タイトル未定2025/11/23 00:06
「北神さん、どうしたんですか?」
同僚の声で、亮は目が覚めたように周りの雑音が聞こえた。
今まで社長室にいた亮は、秘書課の部屋の自分の席に座っていた。
社長室から、どうやって此処まで歩いてきたのか、自分でもよくわからない。
「えっ、な……なんでもないわ」
慌てて言った亮は、目の前のパソコンの前の画面をみつめた。
キーの上で指を躍らせるが、意識は遠くの方へ置いたまま。
やがて指を止め、社長室で言われた言葉を思い出していた。
亮が企画した「barに合うチョコ」は、予想以上に反響を呼んだ。
結果を出した亮に、社長の水田は亮を称えた。水田なりの気遣いを、亮は喜ぶべきなのだが……。
亮はしばらくの間、ぼんやりしていた。
昼ご飯を終えたちはると赤井は、馬場の顔をじっとみつめていた。
「ぱっつんの様子がおかしい?」
ちはるの言葉に、馬場は大きく頷いてから言った。
「北神ちゃんの様子がおかしくなったのは、社長に呼ばれた後だって、秘書課のお姉ちゃんたちが言っていたぞ」
「社長に、何か言われたのかしら?」
ちはるの問いに、馬場は答えることができなかった。
しばらくの沈黙の後、赤井がそっと切り出した。
「今度の土曜日、バレンタインですよね」
「それが?」
つまらなそうに、ちはるが言った。
「マスターの店に、若菜ちゃんと行くんです」
「あっ、そう。どうせ、マスターにチョコを渡すんでしょ」
「皆さんで、マスターの店に行きませんか?北神さんも誘って!」
ちはると馬場は、顔を見合わせた。
「ちはるさんも、マスターにバレンタインのチョコを渡すんでしょ」
「そりゃ~まぁ……」
顔をそむけて、照れくさそうに言うちはるに、馬場は声を上げた。
「友光!マジで、マスターにチョコを渡すのか?それは、本命チョコか?」
「うるさいわね!馬場には、関係ないでしょ!」
ちはると馬場の言い合いを、赤井は慌てて止めた。
「まぁ、まぁ!北神さんも誘って、楽しいバレンタインにしましょう!」
赤井の言葉に、ちはると馬場は言い合うのをやめた。
「どうせ、マスターにチョコを渡す予定だったから行っても良いけど、なんでぱっつんを誘うのよ?」
「なんでって、心配じゃないですか北神さんが。それに北神さんも、マスターにチョコを渡すだろうし」
「お前なぁ、単に面白がっているだけじゃないのか?」
笑いながら言う馬場を、赤井は断固否定した。
「そんなこと、ありません!北神さんが心配なだけです。それに、大勢の方が楽しいでしょ」
「わかった、わかった。じゃあ、ぱっつんは赤井が呼ぶのよ」
「えっ、俺が?」
ちはるの言葉に、赤井は思わず声を上げた。
「当たり前でしょ!言いだしっぺなんだから」
赤井は、ため息をついた。
若菜、ちはる、馬場、赤井の四人は、約束の時間にやって来ない亮を待っていた。
待ち合わせ場所は、繁華街を少し外れた場所で、barジェシカは目と鼻の先だ。
「遅い!!約束の時間、十五分過ぎているわよ!」
腕組みをしたちはるは、我慢できないように言い放ち、更に問い詰めるように赤井に言った。
「赤井!ちゃんと、ぱっつんに来るように言ったの?」
「言いましたよ!」
「ぱっつんは、ちゃんと返事をしたの?」
「しましたよ!」
……嫌々ですけどね……。
と言う言葉は、さすがに言えなかった。
「じゃあ、なんで来ないのよ?時間は、きっちりと守る人でしょ」
「友光と違ってな」
ちはるをからかうように、馬場が言った。
「ちょっと、馬場!」
「ホントのことだろ」
言い合うちはると馬場の間に、慌てて赤井が入った。
「約束の時間、間違えて聴いたのかもしれません。後、十五分待ちましょう!」
「はい、はい。わかったわよ。ねぇスイ」
「えっ?」
ちはるが突然若菜を呼んで、若菜は慌ててちはるの方を向いた。
「シロは、来ないの?」
「シロちゃんにラインして誘ったんだけど、用事があって来れないって、断られちゃった」
「あんた達、いつも一緒だったのに」
「うん……」
若菜は、小さく返事をした。
……シロちゃんに断られたの、これで二度目だ。でも、私とシロちゃんの友情は変わらない!……
自分を励ますように、若菜は胸の中でつぶやいた。
約束の時間三十分を過ぎても、とうとう亮は待ち合わせ場所に、やって来なかった。
時間が早いせいか、barジェシカの店内には、テーブル席にふたりの客しかいなかった。
店に入ると、ちはるはカウンター席に向かってすたすた歩き、カウンター席の椅子に腰掛けた。馬場は、ちはるの隣に座った。
何処に座ろうかとまどっている若菜の背中を、赤井はそっと押してちはるの隣に座らせ、赤井は若菜の隣に座った。
カウンターの中にいたマスターは、ちらりと若菜を見て、小さくため息をついた。
「未成年だから……」と、注意をする気も失せていた。
十時を過ぎてもまだいるようなら、その時言えば良い。
そう考え、何もなかったようにいつもと変わらぬ態度で接待した。
それぞれのカクテルを飲みながら、軽めの食事をオーダーした時、ちはるがマスターに声をかけた。
「マスター」
厨房に行こうとしたマスターは足を止め、ちはるの方を振り返った。
ちはるは、大きな紙袋から綺麗にラッピングされたチョコを、マスターに差し出した。
「バレンタインのチョコレート!」
「バレンタイン……ボクにですか?」
「私の愛が、いっぱいこもっているわよ!」
マスターは恐る恐ると言うように、ちはるからチョコレートを受け取った。
「初めてのバレンタインです」
「もしかして、私が第一号?」
「はい」
「やったぁ~」
「ありがとうございます」
ちはるの隣で、若菜は慌ててバッグからチョコレートを出して、マスターに手渡した。
「私も、バレンタインのチョコレートです」
「水田さん、ありがとうございます」
「あぁ、ちはるさんに、先を越されて悔しいなぁ!」
「早い者勝ちだよ!」
若菜とちはるのやり取りに、マスターは小さく笑いながら、厨房に行った。
マスターがいなくなると、馬場がすねた声でちはるに言った。
「なぁ、俺にはチョコねぇのかよ」
ちはるは黙ったまま紙袋からチョコを出し、馬場と赤井に手渡した。馬場は我慢できないように、ラッピングを破った。チョコは大きな板チョコで、「義理」の文字があった。
「明らかに、店で買ったチョコだよな」
「もらえるだけ、ありがたく思いなさい」
ちはるは、ぴしゃりと言った。何も言い返すことができない馬場は、黙ったままチョコをかじった。
やがて、オーダーした料理が運ばれてきた。
「ぱっつん、なんで来なかったんだろう」
料理を食べながら、思い出したようにちはるが言った。ちはるの言葉を、カウンターの中で耳にしたマスターは、ちはるに聞いてきた。
「北神さんが、どうかしたんですか?」
「ぱっつんも誘ったのよ。でも、待ち合わせ場所に来なかった」
「なんの連絡もなく?」
「うん」
「しっかりした方なのに。北神さんらしくありませんね」
「でしょ!」
他の客からオーダーが入り、マスターはカウンターから出て行った。亮の話題は、そこで終わってしまった。
時間が経つにつれ客が増え、ちはると若菜のように、マスターにチョコを渡す客がいた。そんな光景をながめていたちはるは、ため息交じりに言った。
「あ~あ。やっぱ、チョコを渡すのは、私たち以外にもいるかぁ」
「マスターかっこいいもんね。あっ、もうすぐ十時になるわ。私、帰ります」
携帯を見ながら、若菜は慌てて言った。
若菜と赤井がカウンター席から立ち上がると、ちはると馬場も同じように立ち上がった。店を出ると赤井は若菜と一緒に歩き、ちはるは馬場と歩いた。
赤井とふたりきりになった時、若菜は赤井にチョコレートを手渡した。
「手作りだけど……」
恥ずかしそうに言う若菜に、赤井は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「若菜ちゃんの手作り?嬉しいぃ!ありがとう!」
子供のように喜ぶ赤井を、若菜はじっとみつめた。
「若菜ちゃんのこと、彼女って思っても良いかな?」
「彼女?」
「うん」
「アタシは、まだよくわからない」
「俺のこと、もっと見てほしい。若菜ちゃんの一番になれるまで、待っているから」
初めての言葉に、若菜は照れくさそうにうつむいた。
店の戸締りを終えたマスターは、厨房で仕事をする料理人の、たきさんことたきこと一緒に店を出た。マスターは冠婚葬祭で使われるような、縦長の大きな紙袋を手にしていた。紙袋の中には、店の客からもらったチョコレートが山のように入っている。
「こんな紙袋を用意してくれるなんて、さすがたきさんですね」
「バレンタインですよ。マスターが、お客様からチョコレートをもらうことは、想像できますわ」
「バレンタインなんて、すっかり忘れていました」
「でも、良いのかしら。マスターがもらったチョコレートを頂いちゃって」
「とても、食べきれませんよ。食べないまま無駄にするのは、もったいないし。大門、喜ぶだろうな」
そう言った後、マスターは足を止めた。たきこも同じように、足を止めた。
「……北神さん?」
閉まったシャッターの前で、亮がたたずんでいた。
「マスター私、先に帰ります!お疲れさまです!」
たきこはマスターに軽く頭を下げ、急ぎ足でマスターと亮の前からいなくなった。
マスターと亮が二人きりになった時、マスターが静かに言った。
「友光さんから、聞きました。約束を、破ったそうじゃないですか。皆さん、心配していましたよ」
「……すみません」
「ボクに謝られても。いつも、しっかりした北神さんなのに。驚きました」
しばらくうつむいたまま、黙っていた亮は顔を上げ、マスターをじっとみつめた。
「……私は、皆さんが思っているような人間ではありません。逃げ出したくなる時もあります」
「……北神さん。何か、あったのですか?」
「……辞令が出ました」
「辞令?」
「弊社には、海外に支店があります」
「海外に?」
「通訳として、海外出張するよう、辞令が出ました」
「それは、大出世じゃないですか!」
「私は、行きたくありません」
「えっ?何故……」
「……何故?マスターわからないんですか?」
黙ったまま亮をみつめるマスターに、亮はハッとなった。
「私が行きたくない気持ちを知っていて、知らないふりをしているのですか?」
「北神さんは、キャリアのある方です。ボクなんかと、つきあったら駄目になります」
マスターは突然シャッターに寄りかかり、黙ったままタバコを吸いだした。
タバコを吸うマスターの姿を初めて見た亮は、開いた口が塞がらなかった。
そんな亮をマスターは無視して、タバコを吸い続けた。
やがて、携帯灰皿にタバコを押しつぶした。
「さっき、『皆さんが思っているような人間ではありません』と、言いましたね。その言葉、そっくり返します。ボクも、皆さんが思っているような人間ではありません」
携帯灰皿をダウンのポケットに押し込んだマスターは、繁華街のネオンをみつめていたが、やがて意を決したように切り出した。
「ボクは、血の繋がりのない子供を育てています。彼が成人するまで、ボクは彼の側にいるつもりです。そんな人間と、一緒になれますか?」
「どう言うこと?」
「わけは、聞かないで下さい」
「……私は、マスターと離れるなんて嫌です!マスターの側から離れたくありません!仕事なんて、全て放り出してやる!」
「なんてことを言うんですか!」
亮はマスターに抱きつくと、子供のように駄々をこねた。
「出世とか、そんなものいらない。マスターが、血の繋がりのない子供を育てているなら、私も一緒に育てます。私は、マスターが全てです」
「北神さんは、もっと上を目指すべく方です。ボクは、その妨げになりたくありません」
声を上げて、泣きじゃくる亮に、マスターは静かに言った。
「ボクは、北神さんの人生を狂わせたくありません。全てを失って生きていくのは、ボクだけでたくさんだ」
ため息交じりにマンションを見上げると、リビングに明かりが灯っていた。
驚いたマスターは、慌ててマンションに向かって走って行った。
入り口の側にある、大門が使っている部屋にそっと入って行くと、ベッドでは、大門が静かな寝息を立てていた。
マスターは安堵の息をそっともらし、声をかけながらリビング兼キッチンに入って行った。
「おまちさん、こんな時間まで起きているなんて、珍しいですね。大門に、何かあったと……」
マスターの言葉は、途中で止まってしまった。
リビングにいたのは、まちこではなく流花だった。
「えっ、あの……」
わけがわからないマスターは、そう言ったきり言葉が続かない。
「マスターおかえりなさい」
「……た、ただいま」
「大門君に会いたくなって、来てしまいました。大門君と遊んでいたらすっかり遅くなって。おまちさんが『遅いから、泊まって行きなさい』って言ってくれたので、おまちさんの好意に甘えてしまいました。驚かせて、ごめんなさい」
「ああ、そう言うことでしたか。てっきり、大門に何かあったと思いました。大門の相手をしてくれて、ありがとうございます」
「とても、楽しかったです」
「おまちさんは?」
「帰りました。寝る時は、おまちさんの部屋で寝るように言われました」
「気兼ねなく使って下さい。ちょっと、シャワーを浴びてきます」
「はい」
そう言ったマスターはリビングを出て、浴室に向かった。
シャワーを浴びた七海は着替えを済ますと、流花がいるリビングに戻った。
「暖房を入れないで、寒くないですか?」
「さっきまで入れていたから、寒くないです。独りだと、もったいないし。生まれついての貧乏性です」
流花の言葉に、マスターは笑った。
流花は、フローリング直に座り、テーブルの上でノートを広げていた。
ノートには横文字がずらりと並び、ノートの他にテキストのようなものが置いてあった。
「何をしているんですか?」
「英語の勉強。大学進学だから、今までのようにやらないと。塾とか行く余裕もないし」
そう言った流花の手が、突然止まった。
考え込むように、シャーペンでノートを叩いていた。
「何処が、わからないんですか?」
マスターは流花の側にしゃがみこみ、フローリングの上であぐらをかいた。
流花は黙ったまま、テキストに指を差した。
「此処は……」
マスターのアドバイスでやっと理解できた流花は、シャーペンをノートに走らせた。
そんな流花を、側でマスターは見守っていた。
ふと流花は顔を上げ、マスターに聞いてきた。
「此処は、これで良いのかな?」
「ん~……うん、合っているよ」
「マスター凄い!英語、得意なんだ!」
「得意じゃないけど……」
苦笑しながらマスターは言った。
一通りの勉強を終えた流花は、ノートとテキストを片付けた。
「マスター、ちょっと待ってて、くださいね」
そう言った流花は、キッチンの方へ行き、冷蔵庫を開けた。マスターのもとに戻った流花の両手には、お盆があった。お盆の上には、切り分けられて皿に乗った、チョコレートケーキがあった。
「大門君に食べさせたくて、家で作りました」
「作ったの?」
「はい!」
「これ、元はデコレーションケーキだったんだよね?」
「はい」
「うわぁ……見たかったなぁ」
「あっ、携帯で撮りました」
「ホント?じゃあ、画像を、ボクの携帯に送ってください」
流花は、バックから携帯を出し。自分で作ったデコレーションケーキの画像を、マスターの携帯に送った。
マスターは携帯を取り出すと、デコレーションケーキの画像に釘づけになった。
「おぉ~凄い!」
「マスター食べて下さい」
流花の声で我に返ったマスターは、お盆の傍らに置いてあったフォークを手にした。
「美味しい!」
マスターはあっという間に、ケーキを平らげた。
「もっと、味わってたべるつもりだったのに……」
空になった皿を、マスターは恨めしそうに眺めていた。
「まだ残っています」
「そっか、良かった」
キッチンでお皿とフォークを洗ったマスターは再び流花の側に座り込み、フローリングの上であぐらをかくと、ゆっくりタバコを吸いだした。
「さっき、北神さんに会いました」
マスターの突然の言葉に、流花は黙ったまま次の言葉を待った。
「北神さんに、海外出張の辞令が出たそうです」
「海外……凄い」
流花は、思わずため息をもらした。
「通訳として、行くそうです」
「北神さんが、雲の上の存在に感じる」
「でも、北神さんは行きたくないと、言っていました」
「そんな、もったいない。マスターは、なんて言ったんですか?」
「北神さんには、もっと上を目指してほしいと、言いました」
「北神さんは、上を目指せる人だもんね」
「建築デザイナーを、目指しているんですよね」
「えっ、覚えてくれていたの?」
「はい。凄い向上心があるなって、感心したんですよ」
「まだ、夢だから。だからこそ、北神さんには頑張ってほしいな」




