13 愛憎の果ての犯罪はおかしてない、けれど
脱皮した竜は、落ち着くと疲れたのか、洞窟の隅にうずくまった。寝る体勢みたい。
私とセーゴさんは再び滝の裏に入り、細い洞窟を集会所へと向かった。
「お前、だいぶ竜に慣れたみたいだけど、女王に近づくことはあるのか」
前を向いて歩きながら、セーゴさんが尋ねてきた。後ろを歩いていた私は、彼から見えないのにぶんぶんと首を横に振る。
「な、ないです」
「そうか。竜の王とか女王は、他の竜より高い矜持を持ってるから、ゴバ以外の人間に触られるのを嫌がる。特に、首とか顔な」
そうなんだ。聞いていると、セーゴさんは少し黙ってから続けた。
「……昔、それが原因で竜が大暴れして、大変なことになったことがあるんだ。城の一部を壊し、何人も怪我人や行方不明者を出した。もし触るなら竜珠だけにしとけよ」
「はい……」
ぞっとしながらうなずく。行方不明、って、誰か海に落ちたんだろうか。
でも女王に触る機会なんかないよ、とその時の私は思ったけれど……。
◇ ◇ ◇
三年ぶりに先生を目撃した後、竜に『下の発着場』まで乗せてもらって自分の部屋に向かおうとしていた私は、ふと足を止めた。
竜の王や女王は、ゴバ以外の人間に触られるのを嫌がる?
特に首とか顔?
それじゃあさっき、私が乗せてもらった竜は、王ではないことになる。だってめっちゃ撫でまわしたもん、私。先生が触ってたから、つい同じように……。
次代ゴバであるシャーマさんの竜、イコール、次代の王……だと思っていたけど、なぜシャーマさんは違う竜に乗っているんだろう。
そういえば前に、シャーマさんは「次代への引き継ぎがうまくいかない」って言ってた。あれと関係があるの?
わけがわからなくなってきた。誰かに聞いてみようか。例えば、セーゴさんに。
「お前一人なら日本に帰してやれる。でも、このことは誰にも言うな」
まるで脅すようにそう言った、あの人に。
カァーン、カァーンという昼食の鐘の音が、遠く響いている。私は物思いにふけりながら発着場を出て、細い階段を降りて行った。
セーゴさんは、私が再び戻って来たことを知ったら、どんな反応をするだろう。
城の住人のようなふりをして廊下や階段を辿り、自分の部屋に戻る。アイレはすでに、そこで待っていた。
「サーナ、大丈夫? お昼、まだでしょ……持ってきたから」
椅子から立って、様子を窺うように私を見る彼女。
「ありがとうアイレ、大丈夫だよ。……でも、食事の前に聞きたいんだけど」
私はずんずんと彼女に近づき、ポン、と肩に手を置いて言った。
「アイレ。どうして、先生の目のこと教えてくれなかったの? 何で先生、眼帯なんかしてるの?」
すると驚くべきことに、アイレはぱぁっと笑顔になった。
「良かった! それじゃあ、あれはサーナがやったんじゃないのね!?」
「はああ!?」
ポカンと口を開けると、アイレは安堵のため息をつき、それから肩をすくめた。
「ごめん……シガーの目に何かしたのが、サーナなのかも、って思ってたから。だって、シガーとサーナの仲が何だかおかしくなってしばらくしてから、ある朝突然シガーが眼帯をしてて、しかもサーナは行方不明、っていう流れだったんだもの」
そ……それはつまり。
「つまり、私と先生がついに喧嘩になって、私が先生の目を傷つけて逃亡した、と……?」
そりゃ、犯人の私に目のことなんか言わないわな。フォーグさんもひとっことも言わなかったしね。
サーナは上目遣いになった。
「えっと……愛憎のもつれでシガーがサーナを海へ……その時に抵抗したサーナがシガーの目を? っていう可能性も、考えてマシタ」
そういやアイレ、私が海に落ちたんじゃないかって心配した、って言ってた。まさか、この城の人たちみんなそう思ってるんじゃないでしょうね!
「どこの昼ドラよー!」
思わず叫ぶと、アイレは意味はわからなかったみたいだけど、「だって!」と頬を膨らませた。
「シガーに聞いても『サーナはニッポンに帰った。目は自分で怪我した』っていうばかりだし。もう後は想像するしかなかったんだもん。ホントに心配だっ……たし……っ」
え、先生、私が日本に帰ったって……。
疑問に思ったのもつかの間、アイレの紅茶色の瞳にみるみる涙がたまってあわてる。
「わかった、わかったよ。心配してくれてありがとうね? あ、お昼ご飯でしょ、わぁ美味しそう! 食べよう食べよう」
ミートパイと、豆や野菜のピクルスが皿にのっている。ブリキみたいな材質のポットには穀物茶が入っていた。私はアイレを座らせて、一緒に食べ始めた。
パイはふちがサックリ、中身は肉々しくてジューシー。ピクルスも酸っぱすぎずまろやかで、美味しい。こちらの味、私かなり好きだな。
思い出し泣き(?)していたアイレもいったん落ち着くと、先生の目を私が傷つけたんじゃないとわかってホッとしたらしい。食事を終えると、
「私、これから仕事だから行くね。何かあったらすぐにヴィントに言うんだよ。私は今日は遅くなるから夕食は一緒に食べられないけど、夜は自分の部屋にいるから、何かあったら来て!」
と自分の部屋の位置を説明してからターッと出て行った。
うーん、ごめんアイレ、このお城って複雑すぎて、口での説明だといまいちわからなかった……。
さて。
アイレの言う通りなら、私が三年前にここを離れた直後に、先生の目はああなったらしい。そういえば、伝承の中にも片目の女性の話があったっけ……。
日本人になつく竜。
うまく行かない次代の王への引き継ぎ。
一度は身体を弱らせたものの、なぜか復活した老齢の女王。
先生の目がああなったことと、これらのことは、関係があるんだろうか。
私は木製カップにポットからお茶を注ぎながら、三年前に先生と最後に会話した時のことを思い出し始めた……。
◇ ◇ ◇
“トローノ”に来て、およそ一ヶ月半が経った日の夕方。
私はとうとう、塾のテキストの最後のページをやり終えてしまった。先生に報告するために、図書室に向かう。今日は午後も図書室にいると言っていた。
以前の私ならきっと、「先生、テキスト終わっちゃったから新しい問題作って!」くらい言えたと思う。でも、今はダメだった。
遠くなってしまった、先生との距離。
戻れるかもわからない日本。
もう、私がやらなきゃいけないのは大学受験の準備ではなくて、こっちの勉強なのかも。“トローノ”を出て大陸側に行っても、言葉がわかるように。
そう自分に言い聞かせても、心が拒否する。知らず知らずのうちにため息をついているうちに、図書室の前についた。もうすぐ夕食の鐘が鳴る頃合いだ。できれば一緒に夕飯を……と思って、この時間にした。
図書室の扉を開けた。
古書庫とは別のこの図書室も、食堂と同じように三つほどの部屋が連結した作りになっている。先生は一番奥の部屋で、テーブルの上に広げた巻物を読んでいた。
「先生」
テーブルの脇に立つと、
「おう」
先生は顔を上げた。無精ひげがちらほらと見える。
こちらに来た当初は、バターナイフみたいな形のカミソリを借りてちゃんと髭を剃っていた先生だけど、最近はたまにしか剃らなくなった。
「これ、全部やり終えたよ」
私はテキストを差し出し、ちょっと笑って見せる。
「そうか。うん」
先生はそれを受け取ってじっと見つめ、でも黙ってテーブルに置いた。褒め言葉も言いにくいだろう……『受験勉強』としては役に立たないんだから。
「次は何をしようかな。先生は、何を読んでるの?」
尋ねると、先生は読んでいた巻物をくるくると閉じてしまった。
「こっちの文化についての話を、色々読んでただけだ。……いい加減、言語も覚えないとな」
私が考えていたのと同じことを言うと、巻物の紐を結びながらこう続けた。
「テキストが終わったってことは、俺、もうお前の先生じゃなくなるわけだな」
思わず、息を呑む。
先生とのつながりの糸が、また一つ、ぷつりと切れた気がした。
さらに先生は言った。
「そうだ、セーゴにこっちの言語教えてもらおう。尚奈、セーゴと仲良くなったんだろ」
「え」
「二人で会ってたって聞いたぞ?」
ぷつり。
今度は、自分を支えていた何かが、切れた。
「仲良くなんて、なってないっ」
私は震える声で、それでも言い切った。先生は立ち上がりながら言う。
「いいじゃないか。必死に日本に義理立てすることはない。こっちの世界の人を好きになることだって、あるだろ」
私は先生の言葉を遮るように、何度も首を振る。
「私はっ、先生と一緒に日本に帰りたいの! 先生だってそうでしょ? お家、継ぐって言ってたじゃない!」
「そりゃ、そうしたかったよ。でも、俺には弟も妹もいる。どっちかが継いでくれる。そう思って諦めるしかないじゃないか、こんな状況じゃ」
そして私に背を向け、壁に彫り込まれた棚に巻物を戻しながら続けた。
「そう考えてみると、竜の危機とやらを救うなりなんなりする方法を見つけて、こっちの世界で日本人として竜の研究して暮らすのもいいかな、ってな。竜についてちょっとした仮説も立てたし……。今まで、家を継ぐ人生しか考えてなかったけど、俺やっぱり好きなんだよ、こういう研究。こっちにいれば、それができる」
恐れていたのは、このことだったのかもしれない。
日本に帰りたい、っていう気持ちが、私と先生を結びつけていた。でも、先生がこちらの人間になることを受け入れてしまったら? 先生にとって私は、単なる同郷の女の子ってことになる。先生もいつか、こちらの世界の人を好きになって……。
「お前、彼氏作ったことないの」
振り向いた先生が言って、私は息を呑んだ。
「なっ……?」
「いや、もしかしてそれで余計、抵抗あるのかと思って。別にセーゴじゃなくても、いきなり異世界の男と付き合うとか、難しそうだよな」
先生が、私に近づいた。さっきまでよそ見ばっかりしてたのに、今度は視線をそらさない。
いつもの先生と雰囲気が違う気がして、私は急に怖くなった。
「先生?」
無意識に一歩下がる。狭くて天井も低い部屋の中、圧迫感を感じて身体がこわばった。
「きっかけをやるよ」
つぶやくように言った先生は、私に、キスをした。
両手で力いっぱい、先生を突き飛ばした。
顔も見ずに、図書室を飛び出す。すれ違う人を驚かせながら通路を走り、階段を降り、自分の部屋に飛び込む。
寝台の足元に置いてあったリュックをひっつかみ、畳んで置いてあった日本の服を無理矢理突っ込んだ。一瞬、クマのキーホルダーがない、と思ったけど、すぐに脳裏から消えた。
部屋を出ると、夕食の鐘が響いていた。
階段を早足で降り、外壁へ。夕陽に照らされた通路をできる限り早く伝い歩き、狭い入口から洞窟の通路を通ってすり鉢型の集会所に行く。
ちょうど、ヨランの人たちも食事に出る所だった。滝へ続く通路の陰に隠れて集会所の様子をうかがっていると、次々とヨランの人たちが外への通路へと出て行く。
セーゴさんの姿が見えたところで、私は静かに姿を現した。セーゴさんと、彼と話していた同年代の男の人がこちらに気づく。
「サーナじゃないか、何か用かい」
男の人に聞かれ、私は固いながらも笑みを浮かべた。
「セーゴさんに聞きたいことがあって。ごめんなさい、夕食の前に」
セーゴさんは、何か感じ取ったらしい。「先に食っててくれ」と男の人に言うと、その人は「サーナと一緒に食事したら?」と冷やかしっぽい笑みを浮かべて外へ出て行った。
集会所には、私とセーゴさんだけになった。
「帰らせて」
私は言った。我慢していた涙が、ぼろぼろっ、と一気にこぼれた。
「いいんだな」
セーゴさんの確認に、ためらいなくうなずいた。
◇ ◇ ◇
馬鹿だよねぇ、と自嘲する。
先生の言ったことは、何もおかしくなんかない。一緒にこちらの世界に来たからって、私も先生もこちらの世界の人を好きになることだってあり得る。
私の方が一方的に、先生を好きだっただけ。だいたい、そんなに好きだったならどうして、自分じゃなく先生を日本に帰してあげようって思わなかったの? セーゴさんは「お前かシガのどちらか」って言ったのに。
結局、私は自分のことしか考えてなかったんだ。それなのに……失恋は失恋で、受け入れなきゃいけなかったのに、三年も想い続けてまたこっちに来ちゃうなんて。本当、しつこくて自分勝手で、迷惑な女。
「まあ、でも、来ちゃったんだから」
私はひとり言をこぼして、お茶のカップを置くと立ち上がった。
「気になることもあるし、すっきりさせよう」
そう。セーゴさんに、会いに行こう。