16 月明かりに照らされた林檎の瞳
夕方、夕食と着替えを、ヴィントが持って来てくれた。
真水も木桶に一杯持って来てくれたけど、下着とか洗いたいしそれに使っちゃおう。やっぱり身体を綺麗にするのは、セーゴさんに教えてもらった場所に行ってからにしてみようかな。
「シガー、しばらくは城から出ないみたいだ。……会わないの?」
ヴィントが言ってくれたけど、私は首を横に振った。
空が晴れて月が昇ったのか、小さな窓から月明かりが部屋に落ちている。そんな時刻。
扉を開けて廊下を覗いてみると、あたりは静まり返っていた。ランプを片手に下げ、着替えや木桶をもう片方の手に持って、私は廊下に滑り出た。
音を立てないように裸足で通路を歩き、階段を上り、また通路を歩く。時々、外壁に近い通路を通ると窓が穿ってあって、月明かりが点々と射しこんでいた。
旧古書庫にたどり着く。静かに、音を立てないように扉を開き、中に滑り込んでまた閉めた。
振り返って部屋を見回した私は、ランプを掲げてあたりを照らし、思わず声を上げた。
「……え……うわぁ……庭だ」
たぶん、大きすぎて部屋から出せなかったのであろう岩が、部屋の中央に鎮座していた。
そして、私から見て部屋の左側の天井がぽっかり空いてるんだけど、そこへ向かって一本の細い木が伸びている。床にちょっとした石垣を築き、中に土を盛って、木を植えたらしい。林檎に似た、赤っぽい実が成っているのが見える。
天井の穴から、岩と木の間あたりに樋が降りていて、下に大きな木箱のようなものが置いてあった。そこからまた樋が出ていて、水がちょろちょろと出て来ている。
あの箱が、ろ過装置かな? 詳しくは知らないけど、砂とか小石とかを何段かに詰めてあって、雨水をろ過してるんじゃないかと見当をつけてみる。
ちょろちょろ流れ出した水は、岩と土でできた斜面に細く作られた石の水路を降り、下の小さな池に流れ込んでいる。そこから床に細い溝が掘ってあって、扉の下から外に少しずつ流れ出していた。通路の両脇に排水用の溝があるので、そこに流れるようになっているんだろう。
浅い池から、ありがたく木桶に水を汲ませてもらう。頭にかぶっていた布を取りながら、私は部屋の中の様子を観察した。
このお城の中って、時々小さな植木鉢は見かけたけど大きな緑は見当たらなかったから、木があると何だかホッとするな。
自分のバッグに入れてあった化粧道具の中に、ウェットティッシュタイプのメイク落としがあったので、化粧を拭き取ってから水でバシャバシャ顔を洗う。気持ちいい。
ささっと服をはだけ、絞った手布で拭ける所は拭いて――さすがにこんな場所で全裸になって拭くのはためらいが、ね――着替えると、ずいぶんさっぱりした。
用が済んだのでひとまずホッとして、立ち上がる。髪も濡らしたので(短いから楽だ)、布で拭きながら、もう少しこの部屋を見てみようとランプを手にさげ、部屋の奥側をのぞきこんだ。
石の灯籠が、ぽつんと置いてあった。誰が作ったんだろう。
灯籠? 日本の?
私ははっ、と振り向いた。
大きな岩と木のある場所を『築山』に見立てると――ここって、日本庭園に似ていない?
先生だ、と思った。
この部屋は、先生が作ったんだ。“トローノ”には石の職人さんもいるから、協力してもらったのかもしれない。
鼻の奥がツンとなって、涙がにじんだ。私は頭にかぶった布の端っこで、口元を抑えた。
先生、やっぱり帰りたいんじゃないの? 日本に……。だから、こんな庭を……。
奥の壁に、何か布のようなものが紐で吊るされて引っかかっている。
そういえば、この部屋が壊れて片付けている時に、先生が壁にかかったタペストリーを見ていた覚えがある。これ……?
私はグスッと鼻を鳴らしながら近づき、伏せてかけられていたタペストリーをくるりとひっくり返した。
タペストリーの上半分には、一頭の竜が描かれていた。
だいぶデフォルメされてるけど、翼がないところを見ると大人の竜だと思う。身体をくねらせ、口から炎を吐いている。
そして下半分に、ひと組の男女。黒髪に、あの作務衣みたいな服装で、正面を向いて上を見上げている。
髪の長い女性の方が気になって、私はランプの灯りを近づけた。
女性はウィンクするように、片目を閉じている。そして、両手を頭の上に伸ばして何かを竜に捧げていて――。
女性の手の上に浮いているのは、黒い玉だった。
三年前の弱った女王、くすんだ竜珠。
伝承では、竜が弱っている時に日本から男女が来て、急に竜は元気になった。人々の前に姿を現した女性は、片目が不自由だった。
そして今回も、女王は元気になっていて、竜珠も済んだ輝きを取り戻していて、一方で先生は片目を――。
ギィッ。
扉がきしむ音が響いて、私は思わずランプを取り落とした。ガシャン、という音とともに灯りが消え、部屋の中は月明かりだけになる。
「誰だ?」
声がした。
大好きな声。
私は深呼吸をひとつすると、そっと岩陰から出た。部屋の扉が開いていて、そこに立った人影がランプを掲げている。
片目を眇めてこちらを見ているのは――先生。
私はゆっくりと月明かりの下に出て行き、立ち止まると、頭にかぶっていた布をそっと引っ張って外した。
「……尚奈……?」
先生がささやくように、言った。
何か言おうと思ったけど、たまった涙がこぼれそうで、私は黙って微笑んだ。
先生は扉を閉め、ランプを扉の横の床に置くと、ゆっくりと私に近づいた。頭にはめた金属の輪、左目の覆いが月明かりを反射する。裾の長い、襟のついたシャツに、茶色っぽいズボンというラフな服装。
戸惑った表情の先生はためらいがちに、袖をまくった片手を伸ばした。私がじっとしていると、その手が私の頬に触れ、確かめるように撫でた。実際、確かめているのかもしれない――本物かどうか。
触れた場所に熱が集まる。心臓の音がトクトクと聞こえる。
「尚奈」
先生は、今度ははっきりと名前を読んだ。私がうなずくと、先生は低く言った。
「……何で来た」
今ならわかる。先生がどうして、私を遠ざけようとしたのか。
「先生……ごめん、ね」
私は涙をこらえながら、先生に言った。
「先生は私を、守ってくれたんだね。自分の瞳を、女王に差し出して……」
先生は、片目を見張った。
そして後ろめたそうに、視線を少しそらしてちらりと苦笑する。
「……バレたか」
沈黙が落ちると、水が流れるささやかな音が部屋に満ちた。
「……俺が勝手に、そうしただけだ」
先生が口を開いた。
「女王を復活させるには、新しい竜珠が必要だった。そのために必要だったのが、黒い瞳。俺かお前、どちらかの瞳があれば良かった。それなら、お前の瞳をくれてやるよりは、自分のをやった方がましだ」
そして、私をもう一度見て、今度は優しく笑った。
「お前は俺の、『林檎の瞳』だからな」
一気に涙がこぼれ落ちた。私は口元を抑えて、嗚咽をこらえた。
三年前。
クーラーのきいた、塾の自習室。先生が傾けるペットボトル、ジンジャーエールの泡。
英語の選択穴埋め問題で、どうしてもわからない所があって、先生に聞いたっけ。
「うげ、英語?」
問題を読む先生。
「……ああ、これならわかる。熟語だよ。『目に入れても痛くない』っていう言い回しで……えーとこの場合は」
なんだ熟語か、道理でどの単語を選べばいいのかわからないはずだよ、と思いながら、大好きな先生の声に耳を傾ける私。
先生は教えてくれた。
「the apple of his eye. 古代の人は、瞳は林檎の形をしてると思ってたんだってさ。だからこれで、目に入れても痛くないくらい大事だ、って意味になる。瞳は、大切な物の象徴なんだ」
先生は、私を大切に思ってくれたから、私を遠ざけてわざと日本に帰りたがるようにしたんだ。それが、今なら良く分かる。
「林檎の瞳、ちゃんと、覚えてるよ。先生が教えてくれたことだもん」
私は右手で涙を拭き、その手を軽く握って先生の胸を軽く叩いた。
「でも、なんか子ども扱いっぽいよ。その表現……」
「まあ、年下だからな」
ちょっとおどけながら、私の手を取る先生。
そして、その手を強く引いて、私を胸に抱きこんだ。
私は先生にしがみつきながら、吐息をこぼした。