第五章 抱擁
「一平!姫!」
「ナシアス…」
自力でガリア城から脱出してきた一平とパールの二人にナシアスは駆け寄った。ガラリア城に突入すると決めた時間まであと僅か一時。まさかその前に戻ってくるとは正直なところ思っていなかった。
「おまえ…どうやって…」
「オレには、幸運の女神がついているからな」
そう答えて、一平は彼の女神に目をやる。当のパールは訳がわからず、不思議そうに小首を傾げている。
「カニ様々さ」今度は訳がわからないのはナシアスの方である。「…というか、ガラティスがアホなんだ。あの淫乱親父」
「おい…」
多少距離を置いているとは言え、ナシアスはすぐ後ろにトリトニア軍の精鋭たちを控えさせている。滅多なことは聞かせられないのだ。
いつも冷静沈着な一平のこの様子に、こいつ相当興奮してるなと、内心おかしさを堪え切れない。
「詳しく話している暇はない。とにかく一刻も早くここを離れよう」
まだガラリア城は静まっているが、二人の逃亡が明らかになるのは時間の問題なのだ。一平は監視役の衛兵だけではなく、逃走経路にいた者たちを一人残らず片付けてきたのだから。
「騎イルカはいるか?」
当面、パールだけでもガラティスの手の届かない所へ送り届けたい。一見元気そうに見えるが、何といってもほんの数刻前までパールは瀕死の状態だったのだ。泳がずに済んで、尚且つ速い騎イルカを使いたかった。
その時甲高いクリック音がした。
振り向くと、二頭のイルカがこちらに向かってくる。
「おまえたち…」テトラーダから一平が乗り継いできたテトラーダで最速のイルカたちだった。「残ってくれたのか…」
「おまえの器量に惚れ込んだみたいだぜ。とっくにお役御免なのに、ちっともテトラーダに帰ろうとしない。訳を訊いたら、おまえが姫を連れて戻るのを見届けたいのだと。ラムス四世からの密命でも受けてるんじゃないか?」
それは大いにあり得ることだった。ラムス四世は会ったばかりの他国者に騎イルカどころかテトラーダ所有の点繋道まで伝授したのだ。見張りをつけるのが当然であった。
不快ではなかった。むしろ有難かった。
一平は再び彼らと契約を交わしてパール共々イルカに騎乗し、ナシアスらと一路トリトニアに向かった。
幸いなことにガラリアは追いかけてはこなかった。
一平たちの逃走にまだ気づかないということはいくらなんでもあり得なかったので、追っ手をかけるのは不利と判断したのか、城中の者にもこのことを知られたくなかったのか、或いはもっと有効な手段があるから手を出してこないのか…。何しろ魔術を駆使してとんでもないことをやらかしてくれた国なのだ。油断はできない。
だが、トリトニアに入って丸一日泳ぎ通した頃には、さすがに休憩を余儀なくされることになった。訓練された精鋭軍の面々はまだしも、パール本人がこの強行軍に耐えられなかったのだ。気丈に平気を装ってはいたが、何年もそばにいる一平に体調の悪いことを見抜かれないはずもなく、このままでは遅かれ早かれ倒れることになると判断され、天幕の中で休むよう取り図らわれた。
「では、某はこれにて失礼つかまつります。ごゆっくりお休みなさいませ」
ばかに遜ってナシアスが言った。
急ごしらえの寝台に横たえられたパールがその声に反応して声を掛ける。
「ナシアス様もこちらでお休みになってください。私より余程お疲れのはずです」
ナシアスは自ら斥候の役目を買って出て、一行の前になり後ろになりしてガラリアを牽制してくれていたのだ。労働量は他の追随を許さないほどだった。それをパールは心配していた。そして僅かに一基に限定された天幕を、身重のパールと一行の長たる一平とで占有してしまうことに恐縮していた。
「いえ、そのような。もったいない。某はどこででも寝起きできるよう訓練されております。ご心配なく」
「でも…」
「そのお気持ちだけで。それに某は天幕の外を見張るよう仰せつかっております。天幕の中には誰よりも頼もしい一平どのがお残りになられますので、安心してお休み下さりませ」
そう言ってナシアスはパールの傍らにいる一平にいたずらっぽい目線を送った。
―うまくやれよ―
そう言われた気がして、一平は思わず赤くなった。
パールは昨晩まで敵方の虜となっていたのだ。脱出してからずっと、周りには大勢の人がいた。ここらで二人きりにしてやらないといくらなんでもかわいそうだという、意味ありげな視線だったからだ。
「もういいから行け」
つっけんどんに言い放つ一平を、パールは意外な面持ちで見上げた。
「では…」
ナシアスが下がるとすかさずパールは尋ねた。
「ナシアスさまと喧嘩でもしたの?一平ちゃん」
「おまえが心配するようなことは何もないよ。いいから休め。それが今のおまえの責務だ」
「うん…」
「おやすみ」
そう言って、そっと口づける。
己のマントの留め金を外し、パールの身体に被せた。
その手をパールがぐいと掴んだ。
「?」
一平は怪訝な顔で見つめ返す。
「あれは…夢だったんだよね?」
パールの問いが一平の胸に突き刺さる。
「…何のことだ?…」
しらばっくれようと試みたが、動揺は声にも表情にも現れた。手も小刻みに震え始める。
「パール…あいつに…何もされてない?」
「…‼︎…」
夢だと言い聞かせた。素直に信じ込んでくれたと思っていた。蒸し返しさえしなければ、何事もなかったことにできるはずだった。
が、一平は勘違いをしていた。パールはいつまでも子どものままではなかった。特に一平の妻となってからは。女としての歓びに目覚め、夫の全てに気を配ることで、一から十を知ることを覚えた。
いくら一平が夢だと言ってごまかそうとしても、自分の身の上に現実として起こったことだ。夢ならもっと記憶はあやふやであっていい。もし夢であったとして、なぜ自分がそんな卑猥な夢を見なければならなかったのか。願望の現れであると言うなら、なおさら不可解だし、自分が許せなかった。
ここまでの道中、パールはずっと疑問に思っていたのだ。自分の中に残る明確な記憶を。それが果たして、本当に夢なのか否かを。
このことに対する一平の反応を見れば、夢かどうかは言わずと知れた。
―幼いが、決してばかではない―
それは出会った当初からの一平の感想だった。騙されて欲しいと願うが故に、一平は無理にパールを全くの子どとだと思い込もうとしていたのかもしれない。
否定すれば事実と認めることになる。肯定してもショックを与えることになる。一平は答える術を見つけられず、何も言えなかった。
「…やっぱり…」
パールの瞳が暗く翳る。
「パールは…もう…一平ちゃんのお嫁さんの資格ないね…」
「何を言ってる⁉︎」
一平の目が彷徨う。こんなことをパールに言わせてはいけない。
「だって…あいつ…パールのこと…」
涙声が途切れる。が、その先を言わせないよう、一平は自分の胸に妻の顔を押し付けた。
「おまえは今、ここにいる。こうして、オレの腕の中に…。オレはそれだけでいい…」
(一平ちゃん…)
「おまえの中にはオレの子がいる…。おまえはこの子を守ってくれた。…感謝している…」
(パールが?この子を?)
「おまえの力だ…。パールは立派に母親だ…」
宥めようとは思わなかった。素直に思ったことを、一平はパールに告げた。自分の言葉をパールが聞いているのが確信できると、一平は腕の力を緩め、妻をじっと見て伝えた。
「ガラティスを受け入れなかった。…正真正銘、オレの妻だ
パールの瞳から涙が零れ落ちる。一平が寛容であることはわかりきっていた。が、はっきり妻だと言われることが今ほど喜ばしいと思ったことはない。
「でも…でも…一平ちゃん、いやじゃない?」
こんな手込めにされかけた身体を厭わしいとは思わないのか、それがパールには心配だ。
「おまえは…いやなのか?」
逆に聞かれた。
「オレがこうしているのは嫌か?オレがキスしても、嫌なことが思い出されるか?」
「……」
「おまえが嫌なのなら、オレは何もするまい。不快なことを思い出すと言うのなら、二度とおまえに触れはしない。おまえがただそばにいて笑ってくれるのなら、オレはどんな我慢でもしよう…」
パールはいやいやをした。一平ちゃんに何かの我慢を強いるなど、どうしてそんなことができようか。知らずにとは言え、一年も、―いや、一平は五年と言った―パールが目覚めるのを待っていてくれた一平に、これ以上わがままを言って言い訳がない。
一平の意思の強さは折り紙付きだった。既に実証済みだ。自分でこうと決めたら揺るがない。そんな辛い決心をさせてはいけない。
自分を見つめる一平の顔に、パールは恐る恐る手を伸ばした。頬を包み、耳から首筋を擦り、肩から背中へ滑らせる。
パールは一平の衣服を脱がせて裸の胸に顔を埋めていた。素肌を刺激されて一平の身に快感が走る。
パールにリードされるなど初めてだった。
二度と触れないなどとは、大言壮語だった。出来もしないくせにと、自嘲した。パールはそれを思い知らせようと思っているのかと考えた。どんなに堪えようとしても無理だった。一平は身も心もパールを欲していた。パールも同じだということが一平にはわかった。
一瞬だけ躊躇った。お腹の子に障らないかということが心配になった。
が、パールは言った。
「…大丈夫…この子がね…パパに会いたいって言ってるの…」
ガラティスの時にはこうではなかった。赤ん坊はパールの中で嫌だと泣いていた。そして、入り口を閉ざしてくれた。パールにはそれがわかった。
でも今は違う。一平ちゃんなら大丈夫。もう平気だよって、赤ちゃんに伝えてくれる。
パールは確信していた。




