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第三章 接見

「パール?」

 一平は静かにトリトンの壁の前に進んだ。

 僅かに見える横顔は心なしかやつれ、病んだような顔には明らかに踏み躙られた苦痛の跡が残されていた。健康の代名詞のように使われた頬の薔薇の色が、今のパールの上にはなかった。眠っていてさえ輝いているような目元は暗く、水の中にいるのに唇は乾き切っているようにさえ見えた。

 何がパールの身の上に起こったかは否応もなく知らされたが、この様子を目にすると改めて衝撃が走り抜ける。怒りが湧き上がってくる。

(ガラティスめ…)

(よくも…オレのパールをこんなにして…)


何の権利があればこういうことができるのだ?

 ガラティスはパールの中に侵入することは不可能だったと言ったが、そんなことは問題ではなかった。この顔が全てを物語っている。パールにとって耐え難い苦痛を、あの男は彼女に加えたのだ。具体的に何をしたかではない。パール本人が苦しんだということだけが一平にとっての善悪の基準だった。

 パールはひ弱だ。

 未熟児で生まれたせいもあるのだが、パールの成長は他人(ひと)より極端に遅かった。一日も早く祝言をあげて子どもを設けなければならない王女という立場に生まれながら、十五の年まで結婚できなかったのはそのためだ。身も心もやっと大人と言えるまでになり、一平の思いもようやく報われた。にもかかわらず、パールはガラティスによって残酷な仕打ちを与えられてしまった。


 パールの持つ癒しの力は、万人には遍く効果を及ぼしても、自分自身を癒すことはできない。自身の上に起こった不幸を嘆き、呪うより他に、パールにどうしようがあったろう?

 どんな些細なことでも、パールの身に起こる変化を一平は見逃さなかった。辛い目には会わせまい、悲しい思いはさせまい…。パールの幸せな笑顔を守ることが一平にとっての生き甲斐であり全てだった。今までの彼の努力も犠牲も全て、ガラティスは打ち壊したのだ。



(守れなかった…)

 肝腎な時に自分は何をしていたのだろう。どうして、ずっとパールのそばにいてやれなかったのか…。ずっと一緒だと誓ったのに…。悔やんでも悔やみきれないほど、一平は後悔していた。やりきれなかった。

 ―こんな寝顔は見たくない。パールにはいつも笑っていてほしい。どうあっても、必ずパールの上に笑顔を取り戻してやらなければならない―

 一平はそう決意した。


 あらゆる手段を用いたとガラティスは言った。あの淫乱親父のことだ。さぞかしいろんな技術を持っていることだろう。どんなことをしたのかは想像したくもないが、一平がパールを愛する時の神聖な気持ち、狂おしいほどの情熱は抱けたとは思えない。その証拠にガラティスはパールをいじくりまわしただけで終わっている。パールは全身でガラティスを拒絶し、奴の思い通りにはならなかったのだ。


 お腹の中には子どもがいた。強引な侵入を許すことは、わが子の生命を脅かす。そんな目に遭っても、パールは立派に母親をしていたのだ。

(なぜだ、パール?何故、そんなことができたんだ?)

 一平の心の問いにパールは応えることもなく眠っている。

(オレじゃないからか?それだけで、こんなにも非力なおまえに、あいつを阻止することができるのか?)


 トリトニアに生まれ育ったのではない一平には多少は知識が欠けていたかもしれない。が、それなりの悪友はいたし、周りの者は彼を心配していろいろ知恵を授けてくれてもいた。しかし、その中にもこの事態を説明できる事柄は見つからない。

(オレなら…今でも受け入れてくれるのか?)

 酷い目に遭ったばかりのパールにそんなことをしようなどとは全く考えてはいなかった。だが、こうして目の前に変わり果てたパールを見ていると、元に戻ってほしいという思いと同時に言いようのない独占欲が頭を擡げてくる。


 ―誰が見ていてもかまわない。いますぐここで、確かめてみたい。がむしゃらにパールの身体に身を沈め、おまえがオレを愛していることを確信したい―

 一平は望んでいた。何度もパールの身体を開かせ、自分ひとりのものにしているというのに、まだ足りなかった。パールは自分の子を身籠っているというのに、まだ不安だった。ガラティスの薄汚い身体が触れたところを全て拭い去ってしまいたかった。

 だが彼は欲望を無理やり退けた。まずはこのトリトンの壁を何とかするのが先決だ。



(パール…)

(パール…わかるか?オレだ。一平だ)

(オレの声が聞こえるか?迎えに来たぞ。トリトニアへ帰ろう。オレと一緒に。オレの声が聞こえたなら返事をしてくれ。パール…)

 応えはない。

 元よりそう簡単に接見が叶うとは考えていない。

 海人の一人とは言え、一平にはパールのような超常能力は備わっていない。念を凝らしたとて念を向けた相手に伝わったためしはない。

 ただ一度、同じような状況の際にトリトンの壁の中のパールと交信することができたが、それはむしろ、中にいるパールの力によるものだ。パールの方にいろいろな能力が備わっていたから、一平の僅かな念力を彼女の方が感じ取ってくれたのだ。一平はそう思っている。


 だが少しばかりの自負もある。呼び掛けたのが他の誰でもない一平だったからこそ、パールは反応したのだ。これが能力のある海人であっても見知らぬ人間であったり、よく知ってはいるがパールに敵意を持っているような人間であったなら、魂同士の話などできようはずもない。互いの愛と信頼があればこそ呼び掛けに応えてくれたのに違いない。

 ましてや今や一平はパールのただひとりの夫なのだ。父と間違えたからとは言え、会いしなから抱きつかれ、違うとわかってからもパールは迷わず彼に従ってきた。一平がパールにとってよくないことをするなどとは微塵も思わずその身を預けてきた。一時の邂逅で、パールは一平の資質を見事に見抜いていたのだった。


 信頼され、慕われ、愛される…漠然とした中にもそれらの波動は一平の身体に真っ直ぐに届き、染み渡り、折りあるごとに甘やかな気持ちを呼び起こしてきた。純粋無垢な眼差しと甘えた仕種、彼を呼ぶ無邪気な声音、それらはどれだけ彼を幸せにしたろう。幼い幼魚の身体からも、女性の匂いを彼は如実に感じ取っていた。


 そして尚も思いは募る。

 互いの道を見出し、精進しながら、二人は愛を育み合ってきた。

 己の中に存在する確固たる思い。

 何より大事なのはお互いの身体、互いの心。それを失っては生きてはゆけぬと幾度思い知らされたことだろう。

 失うわけにはいかない。

 こんな所で。

 あってはならないこんな出来事のせいで。

 大事なパールを失うわけにはいかないのだ。

 しかも彼女は一人ではない。腹の中には二人の愛の結晶、トリトニアにとっても待ち望まれる王族の血を引く子どもが息づいている。どちらも一平にとっては五年ぶりに得た家族であった。

 


 彼は呼び掛ける。球体に向かって。

 両手を翳し、白い球にぴったりと添わせる。

 精神を集中させるため、目を瞑る。

 心の中で唱える。愛しい者の名を。呪文のように。

(パール…聞こえるか?一平だ。迎えに来たぞ。オレがわかるか?)

 応えはない。目の前のパールには何の変化もない。

 一平は繰り返す。何度も何度も。身動ぎせず、微動だにせず、球体の中の妻に呼び掛け続ける。

(かわいそうに。辛かったろう。でももう心配ない。そこから出てこい。こっちへおいで。もう大丈夫だ。オレがついているから)


 どれだけの時間、そうしていただろう。

 一平の真摯な思いが通じたのか、やがてパールが顔を上げる。

 一平の声が届いたのだ。

 彼はそのことに安堵したが、パールの表情は暗い。

 憔悴し、心なしかやつれ、細ったように見える頬には血の気がなく、愛らしい唇も口角が下がって生気がない。大儀そうに開けた瞼は重そうで、その下から覗く深く明るいはずの青い瞳は濃く澱んでいる。


(あのやろう…)

 よくもオレのパールをこんなにして…と、一平は怒りを新たにした。パールと出会ってこの方、こんなに暗く世を儚んだような顔をした彼女を見たことはない。

 一見したところどこにも傷は見当たらず、白くきめ細かい肌は相変わらず世界一美しいものと思えていたが、この表情を目の当たりにして一平は胸の内に怒りの波が押し寄せるのを止めることができなかった。


 一平はパールに向かって手を伸ばした。実体ではないパールの姿に同じく実体ではない己の手が触れる。

 いつもなら歓喜に輝く瞳に光がない。だか緊張に身体が強張るのが感じられた。手をとっても握り返すでなく拒絶するでなく、なすがまま、されるがままである。人形のようなその様子に一平は狼狽した。虚ろな目は何も映さず、考えること、反応することを拒否しているように見える。


 膝を抱え込んだ腕をそっと抜き取り、肩を入れ、片腕を頭に回して抱え上げた。そのまま静かに己の膝の上に下ろして軽く抱き寄せた。

 一平の腕の中で過ごすことを、パールは常に喜んできた。彼の方から行動を起こすことよりも、パールの方からその胸に飛び込んでくることの方が遥かに多い。結婚してからは多少なりともパールの愛に自信を得た一平は積極的になれたが、割合としてはまだまだ甘えん坊のパールに勝てるものではなかった。


 そのパールが一平に抱かれて無反応というのはかつてなかったことで、一平は大いに戸惑っていた。先端恐怖症の発作を起こしたり、能力(ちから)を使って力尽きたりして意識のないことはあったが、目を開いているのに茫洋としていられるのはたまらない。

 少し力を入れてみる。

 裸のパールに触れた部分が全て冷たい。生命活動を停止しているのかと思われるほどに、一平には感じられた。



 優しく、優しくパールを抱いた。

 意識して、パールの耳を己の胸につけるようにした。

 一平の鼓動の音を聞くのが、パールは何より好きだったからだ。いくら泣いていても、しばらく聞き続けると、パールは落ち着き、泣き止めた。そのまま安心して眠ってしまうことさえ少なくなかった。

 だが、それでもだめだった。パールは全く一平を一平として認識していない。パールの心は確かにここにはない。

(どうすればいいんだ⁉︎)

 呼んでもだめ、抱いてもだめ、『おいで』と言っても気が付きさえしない。


 一平は途方に暮れた。

 キスしてみたらどうだろう、と思う。パールは一平にキスしてもらうのが大好きだった。あまりにもねだるのでもう日常茶飯のこととなっているが、毎日欠かしたことはなかった。 

 さすがにもう人前で、憚りもなく…と言う無分別はしなくなったが。

 だが、おそらくパールはガラティスにそういうこともされているだろう。それも度々。そこかしこに。だったら、今そういうことをするのは不快な経験を呼び起こすだけなのではないか。そういう危惧が一平の中にあって、彼は躊躇していた。


(軽くだったら大丈夫だろうか?)

(オレなら、大丈夫か?)

 希望的観測が頭を擡げる。

 だが、これはただの自分の欲望の表れか、とも思う。

 無理矢理押し込めた嫉妬の炎が再び息を吹き返した。

(オレの妻だ…)

(パールはオレに初めて身体を許した。オレの子を身籠ってさえいる。キスのひとつやふたつして、何が悪い…)

(あんな奴にいいようにされて…引き下がっていられるか‼︎)

(一体、何をしてくれたんだ⁉︎ひ弱なパールをここまで痛めつけて…)

 ガラティスに対する憎悪の心が膨れ上がる。

 考え出すと止まらなかった。


 あらぬ想像が頭を支配し始める。

 知らず、その手に力が入る。

(オレのパールだ…)

 独占欲が鎌首を擡げる。

(取り戻してやる…)

たまらず、一平は口づけた。そっと、と考えていたのに、触れた途端に箍は外れた。むさぼるように無我夢中で、彼は奪った。

「う…」

 パールの口から呻き声が漏れた。艶めいたものではない。単に口を塞がれて苦しいのか、この行為そのものが嫌なのか。

 その声に気づいて、一平は唇を離した。

 見下ろすパールの顔が苦しげた。

 無表情ではなくなっている。

 だが、良い変わり方ではない。

 眉間に皺さえ寄っている。眦から一筋涙が溢れて海水に混ざった。



(いや、なのか!?)

 その反応が信じられなかった。

 パールが自分のキスを嫌がるなんて。

(くそっ!!)

 これも皆、あの淫乱親父のせいだ。

 一平の脳裏にニーナの言葉が蘇る。

 ―パールが一平さまのことを受け付けなくなったらどうなさるおつもりなのです?―

(こういうことか?)

レレスクのロトーに拉致された時、救出の出陣を待つ天幕の中で、ニーナは一平にそう訊いた。

 妙齢の女性が攫われて、何もされない可能性は極めて低い。まして、ロトーは音に聞こえた好色王だった。


 パールに拒絶される可能性など考えてもみなかった一平にとっては、ニーナの言は青天の霹靂。言われた時には、ニーナが何を言っているのか理解できなかった。その意味するところを理解してからも、そんなことがあるとは考えられず、否定したい一心でそうはならないと言い切った。だが…。

 今のパールはニーナが危惧したことそのままになっている。

(…こういう…ことだったのか!?)

 呆然となり、次いで悔しさに怒りが湧き上がる。

「…返せ…」

 一平は口に出して呟いていた。

「オレのパールを返せ…こんなのは…こんなのはパールじゃない…」


 嗚咽が込み上げそうになるのを歯を食いしばって耐えた。

 胸の裡に渦巻く感情がドロドロとぐろを巻いている。憎悪、怒り、悲しみ、絶望…そんなものが渾然となって頭の中はぐちゃぐちゃだ。何か不快で、そのく快い、癖になりそうな香りまで感じられる。

 それがガラティスの指示で魔術師が施した媚薬の香りであり、一平の脳に作用し始めていることに彼は気がつかない。

 今一度パールを見る。

 相変わらずぼうっとして、だが、心が破壊されたような目から、再び涙が流れ落ちた。

(うそだ…)


信じたくなかった。この状況を。

(うそだ…うそだうそだ…うそだっ!)

 一平は激情に駆られ、再びパールに口づけた。無理矢理と言っていいその口づけを、パールは振り払った。

 のろのろと、首を振る。

 ―い…や……―

 唇が、そう動いたように見えた。

 これも一平には信じられない。

 いや、信じたくない。

 ―いや…一平ちゃん…―

(うそだ…)

―…一平ちゃん…て…―

(やめろ…そんなことを言うな…)

―……け…て…―

(オレを拒絶しないでくれ、パール…)

 ―助けて…一平ちゃん…―

(何?)


『助けて』と読めた。

 何か、おかしい。

 怪訝に思っていると、不意に頭の中で声が響いた。

「助けて…お願い、やめて…」

 映像まで切り替わった。

 今まで彼の腕の中にいたパールがいなくなっていた。いや、違う。パールはいた。一平の方が姿を消したのだ。だが、意識だけはある。先程と同じ造りの部屋で、同じ寝台の上に、パールはいた。



 テトラーダでピピアナリウムを訪問した時に身に付けていたドレスを着ている。いや、着ている、と言っていいものかどうかは疑問だった。それは既に肩から二の腕も剥き出し。それに伴って胸も開かれている。腰の括れにサッシュがあるのでかろうじて引っかかっているが、パールの上に馬乗りになった男がそのサッシュを邪魔そうに引っ張っている。

 ガラティスだった。

 地上で言うバスローブのようなガウンを素肌に羽織り、既に前をはだけさせている。組み敷いたパールの面前に脂ぎった赤い顔を寄せ、嫌がって顔を背けるパールの頬に頬擦りをしようとしていた。


(貴様!!)

 思わず乗り出して声を上げたが、一平の身体には何の変化も起きなかった。いつかポナペの島で見た夢と同じ、意識だけしかここにはないらしい。

(やめろ‼︎その汚い手を離せ!パールに触るな‼︎)

 いくら怒鳴ったつもりでも、手を挙げ、足を蹴ったつもりでも、声は虚空に吸い込まれ、手足は四次元ポケットに嵌ってゆく。

(何もできないのか!?)

 目の前でパールが助けを求めているのに。

(見ているしかないのか!?)

 今にもパールが犯されそうだと言うのに。

(どうしてこんなものが見えるんだ!?)

 こんなものは見たくないのに。

(やめてくれ!頼むからやめて…)

 

 だがこれはおそらくは事実。実際にあったことだ。パールの記憶だ。パールのトリトンの壁の中に入ったから、パールの心と接触したから、パールの心象風景が見えたのだ。

 忌々しいこの記憶の中を、彼女は行きつ戻りつしている。

 多分、ガラティスに襲われてからずっと。休む間もなく。己の悪夢の中から抜け出せないから、パールはトリトンの壁の中から出て来れないのだ。

(やめろ…やめてくれ…。こんなものをオレに見せるな。パール…)


 己の一番大切な女性が他の男におもちゃにされるのを逐一見ることほど辛いことはあるまい。

 想像だけならば、いくら膨らんでもまだ救いがある。汚い己の心の妄想だと、否定することができる。

 だが、実際に見せつけられてしまっては…。

 事実と認識してしまっては、記憶から消し去ることは難しい。



 そうしている間にも、パールはろくな抵抗もできぬまま衣服を剥がれ、卑猥なことを囁かれ続けた。

 ガラティスが諦めるまで、実際にはそう長い時間はかけられなかったらしい。侵入しようと試みる前に、パールの方の意識が保たなかったのだ。

 あまりに下品な言葉、心のない行為に、嫌悪感と恐怖でいっぱいになったパールの心は閉ざされた。ぱったりと意識を失って、活動を停止した。

 その美しい肌が白く輝き出し、細い糸のようなものを発生させ、纏わりつかせ、正球を描き、その中に引き籠った。

(パール…)


 いつしか一平は涙を流していた。

 さっきまでの映像は既に姿を消していた。彼の腕の中に、映像が切り替わる前のパールの身体があった。そっと抱き寄せ、頬を擦り寄せる。一平の頬を伝い流れる涙がパールの頬を濡らす。涙の温かさがパールの肌を刺激する。

 パールが僅かに身動ぎした。

 微かに目を開ける。

 だが虚ろな目ではない。ぼんやりとしてはいるが、死人のような絶望的な様子を放ってはいない。眠りから覚めて朦朧としている、そんな感じだ。


「パール!?」

 呼び掛けたら目を上げた。

「一平ちゃん?」

「気が…ついたのか…」

「どうしたの?ここ…どこ?」

 パールが自分を一平と認めて普通の会話をしている。そんな当り前のことが突然起こって、一平は声を詰まらせた。喉の奥から、胸の底から嗚咽がこみ上げてくる。

「…パ…」

 とても言葉にならなかった。


 この突然の変化に、一平は戸惑うばかりだ。

 自分は何もしていない。パールの悪夢を垣間見て、ただ悔しさに、哀れさに、涙しただけだ。なのに、パールは何事もなかったかのように一平に素朴な疑問をぶつけてくる。

 一平の涙こそが、パールを現世へと立ち戻らせたのだということに、彼は気がついていなかった。暖かい、熱いと言ってもいい彼の涙がパールの心に届いた時、その心音と共に彼を認識することができたのだ。

 それはともかくとして、パールはここがどこかと訊いた。明らかに状況を理解していない反応だ。ならば…。



 女々しく泣いている場合ではない。この好機を無駄にしてはならない。彼は言った。

「大丈夫か?ごめんな、無理を言って…」

「無理?」

 涙を堪える中から労りの覗く眼差しで、一平は答える。

「おまえは…熱があったんだ。なのに、オレが無理矢理おまえを欲しがった…」

「え?…」

 パールには記憶がない。当然だ。一平の捏造した経緯(いきさつ)なのだから。

「おまえは嫌がってたのに…。すまん…オレがわがままだった…」

(一平ちゃんが?)


 そんなはずない、とパールは思う。いつだって、わがままなのはパールの方だ。パールが嫌だと言うことを一平がするはずがない。いや、それよりも不思議なのは、自分が一平を拒否したという事実だった。パールの辞書には、一平に対する拒絶とか嫌悪とかいう項目は載っていないのだから。 

 だが何故か身体の中に嫌悪感が刻まれている。記憶の中に残るこの悍ましい恐怖感はなんだろう?触られたくない人に身体を撫で回されたような気がする。それもぼんやりとして濁り水に包まれたようだ。あれは夢か?


「許してくれ。身重のおまえを気遣うあまり、オレは欲求不満が高じてしまったようだ」

(欲求不満?あの、一平ちゃんが?)

 他の誰よりも自分を律することができ、並外れた精神力で数々の技能に力を発揮できたからこそ、青の剣の守人に選ばれた人なのだ。何かがおかしいと感じながらも、深く追求することが今のパールにはできない。魔術師の女が調合した香に長い時間晒され続けた影響だろう。

「じゃあ、あれ…夢だったのかな?」

(‼︎…)


 パールの一言に、一平は慄然となる。記憶はあるのだ。確かに、パールの中に。

 だめだ。取り除かなければ。なんとしても。自分が悪者になろうとも。

「怖い夢でも見たのか?…だとしたら、それもオレのせいだな。忘れてしまえ、そんな夢のことなんか。オレが…忘れさせてやるから…」

 努めて平然を装いながら、一平は急いで言った。パールに細かいことまで思い出させないために。一平はその(かんばせ)を両の手で包み込んだ。

 パールがうっとりと一平を見つめる。一平の口づけはパールをいつも至高のひとときへと(いざな)ってくれる。期待に表情が蕩け、瞼が閉じられた。

(忘れてしまえ…)

 強く強く念じながら、一平は己の妻を取り戻そうと、その唇を優しく覆った。



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