10 吊り橋効果はどうした?
「うん、シガーって本当に、サーナに優しかったよね」
木製カップをカツン、とテーブルに置いて、アイレが片肘をついた。ヴィントが持って来てくれたお酒を、私はそこへ少しだけ注ぐ。
三年ぶりに訪れた岩城、“トローノ”。アイレもヴィントもこちらの世界の成人――十八歳――を越えていた。今日は、三人での初めての飲み会、ということになる。
話題が私の失恋話じゃ、盛り上がらないけど。
「時々見かける限りでは、二人はとっても仲良く見えたから、てっきり恋人同士だと思ってた」
「俺も。だから、シガーがサーナと部屋を別にしたいって言いだした時は、驚いた」
ヴィントはムッツリした顔で、カップに視線を落としている。まるで私を思い遣るあまり、先生に対して怒ってるみたい。
そう……三年前、書物庫が壊れた後くらいに、私と先生は別の部屋で寝起きするようになったのだ。
「あ、いや、それはね、当たり前だよ。私は先生のこと、その……好きだったけど、先生にとっては単なる塾の先生と教え子の関係だったから」
私は笑ってカップを傾けた。
何だろこのお酒、ラム酒っぽい……強っ。ちょっとにしておこう。
「こちらの世界に来て私がショックを受けてたから、一緒に寝起きしてくれてただけだもん。私が慣れてきたら、そりゃあ部屋は別にしないと。恋人でもない男女が一つの部屋だなんて、日本ではフシダラって言われちゃうんだよ」
……なんて、その時は自分を納得させてはみたものの。
いきなり先生に、「ヴィントに空き部屋を探してもらったから、俺はそっちに移る」って言われた時は、ちょっとショックだった、なぁ。
『吊り橋効果』の効き目がないほど、先生は私をそういう風には見てくれてなかったんだ……って。
「勉強、見てくれるって言ったじゃん」って言ったら、「午前中は図書館にいるから、わからないところがあったら聞きに来い」って淡々と言われたっけ。
その言葉も、ちょっとショックだった。だって逆に言えば、質問する時以外は別行動、って言われたのと同じだったから。
「まあ、急にそんなこと言われたから、一瞬『何かしたかな私!?』って思ったけどね」
苦笑すると、アイレが視線を宙に遊ばせる。
「あ、もしかして、食事をシガーとは別にとるようになったのもその頃? 私とサーナで食べたりしてたよね」
私はうなずく。
「うん……。あ、別だったのは夕食だけね。朝とお昼は、鐘が鳴った時に皆が次々と食堂に行くじゃない。だから一緒に食べてたけど」
「でも、急に夕食は別になったんだろ。なんか、ちょっと変だったよな……サーナを遠ざけてるっていうか」
またヴィントが眉をしかめた。
確かに私も当時、先生の様子に疑問を感じたり落ち込んだりしていた。でも、惚れた弱み……反射的に先生をフォローする。
「でも、それも当たり前かも。先生はハタチを越えた大人だったんだから、夕食の時は大人同士で飲みとかあるわけよ。ヨランの民の、年の近い人たちと飲んでたみたい。私はあの頃、未成年だったからさ」
たとえこちらの成人が十八歳で、自分がこちらでは飲酒OKな年齢でも、私は絶対に飲まないようにしていた。
日本に帰るつもりだったから、日本のルールから外れたくなかったんだ。
アイレは何度もうなずいている。
「そうだよね、大人の付き合いがあるよね。でも、シガーがサーナのこと大事に思ってるのは変わってなかったよ。だって私シガーに言われたもん、サーナはニッポンでもあまり友達づきあいがうまくなかったみたいだから、よろしくなって」
「えっ……ほんと?」
私は思わず聞き返す。知らなかった。
その時の先生の表情、先生の口調まで、思い描ける気がした。たぶん、何でもないような口調で、でも視線と語尾に真面目さを滲ませて……。
アイレはニッコリと笑う。
「ホントだよ。まあ、サーナと別行動が増えたのは、ちょっと急な感じはしたけど……サーナを遠ざけたるためかどうかはわからないよ」
「もしかしてサーナ、何か誤解があるんじゃないの?」
今度はヴィントが言いだした。
「単なる先生と教え子の関係、とか言ってたけど、実はお互いに好きだったとか。でも未成年には手ぇ出せないから部屋を分けた、とかさ」
「いやいや、ははは」
あわわ。よりによって私と先生の生々しい話になると、何もないだけに想像だけが暴走しそうで、変な汗をかいてしまう。
アイレが言った。
「ねえサーナ。失恋話だなんて言ってたけど、失恋したと思ったのは何がきっかけなの?」
とうとう、そこに話がきてしまった。
私は元々、自身のマイナス体験を人に話すのが苦手だ。それが現在進行形で自分を苛んでいる時は、特に。
辛いことがあった時、他の人の意見を聞いてしまうと、それに同調したり反発したりすることで、その出来事に向き合う自分の心が微妙に変わってしまう気がして嫌だった。
他の人の助けを求められないなんて、我ながら不器用な性格だとは思うけど。
話せば、アイレもヴィントも優しいから私を励まし、労わってくれると思う。私の心情を慮り、もしかしたら先生に対して憤りもするかもしれない。
でもそうされてしまうと、彼らの意見が加わることで、何かが変わってしまう。
終わっていない先生への想いは、一つ一つ口にするにはまだ辛くて、でもその辛さはそのままにしておきたかった。
「ごめん……この話だけは、明日じゃダメかな?」
私は説明しようと試みた。
「私の中で、あの時のことはまだ納得できてないの。だからこそ、またこっちに来ちゃったんだけど……。今の先生がどんな風に過ごしてるかを見て、私なりに納得したら、思い出として話せると思うから」
「そっか……うん、わかった」
アイレはうなずいて、そっと私の手に自分の手を重ねた。
「でも、三年前みたいなとんでもない心配は、させないでよね?」
私がいなくなって、アイレもヴィントもとっても心配してくれたらしい。そんな彼女たちに、何も説明しないのも辛い。
「わかった」
私は微笑んでうなずき、そして、軽く息を吸い込んで言った。
「でもこれだけは、心配してくれた二人に言っておくね。三年前、先生は自分から、こちらの世界に残りたいっていう意味のことを言ったの。私が『一緒に日本に帰ろう』って言ってもダメだった。――道が別れてしまったから、『失恋話』だって言ったんだ」
すっかり夜も更けた廊下は、ひと気がない。“トローノ”の人たちはあまり夜更かしをしないからだ。
お城って言うと、以前の私はもっときらびやかなものを想像していて、夜も眠らないというイメージ(王侯貴族が宴会とか、王様が美姫をはべらして宴会とか、まあ要するに宴会のイメージ)があったんだよね。
でもこの城は、ただでさえこちらの普通の家よりも夜間の照明が大量に必要になるし、立地条件から人も物も限られている。みんな早めに休んで、日の出とともに起きるんだって。
「それじゃ、また明日」
ランプを手にしたアイレとヴィントが、廊下に出て振り返る。私はドアの所で手を振り、ふと思い出して言った。
「そうだヴィント、古書をしまってある倉庫って、今どこにあるのか知ってる? ほら、三年前、女王が壊しちゃった部屋の代わりに……」
「ああ、それなら今は『上の発着場』と食堂の間あたりだ。行けば分かると思うけど……朝、案内しようか?」
彼は言ってくれたけど、私は首を横に振った。
「ううん、大丈夫。そのあたりなら行けそう――あ、でもフラフラしてたら『サーナ』が来てるってばれちゃうか」
「そうだ、言い忘れてた。寝台の上に置いた袋にこっちの服が入ってる」
ヴィントが言い、アイレが彼と私を交互に見る。
「こっちの服装してればバレないわよ。見ない顔だなーって思われても、このお城だってある程度血縁者なんかの人の出入りはあるし。それにサーナ、とっても綺麗になったから、一目じゃわからないわ」
そして、私の片手を取った。
「サーナ、シガーの様子を確認した後、なるべく早くここで会いましょう。やっぱり……何だか心配だから。顔を見たいの」
「うん、わかった。ありがとう」
私は笑顔を返した。
二人を見送って、ドアを閉める。
寝台の横に椅子を持って来てランプを置き、ヴィントが寝台の上に置いてくれていた袋を開いてみると、中には薄いながらも綿入りの布団のようなものと、生成りのチャイナカラーのシャツに臙脂色の巻きスカート、白の前掛けと頭にかぶる布が入っていた。
確かに、これを着ていればバレなさそう。このお城って、入ることが極端に難しいせいで、いったん入ってしまえばいちいち素性を詮索されないんだよね。
寝台に布団を広げて横になったけど、眠れそうになかった。ランプの炎が、カーブを描いて掘られた岩の天井に映ってゆらめくのを眺める。
やっぱりアイレやヴィントから見ても、先生の態度は急に変わってたんだ。
二人には言わなかったけど、三年前、先生と会う時間が減った後の私はまた不安定な状態になった。二人のことだから、薄々気づいてたかもしれないけどね。
塾のテキストをやらないと質問の名目で先生に会いに行けなかったから、テキストはやってたし、私だけヨランの民を訪ねて子竜に触らせてもらうこともあったんだけど、一人になると落ち込んだ。
先生の部屋を直接訪ねてもみたけど、いないことも多くて。何をやってるのか知りたかったけど、ただでさえ「遠ざけられてるんじゃないか」っていう不安があったから、これ以上詮索してうっとおしがられたらと思うと聞けなかった。
日本がますます恋しくなって、先生に甘えたくて、でも変に依存したらいけないと思って……。
ある日、一人で子竜に会いに行ってからヨランの民の住処を出たら、岸壁から見える夕陽が、燃えるように美しかった。
すっかりセンチメンタルになった私は、手すりにつかまったまま、しばらくそこで波の音に包まれながらメソメソしていた。
「日本に帰りたくて、泣いてるのか」
いきなり声がして、慌てて振り返る。
吊り眼気味の瞳、少し皮肉っぽく曲がった口元。
ヨラン頭領の息子さんの、セーゴさんだった。
「…………」
私が黙って顔をそむけ、涙を拭いていると、彼は私のすぐ後ろに来て、耳元でこう言った。
「もし、あんた一人だけ帰る方法がある……って言ったら、どうする?」
その時は、こちらの心がささくれ立っていたこともあって、からかわれてるんだと思った。先生はヨランの人たちとよく飲んでたから、私が置いてけぼりなのを知っててこういう意地悪を言うんだって。
「わ、私は、先生と一緒に帰るんです!」
カッとなってそう言い、“トローノ”の中に戻ろうとした私の腕を、急につかまれた。
驚いて振り返ると、セーゴさんが真っ直ぐに私を見ていた。
「もし、一人でも帰る気になったら、俺に言え」
その時はまさか、自分が本当に先生を置いて日本に帰るなんて、思いもよらなかった。
「あー、やめやめ……」
私は大きく一つ、ため息をつく。
もう、終わったこと。明日、先生の今の様子を確認すれば、きっと気持ちに何らかの決着がつくんだから、今は考えるのはやめよう。
ただ、アイレたちと話しているうちに思い出したことがあって、書庫の場所をヴィントに聞いたんだよね。
竜の伝承に関する資料を貸してもらったのに、私が見たのはそのうちのほんの一部で、後は先生がやけに熱心に読んでたのを思い出したんだ。
明日はどうせ、先生が戻って来るまで時間がある。書庫で、先生が読んでいた資料を探して、時間をつぶそう。