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エピソード6


 幾層にも重なる通路を抜け、楓は重苦しい空気に包まれながら進んでいた。ここまで来るだけでも、数多の魔物たちを退け、息が詰まるような瘴気を掻き分けてきた。だが今、彼が立っている場所は、それまでの空気とはまるで違っていた。


 天井は高く、そこからは紫黒の霧が滝のように流れ落ちている。床一面は液状化した毒の池が広がり、時折ぶくり、と泡が破裂する。その度に瘴気の波が押し寄せ、楓の肌を打った。

 地面は黒く染まり、岩肌には紫色の結晶が脈打つように輝いている。壁面に滲み出る液体はただの水ではなく、毒そのものが凝固したような粘液で、滴り落ちるたびにじゅうっと煙をあげて床を侵食していた。


 息を吸えば肺が焼け、喉の奥が痺れる。だが【毒耐性・大】を持つ楓は、かろうじてそれを押さえ込み、足を止めずに進む。


「ーーここが最深部か。」

 

 一歩踏み込むごとに、背筋を這い上がるような悪寒が走る。

 それはただの危険ではない。空間そのものが敵意を持ち、侵入者を押し潰そうとしているのだ。


そして――池の中央が、音もなく盛り上がった。


 どろり、と音を立てて黒紫の塊が隆起し、ゆっくりと形を成していく。最初は巨大な肉塊のようで、やがて触手が伸び、幾つもの眼孔のような光が灯った。だがその形は定まらず、うねりながら常に変化し続けている。

 人でも、獣でもない。ただ「毒そのもの」が意思を持ち、形を得たかのような存在。


 その瞬間、空洞全体が揺れるような咆哮が響いた。

耳をつんざく轟音。大地が震え、岩壁が粉砕される。咆哮に混じり、低いうめき声のような振動が空気を這い、楓の全身を締め付ける。


「ーー来たな。」


 楓は目を細め、毒煙に霞む視界の奥でその怪物を見据えた。


 楓の靴裏が、ぬめるような床に沈み込む。

 足を踏み出すたび、ぐじゅりと音を立てて紫黒の液が弾け、微細な毒煙が立ち上った。鼻を突く匂いが肺を焼くが、彼は一歩も引かず前へと進む。


 広大な空洞の中央、毒の池が波打ち、ぶくりと膨らむ。

 最初は大きな泡のようだったが、それはやがて脈打ち、隆起し、質量を持った塊へと変わっていく。


 どろどろと音を立て、紫黒の肉塊が立ち上がった。

 形は定まらず、触手のように伸びる腕が十本にも二十本にも増えたり、溶け落ちてはまた再生したりする。

 幾つもの眼孔めいた光が開き、次の瞬間――


 ――咆哮。


 大気を引き裂く轟音が洞窟全体を震わせ、岩盤が砕け落ちる。

 耳を押さえても意味がなかった。咆哮は音ではなく「瘴気の振動」そのものだからだ。

 胸腔が軋み、心臓が締め上げられる。


「くっ……」


 楓は思わず片膝をつく。しかし、目は逸らさない。


触手が一本、地を薙ぐ。 


 楓はわずかに体をひねり、紙一重でかわす。背後で床が砕け、岩が瞬時に溶け落ちた。触れれば死――その単純明快な事実が、楓の思考を研ぎ澄ます。


 すかさず楓は以前から溜めておいた濃厚な毒の塊を投げつけた。

 それはぱん、と破裂。濃厚な毒霧が立ちこめる。

 これまでの戦いで磨いた切り札。魔物にとっては致命となる濃度の毒。


 しかし怪物は霧の中に立ち止まるどころか、それを吸い込むように震えた。

 全身が波打ち、取り込んだ毒を自らの瘴気へと同化させ、さらに濃度を高めていく。


「ーー効かないか。」


 冷や汗が額を伝う。だがそれは毒の汗かもしれなかった。


 次の瞬間、怪物の体表が膨らみ、そこから光線めいた瘴気が放たれた。

 紫黒の閃光が一直線に走り、空気を灼きながら楓へ迫る。


 楓は地面へ身を投げ出し、辛うじてかわした。だが肩を掠めただけで衣が溶け、皮膚が焼け爛れる。血管が紫に浮かび上がり、激しい痺れが腕全体を走った。


「ッ……ぐぅ……!」


 噛み締めた歯の隙間から呻きが漏れる。それでも立ち上がる。


 怪物は咆哮を繰り返し、瘴気の波を押し寄せてくる。

 ただその音を聞くだけで、心臓が凍り、呼吸が止まりそうになる。

 楓は腰を低く落とし、深呼吸一つ。胸の奥で毒を練り、肺の中の空気ごと濃縮させ――吐き出した。


 どろり、とした液体が飛沫となって迸り、怪物の触手を焼く。

 じゅううう、と異音が洞窟に響く。瘴気と瘴気が拮抗し、互いを侵し合う。

 怪物の体が微かに揺らぎ、咆哮が一段と高まった。


「効いてる……いや、違うな。」

 楓は自らの皮膚を見下ろす。

 毒を吐くたび、血管が黒紫に染まり、指先が痺れる。

 効いているのは相手だけではない。自分自身にも毒が侵食しているのだ。


 再び触手が襲いかかる。楓は転がり、滑り込み、間一髪で躱す。

 動くたびに紫色の汗が滴り落ち、床で煙を上げた。

 髪は湿り気を帯び、先端から瘴気が立ち昇る。


「ーー俺の体……毒になってる。」


 恐怖はなかった。むしろ戦慄を超えて、妙な確信があった。

 もし自分の肉体そのものが毒と化すなら――この怪物に拮抗できる。


 怪物は全身をうねらせ、最後のような突進を見せる。

 紫黒の塊が大地ごと押し潰さんと迫る。


 楓は叫んだ。


「だったら……全部を毒にしてやる!」


 毛穴という毛穴から瘴気が噴き出す。

 指先、喉、瞳の奥――骨の髄にまで蓄えた毒を解き放つ。

 肉体の境界は崩れ、紫黒の靄となって洞窟に拡散する。


 触手と瘴気が激突。

 轟音と閃光が同時に爆ぜ、洞窟全体が震えた。


 紫黒の渦の中、楓の叫びと怪物の咆哮が混じり合い、どちらの声かも判別できなくなる。

 ただ一つ確かなのは――人と怪物が「毒そのもの」として融合しようとしていることだった。


 轟音と閃光が過ぎ去ったあとも、洞窟はなおも震え続けていた。

 壁に走る亀裂からは毒霧が漏れ、天井からは黒い滴が降り注ぐ。

 その中心で――楓と怪物は互いに対峙していた。


 楓の身体は既に常人の形を留めていない。

 皮膚は灰紫色に変色し、ところどころが液化して滴り落ちている。

 だがその滴は床に落ちるや否や毒煙を噴き上げ、周囲の瘴気に溶け合っていった。

 つまり楓の肉体そのものが瘴気の一部となり始めていたのだ。


 怪物も同じく傷を負っていた。

 触手の一部は爛れ、再生が追いつかないほど溶けている。

 それでも脈打つたびに毒を生み出し、濃厚な瘴気を放ち続けていた。


「ーーはぁ……はぁ……」

 楓は呼吸を整えるが、それはもはや酸素ではなかった。

 吸い込んでいるのは瘴気そのもの。

 肺が焼け爛れる代わりに、全身の血流へと毒が巡り、肉体をさらに変質させていく。


 怪物が再び咆哮を放つ。

 瘴気の奔流が一直線に楓を呑み込もうとする。


 楓はその場に踏みとどまり、両腕を広げる。

 その瞬間――全身から霧が噴き出した。

 皮膚が裂けるように開き、毒が蒸気となって周囲を覆い尽くす。


 瘴気と瘴気が正面から衝突し、轟音が何度も爆ぜる。

 まるで雷鳴が絶え間なく落ち続けているかのようだった。

 光も音もすべて紫に染まり、洞窟の奥行きさえも分からなくなる。


 楓の意識は次第に曖昧になっていった。

 体の境界が消え、手足の感覚も失われていく。

 だが、その代わりに「毒そのもの」としての感覚が芽生える。

 空気の流れ、怪物の瘴気の濃度、洞窟の壁に染み込む毒の広がり――すべてが肌で分かった。


「……見える……感じる……お前の瘴気の隙が……!」


 楓は毒の奔流を裂くように突進した。

 もはや肉体ではない。

 瘴気そのものとなった意志の塊が、怪物の触手へと食らいついた。

 

触手が楓を貫く。

 だが血ではなく、紫の液体が噴き出し、触手を腐食させていく。

 同時に楓の腕も怪物に突き刺さり、毒の霧を体内へと送り込む。


 咆哮とうめきが重なり、地獄のような共鳴音が洞窟を揺らす。

 天井から岩が降り注ぎ、毒の池が荒れ狂う。

 双方とも限界を超えていた。

 それでもなお、どちらも一歩も引かない。


 楓の視界はもはや色を失い、紫と黒しか見えなかった。

 心臓の鼓動すら自分のものではなく、洞窟全体の振動と溶け合っていた。

 だがその最中――彼は確かに「核」の存在を感じ取った。


 怪物の中心に、濃縮された一点。

 全身の毒を統べる心臓のような結晶。

 そこを破壊すれば――この地獄を終わらせられる。


「ーーそこだ……!」


 楓は自らの肉体をさらに解き放つ。

 腕も脚も崩れ落ち、残ったのはただの「瘴気の塊」。

 それを一点に凝縮させ、怪物の核へと突き立てた。


 紫黒の閃光が爆ぜる。

 毒と毒が拮抗するのではなく、融合して爆発的に拡大した。

 洞窟全体が震え、壁が崩壊し、毒の池が一瞬で蒸発する。


 咆哮と悲鳴と、そして楓の叫びが混ざり合い


――やがて静寂が訪れた。


 轟音の余韻が洞窟全体を震わせるなか、楓は霞む視界の奥に「それ」を見据えていた。

 怪物の中心部、濃厚な瘴気の渦の奥に――黒紫の結晶体が脈動している。

 瘴気の心臓。

 毒を生み出し、支配し、怪物そのものを存在させている源。


 怪物もまたそれを護るように、残った触手を総動員して楓を押しとどめる。

 触手は既にぼろぼろで、先端からは腐敗した肉片が剥がれ落ちる。

 それでも、核を守るために執拗に巻きつき、締め上げ、楓の「形」を砕こうとする。


 だが、楓にはもはや砕かれるべき「形」などなかった。

 腕は霧と化し、足は液状に溶け、胴体すらも瘴気に変わりかけている。

 彼は半ば人間をやめ、毒そのものになりつつあった。


 触手が突き刺さる。

 肉を裂く感覚はもうない。

 代わりに、刺さった部分から瘴気が噴き出し、逆流して怪物を蝕んでいく。


 怪物は苦悶の咆哮を上げた。

 洞窟の壁を砕くほどの轟音。

 その叫びは言葉を持たない。

 だが、「侵される」「奪われる」――そういう感情が確かに伝わってきた。


 楓の中にもまた、似たような感覚が芽生えていた。

 触手から送り込まれる膨大な瘴気が、自身の毒と混ざり合い、肉体をさらに溶かしていく。

 人としての境界が削られていく恐怖。

 それでも――同時に、力が増していく快感が確かにあった。


「……これが……毒を喰らう、ということか……」

 


 楓は瘴気を全身に巡らせ、最後の一歩を踏み出した。

 足はもう形を留めず、瘴気の渦に同化しながら進む。

 触手が押し返すたびに肉体が削られるが、その分だけ濃縮された毒となって怪物を侵す。


 ――核が、目の前にあった。


 拳も爪もすでにない。

 ただ、凝縮された毒の塊と化した右腕を、楓は渾身の力で振り下ろした。


 「――ッッ!!!」


 轟音。

 核を直撃した瞬間、爆発的な瘴気が洞窟を満たす。

 光も闇も紫に塗り潰され、天地がひっくり返るような感覚に襲われた。  


 結晶体は軋むような音を立ててひび割れた。

 中から溢れ出すのは瘴気ではなく、より濃縮された「純粋な毒」。

 怪物が断末魔の咆哮を上げる。

 うめきにも似たその音は、怨嗟であり、恐怖であり、絶望だった。


 核のひびが一気に広がり、砕け散る。

 その瞬間、洞窟全体が轟音と閃光に包まれた。

 毒の池は沸き立ち、壁が崩壊し、瘴気の奔流が渦巻きとなって天井へ突き上げる。


 楓の意識も、そこで途切れかけた。

 自分が人なのか毒なのかすら分からなくなる。

 ただ、全身を満たすのは――勝利の確信。

 


 しばらくして、轟音は止んだ。

 瘴気の渦は収まり、洞窟に静寂が戻る。

 怪物の姿は跡形もなく消え去り、残されたのは砕け散った結晶の欠片。

 それらはじわじわと溶け、毒の霧となって消えていった。


 楓は膝をつく――いや、膝などもう存在していなかった。

 体はまだ人の形をかろうじて保っていたが、皮膚は完全に毒と化し、滴る液体が床を溶かしていた。


「ーー勝った……のか……?」


 声はかすれていた。

 吐き出された息すらも毒霧となり、周囲に溶けていく。

 自分がどこまで人間でいられるのか、もう分からなかった。


 だが確かに――生きている。

 そして、毒を喰らう怪物を倒したのだ。

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