第六章 拒絶
そして四ヶ月が過ぎた。
パールは臨月を迎えていた。
その後、ガラリアからは何の音沙汰もなかった。追手もかけられなければ、戦いを仕掛けられることもなく、声明も出されず、釈明を要求するトリトニアからの使者にも知らぬ存ぜぬの無視を決め込んだ。一国の姫を誘拐して非道な仕打ちを与えておきながら、堂々としらばっくれる図々しさには怒りを通り越して呆れ返る。
思えば、前回の時もそうだった。決して拉致されたわけではない上に、パールがガラティス王に噛み付いたと言う事実を突きつけられ、こちらが上手に出られないよう工作したのだ。
今回も王女がガラリアに捕えられた事は一部の者たちだけが知る国家機密にせざるを得なかった。公けにして、もしも王女がガラリア王の手に落ちたなどと吹聴されては堪らない。それでなくとも兎角人の噂はあてにならぬ。話の尾鰭がどんどん膨れ上がるだろうことは目に見えていた。そんな醜聞の中にパールを置くことはできなかった。
近頃のパールはお腹が迫り出してきて、少し動くのも億劫そうになっていた。小柄故か初産のせいか、臨月の割には小さなお腹だったが、元々が丈夫ではないので周りの人間の心配の種は尽きなかった。
当のパール本人はどうかと言えば、あにはからんやあっけらかんとしたもので、ただひたすらに我が子の誕生を心待ちにして、日々無事な出産のために留意するべき事は留意した上で、生まれてくる子どものための準備に勤しむ毎日であった。お腹が大きくなるにつれ、顔や身体も幾分ふっくらとし、夫の愛情に満ちたりて表情も柔らかく、一段と女性らしさを増して美しかった。淑やかな美姫と誉れの高い母親のシルヴィア王妃に似てきたと専らの評判だった。
そんなある日の事だった。
異様な気配に、パールははっと身を起こした。
帳の前に何かがわだかまっていた。
薄い煙膜のように見えたそれは次第にあちこちで寄り集まり、形を形成してゆく。黒く固まり人形となる。
黒いフードとマントを纏っているのだとわかった途端、パールの背筋に悪寒が走った。
―あの姿は見たことがある―
同様の格好をした曲者に、パールは襲われたことがあるのだ。
(イヤ‼︎)
そう遠い話ではない。僅か四か月前のことだ。その時何があったのかが頭を過ってぞっとした。
―あの者らに捕まってはならない―
逃げ場を求めてパールは周囲を見回した。
黒ずくめの者たちは、この部屋の出入り口である帳の前に陣取っている。故に帳の向こうへ出て行く事は叶わない。パールは袋小路に逃げ込んだも同じだった。通常の造りの家ならば。
だが、ここはトリトア王宮の右宮最深部だ。この部屋には隣接するもう一部屋への出入り口が設けられている。青の剣の聖廟へと繋がる通路が。
聖廟には青の剣が安置されている。このトリトニアを守るべく鍛えられた伝説の剣が。
その剣を守り、駆使して国を守るのがパールら守人の役目であった。
パールには剣は扱えるものではなかったが、夫の一平が支持している以上、妻のパールも同等の役割を担うこととなる。黒ずくめの者たちに前科がある以上、彼らの目的は青の剣を狙ったものではないと否定はできぬ。ならば、パールは青の剣を守らねばならない。そして、自分自身とお腹の子とを。
パールの選択肢はひとつしかなかった。だから彼女はそれを実行した。
聖廟への通路を開き、その中に飛び込んで、青の剣の元へと急いだ。
青の剣は試儀の時と変わらず台座の上にあった。聖なる婚儀が行われて以来、刀身から発される光を拝むことは幸いにしてなかったが、錆びることなく朽ち果てることなく、変わらぬ気高さを湛えてその場に鎮座していた。
台座は大きな水盤の中心にある。水盤に張られた水は氷水ほどに冷たい。
その冷たさをパールは知っている。
が、今は怯んでなどいられなかった。
急いで飛び込み、青の剣の柄に手を掛けた。
―ドクン―
刀身から剣の息遣いが伝わってくる。
守人の連れ合いとは言え、パールが青の剣を鞘から抜くのは初めてだった。
パールは剣が怖い。刃物に限らず、先細った尖ったものが苦手なのだ。夫の一平とはとことん対照的だ。この剣が必要な時には一平が主で扱えばよいし、これまでその機会はなかった。
(重っ…)
中剣はごくごく一般的な大きさであり、重さの剣であったが、それすらパールにとっては負担であった。だが、これしかない。
ひ弱なパールが今その身を守るには、この剣に頼るしかなかったのだ。
青の剣は、守人のパールを受け入れ、刀身を露にさせた。温かい白光が辺りを包む。
パールは剣技など知らない。鍛錬に励む一平の傍らで、終始稽古などを見てはいたが、やはり怖いので、剣の型など頭に入ってはいない。がむしゃらに振り回すしかなかった。しかもひ弱なので剣を振り回すと言うより、剣に振り回されていると言う感じだった。
いくら青の剣に神秘の力があるといっても、そのような未熟な使い手を無力化するのは簡単なことだった。青の剣には余人は触れないので、腕に一撃を入れれば事は済む。曲者は何なくパールの手から青の剣を叩き落として身柄を拘束した。
(ああっ…)
それ以上、なす術もなく、またしてもパールはガラリアに拉致されてしまったのだった。
その日の最後の仕事である武器庫の視察を終えて右宮へ戻ってきた一平は、次の間にパールの姿がないことに気がつくと、侍女に女主人の所在を尋ねた。奥方様はお腹の子のために大事をとって、一時ほど前から休まれていますと聞かされて、ああそうか、と合点する。
パールはもう産み月であった。小柄でほっそりとした彼女も最近は食も太り、全体的にふっくらしてきた。腹部は確かに迫り出してはいたが、初産だからか一平が思っていたほどは膨れてこない。それでも母体にかかる負担は決して少なくはなく、元々よく寝る方だったのが、近頃ではその時間が更に増えているし、動きも多少緩慢で大儀そうであった。
一平が帰ってくるのがパールにはわかるのか、大抵はパールは次の間まで一平を出迎えに来ている。主人の帰りを察知する飼い犬のようなこの行動が見られないということは、よほど具合が悪いのか、深く眠り込んでいて気がつかないのかのどちらだろうと、一平は一抹の懸念を胸に自室の帳を潜り抜けた。
(おや…⁉︎)
気配がなかった。
天蓋付きの寝台なので、幕を下ろしていれば中の人間は見えないが、武の頂点に立つ一平には中に人がいるのかいないのかくらいはすぐにわかる。
不審に思いながらも、幕を掻き分けた。
乱れた跡があるが、寝台はもぬけの殻だった。それも相当に急いだ感じに貝の肉はめくれ上がっている。触れるとまだぬくもりがあった。
(どこだ?パール?)
用足しか?とも思ったが、だったら侍女どもが知らぬはずがない。
(まさか⁉︎)
嫌な予感が頭を過ぎる。
…と。
その途端、何かが一平に告げた。
強い調子で聖廟へ来いと呼ばれるのを一平は感じた。
(この感じは…)
―青の剣⁉︎―
彼を呼ばわっているのは青の剣だ。すなわちトリトン神。守人は剣と意志を通じ合わせることができるのだ。
迷いもなく、一平は聖廟への帳を引き開けた。普段なら暗い聖廟内に微かな明かりが残っている。そしてその先にわだたかまる黒い靄のようなもの…。
だんだん収縮して一点に吸い込まれるようにして消えていった。
(何だ?)
何かが起こっていることを確信し、すぐにそれがパールの姿が見えないことと関係があるのだと思い当たる。
―パール‼︎―
台座の上に剣がないことを見て取り、辺りを見回すと、青の剣は水盤の底に沈んでいた。拾い上げると脳裏に光景が浮かんだ。
パールが青の剣を抜き放ち、闇雲に振り回している。振り払おうとしているのは黒ずくめの男たち、そして中の一人に剣を持つ手を叩かれて剣を手放した。絶望に打ちひしがれた表情のパール…。
そして映像は消えた。
「…パール…」
自分の膝元で何が起きたのかを一平は悟った。青の剣が事実を見せてくれたのだ。黒く靄っていたのは侵入者の痕跡だろう。事は起きたばかりだと、すべての状況が語っている。
「くそっ‼︎」
―またしても―
その思いが一平を後悔の渦へと引き込む。
テトラーダで攫われた時も、一平はパールからいくらも離れていない所にいた。ガラリアからパールを取り返した後、何も行動を起こして来ないガラリアを牽制しながらも、一戦も交えてはいない。
パールのことは半ば諦めてくれたのだと思っていた。いや、思いたかった。まさかトリトニアの国政のど真ん中に、いきなり曲者が現れるなど、さすがに想定していない。この四ヶ月、そんな気配はまるでなかった。
それなのに…。
この部屋に通ずる点繋道はない。それは確かだ。
賊の侵入が可能になったとすれば、方法はひとつしかない。
―ガラリアの魔術、侮り難し―
前回のことで一平も魔術に関することを勉強するようにはなっていた。己が使うのではない、敵を知るためだ。
その中に瞬間移動の方法と言うのは確かにあった。だが、それは向かおうとする場所と、現在自分がいる場所の双方に拠り所となるものがなければならない。
例えば、同じ魚の骨でできた術具。同時に念の込められた衣服。同じ岩から切り出された小物。同じ人間の髪の毛や爪…。それぞれが術によって呼び合わされ、引き合って異次元の通路を開き、そして閉じるのだと言う。
ガラリアと反目しあっているトリトニアとの間にそのようなものが何一つあるはずもなかった。あるとすれば…。
(パールの髪の毛か…)
あるいは、爪の一部など、あの時に採取されたのだろう。
それならばパールがどこにいても連れに来られる。今まで実行に移さなかったのは油断を誘っていたのか。
迂闊だった。
そこまでの知識は、あの時まだ一平にはなかったのだ。無理もない。
起こってしまったことをあれこれ悔やんでも前へは進めない。
ガラリアに連れて行かれたのだとすれば、一刻の猶予もない。ガラティスがパールに何の用があるのかは明白だった。
―許さん‼︎―
一平の怒髪が一瞬総毛立ったように見えた。
同時に、青の剣が光る。
(陛下!ウート老!)
青の剣を手にしている限り、他の守人と心で話ができるのだと、青の剣から感じ取った。
一平は二人を呼んだ。
その力は何があったのかを瞬時に伝え、同時に二人からの応えを得た。更に一平は申し出る。
(即刻、奴らを追います。派兵のご許可を)
(いや、しばし待て。一平どの)
オスカーから待ったをかけられ、一平は目を剥いた。
(陛下!奴らがパールに何をしたか、お忘れですか?)
(慌てるな。聞け。…ウート老…)
水を向けられたウートは、オスカーが何を言わんとしているのか、言われなくてもよくわかっていた。
(一平どの。落ち着きなされ。一刻も早く姫を追いたいのはわかるが、今は最善の方法を考えよう)
(最善の方法?)
(魔術で攫ったのだ。姫は既にガラリア城内だろう。我らの力ではどんなに急いでもガリアまで半日はかかる)
(ですから今すぐ発ちたいのです)
(手段は?軍勢を揃えるにも時間がかかる)
(大勢は要りません。騎イルカに乗れるだけの人数で結構です。勿論点繋道も使うつもりですが)
(その点繋道だが。ここ数ヶ月、わしも魔術のことに加えて、点繋道の発掘に力を入れていた。その甲斐あって、トリリトンからトリーニに通ずる点繋道を発見できたのだ
(本当ですか?)
物見処のあるトリーニはガラリアの目と鼻の先。そこまで一足飛びに行ければガラリア城は目の前だ。
(ありがたい…)
(だが、問題もひとつある)
(問題?)
(その点繋道の入り口はな。わが白の剣の聖廟の中にあるのよ)
(白の剣の聖廟に?)
聖廟は聖なる場所である。試儀の時を除き、守人以外の余人は入ることを許されぬ。まして、軍隊など以ての外である。
(聖廟内に入れるのはわしと陛下、そしておぬし及びそれぞれの連れ合いのみ)
(余はトリトニアを離れるわけにはいかん。この状況では特に)
オスカーが捕捉した。ウート夫妻も老人、女性のシルヴィアも戦力にはならぬ。従って、利用できるのは一平のみということになる。
(構いません‼︎)
このように度重なればもはや隠密にはできぬ。国として毅然とした態度で対処しなければ、との思いから派兵を願い出た一平であったが、軍に所属していなければ単身出向くことにためらいはない。自分ひとりでも行くと即答した。
その意気込みに、オスカーもウート老も一瞬沈黙する。
(むゥ…)
(…そうか…)
(陛下!御許可を‼︎)
再度言い募る一平にオスカーは断を下した。
(そなたに任せる。必ずやパールティアを取り戻せ。そして…自分の命をも疎かにするな)
(御意!)
目の前にはいないオスカーに向かって一平は膝まずき、頭を下げた。
(…では一平どの。お急ぎくだされ。至急我が左宮へおいで願わしゅう…)
(承知!)
答えるのももどかしく、一平は右宮の聖廟を発った。
ガラリア城に連れてこられたパールは再びガラティスの前に引き据えられていた。部屋はガラティスの居室。見覚えのある不気味な彫刻が部屋の四方からパールを見下ろしている。思わずパールは身震いした。
黒ずくめの男たちに両腕を拘束されたまま面と向かったガラティスは、すぐ後ろにやはり黒ずくめの女を従えていた。例のガラティスお抱えの上級魔術師である。手にした透明な丸い器の中で、何やら赤い糸状のものがゆらゆらと踊っている。
「ようこそ、パールティア姫」
ガラティスが口を開いた。
「……」
不安と恐ろしさで、声も出ないパールにガラティスは歩み寄った。
「どうなされた。声をなくされたかな。あの伝説の人魚姫のように」
人魚姫と聞いてパールは一瞬目を瞠る。日本の洞窟で、一平や翼らに繰り返し読んでもらった宝物の絵本。その中の一冊がアンデルセンの人魚姫だった。あれは地上の人のお話だと思っていたが、なぜガラティスが知っているのか、との不審な思いが一瞬パールを恐怖心から解放した。
ガラティスは男たちに命じてパールの腕の戒めを解き、間近で眺め下ろした。
「少しの間にまたおきれいになられた。先日は残念であったよ。わしを受け入れてもらえなかったのは。あまつさえ断りもなく、お帰りになるとは、無礼極まりないが」
言葉遣いは丁寧ではあるが、激しい非難が込められているのをパールは敏感に感じ取った。ガラリアがパールにしたことを考えれば、無礼などと言われるいわれはないのだが、以前にも身に覚えのないことや不可抗力で礼を失した経験があるので、罪悪感が立ち上ってきてしまう。
「あの…その節は…申し訳ございませんでした。何のお力にもなりませんでしたことも…」
なんと言えばよいのだろう。逡巡して言葉を失うパールをガラティスは黙って見下ろしている。いや、値踏みしている。
何を思ったのか、ガラティスは不意にパールの顎を掴んで持ち上げた。
「ひっ…」
思わず身を竦ませるパールに脂ぎった顔を寄せた。
「ほんに惜しいことじゃ。今一度問おう。わしのものになる気はないか?一度でよいのじゃ。ただ一度でよい。姫に歓喜の一瞬を与えて差し上げたいのだ」
「お…お許しを…。私は…もうすでに人の妻でありますゆえに…。それにこの身体は、もうそのようなことには耐えられません。産み月でございますれば…」
一国の王に無礼があってはならぬ。自分のような立場の者であれば尚のこと。その思いから、パールは必死に拒絶の言葉を探した。
「なに、なれば尚のこと。子が生まれてくる道筋をつけてやらねばならぬ。姫のご夫君はそういうことをご存知ではないのだな。お気の毒に」
「え?…」
そのようなことは初耳だ。誰からも聞いてはいない。男の方便とでも言うべきものだが、パールには判断のしようもない。
「姫のお子が楽に生まれてくるように私が力になって進ぜよう」
一方的な屁理屈を以て、ガラティスはパールを懐柔、手籠めにしようとその肩に手を掛けた。
前回、あっという間に衣服を剥がれたことを思い出し、パールは身の毛もよだつ恐怖を覚えた。
思わずその手を跳ね抜ける。
「いやっ‼︎」
意外な拒絶に遭い、ガラティスはむっとなった。だが、怯まず言い募る。
「いやよいやよも好きのうち、と申す。姫もなかなかの焦らし上手…」
言いながらも、手は腰に回り、もう一方の手はもがくパールの手を押さえつける。
「やめ…」
背ける顔に唇を押し付けられ、パールの中で何かが爆発した。
カッと全身から白い光が発される。
眩くて目を開けていられないほどの光が。
「おわっ…」
衝撃は光だけではなかった。ガラティスは水砲でも当てられたかのように後方へ吹っ飛び、魔術師に激突した。
その拍子に、女の手から丸い器が落ち、白い光の砲に打ち砕かれてバラバラになった。中に収められていたパールの髪の毛も消滅した。
膨らんだ光が乱舞し、猛威を奮って、室内のものを悉く破壊する。それは三十秒ほど荒れ狂ってから不意に静まった。
飛ばされた二人が我に返った時には、パールの姿は室内のどこにも発見できなかった。
「やはり…」
ガラティスは呟いた。
「あの姫は、破壊の力を身の裡に秘めておる…」
―どうしても欲しい。その力が―
ガラティスの目が怪しく光った。




