・前編
「ただいま」
玄関が開き、忠孝が家に入ってくる。
「お帰りなさい」
そんな忠孝を一人の女性――彼の妻である防人真佐代――が出迎えた。
忠孝は家に上がるとそのまま真佐代に、
「…帰ってきたばかりで悪いんだが、ちょっと調べ物をするから。夕食になったら呼んでくれ」
真佐代もこれから夫が調べようとしていることが何であるのかわかったのか、
「…わかったわ。あまり無理はしないでね」
「そう言うお前こそ無理するなよ。3か月なんだろ?」
そう、この二人が結婚して1年ほどが過ぎたが、今、彼女のお腹の中には子供がいるのだった。
「私なら大丈夫よ」
「すまんな」
そう言うと忠孝は書斎に向かった。
*
「…確かこの辺だったが…。お、あったあった」
忠孝は机の引き出しの中から1冊の帳面を取り出した。
その帳面は左側を糸で綴じた和紙でできており、表紙に使っている厚紙には彼の父親である「防人悌仁」の名前が筆で書かれていた。
実は忠孝が結婚し、家を新しく建てて引っ越した時、父親が彼にこの帳面を渡したのだった。
そして忠孝は帳面をめくる。
その帳面には今から40年以上前、まだ日本が幕末だったころの元治元年――西暦に直すと1864年――に悌仁が経験したある出来事が書かれてあったのだ。
その中のある人物の名前を見る忠孝。
「阿那冥土…。なんだか気になるんだよな」
そう、父親である悌仁が新選組の隊士だったころに出会った一人の男。阿那冥土と名乗ったその男は父親が残した覚え書きによると、その男は悌仁と出会った日を境に京の町からぷっつりと姿を消してしまった、と言う。
しかし、初めて会ったというのに何か得体のしれぬものを感じた悌仁は、それからもその男の手掛かりをつかもうとしたのだが、何もわからぬまま時間ばかりが過ぎて行き、そして新選組隊士だった彼も、その頃から激しくなっていった討幕派との戦いに身を投じることとなった。
そして江戸幕府は倒れ、明治新政府の樹立。戊辰戦争に敗れた頃で新選組も解散してしまい、行き場を失ってしまった悌仁は、文明開化間もない江戸改め東京に出て、次第に世の中が落ち着いてくると再び阿那冥土について調査を始めたのである。
そんな中、生まれたのが忠孝だったというわけである。
父親の悌仁が新選組隊士だったころに、出会った不思議な男に関して、忠孝が幼かった頃から話をしていたこともあってか、忠孝も自然と父親の話に興味を覚えていったことは言うまでもない。
そして忠孝が二十歳になろうとした頃、父親は彼に一冊の帳面と一振りの刀を渡した。
すでに悌仁が五十歳を過ぎていたこともあってか、「これからはおまえが父親のやっていたことを引きついでくれ」と言ったのだった。
その話を聞いた忠孝はそれがごく自然のような気がした。そして自分が父親の後を受け継いで、阿那冥土と名乗った男について調べて数年たったころに忠孝は周りの勧めもあって結婚し、両親の元を離れて夫婦で住むようになったのだが、その時にも帳面と刀は持ってきたのだった。
「…それにしても」
忠孝はつぶやいた。
「それにしても、なんだってまた急に気になりだしたんだろう…」
数日前に日露の講和に反対する暴動が起き、昨日また、神戸で起きたことがきっかけかもしれない。 そして、記事の中に一人の男が民衆の前で演説をしていた、と言う文章を見たからかもしれない。
とはいえ、なんでまた父親が自分と同じくらいの年齢だった40年前にあった男が自分の目の前に現れるような気がしたのか、よくわからなかった。
運命、とでも言おうか、そんな気がしたのだ。
そして忠孝はしばらくの間、帳面を読み続けていた。すると、
「…あなた、ご飯ができましたよ」
いつの間にか真佐代が書斎にいて。忠孝に呼びかけた。
「あ、もうそんな時間か? わかった。今行く」
そう言うと忠孝は帳面を置くと書斎を出る。
茶の間。
「…どうしたの、あなた? 何かさっきから考え事をして」
真佐代が忠孝に聞く。
「…ん? やっぱりわかるか?」
「私だって防人忠孝の妻ですよ。あなたが調べること、と言ったら、お義父さまがあなたに伝えたことでしょ?」
「…うん。実はそれなんだが」
「何か気になることでも?」
「…いや、気になるというか。オレの親父は小さいころからあの話を聞かせてくれたものだったし、オレもそれが当然のことのように思えていたのだが、君は確かその話を聞いたときには信じられなかったんだよな?」
「…ええ。あなたと結婚することが決まって、あなたが私に初めて話してくれたことだったわよね。確かあの時あなたは『結婚するからこのことを初めて話すんだ』と言っていたけれど、にわかには信じられなかったわね」
「そりゃそうだろうな。普通の人間だったらとても信じられる話じゃないだろう。実はオレも最初の頃は――と言ってもまだ幼いころだったがな――親父の言っていることが信じられなかったんだ。ただ、いろいろと調べてみると、確かに親父が新選組にいた頃に京都の方でそういった出来事があったらしい、という事がわかってな」
「もしかして討幕派をあおったのも…」
「いや、討幕派のほうに対しても『お前たちのやっていることは生温い』と言っていた、と言う話だ。まあ、時代が時代なだけにはっきりした記録が残っていないんだが、討幕派の方でもそいつに手を出して死んだやつがいた、とかいう話だからね」
「…一体何者なんですか? その阿那冥土と言う人物は?」
「さあな。ただ、ちょっと気になることがあってな」
「気になること?」
「この間の日比谷の暴動だよ」
「そう言えばあの後、神戸の方でも暴動が起こったんですってね。でも、それがなぜ気になるんですか?」
「…いや、オレも友達に聞いただけだし、新聞にもちょっとしか書いていなかったんでまだ何とも言えないんだが、一人の男が民衆をあおっていた、と言う話なんだ」
「…その、阿那冥土がやったとでも?」
「いや、だからそれはまだわからないと言っているじゃないか。親父がその男にあったというのは40年も前だし、その時以来会っていないというからな」
「…そうですね。40年も経っているとなると、年齢も相当になっているでしょうし…」
「とにかく、このことに関してはもう少し調べてみなければならないだろうな」
「無理はしないでくださいね」
「わかってる、って」
*
それから数日は何事もなく過ぎていった9月12日のことだった。
「…防人。防人、いるか!」
いきなり玄関が開き、眼鏡の男が飛び込んできた。
「…一体どうしたんですか?」
彼を出迎えた真佐代が言う。
「あ、奥さん。防人いますか?」
「…おい、一体どうしたんだよ」
奥の間にいた忠孝が顔を出した。
「なんでも横浜で民衆が暴動を起こしたらしいぞ」
「なんだって?」
それを聞いた忠孝は玄関に来ると応対をしていた真佐代に、
「…真佐代、お前はちょっと奥に行っていなさい」
「はい」
そして真佐代は奥の部屋に引っ込んだ。
「…とにかく、ここで立ち話もなんだから、あがれ」
「…わかった。邪魔する」
*
「…それで、その暴動ってのは?」
居間に座ると早速忠孝が聞いた。
「いや、オレたちの尋常小学校の級友で、今横浜で外国人相手の商売をやっているヤツがいるだろ?」
「…ああ、そう言えばいたな」
「うん。実は今日オレとそいつと会う約束をしてたからな。そうしたら、ついさっき今日はちょっと会えない、って電話があったんだ」
「…そう言えばお前の家は商売をやってるから、電話機があったんだな」
「うん。そいつの家も商売上必要だからって電話があるしな。いつもそれで連絡を取り合ってたんだ」
ちなみにこの当時はまだまだ電話機は一般に普及しておらず、ごく一部の者が持っているだけだった。
「…で、なぜか、って聞いたら民衆が暴動を起こして外出が禁止されたらしい」
「…それでその暴動と言うのは?」
「どうやらこの間日比谷や神戸で起きたのと同じらしい」
「…やっぱり日露の講和に反対してか?」
「おそらくそうだろうな。ただ、そいつが気になることを言ってたんだ」
「気になること?」
「ああ。なんでも暴動が起こる前に一人の男が民衆を煽っていた、ってな」
「一人の男が?」
「ああ。そいつもチラッと見ただけでよくわからなかったようだが、何か得体のしれないものを感じて急いで自分の家に逃げ帰ったというんだがな」
「…そうか」
それだけ言うと忠孝は黙ってしまった。
「…どうした?」
「もしかしたら、とは思うが…」
「お前がいつも言っているアレか?」
「…だとしてもアレはもう40年も前の話だし…」
「まあ、お前の親父さんについてはオレも知っているし、お前が親父さんから例の件についてに聞いていたことも知っているからな。まあ、今回の件でお前の考えていることが正しいかどうかわからないが、ちょっと気になってお前に話しておこうと思ったわけなんだが…」
「…確かにオレの思い過ごしだといいんだがな。…わかった、ありがとう」
そして忠孝は玄関の外まで男を送る。
「…それで、お前はこれからどうするんだ?」
忠孝が聞いた。
「とりあえず家でじっとしてるさ」
「その方がいい」
「それじゃ」
「ああ」
そして男の姿が見えなくなると、忠孝は書斎に入った。
そして書斎の片隅に置いてある棚に向かって手を合わせると、引き出しの中から一振りの刀を取り出した。
この刀は防人家に伝わる家宝と言ってもいい刀であり、十年程前に父親の悌仁から受け継いだ刀だった。
そして鞘から刀身を取り出す。
父親から引き継いでから手入れは欠かさず行っていたこともあってか、その刀身の輝きは失われていたかった。
(…もし、オレの考えが正しかったとしたらおそらくヤツが…)
すると、
「どうしたの、あなた?」
真佐代が聞く。
「…ちょっと、横浜に行ってくる」
「横浜に、ですか?」
「ああ。ちょっと気になることがあってな」
「今から横浜に行くなんてちょっと危険じゃありませんか? それに横浜に行けるかどうか…」
「大丈夫だよ、近くまで行ければ後はどうにかなるし、すぐに帰ってくるさ」
「でも…」
「…仕方がないさ。オレはそのために生まれてきたようなものなんだからな。それは君だってわかっているだろ?」
忠孝の言葉がどう言うものか真佐代も判ってはいた。
「…わかったわ。決して無理はしないでね」
「無理はしないさ。お前と、腹の子のためにな」
(後編に続く)
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