新しい上官
起床のラッパが遠くから聞こえている。
あれ、今日は何の日だっけ。朝の調練がある日だっけ。
薄い毛布から出られず悶々としていると、部屋の扉が軽く叩かれた。
「シャロン、早く起きなさいよ。今日は配置替えの初日なんだから、遅刻しちゃまずいわよ」
そうだった!
シャロンは毛布をはねのけてベッドから飛び降りると、寝間着を脱ぎ捨てて制服を身につけた。顔を洗い、歯を磨いて髪の毛をとかす。寝癖がなおったところで髪を高い位置で一括りにし、準備完了だ。
今日は新しい上司がやって来る日だ。
前任の班長だったカーンはすごく良い人で、彼と別れるのはとても寂しかった。しかし彼は実戦に出るにはもう年で、今日からは宮殿で内勤になっているはずだ。
カーンほどではないにしても、良い上司だといいな。
そんなことを思いつつ、シャロンは朝食をとるために食堂へおりていった。
朝食後に屋外の広場に集合し、分隊長から新しい班長が紹介された。
これはついてないーー……。
シャロンは目の前の新しい班長をばれないように観察した。
黒い髪に鋭い目。瞳の色は黒ーー…いや、深緑のようにも見える。鼻筋はすっと通っているが、その鋭い眼光と鼻のせいで猛禽類のようだ。鷲とか鷹とか。
名前はリオン。第一師団から配属されてきた男だ。分隊長は「部下の信頼も厚く」と紹介していたが、こんな物騒な目つきの男が部下に慕われるなんて想像がつかない。
噂では、内示では分隊長だったのが実際に配属が決まってみると班長だったらしい。彼自身が分隊長という肩書きを固辞したとも、上層部が取り消して格下げしたとも言われている。
とにかく確かなことは、今日から彼は第二師団第一分隊の一個班の班長であり、シャロンの上司であるということである。
反りが合わないかもしれないと思っていたが、それは初日の訓練の時に明らかになった。
リオンは班員全員に稽古をつけたが、彼は息をほとんど乱すことなく全員を地面に沈めた。
「派手にやったな、リオン」
様子を見に来た分隊長のエドウィンが、感心したような呆れたような声音で言った。
リオンは鋭い目でじろりと彼を見、「おまえもやるか」と問い掛ける。
ぎょっとしたのはおそらくシャロンだけではないはずだ。エドウィン分隊長を挑発するなんて、何なんだこの男は。
エドウィンは「やめておく」と笑ってかわし、ぐったりしている班員の方へやって来た。慌てて立とうとするシャロンたちを制し、目の前にすっと膝をつく。
「大丈夫か。リオンは手加減を知らないんだ」
「敵が手加減してくれるのか」
後ろから不機嫌そうなリオンの声がする。それもそうだと納得したのか、エドウィンは何も言わずにシャロンに手を貸して立たせてくれた。お礼を言うと、ふっと笑みを浮かべる。
エドウィン分隊長はこういうところが格好良い。彼の下で働けるのは光栄だ。しかしそれ以前に、リオンが上司だというのが頂けない。
「ではシャロン、もう一度だ」
リオンが地獄の命令を下した。
「おまえは上半身に比べて下半身の動きが鈍すぎる。そのとろくさい足をどうにかしろ」
……もう少し、言い方はないんでしょうか。
シャロンは何も言わずに剣を構えた。
この男、絶対一矢報いてやる。
しかし結局、一矢報いるどころか膝が笑って立てなくなるほどこてんぱんにやられた。
「いや、これは立派な筋肉痛だ」
真面目な顔をして告げた同じ班のクリストファーをシャロンは皿の上から睨み付けた。
「当たり前のこと言わないでよ」
「そんな怒るなよ。ナイフ突き付けんなって行儀悪い。班長にぼこぼこにされて機嫌悪いのか」
「やめて。思い出させないで」
シャロンが眉をひそめると、クリストファーはおかしそうに笑った。
「何でそんなに怒ってるんだ?」
「お前には脳みそがないのか小娘って言われた。そりゃ怒るでしょ」
クリストファーは苦笑いで腕を組んだ。彼はとっくに朝食を食べ終えて、シャロンが食べ終えるのを待っている状態だった。
「班長の口は確かに悪い。でも悪い人じゃないと思うぞ」
「そうなのかなあ」
最後の一切れのパンを呑み込んで「お待たせ」と声をかけると、クリストファーは大丈夫だと答えて立ち上がった。
その日、午前中は王都の警備だった。シャロンは城門の担当で、商店街の隅を担当しているリオンの様子がよく見えた。
あんな仏頂面で街角に立ってたら、みんな怖いんじゃないかな。
そんなことを思いつつ、視線を左右に動かし警備の任務も怠らない。
巡回の騎士がリオンの傍を通るたびに軽く敬礼している。
「泥棒だ!」
通りの向こうで悲鳴があがった。大通りを一人の男が走ってくる。
「どけえっ!」
人々を突き飛ばし、必死に逃げている男の足にリオンが自分の足を伸ばした。
見事に転んだ男の身体の上に乗り、リオンの目がじろりとシャロンを見る。
「ぼーっとするな。この馬鹿の荷物を確保」
「あ……はい!」
シャロンは慌てて傍に駆け寄り、男が放り出したかばんを拾った。
リオンに下敷きにされた男がもがく。
「大人しくしてろよ、屑。あんまりもがくと腕がもげちまうぞ」
男はぎょっとしたように大人しくなった。
「班長!」
かばんを盗られた女性を連れて、人混みのなかから班員のロッドが現れる。リオンはやっと男の上からどいて、乱暴に彼の腕を掴んで立たせた。
「荷物の中身を確認して貰え。こいつは審議所の爺に引き渡しておけ」
リオンがクリストファーに男を押し付ける。
シャロンが女性と荷物の確認をしている間に、リオンの姿は見えなくなっていた。
まったくつかみ所がない男である。
これから先、うまくやっていけるか不安になって、シャロンはため息をついた。
「新しい班長はどう?」
夕食の時に話しかけてきたのは、隣の班で班長を努めているレイラだ。彼女はシャロンの三つ、クリストファーの二つ上で、クリストファーとは旧知の仲である。シャロンもクリストファーを介して仲良くなった。
「どうもこうも、よくわかりません。つかみ所がないっていうか」
「シャロンは初日にこてんぱんにやられたのを根に持ってるんですよ」
シャロンの隣に夕食のトレイを置いたクリストファーが言った。
レイラの唇が綺麗な弧を描く。
「あら、貴方もやられたんでしょ。聞いてるわよ」
「誰に聞いたんですか、まったく。やられましたけど、こいつほどじゃないです」
シャロンが睨み付けるのも構わず、クリストファーは食事を始める。
「リオン班長の強さは騎士団じゃ有名よ。歯が立たないのが当たり前だから、あんまり気にしない方がいいわ」
「はあ、そんなにですか」
シャロンはいまいち納得いかず首を傾げる。
「大丈夫、おまえ強くなったよ。昔はへなちょこすぎてどうしようかと思ったけどな」
クリストファーに言われて、シャロンは曖昧に笑った。
騎士には、なりたくてなったわけではない。シャロンは王都から遠い村の出身である。両親は、シャロンが小さい頃に亡くなった。それからシャロンは母方の叔母の家に引き取られたが、そこは決して居心地の良い場所ではなかった。叔母も叔父もシャロンに優しく接しはしなかった。シャロンの部屋は屋根裏で、食事も台所に置いてあるものをそこへ運んで食べるように言われていた。その食事もほんのわずかで、シャロンはいつもお腹を減らし、村の近くにある森で木の実をとって食べていた。
家のなかでの唯一の味方は、姉妹である従兄弟の妹、アンだった。彼女はいつもこっそりシャロンにお菓子をくれ、両親や姉の行動を謝った。時々こっそり屋根裏にあがってきて、一緒に寝たりもした。夜中まで二人でひそひそ話をするのは楽しかった。
しばらく友達はアンだけだったが、十五の時に森の傍にある農場の少年とも仲良くなった。彼はジムといって、シャロンと同じ十五歳だった。彼はシャロンに牛や馬を見せてくれ、牛乳やチーズをくれた。二人で農場の柵に腰掛けてチーズをかじりながらいろんな話をした。彼は働き者で肌は黒く日焼けしており、笑うと白い歯が眩しかった。シャロンは家のなかが苦しくなると、農場へ出掛けていってジムと話をした。
そんなシャロンの姿はすぐに叔父叔母の目にとまり、その話を聞いたアンは人が変わったように怒り狂った。あとから聞くと、アンはジムのことが好きだったらしい。アンはシャロンを裏切り者だと罵り、今まで仲良かったのが嘘だったかのように態度を翻した。
友達を失い、とぼとぼと森へ向かったシャロンの前に現れたジムは、険しい顔をしていた。
「おまえ、家でアンにひどいことしてるんだって?俺はそういう卑怯な真似はよくないと思う」
恐らく、アンがあることないこと彼に伝えたのだろう。シャロンが何も言えずにいるうちに、ジムは踵を返して行ってしまった。
すぐに否定するべきだったと気付いたのは、ジムが行ってしまって随分経ってからだった。
それからシャロンは、家から出る方法を一生懸命考えた。そして思い付いたのだ。騎士になれば家から出られる。国のために働く騎士になりたいと言えば、叔父も叔母も文句は言うまい。
シャロンがそれを叔父叔母に話すと、かれらはシャロンを厄介払いできることと八つ当たりできる相手がいなくなることを天秤にかけ、前者を選択した。
晴れて騎士団学校に入学したシャロンは、厳しい訓練にも関わらず天にも昇る思いだった。
ベッドで寝られる。お腹いっぱい食べられる。話し相手がいる。
あまりにこれまでと異なる環境に、最初こそ戸惑ったものの、そのうちシャロンは本来の快活な自分を取り戻した。
しかし、これまであまり食べてこなかったからか身体が貧弱で、そのせいで悔しい思いは何度かした。そのたびに夕食の席で同期のサラやエイミーが自分のおかずを半分シャロンに分けてくれ、「食べて大きくなりなさい」と本気とも冗談ともつかない口調で言われた。
卒業後の所属は第二師団で、王都にやってきたシャロンは街の大きさに呆気にとられた。
配属された第一分隊の一期上にいたのがクリストファーで、人懐こい彼とはすぐに仲良くなれた。
「シャロンは休暇の間実家に帰らないの」
一度だけクリストファーがそう訊いてきたことがある。シャロンは笑って首を横に振った。
「帰らないよ。帰りたいような家でもないしさ」
有り難いことに、クリストファーはそれ以上踏み込んでこなかった。
あれから一度も家には帰らず、手紙も書いていなかった。ただ風の噂で、アンとジムが結婚したことを知った。それを知った時にも、特に何も感じなかった。
騎士でいれば、居場所があって一人でも生きていける。
それだけが理由でこの場所にいることを、時々苦しく思うこともあった。
例えば、同期のサラは騎士になった幼馴染みに憧れて騎士になったと言っていた。エイミーは、騎士の誇り高さに感銘を受け、志したそうだ。クリストファーに至っては、国を守りたかったからだと真顔で言われた。
彼らに比べて、自分の理由はなんて卑しくて消極的なのだろうか。そう思った時、彼らと同じ騎士だと名乗るのがとても罪深いように思えた。
しかしそれでも、村での生活に戻るという選択肢はなかった。