第一章 トリトンの壁
「トリトニアの伝説」第八部 天使の鎮魂歌を連載します。
これまでのあらすじ
海人と地上人との混血児一平は遂に望みの場所を手に入れた。
晴れて青の剣の守人に任ぜられ、同時に最愛の女性パールとの結婚に漕ぎ着けたのだ。
蜜月の日々が続く中、パールの身に異変が起こる。
額に浮かび上がる『徴』なる刻印は、古来より伝えられる伝説の発現を意味していた。
めでたく懐妊したパールは友のエメロードの誕生祝いに勅使としてテトラーダを訪れる。
ピピアナリウムを参詣中、お家芸の魔術を駆使したガラリアにパールは攫われてしまう。
単身ガラリアに駆けつけ、拘束された一平は、ガラティスがパールをつけ狙う理由に思い至り、愕然とするのだった。
詳しくは第一部〜第七部をお読みください。
序
無垢なる瞳持てし珊瑚姫
その魂以てわれらに勇者遣わしめ
海人の守りとならしめり
勇者によりて至福へと導かれし時
徴生まれ出で
秘宝によりて人々を遍く癒さんとす
―トリトニアに古くから伝わる伝説より―
第一章トリトンの壁
パールの額に赤い痣のようなものが現れることはごく少数の者しか知らない。
一平と、相談を持ちかけた主治医のザザ婆、そしてパールの両親であるトリトニアの施政者たるオスカー三世夫妻、それに白の剣の守人ウート老の五人である。どの人間からも外部に漏れる可能性はなく、ガラリアとの接触もまずなかったはずだ。
だがガラリアは魔術の国。髪の色も自由に変えられると言うから、他人の生活をこっそり覗き見することなど朝飯前なのかもしれなかった。
一平は以前ネフェルティアという女性に自分の行動を覗かれるという経験をしている。自分とニーナの他誰も知らないはずの出来事を、彼女は己の不思議な力で水晶玉に映し出して見ることができたのである。彼女の力も魔術の一種だったのだと考えれば、ガラリアが知るはずのないことを知っていたとしても何の不思議もない。
パールとの逢瀬を横から誰かに見られていたと考えるのはかなり気恥ずかしく、相手の行為そのものに反吐が出るほどの嫌悪感を感じるが、そうだとすればパールが絶頂を迎えた時に額に徴が現れるのだと知られていることになる。その徴を見るためにパールを拐かし、手込めにしようとしたのだと考えることができる。
ガラティスも知っているのだ。あの伝説を。
トリトニアに古く伝わるものと聞いたが、ガラリアでも語られているのだろう。或いは、ガラティスは吟遊詩人や芝居の一座などをよく王宮に招いて歌や踊りを観るというから、語り部の語る伝説には詳しいのかもしれなかった。
仮にパールの額の徴を狙ったとして、そこまでする目的は何だろう。
一平の見たところ、パールの額の徴は薄赤い盛り上がった痣のようなもので、刻印と言えなくもないが、文字らしきものでも何かの絵と判別できるようなものでもなかった。はっきり言って、一平にも説明のできるような紋様ではなかったのだ。
伝説に続く。
『徴生まれ出で秘宝によりて人々を遍く癒さんとす』と。
では、『秘宝』なるものを手に入れたいのだろうか?
そうとしか考えられなかった。
でもザザ婆は言っていた。トリトニアには秘宝なるものは存在しない、と。オスカー王にしても反応は同じだった。
だが部外者であるガラティスはそうは思わないかもしれない。
ガラリアは資源の少ない国。隣国であるにもかかわらず、海底火山郡によって気候のよい地域と隔てられた北の地に発達したのは、魔術という精神重視の陰鬱な分野だった。産物には限りがあり、質もよくない。
従って決して裕福ではなく、煌びやかさとはほど遠い生活を強いられている。金銀財宝は憧れの的であり、入手できるのであれば手段を選ばないということも十分考えられる。事実、トリーニ近辺ではガラリア人による貴金属の窃盗事件が頻繁に起きていた。だからこそ、物見処の建設が必要だったのだ。
伝説には『人々を遍く癒さんとす』とも述べられているが、ガラリアには癒しの力は必要ないとガラティスは豪語した。やはり目的は『秘宝』なのだ。
だが一体そんなものがどこにあるというのか。伝説のお膝元のトリトニアの国王すら知らないものを、他国の人間が徒に手を出すのは無謀と言う他ない。そんなあるかないかわからぬもののためにパールに災難が降りかかるのは御免だった。
あるのならばくれてやる。
一平の一存でどうにかできるものなのなら、さっさとそうしてここからおさらばしたかった。大事なパールを連れて。
ガラティスに糾さねばならない。ことの真偽を。
現在囚われのこの身では如何ともし難いが、こうして閉じ込めた以上、いずれ呼び出しがあるはずだ。それでなくとも明日の夕刻にはナシアスがガラリア城に堂々と打診に入る。いやでも城内は動くだろう。
その時が来たら思い切り暴れてやる。パールを取り戻し、パールにを手に掛けたガラティスを張り倒し、ガラリアの奴等を完膚なきまでに叩き潰してやる。それまではやはり身体を休めておこう。それが今自分にできる最善策だ。
一平は再び横になり、仮眠の状態に入った。
一平の予想は大きく外れてはいなかった。
「おまえの力でもだめか」
「面目次第もございませぬ」
ガラティスの失望した声に答えたのは女の声だ。
全身黒づくめの女はガラティスお抱えの上級魔術師。ガラティスの指示により二人の目の前の物体を何とかしようと色々な術を試していたが、一向に成果が上がらず平身低頭しているのだった。
平謝りの低姿勢の中、女は術の対象物を目を眇めて見遣った。
そこには白く光る丸い物体があった。
大きさは直径が八十センチほど。ところどころ淡い赤や青や黄色に染まっている。シャボン玉を半透明にして巨大化したらこうもなろうかという形態である。だが、シャボン玉の質感とは程遠い。この球体の膜を取り払うのに四苦八苦している女にとっては特に。
ブダイの仲間に、毎晩眠る前に口から粘膜を出して全身を覆い、身を隠遁する魚がいるが、その膜が魚自身の匂いを外に漏らさないようにして外敵から身を守るように、白い球体はその中にいる生き物を守っていた。
球体はトリトンの壁。中にいるのはパールであった。
普通トリトンの壁は大変態前の幼魚時代に効力を発揮する。心身両面においてまだ未成熟な時期に、その生命が危険に晒されたり、著しく精神不安定な状態になった時、自己回復する期間、その身を外敵や外部からの刺激から守ってくれる生命維持機能であった。未熟なりとは言え、とうに成人への大変態を終えたパールの周りには発生し得ないものである。
が、トリトンの壁は紛れもなくそこにあった。
外部が手を加えて取り除くことはできない。
そうでなければ意味がない。中にいるものを守るためのものなのだから。自然治癒力で傷が癒えれば自ずと消滅する。精神面に於いても然り。自己の力で回復するのを待つより他に手立てはまずない。
たったひとつ、トリトンの壁に包まれた者が信頼し、その身を預けてもよいと思える相手だけが、その球体の中に入ることができることを除けば。
とは言え、入れるのは実態ではない。魂だけが中に入って接触を持つことができるのだ。接触できたとしても、必ずしも壁が解けるわけではない。医術で傷や病気を治すか、いわゆる鬱状態のものを躁状態に向けることができなければ、トリトンの壁は消えることはない。ガラリアの誇る魔術も、一度発生してしまったトリトンの壁には何の効果も影響も及ぼすことができなかったのである。
パールがこうなったのは、もちろんガラティスの無法な行為に原因がある。抵抗する姿を持たないか弱き娘を裸に剥き、淫行に及んだその結果である。
パールは腕力もないし、大体が優しい。慈愛の心が怒りや憎悪の気持ちに勝る。夜も眠れないほど恋い焦がれていたのだと嘘八百を並べられても、戸惑いながらも疑いはしない。何の力にもなってやれないことに申し訳ないと思う気持ちの方が強かった。
かといって、ガラティスの希望を進んで叶えてやることもパールにはできかねる。一平以外の男性と肌を合わせることなど、今となっては問題外だ。
それでもパールには為す術がない。以前シェリトリにキスを迫られた時には咄嗟に感情が爆発して、電撃的な力が放出されたが、その時感じた嫌悪感と何らか変わらないのに、罪悪感があるからか、あの時のような力は湧いてこなかった。パールの心はただ、なぜ?どうしてこんなことに?という成り行きに対する疑問と、やめて!離して!という逃避願望、そして腹の中にいる赤ん坊への影響を心配する思いで占められていた。
ガラティスが卑猥な行為を繰り返し、躍起になる中、当のパールの心は悲しみでいっぱいであった。最終目的は同じでも、どんなに甘い猫撫で声で語りかけられても、触れられた途端に感じるのは嫌悪以外の何ものでもなかった。一平の掌や指先から感じ取れるパールに対する神聖なほどの愛と慈しみの心は微塵も感じられない。
(赤ちゃん…。一平ちゃんの赤ちゃん…。パールと…一平ちゃんの…)
どうあっても守らなければならない。たとえこの命を失うことになっても。だが、皮肉なことに、パールの命が失われれば、まだこの世に生まれることの叶わない時期の赤ん坊の命も失われる。
(どうすればいいの…?)
(ピピア女神さま…)
―あなたにしかできないことをするのです―
パールが迷った時、ピピア女神はそう言った。
(パールにしかできないこと?だって…それは何?)
―あなたの中の命を守ることですよ―
(…どうやって?…)
―あなたの持つ癒しの力を使いなさい―
(癒しの力?)
―お腹の中の命に向けて、念じてごらんなさい―
(赤ちゃんに向けて?)
いつの間にか、パールには聞こえていた。自分を見守り、励ましてくれる守護神ピピア女神の優しい声が。
そして、意識を自分の腹に向ける。
ガラティスは気づいた。娘の肌から、細い白い煙のような糸の束が立ち上ってくるのに。
「これは…」
ガラティスとて同じ海人、この現象が何を意味するのかはわかっていた。
「なんと言うことだ…」
ガラティスはさっさと行為をやめ、逃げるようにしてパールから飛び離れた。
そのままくっついていたら、共にトリトンの壁の中に取り込まれることになる。取り込まれてしまったが最後、自分の意思ではどうしようもなくなってしまうのを知っていたからだ。
トリトンの壁(ガラリアでは『ガラの壁』と呼ぶ)は言わば発生させた当人(原体と言う)の身体の一部。取り込まれたものは原体にとって異物である。体内に存在する異物を排除しようと、トリトンの壁は様々な攻撃を加えてくるのだ。かといって、自力で脱出はできず、外部からの救出も不可能である。原体が自己を取り戻した時には骸となって現世に戻ってくるという、ありがたくない結末が待っていると言うわけだ。
ガラティスの束縛から解放されたパールは、ゆっくりと身体を丸めて行く。背中を丸め、首を折り曲げ、膝を抱え込み、胎児のような姿勢になって、蚕のように繭を形成していく。
ガラティスは手を拱いて見ているより他どうしようもなかった。
我に返り、魔術師の手を借りようと思いついた時には、既に壁の形成は終了していた。オパール色の大きな球が広い寝台を占領していた。アコヤガイの中で成長しすぎた真珠玉のように。
「やはりお子様だと言うことなのだろうな」
一日近くが経っても何の変化もない球体を眺めながらガラティスは言った。
二年前には鶏ガラのようだった。それから少しは女らしさを増していてやる気も起こったが、ガラティスの周りにいる妾どもに比べれば、豊満とは言い難い。楚々としたしおらしさは腐っても鯛で、さすが王族の女性と評価できるが、男を誘う色気などは皆無に思えた。ガタイがいいと聞いている夫の一平には不似合いに思えて仕方がない。成人前から求婚しているとの噂も、一平に『物好き』との烙印を押す一因となっていた。
「全く、あやつの審美眼を疑うわい」
面と向かって会ってみると、噂通りの立派な男だった。長身の上顔がいいので、筋骨の逞しいのが緩和されて爽やかで頼もしく見える。礼儀正しく立ち振る舞いも堂々として貫禄があった。年は十九と聞くが、少しく老成した感があったのは役職故か、それだけ苦労してきたのか。そういうことを見抜く能力は、王と呼ばれるだけあってガラティスには備わっていた。
「なぜこのわしが女のことでこんなに苦労をせにゃならんのだ」
「そのような言い種、かの御仁の耳に入りましたら命がございませんよ」
上級魔術師の女が少々口幅ったいことを言う。それを敢えて咎め立てしないのは、この魔術師とも男と女の関係があるからだ。女性としてはあまり見栄えのしない風采の上がらない女だが、年頃はガラティスに近く、魔術師としては有能なので、国王専属の扱いを受けている。この待遇を手に入れるために得意の媚薬を使った魔術でガラティスを洗脳した猾吏であった。
「このようなもの、成人してから発生させたなどと言う話は、未だかつて見たことも聞いたこともないぞ」
「左様でございますな」
「しかも、赤ん坊を宿しているではないか」
「誠に…」王の言うことにいちいち頷きながら、魔術師はふと首を傾げた。「もしや…」
「む?」
「…いえ、これはあくまで憶測ですが…」
「かまわん、言え」
「はい。…このガラの壁ですが、発生させたのは、パールティア姫ではなく、腹の中のお子かもしれない…と」
「まだ生まれてもいないのにか?」
「ええ、ですから仮説ですが。最も、このお方は、世にも稀なる癒しの力を持つお方。ご自分に施術をされたのかもわかりません」
「むう…」
何しろ、百年に一度とも二百年に一度とも言われる貴重な力だ。一国の国王ごときに掌握できるような代物ではないのだろう。
「残念ですが、到底私のような者にどうこうできるものではないようです。これで下がらせていただきたいと思いますが」
魔術師の言うことはもっともなのだが、このまま手を拱いているわけにはいかないのがガラティスの事情である。しばし考え、ガラティスは思いつく。
「いや待て。いまひとつ、働いてもらうぞ。あの守人めを連れてこよう」
「ここにでございますか?それではあちらの思う壺」
「いや、そうではないぞ。だからおまえの力が必要なのだ。奴にこの壁を取り払わせるのだ。自分の妻がこのような状態になっているのだ。喜んで取り組もうよ。その上で交わってもらう。そこをこっそりと見る。もちろん徴をだ。徴を見ないことには、姫の破壊の力も確かめられん。癒しの力だけでは事足りんからな」
「そう素直に言うことを聞くでしょうか?守人と認められたからには、生半可な意思の持ち主ではございますまい」
「だからそこを。おまえの力で。お得意の分野で張り切ってくれぬか」
一平が妻を抱かずにはいられない状態に持っていき、その一部始終をガラティスに中継すること。それがガラティスから出された要望なのだと女は理解した。




