のアルヴィンに攻め立てられ、昼休みになる頃には打ち身をいやほど作っていた。
ふらふらになって食堂で昼食をとっていると、どかっと荒い音をたてて誰かが前に座った。目を上げるとーー……。
「リオン班長!」
思わず手からパンが落ちる。
「派手にやられたみてえだな」
「う……はい、容赦なかったです、アルヴィン分隊長……」
項垂れたシャロンの前に、ぽいっと何かが投げられる。見ると、昨日アンに渡したエンブレムだ。
「これ!?」
「ちゃんと縫い付けとけよ。裁縫できんのか」
「できます。できますけど、これ何で……?」
リオンが手を伸ばし、シャロンのもうひとつのパンを取った。そのままそれを食べ始める。
「班長ってば」
「うるさいな。ごたごたは解決したんだから良いだろうが」
リオンが不機嫌な声を出す。
「解決……?」
「金はちゃんと渡した。それでおまえにはもう構わないように釘を刺した。それで良いだろ」
「お金、どこから……」
「必要経費だ。気にすんな」
「班長……」
握っていたエンブレムが涙で滲んだ。リオンが呆れたような目でこちらを見ている。
「ありがとうございます……」
「いいから。早く食え。あの婆のとこ行かねえと」
はい、と頷いてシャロンは涙を拭った。残りの食事をかきこむ間、リオンは居心地悪そうに横を向いて待ってくれていた。




