2 高三の夏は受験の天王山
「でも良かった……女王、元気そうで」
私はつぶやきながら、夕陽に照らされた岩山の斜面を慎重に降りていた。
三年前、竜の女王アーグラグテーナは、あんなに元気には飛んでいなかったのだ。黒の竜珠も何だかくすんでいて、映像も見えにくかったし……。
もうトシで、代替わり直前だという話だったから仕方ないのかな……と思っていたけど、元気を回復したなら良かったね、おばあちゃん。なんて言ったら怒られそう。
私は三年前、日本からここに来た時のことを思い出していた。
陽炎の立つ、アスファルトの路上。蝉の声さえ静まり返る、八月初めの猛暑日の午後……。
◇ ◇ ◇
私はちらりと窓の外に目をやると、軽く腕をさすった。二分袖のパフスリーブのブラウスにショートパンツの格好には、ちょっとこの部屋は冷房が利きすぎている。
塾の自習室。入口近くのパネルで勝手に温度を調節すると、私はまた席に戻った。目の前の作文用紙に意識を戻す。
小論文は基本的に段落は四つ……結論を最初に持ってくるか、最後に持ってくるか、どっちがわかりやすいかな。
安っぽいドアが、がちゃりと大きな音を立てて開いた。
「おう尚奈、やってるな」
顔を出したのは、大学生講師の志賀英幸だった。ジーンズにサッカーのレプリカユニフォーム、といういつもの格好だ。
長めの前髪をがしがしとかき上げるようにして、タオルで汗を拭きながら、私の机にコンビニの袋を置く。
「お土産」
「やたっ。いつもすみませんねぇ」
私は袋から、パックされたシュークリームの袋を二つ取り出した。この塾とコンビニを掛け持ちでアルバイトしている志賀先生は、たまに店の売れ残りの商品を持ってきてくれる。
「あ、先生、英語も教えて。宿題でわかんないとこがあるの」
ノートを引っ張り出すと、先生は私の前の席に腰かけた。
「うげ、英語? ……ああ、これならわかる。熟語だよ。『目に入れても痛くない』っていう言い回しで……」
ふんふん、と穴埋め問題を埋めていく。
手にしていたジンジャーエールのペットボトルの栓をひねりながら、先生が言った。
「お前、いつもここにいるな。たまには友達とどっか出かけないの」
「ちょっとー。高三の夏だよ? 天王山だよ?」
「そりゃそうだけど、息抜きも大事だぞ」
「うん……でもなんか、遊んでると落ち着かないんだよね。勉強しなくていいのかって罪悪感が湧くというか」
「真面目だねー」
先生がペットボトルを傾けるのを、こっそり観察する。喉仏が動いているのが見える。
真面目……って、褒め言葉かいな。と、私は内心苦笑した。
高校の友人たちは実際上手に息抜きをしていて、お誘いもある。でも、私がその輪に加われないでいるのは、あまり深い人づきあいをしない冷めた性格だから。
偶然同じ学校、同じクラスになっただけの人間関係が、それほど重要とは思えなかった。中学では中学校生活を、高校では高校生活をそれなりに楽しく過ごせる友人を作って、卒業したらそれっきり。そういうもんだと思ってたから。
先生だってそうだ。たまたま入った塾にこの人がいた、それだけの偶然。
それなのに何で……好きになっちゃったんだろう。
どこが好きなのかと聞かれたら困るんだけど、あえて言うなら仕草……かな。ホワイトボードにペンで文字を書いて、いったん止めて説明する時の腕の角度とか。誰かに何か話しかける時の目線の動きとか。こうやって、何か飲んでる時も……。
私は先生がボトルを下ろすのを待ってから、原稿用紙に目を落として言った。
「先生の大学も、受けよっかな、と思って」
先生が、こちらを見る視線を感じた。
「え……本当に?」
「うん。国文あるじゃん。模試の判定はCだったから、これから頑張っても微妙なんだけど、記念受験でもいいし」
私は顔を上げ、へへ、と笑った。
「もし受かったら、卒業まで一年間よろしくでーす」
先生はボトルのキャップをきっちり閉めてから、さらりと言った。
「うん、まあ、頑張れ」
「うわぁ適当な激励」
笑いながら突っ込みを入れる私。
聞けないけど、彼女いるだろうな。もし同じ大学に入れても、先生と彼女が一緒にいる所を見ることになるだけかも。
あーダメダメ、私は受験生。とにかくまずは、先生に呆れられないような結果を出さなきゃ。
がちゃり、という音が響いて、他の生徒が自習室に入って来た。志賀先生がその生徒に声をかけるのを聞きながら、私は作文用紙に視線を戻した。
その日最後の授業が終わり、講師に質問しているうちに、夜十時を回った。
「ありがとうございましたー」
斜めがけのリュックを背負いながら、職員室をのぞいて声をかける。先生たちがあいさつを返してくれたけれど、志賀先生の姿は見えなかった。もう帰ったのか、とがっかりする。
ビルの狭い階段を降り、もはや人通りのない商店街に出た時、私はハッと顔を上げた。隣のコンビニから、ちょうど志賀先生が出てきたところだったのだ。
「せんせい」
「おぅ。ずいぶん遅いな、誰か迎えに来るのか」
私は首を振った。
「来ないよー。お母さんはお祖母ちゃんの所に泊まり込みしてるし、お父さんは出張」
実際、両親とは最近ほとんど口もきいていない。父も母も、そして私も、それぞれ自分のことに精一杯だった。
「だったらお前、もうちょっと早く帰れよ」
「だって塾の方がすぐに質問できるし、集中できるんだもん」
口答えをすると、先生はやれやれという表情をした。そして、いつもなら利用するはずのバス停ではなく駅の方に一歩踏み出し、私を横目で見た。
「しょうがない、家の近くまで送ってやる」
やたっ!
舞い上がりそうになるのを、口をきゅっとつぐんで抑え、私は先生の後を追った。
連れ立って商店街を抜け、駅の中を通って反対側の表通りに出る。暗い通りに、車のヘッドライトがまぶしく反射する。
「しかし……お前がうちの大学をね……ちょっと意外だったな」
先生の言葉に、どきどきと胸を高鳴らせながら返事をする。
「そうかな? まあちょっと遠いけどね」
すると先生は微笑んで言った。
「秋のオープンキャンパスは来るんだろ? キャンパスの裏側を案内してやってもいいぞ。俺がヒマな日ならな」
「うん!」
私はうきうきと言った。
「あ、でも先生はそろそろ就職活動の時期でしょ、何か忙しそうだよね。……就職しても、もし私が入学したら、時々は様子を見に来てよ」
同じキャンパスで顔を合わせる所を、ついつい想像してしまう。これが一番モチベーション上がるんだ。あ、先生と同じサークルに入れば、OBとしても来てくれるかな。
「…………」
志賀先生は、少し黙った。
あれ? と思っていると、彼は前を向いたまま言った。
「そうしたいけど、俺、地元で就職するからさ」
どこか遠くの方で、パッパーッ、とクラクションの音が苛立たしげに鳴らされている。
「……そうなんだ。地元って……」
「岐阜」
行ったこともない場所だ。行き方も知らなかった。
「……東京にいた方が、仕事見つかるんじゃないの?」
とにかく、言葉を紡ぐ。話をつなぐ。
「お前ねー、何でも東京中心に考えるんじゃないよ。これだから東京都民は。……実家を継ぐの。俺んち、材木関係の倉庫会社」
「材木……」
先生は大学で「環境倫理」という分野を勉強していると聞いていた。私にはそれがどんな学問なのか、いまいちよくわからないでいたけど、「環境」と「林業」が頭の中でゆるく結びつき、先生が仕事のためにそれを学んでいたんだということは理解した。
つまり、以前からの決定事項なんだということを、理解した。
いきなり、遮断機が降りてきたみたい。
先生にとって単なる教え子の一人の私には、引き止めることも、追いかけることも、できるはずがない。
私は自分のサンダルの先を見つめながら、黙って歩いた。先生もなぜか、口を開かなかった。
自宅までの道に、高速道路の下をくぐるトンネルがある。階段を降りてトンネルに入ると、天井から染み出した水の滴る音が、ぴちゃん、ぴちゃん、と反響していた。
私は吸い寄せられるように、ほんの少しだけ、先生との距離を詰めた。右手はリュックの紐にぶら下がったクマのぬいぐるみに触っているけど、もしも手を下ろしたらすぐに、志賀先生の手とぶつかりそうだ。
――このまま二人きりで、どこかへ行ってしまえたらいいのに。
トンネルの向こうから、熱風が吹きつけてきた。
「蒸し暑いな」
先生がつぶやく。
トンネルのつき当たりには、コンクリートの階段とスロープがある――はずだったんだけど。
「あれ?」
階段を登り始めてから、思わずつぶやいていた。
階段だけだ……スロープがない。それに、こんなにこの階段、長かった……?
「…………」
顔を上げて先生を見ると、こちらを見ていた先生と目が合った。
私も、たぶん先生も様子がおかしいのはわかってるんだけど、口に出すほどには確信が持てない。
街灯の明かりにしては強すぎる光が落ちている、階段の上り口。先生が先に、頭を出した。そして目を見開いて足を止めた。
「何だ? ここは」
私も先生の横から、そっと顔を出し……。
◇ ◇ ◇
岩山のてっぺんにいるってわかった時は、受験勉強のしすぎで幻覚を見てるんだと思ったんだよね。
私は思わず、口元を緩める。
でも、先生にも同じ景色が見えてるってわかって……次には、私たちが高速道路の地下通路をくぐっている間に地上に隕石が落ちるとかして、地表の様子が変わっちゃったのかも、なんて無理矢理な想像をしてみたんだ。でも、そんなんで自分を納得させることなんかできるわけがなかった。
そこは、竜が数々の不思議を行う、異世界だったのだ。