3 “トローノ”の施政者
思い出にふけりながら岩肌を降り、もう少しで岩棚に到着という所で、カチャカチャという忙しない金属音がした。岩棚の隅にある階段の降り口から、誰かが急ぎ足で登って来るのだ。
少し、緊張する。竜の女王が力を使った――私をこちらの世界に呼び寄せたことに気づいてここに来る人物は、一人しかいないはずなんだけど、偶然こちらの世界にいる先生が来ちゃう可能性だってある。
でも、黒い手すり越しに見えたのは赤毛のわっさわっさした頭で、ホッとした。
階段を上り切った所に立ちつくしたのは、まるで歌舞伎の獅子のように豪快に逆立った赤毛を背に流した男性だった。三十代半ばくらいで、たくましい身体を革の服で包んでいるけど、左胸かから肩の部分だけが、不思議な光沢のある赤い鎖帷子みたいな風になっている。それが竜の鱗を使って作られていることを、私は知っていた。
ようやく岩棚の上に降り立った私は、服をあちこちポンポンと払って砂埃を落としてから、男性と向かい合った。
男性は腰に下げた短剣の柄に手をやったまま、いぶかしげに私を上から下までじろじろ見たけれど、すぐに答えを出して茶色い目を軽く見開いた。
「お前……サーナか?」
呆然とつぶやく声に、私は思わず苦笑した。やっぱり「ヒサナ」の「ヒ」は発音しにくいみたい。懐かしい呼び名。
「お久しぶりです、フォーグさん」
私はぺこりと頭を下げるとスタスタと彼に近寄り、すれ違うようにして狭い穴の中に入った。
階段を降り始めると、男性――フォーグさんは、私の後をすぐに追って来た。カチャカチャ、ブーツの金具が鳴っている。
「おま、待て、説明しろ! いきなり姿を消したと思ったらまた湧いて出やがって」
「まあまあ、お部屋で話しましょうよ」
私は階段を降りきって、辺りを見回した。
そこは廊下になっていて、あまり高くない天井はトンネルのように曲線を描いている。壁は白く塗られた岩壁でひんやりしていて、ところどころに穿たれた穴にランプが置かれていた。フォーグさんの硬質な足音が響く。
「変わらないなぁ、ここ」
平然としたふりでそう言ったけど、緊張で口の中が渇く。先生にいきなり出くわしたらどうしよう。早く隠れたい。
カーブして見通しのきかない廊下、長さがまちまちで何階にいるのかわからない階段。迷いやすい場所だけれど、三年前に覚えた通路を急ぎ足でたどって、私は大きな両開きの扉の前に到着した。
そこでやっと、フォーグさんに前を譲る。彼はじろりと私を見ると、黒い鋲の打たれた扉の取っ手に手をかけ、引いた。
正面に窓があり、その前に大きな木の机がある。向かって左側には、どっしりした布地でできた旗が立てかけられ、右側には房飾りのついた槍が立てられている。カァーン、カァーン……と、素朴な鐘の音が窓から入って来た。
フォーグさんは机に寄りかかるようにして私を見た。
「お前がまたこの執務室にいるってのも、変な感じだな。座れ」
「失礼しまーす」
わざと軽く言うと、私は机の前のソファセットで寛がせていただいた。
「あーお腹空いたなー、さっきアレの匂いがしたんですけど、私もいただけます? あの、ほら、お芋と白身魚を混ぜて揚げたコロッケみたいなの。ちょうど夕食の鐘も鳴ったことだし」
「もうちょっと緊張しろよ……竜の玉座を預かる施政者の執務室だぞ」
フォーグさんは呆れた目で私を見下ろした。
三年前のあの日は、先生と二人で、ここに来た。
記憶が泉のように湧き出てくる……。
◇ ◇ ◇
塾からの帰り道、高速道路をくぐるトンネルからおかしな場所に出た、私と先生。
「おい尚奈、何だここは」
「ちょ、なんで私に聞くのー!? 先生知らないの……?」
「知るか! ……おい……もう十分驚いたから、種明かしがあるなら知りたいんだけど」
辺りを見回す先生。ドッキリ系の何かだと思ったらしい。でも、いくら待っても誰かが「はい終了です、お疲れさまでしたー!」とは出てこず、山頂の私たちには風が吹き付けるばかり。
いつまでもそこにいるわけにもいかず、私と先生は眼下に見えた岩棚まで山を降りた。そこに、一人の赤毛の男性が姿を現したのだ。
「うおっ……本当に、来た」
男性は目を見開いてわけのわからないことをつぶやき、少し黙った後で、
「俺はフォーグ。一緒に来てくれ。こちらは、あんたたちに起こっている出来事について、おおよそ理解している。説明する用意がある」
と言った。両手を広げてこちらに見せていたのは、武器などを持っていないという意味らしい。
私たちが戸惑って黙っていると、
「こっちだ」
彼は先に立って岩棚の隅まで行き、そこにあった階段の降り口から数段降りると、私たちを見て手招きした。
「ちょっと待ってくれ。ここは」
先生が何か言いかけた時。
男性のいる場所の背後の空中に、あり得ないものが出現した。
海から空に向けてヒュウッ、と細長いものが空中を駆け上がる。きらりと陽光を跳ね返したその身体は臙脂色の鱗におおわれていて、大きな蛇のように見えた。
その蛇は、岩山に何度か身体をこするようにして減速した。小石が飛び散って、つぶてのように降って来る。
「ひゃあっ」
「うわ!?」
私は両腕で頭をかばった。先生も同じようにしながら、私の盾になってくれる。
「早く来い。あの竜、今ちょっと調子が悪いんだ。こっちに落ちてくるかもしれん」
あっさりとした男性の言葉。
あれが、落ちてくる!?
先生と私はいったん顔を見合わせ、もう何も言わずに男性の方へ駆け寄った――。
そして案内された部屋の、ゴワゴワした布地のソファに座った私は、目線だけ動かしてあたりを見回した。
あまり天井の高くない、白く塗られた部屋。この部屋には窓があり、明るい陽光が差し込んでいる。
窓の前には大きくて立派な机。部屋の両側には岩をくりぬいて作られたらしい棚があって、巻いて紐で縛った紙の束がいくつも積み重なっている。
先ほどの男性――フォーグさん? はいったん廊下に出て行ったけれど、すぐに戻ってきて「少し待て」と言ったきり、机に寄りかかってこちらを見ている。彫の深い顔立ち……どこの国の人だろう。背が高くて、この部屋は窮屈そうに見える。たぶんバンザイしたら天井に手が届いてしまうだろう。
手のひらに汗を感じる、と思ったら、いつの間にか先生と手をつないでいた。横を見ると先生が私を見つめていて、ぐっ、ともう一度手を握ってくれる。でも、それにときめく余裕もなく、私はその大きな手にすがるように握り返した。
その感覚さえどこか遠くに感じて、まるで夢の中にいるみたいだった。
突然、ノックの音がして、私は飛び上がりそうになった。
入って来たのはすらりとした女性で、彼女は扉を後ろ手に閉めながら目を見開いた。
「……まさか」
フォーグさんと似たような皮の服を着た、二十代半ばくらいの綺麗な女性だ。モデルみたいに背が高くて、まつ毛が濃い。
赤茶のストレートロングの髪を額の横で分けた彼女は、茶色の瞳を軽く細め、こう言った。
「ニッポンからのお客人ですか?」
「そうらしい。女王の波動を感じて行ってみたら、こいつらがいた」
なんとなく偉そうな言動のフォーグさんは、女性に顎をしゃくった。
「事情を説明してやってくれ。お前の方がうまそうだ」
「そんなこと、急に言われましても……私だってこんな状況、初めてで」
女性はフォーグさんに丁寧語を使いながらも、どこか砕けた態度だ。肩をすくめてからブーツのかかとを鳴らしてやってきて、私たちの前のソファに腰かけた。
「驚かれたでしょう。……一度に何もかもご説明しても、混乱してしまうと思いますから、一番お知りになりたいであろうことからご説明いたしますね」
女性がフォーグさんの方を見ると、彼は許可を出すようにうなずいた。
「まず……ここは、イルデルアという国です。あなた方が住んでいたのは、ニッポンという国では? 昔、ニッポンからこちらに来た人がいるんですが、そちらは我が国をご存知ないと思います」
聞いたこともない。私はほとんど反射的に首を横に振り、先生を見上げた。先生はただ黙って、女性を観察するように見つめている。
女性は申し訳なさそうな笑みを浮かべながら、説明を続けた。
「あなた方をこちらに呼び寄せたのは、おそらく竜ではないかと思います」
「……さっきの、赤っぽい……」
思わず声が漏れた。空を駆ける大きな蛇。
「あなた方の世界では、架空の生き物として語られているそうですね。こちらでは実在しているのです。赤い竜は、現在の女王です」
志賀先生は黙って聞いている。女性は私たちを交互に見た。
「竜は、何か自分たちに危機が訪れると、異世界への扉を開くと言われています」
「その辺は伝承だがな」
フォーグさんが口を挟む。
「まあ、そんな魔法みたいなこと人間には不可能なんだから、お前らを呼んだのは竜以外あり得ないだろうってことだ」
結局自分でしゃべり出したフォーグさんを、女性が軽く睨んだけれど、フォーグさんは続けた。
「そんなわけで、あんた達が元の世界に帰れるかどうか――これも竜次第ってことだ。何もできなくて悪いな」
私と先生は、また顔を見合わせた。
信じて良いのか悪いのか、夢なのか夢ではないのか……判断がつかない。
「ご紹介が遅れました」
女性はフォーグさんの方を手で示した。
「こちらは、イルデルアの元首、『ゴバ』という役職に就いている方です。施政者ですね」
「さっきも言ったが、フォーグだ。この国で一番偉いのは、はっきり言って竜なんだが、まあ俺は人間の方の元締めっていうか雑用係みたいなもんだ」
フォーグさんは口の端を片方上げた。
元首? って国家元首? え、それって首相とか大統領とか、それとも王様ってこと?
私はまじまじと、目の前の男性を見つめた。