・後編
暴動が起こった、という事の混乱からか、なかなか道を通ることができず、朝出たというのに、忠孝が横浜についたのは昼過ぎのことだった。
「…人がいないな…」
横浜について真っ先に忠孝はそう思った。
忠孝自身、横浜には何度か来たことがあったのだが、やはり暴動が起こった直後という事で警官が出動でもしたのだろうか、昼間だというのに、こんなに人通りが少ない横浜の街は初めて見た。そして通りもある日人たちもできる限り他人と目を合わせないように、と思っているのだろうか、そそくさと道を歩いている、
しかし、やはり暴動がこの町にもあったのだろうか、通りに面した建物の窓硝子が割られていたり、壁に穴が開けられていたりといった箇所を何か所も見たのだった。
そしてどの店も固く入口を閉じている。
「…この間の日比谷もひどかったけれど、ここもひどいな…」
そして忠孝はまず、ある店の前に来た。
通りを入ったところにあったからか、見た限り建物そのものに変わったところはないようだが、他の店と同じように入口の扉は固く閉じられていた。
忠孝は裏の方に回ると、
「御免」
そう言うと鍵を開ける音がして、中から一人の男が出てきた。
「…なんだ、防人じゃないか。珍しいな」
そう、その男は忠孝の友人だったのだ。
「いや、ちょっと話を聞きたくてな」
「話だって?」
「なんでも暴動が起こったそうじゃないか」
「ああ、大変だったぜ。さっきようやく収まったんだが、おまえ、そんな中よく来たな。大変だったろう?」
「いや、お前が心配するほどでもないさ。そんなことよりちょっと気になることがあってな」
「気になること?」
「ああ、それでちょっと話を聞きたくてな」
「…わかった。ちょっとこっちへ来てくれ」
そう言うと男は奥の方へ忠孝を招き入れる。
*
「で、暴動の様子はどうだったんだ?」
「どうだった、と言われてもなあ。飛んでもねえ騒ぎだったぜ。ウチは大したことなかったんだが、表通りなんかもう手が付けられないほどだったんだぜ。そう言えば1週間前に日比谷でも暴動が起こったんだろ?」
「あれもかなりひどかったけどな。1週間経ってようやく落ち着いてきたところだ」
「…そうか。お前も知っているとは思うんだが、オレの家は外国人相手に商売をやっているからな。だた、この横浜には露西亜人もいるんだが、日比谷の暴動以来来なくなっちまってよお。おかげでこっちは商売あがったりだよ」
「ハハハ。そりゃ災難だったな」
「まあ、そのかわり、と言ってはなんだが、最近は結構中国人が来ているから何とかやっていけるけどな」
そしてある程度その場が和んだところで忠孝は、
「…それで、一つ聞きたいんだが」
「なんだ?」
「その暴動につぃてなんだが、ちょっと気になることがあってな」
「気になること?」
「ああ。日比谷の暴動の3日後に神戸で暴動があった、と言う話は聞いただろ?」
「ああ、その話なら聞いたよ。神戸も横浜と同じように外国人が多いからな。神戸から来た外国人がそんな話していたらしいな」
「その神戸の暴動で、何やら一人の男が演説をしていた、と言う話を聞いたんだが」
「…神戸でもしていたのか?」
「神戸でもしていた、ってどういうことだ?」
「あれ、お前知らねえのか? 日比谷の暴動の時も公園で一人の男が民衆に対して『政府のやり方は生ぬるい。そんな政府は倒してしまえ』って一人の男が煽っていた、って言うぜ」
「なんだって?」
「昨日オレのところに来たやつがそう言っていたぜ。間違いない。それで気になっていたんだが、今朝早く近くの公園を通りがかった時に同じようなことをやっていたヤツがいたから気になっていたんだが…」
「本当か?」
「ああ」
その時忠孝の脳裏にあることが思い浮かんだ。
「ほかにもそいつについて気が付いたことがあるか?」
「いや、オレは別の用があったから、ちょっと見ただけだったからよくわからないが。それでもちょっとだけ顔は見たな」
「その男ってもしかして…」
忠孝は父親の帳面に書いてあった「その男」の特徴を話した。すると、
「…うーん。はっきりとは分からないが、お前の言ったその特徴に似ている、と言えば似ているかもしれないな」
「しかし、だとしたら…」
忠孝がつぶやいた。
「だとしたら、どうした?」
「いや、なんでもない。邪魔したな」
そして忠孝は挨拶もそこそこに家を出て行った。
*
そして忠孝はあちらこちらを歩きながら、考え事をしていた。
「…まさか、あの男が」
忠孝の頭の中にはある一人の男の名前が思い浮かんでいた。
「…阿那冥土…」
そう、かつて父親の防人悌仁が一度だけ剣を交えた男、悌仁が斬りつけ、形勢不利と見るや「何度でも現れる」と言い残し姿を消した男…。
阿那冥土のその言葉が気になった、という悌仁は時代が明治となっても引き続き阿那冥土に対する警戒を強め、やがて息子の忠孝が生まれた時、阿那冥土に対する自分の知識をすべて教え、そして刀を忠孝に託したのだった。
そして忠孝も自分が生まれた使命を受け入れ、父親の後を受けついて阿那冥土に対する調査を続けていたのだが…。
「もし、そうだとしても、あれから40年経っているんだぞ…」
そう、彼の父親である悌仁が阿那冥土と出会ったのは元治元(1864)年である。そして今は明治38(1905)年。40年もの時が経っているというのに人間が全く姿かたちが変わらない、と言う事はあるのであろうか?
しかし話を聞いた限りではその友人の話した特徴は阿那冥土そのものである。一体そんなことがあり得るのだろうか?
「…そう言えば…」
忠孝はあることを思い出した。
そう、あれはまだ忠孝が10歳になるかならないかの頃、悌仁が「阿那冥土と目を合わせた時、その眼はとても人間とは思えなかった。あれは獣か何かの眼だ。もしかしたら阿那冥土は人間ではないのかもしれない」と言っていたのを思い出したのだ。
「…でも、そんなことが本当にあるのか…」
そしてどのくらい歩いただろう。
少しずつではあるが辺りが暗くなっていった。
「…もう6時過ぎか…」
そう、9月ともなると夜6時にはもう辺りが暗くなるのだった。
「真佐代も心配しているだろうからな。いったん東京に戻るか」
そして忠孝が帰りの汽車が動いているかどうか確かめるために駅へ向かっていた時だった。
暴動が起こった直後という事もあってか、表通りは人通りが全くなく、街燈も暴動で壊されてしまったものもあったか、数えるほどしかついておらず、ところどころ暗い場所があった。
そんな表通りに忠孝が出た時だった。
忠孝の脇を一人の男が通り過ぎて行った。
「…?」
ほんの一瞬だったが、その男の顔を見た忠孝は後ろを向いた。
「…まさか…」
そう、その男は父親が教えてくれた人相にそっくりだったのだ。
「待て!」
忠孝は男の背中に叫んでいた。
しかし、男は答えない。
「…待て、阿那冥土!」
忠孝がもう一度叫ぶ。
すると男が立ち止まった。
「…なぜ私の名前を知っている?」
そう言うと阿那冥土は忠孝の方を向く。
「…!」
その顔を見て忠孝は思わず絶句してしまった。
そう、父親の帳面に書いてあった人相と全く変わらない顔が目の前にあったからだ。
「…やはり、おまえは阿那冥土だったのか」
「いかにも。しかし私のことを知っていたとはな」
「…この刀が、教えてくれたんだよ」
そう言うと忠孝は一振りの刀を差しだす。
その刀を見た阿那冥土が一瞬狼狽した。
「その刀…。まさか、お前は」
「そうだ。防人忠孝。防人悌仁の息子だ!」
「…そうか。そうだったのか。まさかこんなところであの男の息子に会う事になろうとはな」
「…しかし、なんでそんなことが…」
「そんなことだと?」
「確か親父がお前に会ったのは40年前の話だというのに、なんで歳を取ったように見えないんだ…」
「40年? ほう、もうそんなに経ったか。私にとってはついこの間のような気がするがな」
「ついこの間、だと?」
「私はおまえの想像ができないくらい長い時間を生きているのだよ。私にとって40年なんてあっという今の時間だ」
「どういう意味だ?」
「言った通りの意味だよ。まあいい。ここで出会ったのも何かの縁だ。お前の父親から受けた傷、今ここで返してやる」
そう言うと亜那冥土は忠孝の方のほうに近づいて行った。
「…そんなことはさせない!」
そう言うと忠孝は刀を抜いて構える。
「…行くぞ!」
そして忠孝は刀を最上段に構えると亜那冥土に向かっていった。
「…むん!」
阿那冥土が右手を広げて突くように差し出す。
「なに!」
何者かに押されたかのように忠孝が吹っ飛び、地面に叩き付けられる。
忠孝は何とか立ち上がると、再び刀を構えた。
「ほお。あれだけの攻撃を食らっても立ち上がってくるとは。防人悌仁の息子というのは伊達ではなかったようだな。だが、どれだけ耐えられるかな?」
そして阿那冥土は忠孝に向かって右手を続けさまに突き出す。
忠孝に向かって衝撃が再び襲いかかる。
忠孝は倒れないように踏ん張るのが精いっぱいで、なかなか反撃に移ることができなかった。
「…ほほう。私の攻撃をあれだけ受けても倒れないとは。…だが、これで終わりだ!」
そう言うと阿那冥土が再び右手を挙げたその時だった。
「…うっ!」
不意に阿那冥土が右腕を抑えた。
「…今だ!」
その隙を見逃す忠孝ではなかった。
「阿那冥土、覚悟!」
そう叫ぶと忠孝は刀を振り下ろす。
しかしその動きを察したか、斬られる寸前に阿那冥土が体をかわした。
忠孝の刀は阿那冥土の体を斬りつけたものの、致命傷とはならなかったようだ。
しかし、その勢いに押されたか、阿那冥土が膝をつく。
忠孝は阿那冥土の鼻先に刀の切っ先を突きつける。
「…どうだ、今のうちに引いておいた方が身のためだぞ!」
「…どうやらその言葉に従ったほうがいいようだな。まさか、こんな時に古傷が痛みだすとはな」
「古傷だと?」
「お前の父親につけられた傷だよ。私を傷つけることができるのはその刀だけなんだよ」
「なんだと!」
「まさかお前がその刀を持っていたとはな。…この戦いは分が悪そうだ。ひとまずここは身を引こう。だが忘れないでおいてくれたまえ。私はまたいつか現れる。私はおまえたちも想像ができないくらいの時を生きてきているのだからな」
「どういう意味だ!」
「そのうちわかるさ」
そう言うと阿那冥土は暗闇に向かって走り去っていく。
「待て!」
忠孝は後を追ったが、夜の闇にまぎれてあっという間に姿が見えなくなっていた。
「…一体どこへ行ったんだ…」
忠孝は当たりを見回す。
その時だった。
「…うっ!」
思わず忠孝は片膝をつく。
どうやら阿那冥土から受けて攻撃の衝撃が今になって体に出てきたようだ。
忠孝は刀を杖代わりにして何とか立ち上がる。
「…阿那冥土、お前は一体何者なんだ…」
暗闇の海に向かって忠孝がつぶやいた。
(エピローグに続く)
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