17 離れていた時間を、言葉とキスとで埋めて
先生はそのまま、しばらく私を離さなかった。
天井から、さぁっ、と風が吹き込んで、木の葉がざわついた。
我に返って、少し身じろぎすると、先生もやっと腕をゆるめる。
「……尚奈には、色々……謝らなきゃならない」
先生は私の耳に唇を当てるようにしてつぶやく。
「お前が、その……勘違いだったらお笑いだけど、俺に好意を向けてくれていたのを利用して、わざとお前を傷つけて日本に帰るようにし向けた。ごめん」
私は返事の代わりに、先生の頬に頬をすりよせた。
先生は私を抱きしめ直す。
「俺の目を竜珠の代わりにして、女王は復活した。でも、何年もつかはわからない。女王が再び衰弱して、その時も次代が王の座を引き継げなかった場合に何が起こるのかを想像すると、俺も日本に帰るという訳にはいかなかった」
いったい何が起こるっていうのか……とにかく、先生はこの言い方だと、自分のもう片方の目を失う可能性も考えているの?
「先生……どうやって、め、目を女王にあげたの……?」
恐る恐る尋ねると、先生は私を安心させるように頭を撫でた。
「お前が日本に帰ってすぐ、目を差し出すことをお前に知られる心配がなくなったから、外壁を登って女王の所に行った。セーゴにも、見届けてもらうためについてきてもらった」
淡々と話す先生。
「“トローノ”の山頂で、女王は時々のたうったり、ぐったりしたりしてた。俺は――特別なことはしてない。ただ、近づいて行って竜珠に触り、『俺の目をこれの代わりにできるなら、そうしろ』って言っただけ」
「そうしたら……?」
「女王は俺をじーっと見つめてから、ゆっくり、俺を前脚で抑えつけた」
私は想像する。あの三本爪の前脚で、先生が岩山の斜面に抑えつけられる所を。
「痛くはなかった、な。でも気持ち悪かった。だんだん抜けて行く感覚があるし、こう、視神経か何かが頭の奥で引っ張られるような?」
思わず顔をしかめると、先生は「それだけだ」と微笑む。
「で、女王の濁った竜珠にヒビが入って、そこに俺の目から抜け出た黒い光が吸い込まれて。気がついたら、新しい竜珠が女王の額で光ってた」
先生は頭を下げ、私の肩に額をつけた。
しばらく黙った後に、つぶやくように言う。
「次は尚奈の目を、っていうことにならないうちに、お前は帰れ。……俺のためにも、そうしてくれ」
私がまたここに来ても、日本に帰すって言ってたのは、そういうわけだったんだ。
「先生」
今度は私が、先生の耳元に唇を当てる。
今の気持ちを、そのまま伝えたかった。
「先生が好き。だから、離れたくない」
「……………………くそ……三年ぶりだぞ」
先生は、私を苦しいくらい強く抱きしめながら、ショートボブの髪を乱暴にまさぐる。
「日本に帰したいのに、好きな女にこんなこと言われて、離せるかよ……」
嬉しい。先生、私を好きだって……。
もっともっと、何か言って、先生を虜にしたい。そうしたら、何があっても離さないでくれるかな。
例えば……初めてのキスの、やり直しをしたいな、とか……。
だ、だめだ、恥ずかしすぎて言えない!
内心悶絶していたら、先生の腕がゆるんで顔と顔がいったん離れた。
先生が、澄んだ右目で私を見つめた――と思ったら、すぐに視界が陰って。
柔らかくて温かいものに、唇を軽く挟むようにしてついばまれた。
あ……やり直し、だ……。
気持ちよくて、嬉しくて、顔が離れると私は笑顔で先生を見つめることができた。
「……短い髪も似合う。綺麗になったな。男が放っておかないだろ」
なんだか悔しそうに言う先生。
あ、そういえばすっかり忘れてたけど、一応彼氏がいたんだよね、私。
夏休みにたまたま大学に行ったら、声をかけてきた同級生。「ちょっとつき合ってみないか、俺たち。夏休み、楽しく過ごしたいしさ」って。
夏になると毎年寂しくて仕方なくなる私は、気がまぎれるならと、ついうなずいた。彼の言い方が「お試しでつき合う」みたいなニュアンスだったから、っていうのもある。
そしたらその三日後の夜、一人暮らしの自宅にいきなり彼が……。それで、家を飛び出したんだっけ。
「何となくで、つき合っちゃった人がいるんだよね、私。ずっと先生が好きだったのに、悪いことした……」
私が後ろめたい気分でいると、先生はますます悔しそうに言った。
「やっぱり彼氏いたか。いや……いつか他の男にお前を奪われるなら、せめて最初のキスだけは俺が、とか思って無理矢理やっちゃったんだよな、あの時。悪かったけど、そういうことなら後悔はしないぞ」
…………えっと…………。
私、その先も、未だに経験ないんですけど。
彼氏がいた=経験済み、って思ってるんだろうなぁ。何なのよもう、彼氏といい先生といい。男の人とつき合ったらすぐにやんなきゃいけないわけ!?
ちょっぴりイラッと来た。未経験だってことは内緒にしといてやれ。
そんな私のひねくれた思いに気づかないまま、先生はもう一度、甘くて優しいキスをした。
岩に腰掛けて、離れていた三年間の話をした。
こちらから日本に帰り、どうにか自分が九十九里の海岸にいることを知った私は、家に連絡して両親に迎えに来てもらった。日本は九月中旬で、イルデルアと同じだけの時間が流れていた。
両親はもちろん心配してくれていたし、警察にも届けを出してくれていた。でも、私が高校三年で悩みの多い時期だったということ、そして塾の先生と時を同じくして行方不明になったことから、警察は「男と家出」という可能性が強いと思っていたみたい。
私は両親に、信じてもらえないだろうと思いながらもありのままを話した。両親は受験生の私をほったらかしていた負い目があったみたいで、うんうんと聞いてくれたけど、まるで腫れ物を扱うみたいに私に接した。
ある日、先生のお父さんが、うちを訪ねてきた。未だに行方不明の先生の手がかりを、私から聞くために。
よく日に焼け、白髪交じりの髪をきちっと整えた、実直そうな細身のお父さん。
両親は私に「自分の部屋から出るな」と言い渡して、先生のお父さんと会った。
その時、立ち聞きして知った。両親は、先生が私をたぶらかして連れ去った、っていう疑いを捨てきれないでいるんだ。そして一人で逃げ出してきた私が、混乱のあまりか先生をかばうためか、異世界などとおかしなことを言っているんだ、と。
「両親の気持ちもわかる。我が子とはいえ、私の言うことだけを鵜呑みにするわけには行かないよね。私が傷ついた様子でいるなら、なおさら。それに、未成年の我が子を自分たちが守らなければ、とも考えてたと思う」
うつむいてぽつぽつと語る私の手を、先生はいつかのように優しく握っている。
「でも、先生や先生のお父さんが悪く言われるのは耐えられなかった。私、飛び出していって、お父さんに言ったの。先生は私に何もしてない、先生だけ帰れないでいるんだ、って。信じて下さい、って」
私は顔を上げ、先生を見た。
「そしたら、お父さん、笑ってくれたよ。『ありがとう、信じるよ』って」
先生はちょっとつらそうに、それでも微笑んで、私にもう一度キスをした。
「ご両親と、それ以上もめなかったか?」
「もめたっていうか……私の方が一方的に、両親に怒っちゃって」
両親の心情を思いやることができず、子どもだったなと思う。でもとにかく、私は思ったのだ。
異世界に行ったなんておかしなことを言う娘だって言うなら、私がおかしくないことを証明してやる!
「で、それからは先生の大学一本に絞って、がむしゃらに勉強したの。先生とのつながりが欲しかったのもあるし」
滅茶苦茶だよね、と笑う。
「結果、無事に現役合格できたんだけど――それ以来、両親との間に、何だか距離ができちゃって。それで、入学と同時に一人暮らしを始めたんだ」
先生はため息をついた。
「家族のことは、忘れたことはない。でも、たとえ戻れてもそんな風に……影響大きいよな。当たり前だけど」
今度は私が、先生にそっとキスをした。
「先生のお父さんは大丈夫だと思うな……。信じてくれてると思う。息子が私をたぶらかしたなんて考えてないよ、きっと」
「うん」
また、キス。
三年分だもん、いくらしても足りない。
「先生は? どうしていたの?」
「ずっと、方法を探ってたよ。竜を助ける方法。そのために、こっちに呼ばれたんだろ」
苦笑する先生。
「今度は、私も手伝わせてね。帰れって言われても聞かないから」
私は言い切る。先生は「うーん」とか言ってるけど、一緒に解決方法を見つけるまでは帰らないからね。
一緒に……あ。
「先生……昨日、シャーマさんと一緒に竜に乗って戻ってきた、ね」
思わず口ごもる。嫌だな、やきもちやいてるのが口調でバレそう。
「見てたのか」
先生は察したのか、さばさばと言った。
「三年前、日本人の目が竜珠の代わりになることに気づいたとき、シャーマさんを問いつめて王の竜珠を持ってないことを聞き出したんだ」
あれ? もしかしてその時の会話が、私が立ち聞いたときの……?
かくして先生はこう言った。
「俺を人質にして尚奈に目を差し出させようとするくらいなら、自分で俺を誘惑してみろ、みたいなことをシャーマさんに言った。そのくらいの覚悟があるなら、俺の目を女王にくれてやるから、尚奈は無事に日本に帰せ、って」
ああ……そういう意味だったんだ。
「シャーマさんと一緒にいると色々な周辺事情が入ってくるから、大陸とこっちを行き来して言葉を勉強しながら仕事を手伝ってる」
いかにも「それだけの関係だぞ」っていう感じで言う先生。
「言葉、覚えたの?」
「簡単な会話ならできるようになった」
「そっかぁ……それじゃあ私、やっぱり先生にまた先生になってもらって、言葉を教えてもらわなきゃ」
ついつい、甘えてしまう私。でも先生は、ため息交じりに言った。
「ネイティブに習えばいいだろ。セーゴとかに」
あれ? 今の口調、ちょっとやきもち?
私たちはさぐり合うように視線を交わしてから、吹き出した。