11 竜の伝承、想い人の帰還
『“トローノ”のはじまり
千年の昔。
岩山そびえる海辺の島に、いつの頃からか、一頭の巨大な生き物が住みついていました。その生き物は巨大な蛇のように見えましたが、空を飛ぶ不思議な生き物でした。
海辺の領地の領主はたいへん珍しがり、その生き物を捕えてイルデルアの王に献上しようと思いました。ところが大蛇は、口から大きな炎を吐いて、人々を寄せ付けませんでした。
何年もたって、大蛇は病気になりました。空をうまく飛ぶこともできず、炎を吐くこともできません。ただ、近づこうとすると大暴れするので、やはり捕えることも治療することもできませんでした。
そんなある夜、人々は、岩山の頂上が眩しく光り輝くのを見ました。何事だろうと思っていると、その数日後、なんと大蛇に乗って一組の男女が、海辺の村にやってきたのです。大蛇はすっかり元気になっていました。
まっ黒な髪、まっ黒な瞳をしたその男女は、大蛇のことを『竜』と呼びました。竜は二人の言うことをよく聞き、他の人々を攻撃したり暴れたりしなかったので、人々は驚き二人の来訪を大そう喜びました。
また、女性の方は片目が不自由だったこともあり、イルデルアの王はこの国の片目の神様になぞらえ、敬意を払いました。
ところがしばらくたったある日、隣国の王が竜の噂を聞きつけたのです。隣国の王は竜に言うことを聞かせるため、まず男女を捕えようとしました。
竜が隣国の王の言うことを聞けば、イルデルアは滅ぼされてしまいます。イルデルアの人々は男女を守ろうとしましたが、そのために何人もの人が死にました。
そこで男女は、数人のお供を連れ、岩山のある島に身をひそめることにしました。一行が船で島に到着すると、竜も空を飛んで後をついていき、岩山の頂上に降り立ちました。
にわかに空がかき曇り、島の周囲の海が湧きたち幾本もの岩が海中から突き出しました。隣国の船はあまりの荒れ様に島に近づけず、とうとう諦めて帰って行きました。
男女は時々竜に乗って海辺を訪れるほかは、岩山で暮らすようになりました。やがて男女には子どもが生まれ、竜にも卵が産まれました。
何年も経つうちに、男女の血筋とイルデルアの王の血筋とが混じり合い、やがて王の子孫は竜に認められて、岩山に住むようになりました。
こうして人々は岩山を『竜の玉座“トローノ”』と呼び、竜とそこに住む人々をおそれ敬うようになったのです。』
私は広げた巻物をテーブルに置き、軽くため息をついた。
自分から“トローノ”を訪れた、翌朝のこと。書庫の中には、私以外誰もいない。
こちらの文字は苦労なく読める――本当に自然に、まるで昔から知っていたかのように読めるので、私は伝承に関する巻物をひも解いていた。これも大陸側に行ったら読めなくなっちゃうんだろうけど。
この黒髪の男女が、ヨランの民の祖先にあたるわけだよね。竜が弱っていた時に、ある日突然この世界にやって来た……たぶん、日本から。そして竜は元気になった。これが、『竜は自分の危機に異世界への扉を開く』っていう伝承のゆえんなんだ。
うーん……でも、女王が弱っている時に同じようにやって来た私と先生は、何もやってないんですけど? 私が三年前にここを離れた時も、女王は弱ってるままだったし。
立ち上がり、白く塗られた岩壁に近寄ると、小さく穿たれた丸い窓から外を見た。
今日の空はどんよりと曇っていて、灰色の雲が風にゆっくりと流されている。その合間を鮮やかな赤い竜が、身体を緩やかに波打たせながら泳いでいた。
「元気……だよねぇ」
何で女王は、元気になったんだろう。
その時、廊下の方で人の話し声がした。カタカタと木桶か何かの鳴る音が近づいてくる。
私はあわてて辺りを見回すと、入口から死角になる壁に身体を寄せた。本当は棚の陰にでも隠れられたらよかったんだけど、旧書物庫と違ってここの棚は壁に直接彫り込まれてて、隠れられないのよ!
まあ、ヴィントが用意してくれた服を着て三角巾をつけているし、バッグに入れてた化粧道具でちょっと化粧もしてるから、もし見られても『サーナ』だとは気づかれないと思うけど……。
賑やかな女性の声が二つ、井戸端会議を始めた。どうやら向かいの部屋の掃除をしながら、おしゃべりしているらしい。
「サス・ゴバは、まだお戻りじゃないの?」
「今日お戻りだよ。今回はずいぶん長かったね」
「新しい竜珠の預かり主を決めるのと、ゴバの在位十五周年の準備と……なんだかんだ忙しそうだからねぇ」
私は耳を済ませた。サス・ゴバ――シャーマさんが今日、大陸側から戻って来る話だ。そっか、きっと子竜が新しく生まれて、その竜珠を誰に預けるかを決めに行ってたんだ。あと、フォーグさんの在位十五周年のお祝いの準備、と。
――先生は、何で一緒に行ったのかな。今はそういうのに関わる仕事をしてるのかも。
「ついに十五周年か。最長記録更新ね」
「そうだね。前ゴバが十一年、その前も長かったけど十三年だったっけ。ゴバの奥さんも竜珠を持ってりゃ、ここで暮らせたのにねぇ」
え! フォーグさんって奥さんいるの? 全然知らなかった。
そっかー、奥さん大陸側にいたんだ。でも竜珠を持ってないから、城に来られない。竜は血縁者なら乗せてくれるみたいだけど、血縁者もきっといないんだろうな。
結婚して何年なのかは知らないけど、フォーグさんこの城に単身赴任してるようなものだね。次のゴバに位を譲ることができれば、大陸側で夫婦一緒に暮らせるんだろうに。
ていうか、自分がゴバと結婚するってわかってれば、奥さんも早めに竜珠を預かって、自分の竜に乗ってこっちに来れたのにね。急な結婚だったのかな?
「それにしても、サス・ゴバはなかなか結婚しないねぇ」
話題がシャーマさんの結婚話になって、私は思わず広げた巻物の陰でクスッと笑ってしまった。こういう話題が盛り上がるのは、どこも一緒だね。
こちらの人は、だいたい二十歳になったら結婚するのが普通らしい。シャーマさんは、三年前にアイレに聞いたところによると、二十五歳。今は二十八か。
すると、一人の声がこう言った。
「まあ、次代ゴバともなれば、相手も引いちゃうんじゃないの?」
え?
私はびっくりして顔を上げた。
シャーマさんが、フォーグさんの次のゴバ?
そういえば、シャーマさんは自己紹介の時こう言った。サス・ゴバは「ゴバの補佐のようなものです」って。
「ようなもの」……あいまいだと思ったら、つまり単なる補佐じゃなくて、ゴバの仕事をフォーグさんの横で学んでいたってこと? そして、シャーマさんは次代の竜の王(もしくは女王)の竜珠を持ってるってこと?
何で、教えてくれなかったんだろう。
話し声は続く。
「でもほら、今はあの若いのがそばにいるじゃないか」
「ああ、シガーね」
ドクン、と胸が大きく鳴って、私は思わず服の上から胸を抑えた。
「確かに、サス・ゴバとシガーが一緒にいる所はよく見るね。でも、あたしの勘だと、あれは違うね」
「あんたの勘が当たったことなんてあったっけ?」
笑い声。
「よし、こっちは終わったよ」
「こっちもいいよ。次に行こう」
賑やかな気配が遠ざかって行く。
私は長いため息をつくと、その場に座り込んだ。
先生とシャーマさんが、うわさになってる話を聞いちゃうなんて。
三年前、シャーマさんはとても親切にしてくれたけど、先生は始めのうちシャーマさんに心を許していない節があった。
でも、人の心は変わるものだ。
先生と部屋を別にしてからしばらく経ったある日、私は城の中をしょんぼりと歩いていて、執務室の近くまでやってきた。確かその時、フォーグさんが大陸側に出かけていて留守だったから、ここなら一人で考え事ができると思ったんだっけ。
でも、執務室には先生とシャーマさんがいて、私は扉の外で話を立ち聞いてしまった。
「ヨランの祖先は男女一組で、そこから子孫が繁栄したわけですよね。竜はなぜか日本人の血筋の者に懐くみたいだから、子孫繁栄はこの国にとって意味のあることだった。でも俺たちはなぜ、男女一組でこちらに呼ばれたんだろう」
「同じ理由ではないかしら。竜が、新しいニッポン人の血が欲しかったんじゃ? あなたたちから生まれる、新たな子孫が」
――な、なんていう話をしてるんだろう。
動揺した私は廊下に立ちつくしたまま、戻ろうかどうしようか迷った。
二人の口調には、妙に緊張感があった。単に伝承に関する話をしてるだけじゃなくて、まるで先生がシャーマさんを問い詰め、シャーマさんがそれに応戦している、というような……。
「でもそれで、老齢で弱っている女王の危機が救えますか?」
先生の声が指摘する。そして続けた。
「一応言っておきますが、尚奈は俺の単なる教え子で、恋人でも何でもない。俺に対する切り札として尚奈を使うのは弱い。逆も同じだ」
――単なる教え子……。
うん。確かに、恋人同士じゃない。単なる教え子、その通り。
でも、私は先生のその言葉に、心を切りつけられた。
その一方で、何で唐突にそんな話になるんだろう、と思った。
先生がああ言うってことは、何? こちらに二人いっぺんに召喚されたのは、子どもを作るためじゃなく、片方を片方に対する人質にするためかもしれない……って、先生は思ったんだろうか。
「それじゃ、あなたは何のためになら、心を動かされるの?」
シャーマさんが静かに聞くと、先生はちょっと呆れたような口調で答えた。
「あなたが俺を誘惑してくれる方が、まだ納得がいく。金も権力もあって美人なんだから、それを利用すればいい」
私が耐えられたのはそこまでで、気がついたら城の階段を駆け下りていたっけ……。
思い出にふけりながら、私はのろのろと紙を巻きなおし、紐で縛って棚に戻した。
小さな窓から入って来るぼんやりした陽だまりが、この部屋に入った時の位置からずいぶん動いている。
そろそろ、先生が帰って来る時間じゃないかな……上の発着場に行こう。
そこで、シャーマさんと一緒に戻って来る先生を目撃した私は、何を思うんだろう。
『上の発着場』に行く階段の上り口には、他の階段にはない扉がある。そっと開き、細いねじれた階段を上りきると、そこはあのヘリコプターの発着場みたいな広い岩棚だった。
岩肌を少しだけよじ登り、大きな岩の陰にもぐり込んで座った。ここなら、空からも発着場からも見えにくい。
ただ、時間が過ぎるのを待った。
強めの海風が吹きつけている。潮の匂い……肌が少しべたつく。頬に張りつく髪を、何回かきあげただろう。
その空気の流れが、ふっ、と変わった。
竜が来たんだ。
緊張で気持ちが張り詰め、途切れることなく聞こえていた波の音が聞こえなくなった。
かつん、かっ、と鉤爪が床に当たる音。竜の尻尾が、ひゅん、と振られるのが岩陰から見える。
私は心の中で五まで数え、竜に乗っている人間が岩棚に降り立つのを待ってから、そっと顔を出した。
ビリジアングリーンの鱗をした、大きな竜がいる。これがシャーマさんの竜、つまり次の王様だろうか。女王に比べると、あまり「それっぽく」ないけど……。
そのすぐそばに、最初は一人だけが立っていると思った。赤茶のロングヘア――あれはシャーマさん。何か荷物を持って先に発着場を出るべく、歩き出す。
彼女がどいたその場所に、黒髪が見えた。屈みこんで、竜から鞍を外していたらしい。
髪型は少し変わって、何だか無造作な感じになっているけれど、後ろ姿は変わらない。細身だけどしっかりした腕、竜に乗るためか皮の丈夫な服に包まれた背中。きびきびとした動作。
先生……元気そう。良かった。
胸が苦しくなって、目頭が熱くなる。でも、私は目をしっかり開いて先生を見つめていた。
頭が動いた。
左の横顔が見えた。綺麗な鼻梁、少し開いた唇。
見つかる、と頭を引っ込めかけた私は、そのまま動けなくなった。
先生が、左目に眼帯をしているのに気づいたから。