エピソード8
楓が洞窟を進んでいると、前に命を賭してようやく倒した、あの巨大な四腕の獣が姿を現した。岩のように硬い外殻、全身を覆う筋肉、そして洞窟を震わせる咆哮。かつての楓にとっては、恐怖と絶望を象徴する存在だった。
「ーーまさか、もう一度会うことになるとは」
その巨体を目にして、かつて胸を締めつけた恐怖が蘇る。しかし今は、妙に冷静だった。むしろ胸の奥で湧き上がるのは、恐怖ではなく「試してみたい」という好奇心に近い。
巨獣が突進してくる。かつてなら反応すらできず、ただ迫る腕を避けるだけで必死だった。しかし今の楓は違う。
「――速い」
視界の中で、巨獣の動きが妙に遅く見える。楓は一歩踏み出しただけで、敵の攻撃範囲の外へ移動していた。岩を砕く腕が空を切り、重々しい衝撃波が背後で響く。
「ーー避けられた、簡単に」
楓自身が驚いていた。
巨獣が次の腕を振り下ろす。二本目、三本目、四本目――矢継ぎ早の攻撃。かつては一撃を受けるだけで骨が砕け、地面に沈んだ攻撃だ。それを、楓は最小限の身のこなしでかわし続ける。
「こんなに、遅く見えるなんて……」
巨獣の最後の一撃が地を砕いた瞬間、楓は跳んだ。以前は届くことすらできなかったその頭上へ。
自分でも驚くほど軽い跳躍だった。
「――はっ!」
振り抜いた拳が、巨獣の頭部に直撃する。硬いはずの外殻が、まるで脆い陶器のように砕け散った。衝撃に耐えきれず、巨獣の巨体がぐらりと傾く。
「ーー嘘だろ、前はあんなに苦戦したのに」
巨獣が再び咆哮をあげる。頭部を破壊されてもなお動こうとするその執念。しかし、楓はもう恐れていなかった。
「終わらせる」
地を蹴り、再び跳ぶ。今度はその四本の腕をすり抜け、胸部めがけて拳を突き立てた。骨を砕く感触、肉を押し潰す手応え――巨獣の身体が大きく仰け反り、そのまま洞窟の壁に叩きつけられる。
ドオォォン、と地響きが響き、やがて動かなくなった。
楓はゆっくりと拳を下ろす。
「ーーこんな、簡単に」
信じられなかった。かつて自分の全力と毒を振り絞り、命を削ってようやく勝てた相手。それを今は、毒を一切使わず、ただの力と速度だけで粉砕したのだ。
胸の奥に湧き上がるのは、勝利の喜びというよりも「畏怖」に近い。
――自分自身に対する畏怖。
「俺……こんな力を手に入れたのか」
自分の声が洞窟に虚しく響いた。
巨大獣を倒し進んだ楓の前に、さらに異様な存在が姿を現した。
甲殻を纏った六脚の獣――背中には槍のような突起が並び、口からは岩を砕く轟音を伴う熱風を吐き出してくる。
「ーーあいつも、前は何度も殺されかけた相手だ」
一瞬、背筋を冷たいものが走る。しかし次に湧き上がったのは、恐怖よりも「試したい」という感情だった。
楓は深く息を吐き、掌に毒を集める。
「ーーどこまで操れる?」
指先から滴り落ちるはずの液体は、楓の意識に応じて糸のように伸び、空中に留まった。蜘蛛の糸のように細く鋭い毒の線がいくつも編まれていく。
六脚獣が突進してきた。
地を蹴り、岩を砕く轟音。その顎が迫る瞬間、楓は毒糸を左右に広げて張った。
「ーー試してみろ!」
獣の巨体が糸に触れた瞬間――甲殻を裂く音が響いた。硬い外殻を持つはずの脚が、毒糸に切断され、勢いのままに地へ叩きつけられる。
「ーーっ、本当に切れた……!」
驚愕と興奮が混ざった声が漏れる。
しかし獣はすぐさま体勢を立て直し、背中の槍を射出してきた。鋭い突起が雨のように降り注ぐ。
楓は瞬時に掌を振るい、毒を霧のように散布する。
広がった毒霧が空間を満たし、槍は霧に触れた瞬間、黒ずんで崩れ落ちた。
「ーー毒で分解できるのか」
その光景に楓は目を見開いた。
毒はただの液体ではなく、刃にも霧にも、自在に姿を変える。まるで自身の延長のように扱える感覚があった。
六脚獣が最後の力を振り絞り、咆哮と共に熱風を吐き出す。
灼熱の奔流が楓を襲う――その瞬間、楓は両腕を交差させ、濃縮した毒を壁のように張り出した。
熱風がぶつかり、爆ぜる。毒壁は激しく揺れるが、崩れない。逆に、炎に晒された毒が反応し、燃え上がるように獣の口腔へ逆流していった。
「――終わりだ」
轟音と共に獣の口から黒煙が噴き出し、その巨体は痙攣しながら倒れ込んだ。
楓はしばし呆然と立ち尽くす。
心臓は激しく鼓動しているが、恐怖ではなく、制御できない力への戸惑いが胸を占めていた。
「ーー強すぎる。俺が、じゃない……この“毒”が」
そう呟き、手を見る。指先からはまだ毒が滲み出し、勝手に空気を侵食しようとしている。楓は慌てて引き戻した。
「制御できてない……今のままじゃ、暴走する」
楓はその後も、以前なら絶望しかなかった敵――翼を持つ岩竜や、群れで襲いかかる牙獣――と次々に遭遇した。
そして戦いの中で、毒を「矢」として射出し、
「鎖」として絡め取り、
「針」として一点を貫く――
そんな応用をひとつずつ試しながら、確実に勝利を重ねていった。
戦えば戦うほどに明らかになる。
楓の中で眠る毒は、あまりに強大で、そしてあまりに危険だった。
楓は肩で息をしていた。
倒れ伏した巨大な獣の死体を前に、掌をじっと見つめる。
「ーーなんなんだ。あれほど苦戦した相手が、こんなにも……」
つい先ほどまで洞窟を震わせていた咆哮。
鋼鉄のような四肢で大地を叩き割り、圧倒的な膂力と敏捷さで楓を翻弄したはずの魔物。
それが今、彼の足元に崩れ落ちている。
毒を使ったわけではない。ただ身をかわし、拳を振るい、脚を踏み込んだだけ――それだけで、かつて死に物狂いで打ち勝った相手が、息絶えた。
洞窟に残響する血の匂い。
楓は息を呑み、首を振る。
「ーー俺が強くなってる? いや、強くなりすぎてる……」
驚きと恐怖が入り混じった声が、自分の口から漏れる。
拳を握り締めると、骨の奥にまで響くような力がそこに宿っているのを感じた。
その後も進むたび、かつての「絶望の象徴」であった魔物たちが次々と現れる。
硬い外殻を持つ甲虫型のモンスター。
空を滑るように羽ばたく翼竜。
炎を吐く獣。
以前なら戦闘開始と同時に死を覚悟したはずの連中だった。
楓はあえて毒を使わず、拳と脚、肉体だけで挑む。
そして一撃。
あるいは数合の打ち合いで――決着がつく。
「ーー嘘だろ、俺が、こんなに……?」
息を吐くたびに、驚愕が言葉になって零れる。
強大な敵を圧倒できる高揚感。だが同時に、自分が制御できない力を握ってしまった恐怖が、背筋を冷やしていく。
やがて楓は歩みを止めた。
洞窟の奥、開けた広間。
壁は滑らかで、幾筋もの隙間から地下水の雫が落ちていた。
そこで楓は深く息を吐き、地面に腰を下ろした。
「ーー休もう。少し、落ち着かないと」
だが彼は警戒を解かなかった。
ここは魔物の巣窟、油断すればすぐに命を奪われる。
だから――楓は周囲に「毒」を展開した。
指先から溢れ出る漆黒の瘴気。
粘り気を帯びた霧のような毒は、床を這い、壁を伝い、じわじわと空間を侵していく。
楓の意志で、広間を囲むように毒の結界を形作る。
「これで……少しは安全か」
そう呟いた瞬間、楓は眉をひそめた。
意図以上に、毒が広がっていく。
制御しようと力を抑えるが、手の中から止めどなく溢れていく。
「……待て、違う、止まれ……!」
だが毒は従わない。
生き物のように洞窟を這い、広間から先へ先へと染み出していく。
楓の額に冷や汗が滲む。
「まだ……俺は、力を制御できてない……」
洞窟全体にじわじわと広がる毒。
岩の裂け目から地下水に落ち、黒い液が川のように流れていく。
さらにその毒は下層へと運ばれ、まだ見ぬ深部をも汚染し始めていた。