エピソード7
――勝った。
だが、勝利の代償はあまりに大きかった。
楓の全身を覆うのは、焼け爛れた皮膚、裂けた筋肉、そして血に混じる毒の奔流だった。
息をするたびに肺の奥が灼け、視界はぼやけ、世界の輪郭は遠のいていく。
もはや立っていることさえ奇跡でしかなかった。
そんな楓の身体に、怪物の崩壊と共に放たれた「魂の奔流」が襲いかかった。
それは光でも闇でもない、濁流のような質量を持つ魂の塊。
怨嗟、絶望、憎悪、悲鳴――幾万もの感情を孕んだ魂が、楓の胸へと叩きつけられるように流れ込む。
受け止めきれるはずがない。
楓は叫ぶ間もなく、その奔流に飲み込まれた。
意識を揺さぶる声
朦朧とする意識の中、突然、冷ややかな声が頭の奥に響いた。
――《存在進化の条件を満たしました》
耳ではない。
頭蓋の内側、魂そのものに突き刺さるように届く声だった。
「ーーな、んだ……?」
霞む意識の中で、楓は虚ろに呟く。
――《魂質量を吸収。既存の枠を超えました》
――《対象は選択できます。このまま崩壊し、死を迎えるか》
――《あるいは、上位の存在へと進化するか》
その言葉だけが、霧の中で強く残る。
身体は限界だ。
このままでは、間違いなく命は尽きる。
それでも、胸の奥底に小さな火が灯っていた。
――まだ終われない。
――ここで果てるわけにはいかない。
震える唇から、かすれた声が漏れる。
「ーー進化を……選ぶ……」
その瞬間、意識は完全に途絶えた。
無意識下のアナウンス
深い闇の中。
そこには身体も、重力も、時間さえ存在しなかった。
ただ、絶対的な虚無に浮かぶ楓の魂だけがあった。
そして、再び声が響く。
――《進化を確認。適応を開始します》
――《対象は現在、《毒耐性・大》を保持》
――《膨大な毒性魂を吸収したことにより、さらなる段階へ移行可能》
冷たくも荘厳な響きが続く。
――《スキル進化を開始》
――《《毒耐性・大》を昇華》
――《スキル《毒無効》を獲得しました》
その言葉と同時に、楓の魂から圧迫感が消えた。
あれほど体を苛み続けていた猛毒も、瘴気も、苦痛も――すべてが霧のように散っていく。
毒は敵ではなく、呼吸のように当たり前の存在となった。
だが、変化はそこで終わらなかった。
――《既存スキル群を確認》
楓の内に宿る数多のスキルが呼び起こされる。
•《毒生成》
•《毒霧》
•《毒針》
•《毒糸》
•《毒滴下》………….
それらがひとつひとつ崩れ、光の粒となり、再び融合していく。
――《スキル群を統合》
――《新スキル《毒操術》を獲得しました》
奔流のような力が、楓の魂に押し寄せる。
液体としての毒、気体としての瘴気、体液に混じる猛毒――その全てを「自在に操る」感覚が刻まれていく。
それはただの耐性や生成ではない。
毒を「術」として意志のままに練り上げ、放ち、制御する力。
楓は無意識のまま、その圧倒的な力の胎動を受け入れていった。
――《存在進化を確認》
――《対象は、《毒を統べる者》へ至りました》
――《意識回復は未定。肉体の再構築を優先します》
アナウンスは最後の宣告を残し、闇は静かに閉ざされていく。
楓の肉体はまだ倒れたまま。
しかし、その魂はすでに人の域を超え、毒そのものを操る存在へと変貌を遂げていた。
深淵の闇の中、楓の肉体は静かに横たわっていた。
しかし、それは「死体」ではなかった。
魂の奔流を飲み込み、存在進化を果たしたその瞬間から――肉体は新たな形へと再構築を始めていた。
最初に変わったのは血だった。
流れ出した赤黒い血液が、次第に色を失っていく。
鉄の匂いと腐臭を放っていたそれは、澄んだ毒液のような紫黒色へと変貌し、粘りを帯びながら肉体に再び吸い込まれていった。
――まるで血そのものが「毒」として再定義されているかのようだった。
外へ流れ出ることなく、逆に全身へ循環する。
楓の体は、毒を血流に溶かし込み、それを「生命の燃料」として取り込むように造り変えられていった。
次に訪れたのは皮膚の変質だった。
戦いの爪痕で裂け、焼け爛れた肌は、肉が溶けるように崩れ落ちていく。
その下から新しい皮膚が芽吹くように生まれ出る。
その色は――血の赤みを一切失った、白磁のように淡い。
人間の肌の温もりを残しながらも、透き通るような白さを帯び、光を浴びればまるで滑らかな宝石の表面のように淡く輝いた。
毒を浴びればただれ、焼けるはずの皮膚が――毒を栄養に変える器官として完成したのだ。
やがて変化は髪へと及んだ。
汗と血にまみれて乱れていた黒髪が、根元から淡い輝きを放ち始める。
一本一本が、夜明けの霧を思わせる銀白色へと変化していった。
色を失ったわけではない。
むしろ光を帯び、銀糸のように繊細な煌めきを宿していた。
暗がりでは静かな銀に、光の下では純白にも見える――そんな神秘的な色彩へと変貌を遂げた。
戦いに晒され汚れ切っていたはずの髪が、今は新しい存在の証として生まれ変わっていた。
そして最後に――瞳。
閉ざされていたまぶたの奥で、瞳がうごめいた。
やがて、ゆっくりと、重力に抗うようにまぶたが開かれていく。
そこに宿った光は、もはや人のものではなかった。
虹彩は深い闇を抱き、その中央に――濃縮された毒の色が現れていた。
鮮烈な紫。
ただの紫ではない。
見る者の心をざわつかせる、猛毒の瘴気を思わせる濃厚な紫色だった。
瞳の奥底で揺らめく光は、毒そのものを意志に変えたように妖しく輝く。
その視線ひとつで、弱き者なら全身を震わせるほどの圧を放っていた。
こうして楓の肉体は完成した。
かつて人間であった頃の面影を残しながらも、その存在は毒に適応し、毒を操るための器として再構築された。
銀色の髪は白き輝きを纏い、白磁のような肌は穢れを寄せつけず、紫に染まった瞳は新たな支配力を告げていた。
楓は――毒を統べる者として、新たに「再誕」したのだ。
闇が支配する洞窟の奥深くで、楓はゆっくりと目を開けた。
意識の底にまとわりついていた闇が、ふっとほどける。
楓は薄く目を開けた。冷たい岩肌が背中に触れ、湿った空気が肺を満たす。ここが洞窟の中であることは、かすかな水音と、石が崩れ落ちる乾いた響きで理解できた。
「ーーっ」
「生きている…のか」
声は出た。だが少し高い。以前より澄んだ響きがあり、男らしい低さは薄れ、どこか中性的に耳に届いた。洞窟の静けさに反響するその声は、確かに自分のものだと分かるが、同時に違和感を覚える。
視界は人間の目のまま、洞窟の空間を捉えていた。暗闇の濃さは変わらないが、目は素早く順応し、岩肌や滴る水滴、足元の小石の形状まで鮮明に見える。紫黒の毒は体内に満ちているが、世界の色彩は人間のままだ。ただ、動く影や空気の揺れを、以前よりも敏感に察知できるようになっていた。
立ち上がると、全身の筋肉が柔軟に反応する。だが、感覚と同時に気づいた。
「ーー身長が……?」
洞窟の壁際を見上げると、視点が少し低くなっている。数センチではなく、十数センチ単位で縮んでいた。手足の長さもわずかに変わり、鏡はなくとも、十五、六歳ほどの体格へと戻ったのだと直感する。
手をかざす。指は細くしなやかで、以前より幼さを帯びた形をしている。それでも握れば、拳の力は倍増したかのように強く感じられた。
「これが……俺の新しい身体か……」
口に出す声は、やはり高めで中性的だった。その響きに合わせるように、洞窟の闇がやわらかく揺れる。声も視覚も人間のままだが、体は毒に染まり、年齢すらも変えられてしまったらしい。
足元の小石を蹴る。跳ねる音と衝撃が鮮明に伝わる。毒の力は感覚を邪魔するどころか、むしろ正確さを増していた。
深く息を吸い、全身の毒の流れを意識する。裸の体は、もはやかつての二十代の青年のものではない。十五、六歳ほどの中性的な姿に戻り、毒を宿した存在として再誕していた。
そして全身に走ったのは圧倒的な力の充溢感だった。
筋肉が膨れ上がったわけではないのに、力が骨の芯から滲み出し、皮膚の下を脈打つ。まるで体そのものが巨大な毒袋になり、膨張し、溢れ出すのを辛うじて抑え込んでいるかのようだった。
「ーーなんだ、これは……」
軽く握っただけで、岩を砕いてしまいそうな感覚。
試しに手近にあった小石を拾い上げる。親指と人差し指で力を込めると——「パキッ」と乾いた音を立て、あっけなく粉砕された。
自分の指先から零れ落ちたのは、粉のように細かく砕けた石片。指の皮膚には一切の傷も負担もなく、ただ当たり前のように石が崩れた。
呼吸が荒くなる。恐怖と興奮が混ざり合っていた。
以前の自分なら、片手で小石を潰すなど絶対にできなかった。だが今は……軽く触れただけで砕けてしまう。力が増したのではなく、「基準そのもの」が別次元に移ってしまったのだとしか思えなかった。
「走ると……どうなるんだ?」
楓は無意識に呟く。
胸の奥でざわめく毒と魔力の奔流が、走れとせき立てる。制御できる自信はまったくなかったが、試さずにはいられなかった。
一歩を踏み出す。
次の瞬間——景色が弾け飛んだ。
視界が白く流れ、風が裂ける。
ほんの数歩のつもりだった。だが身体は一瞬で十数メートル先の洞窟の壁へと到達し、そのまま——**ドンッ!**と轟音を立てて岩壁にめり込んだ。
衝撃に洞窟全体が震え、天井から小石がぱらぱらと降り注ぐ。
「がっ……!」
普通なら即死していてもおかしくない衝突。
しかし、楓の身体は傷ひとつ負っていなかった。衝突の直前、無意識に毒が皮膚を覆い、衝撃を吸収していたのだ。
代わりに壁の方が崩れ、拳大の石片がごろごろと転がり落ちた。
「……ははっ……。なんだこれ、速すぎる……!」
笑いがこみ上げた。
興奮、恐怖、そして制御不能の危うさが入り混じっていた。走った感覚すらなかった。ただ視界が一瞬で切り替わり、気づけば壁に叩きつけられていたのだ。
速度は常識を超えていた。自分の意識が追いつかないほどの、まるで「瞬間移動」に近い移動感覚。
胸の鼓動が早鐘のように鳴り響く。
全身の血管を、毒が液状のまま巡り、魔力の火花と混ざり合っている。その奔流が抑えきれず、皮膚の下で脈打つたびに、周囲の空気が微かに震えた。
力はある。だが制御できていない。
今のままでは、ただの暴走兵器にすぎない。
それでも——胸の奥底では確かに理解していた。
この力を使いこなせば、生き残れる。
ただ、そのためには……自分が何に変わってしまったのかを、まず知る必要があるのだ。
荒い息を吐きながら壁から身体を引き剥がした楓は、しばらくその場に膝をついた。
体は痛くない。むしろ、力がさらにみなぎっていく感覚すらあった。だが心はついていけていなかった。
石を握り潰し、一瞬で洞窟の端まで移動し、壁にめり込む。
自分が「人間」のままなのかどうかさえ、疑わしい。
「ーー俺は……どうなってる?」
答えはどこにもない。
ただ洞窟の奥から、かすかな水音が響いてくるだけだった。
耳が妙に敏感になっているのか、水滴が落ちるその一点の音が、世界のすべてのように鮮やかに聞こえる。
音の方へと進む。
岩の裂け目を抜けた先に、小さな地下湖が広がっていた。
天井の亀裂から漏れ落ちる淡い光が、鏡のような水面に映えている。
楓はその縁に膝をつき、水面を覗き込んだ。
そこに映ったのは——自分自身であり、同時に自分ではない存在だった。
肌は不健康な蒼白さではなく、むしろ透き通るような白さを帯びていた。生気というより、何か別種の生物が持つ「冷ややかな美しさ」だった。
髪は以前よりも長く伸び、白に近い銀色へと変わっていた。淡い光を受けて、まるで月の雫が溶け込んだかのように輝き、ひと房ごとに冷ややかな光彩を放つ。
黒髪だった頃の面影は薄れ、今の姿はどこか人外的な神秘すら宿していた。
瞳は深い紫色に変わり、ときおり縦に裂けた蛇のような瞳孔がちらつく。
頬や首筋には細い紋のような影が浮かび、毒が皮膚の下で脈打つたびに淡い紫光となってにじみ出る。
肌は透き通るほど白く、血の気のない冷たい質感で、それが逆に美しさを際立たせていた。
水面に映るのは人ではなく、毒と魔力に染められた新たな存在——。
「……これが……俺、なのか……?」
指先を水に触れる。
波紋が広がり、歪む自分の姿を見て、楓は吐き気に似た眩暈を覚えた。
人でありながら、人ではない。毒と魔力が混ざり合ったこの肉体は、もはや「ヒト」の枠を逸脱している。
しかし同時に、奇妙な昂揚感が胸を突き上げた。
これは力だ。恐怖と拒絶を押しのけてしまうほどに、確かな「生存の可能性」を約束する力。
そして何より、自分自身の一部であることを、体の奥底で理解している。
「ーー試すしかないな」
楓は立ち上がった。
水面に映った「毒に染まった自分」の姿を背に、再び洞窟の広い空間へ戻る。
洞窟の奥に響いていた怪物の断末魔は、すでに消えていた。
楓はしばらくその場を離れ、毒を吐き出した自らの身体の状態を確かめていた。だが、呼吸を整えるとともに、胸の奥に疼くような違和感が残っている。まるで「まだ終わっていない」と訴えるような、かすかな気配。
楓は振り返った。
そこには、かつて巨大な威容を誇った怪物の死骸が横たわっているはずだった。だが、視界に映るのは想像していた「ただの屍」ではなかった。
死骸は、崩れていた。
甲殻はひび割れ、黒紫色の液が流れ出し、洞窟の石床をじわじわと染めている。だが、それはただの腐敗でも分解でもない。異様な“変化”だった。
楓は息を呑む。
「ーーまだ、何かあるのか」
慎重に足を進める。
近づけば近づくほど、その崩壊の異様さは増していた。まるで死骸が「意志」を持つかのように、崩れては集まり、液状化しては一方向に流れている。その行き先は、楓自身。
背筋に冷たいものが走る。
毒を操る者として本能が告げていた。これは敵意ではない。だが無害でもない。吸い寄せられるように歩み寄る楓の胸に、緊張と期待が入り混じった。
膝を折り、死骸の傍らに立ち止まる。
怪物の眼窩に残っていた紫の輝きが最後に明滅し、それがふっと消えた瞬間——
残滓が動いた。
崩れ落ちた甲殻の一部が、楓の足元に這い寄り、粘性を帯びて形を変える。液化した肉片が筋繊維のように編み上がり、硬質な板がその上を覆い、じわじわと“装備”の形へと姿を変えていく。
「ーーこれは」
思わず声が漏れる。
それはただの物質ではなかった。怪物の生命の残滓と毒の精が融合し、彼の存在に呼応して形を得ている。
最初に現れたのは肩を覆う防具だった。
甲殻が積み重なるように組み上がり、次第に人の肩に合う形状へと収束していく。その質感は硬質でありながら、まるで肉体に吸い付くように馴染んでいく。楓が触れると、温度を帯びて脈動しているようにさえ感じられた。
「俺の……一部になっていくのか」
囁くと同時に、甲殻の残滓がさらに流れ出し、腕へと絡みついてくる。肘から手首、そして手の甲にかけて、有機的な線条を描きながら硬化していく。やがて篭手の形を成し、表面には毒の文様が紫に浮かび上がった。
楓は拳を握る。
篭手はわずかに応じ、毒の気配を帯びて淡く輝く。自分の内なる毒が、この装備を通じて共鳴しているのが分かった。まるで、自らの力を増幅する媒介。
「戦利品……なのか」
この世界に来てから初めて実感する。敵を倒し、その残滓が形を成し、自分に与えられる。
それは単なる防具ではなく、楓が「毒を纏う者」として歩む証だった。
だが終わりではない。
崩壊は続き、死骸の残りは胸部、脚部、そして頭部を覆う装備へと変化していく。
胸を覆った甲殻は、外から見れば鎧のようだが、内部は軽やかで動きを妨げない。脚部の装備は柔らかな筋繊維のようにしなやかで、動きに合わせて変形する。
そして最後に、紫の靄を帯びた残滓が楓の顔へと迫ってきた。
「ーー顔まで、か」
本能的に抗おうとしたが、残滓は穏やかに彼の頬を包み込む。やがて硬質な仮面のように収束し、目元から下を隠す外装が形作られた。
それは威圧的ではなく、静かに存在を遠ざける装い。紫の毒の紋様が淡く走り、洞窟の闇に溶け込む。
楓は息を吐き、装備に包まれた自らの姿を確かめる。
「ーーこれでようやく、人の前に立てる」
裸のままではなかった。怪物の残滓から生まれた装備が、彼を覆い隠す。
だがその姿は、人間とも怪物とも言い切れない。
毒を纏う者としての、最初の戦利品だった。
楓は静かに拳を握った。
篭手に覆われた手は、まるで生まれたときからそこにあったかのように、違和感がない。握れば自然に締まり、開けば柔らかに解ける。硬質な外殻のはずなのに、筋肉と骨とが連動して動いているような感覚がある。
「ーー重くない」
それどころか、装備の重みをほとんど感じなかった。
肩に乗せられた甲殻は、歩みを妨げるどころか、姿勢を支える支柱のように背筋を伸ばしてくれる。胸部を覆う外装も、息を吸うたびに柔らかく拡張し、吐くと自然に収縮して、呼吸と一体化している。
楓はゆっくりと膝を曲げ、立ち上がる動作を繰り返した。
脚部の装備はまるで自らの筋繊維を補強するかのように動き、膝関節の角度に沿ってなめらかに変形する。硬いはずなのに、突っ張る感覚もなければ摩擦もない。ただ、動きに寄り添い、支えてくれる。
「これは……俺の体に、合わせて……」
囁いた瞬間、胸の奥に微かな脈動が走った。
それは彼自身の鼓動と、装備が発する脈動とが重なった合図のようだった。まるで、二つの存在がひとつに溶け合っていく。
顔に触れた仮面も同じだ。
頬を覆う部分はひやりと冷たかったが、数呼吸も経たぬうちに体温に馴染み、つけている感覚すら薄れていく。声を発すると、仮面の内側で反響することなく、普段と変わらぬ声が空気に流れ出た。
「ーー普通に、話せる」
思わず手で仮面を撫でた。
指先に感じるのは硬質な質感だが、内側からは皮膚と同じような温もりが返ってくる。まるで自分の肉体の延長。異物であるはずのものが、楓の存在そのものに織り込まれていた。
次の瞬間、背後で小石が転がった。
楓は反射的に身を翻し、構えを取る。
その動作は、かつてよりも軽く、無駄がなかった。装備が邪魔をするどころか、むしろ動きの支点を補強し、毒の流れを促すように体を導いている。
「ーーそうか。これは鎧じゃない」
彼は小さく息を吐いた。
ただの防具ではない。これは、共に戦う“器官”であり、“証”だった。怪物の死骸から生まれた戦利品は、彼に纏わりつく毒と同じように、すでに自分の一部になりつつある。
楓は歩き出す。
一歩ごとに、装備は彼の筋肉に合わせて動き、音も立てずに馴染んでいく。裸の無防備さに震えていた数時間前の自分が、遠い記憶のように思えた。
「これで……進める」
声は洞窟の奥に吸い込まれ、彼の胸にだけ残った。