エピソード5
暗闇。
無数の水滴が岩壁から落ち、ぽちゃん、と小さな音を立てる。洞窟の奥には光はなく、ただ冷たく湿った空気が張りつめていた。
「……はぁ、寒い」
楓は壁にもたれながら、小さく息を吐いた。地上の景色も、暖かな日差しも、もうどれくらい見ていないだろうか。ここに閉じ込められてから、時間の感覚すら曖昧になっている。
唯一の頼りは、自分に宿ってしまった“毒の力”だった。だがその力は、使えば必ず自分をも蝕む。吐き気、痺れ、激しい頭痛。毒を扱うたびに身体が軋み、まるで命を削られるようだった。
「ーーそれでも、使わなきゃ死ぬ」
独り言のように呟くと、楓は立ち上がった。
洞窟での生活は過酷だった。
食料は岩陰に繁る苔や、時折見かける小さな虫。それを捕まえるために、楓は自分の毒を工夫し、滴らせては罠に変える。
最初はただ毒を放出するだけだった。だがそれでは自分に反動が返ってきて倒れてしまう。少量ずつ、細く長く流し続ける――その方法を試行錯誤し、ようやく「罠」と呼べるものが形になり始めていた。
ある日、楓は通路の狭い場所に薄い毒の幕を張った。そこを小型のトカゲのようなモンスターが通りかかった瞬間、苦しげに痙攣し、地面に倒れ込む。
「ーーやった」
声が震えていた。
だが同時に、楓の身体にも鋭い痛みが走る。毒の反動だ。喉が焼け、胸が締め付けられるような苦しさに、思わず膝をついた。
「くっ……はぁ、はぁ……これ以上は……っ」
額から冷たい汗が滴り落ちる。勝利の代償はあまりにも重かった。
それでも、倒れたモンスターを解体し、肉を焼いて口にしたとき、久々に「食べ物らしい食べ物」を得た喜びに涙が出そうになった。
その夜、楓は岩の隙間に体を丸めながら、ぼんやりと考えていた。
「このままの戦い方じゃ、きっとすぐに死ぬ……」
「もっと工夫しなきゃ。俺が昔やってた、あの現場のことを思い出せ……」
かつて働いていた現場。土砂をせき止める仮設の仕切り、杭を打ち込み、流れを制御する作業。楓はそこで得た「現場で培った知恵」を、この洞窟で応用することを思いついた。
「ーー設置して、待つ。自分が前に出るんじゃなく、仕組みに毒を流し込むんだ」
その瞬間、楓の目に小さな希望が灯った。
楓は岩肌に沿ってしゃがみ込み、手のひらを洞窟の床へと押し付けた。
意識を集中させると、体の奥底に眠る毒の気配がざわりと揺らぎ、血流に乗って押し寄せてくる。
「ーーぐっ、く……」
いつものように吐き気と痺れが喉を這い上がってくる。だが楓は歯を食いしばり、毒の流れを制御した。すべてを一気に吐き出すのではなく、ほんの細い糸のように、少しずつ、少しずつ……。
やがて、床の上に紫がかった薄靄のような幕が漂い始めた。目に見えるほど濃くはない。通りがかるものが不用意に触れれば、皮膚から毒が染み込み、じわじわと体を蝕む――そんな仕掛けだ。
楓は震える息を吐き、壁にもたれた。
「ーーできた、はず……」
罠は完成した。だが問題は、これが本当に通用するかどうか。
成功するか、失敗するか。その先に待つのは、生き延びるか、ただ苦しんで倒れるか――。
緊張に喉が渇く。
時間がどれほど経ったか分からない。暗闇の奥から、ざり、ざり、と岩を爪でひっかく音が近づいてきた。
「ーー来た」
現れたのは、全身を黒い鱗で覆った四足のモンスターだった。体長は犬ほどもあり、目が二つ光を反射してぎらついている。牙を剥き、低い唸り声を上げて楓の方へと進み出てきた。
次の瞬間――その足が、毒の幕を踏み抜いた。
じゅっ、と焼けるような音がしたわけではない。だが確かにモンスターの体が一瞬震えた。鱗の隙間から紫色の斑点が広がり、動きがぎこちなくなる。
「ーー効いてる」
楓は思わず拳を握った。
しかしその歓喜は一瞬で打ち消された。毒の反動が、全身を貫いたのだ。
「ぐ……あああっ!」
喉が焼け付く。視界がぐらぐらと揺れ、血管の中を針で突かれるような痛みが走る。
楓はその場に崩れ落ち、地面に爪を立てて必死に意識を繋ぎ止めた。
「ーーっ、ま、まだ……倒れるな……」
目の前では、モンスターもまた毒に蝕まれ、痙攣し、泡を吐きながらのたうち回っている。互いに、毒と痛みに耐えきれず、どちらが先に倒れるか――その瀬戸際だった。
時間が永遠にも思えるほど長く感じられた。やがて、モンスターが最後の咆哮を上げ、地響きのような音を立てて地に伏した。
勝った。
しかし楓の胸には達成感よりも、強烈な吐き気とめまいが支配していた。
「ーーはぁ……はぁ……っ、死ぬかと……思った……」
岩に背を預けながら、楓は必死に呼吸を整えた。
身体の奥で、何かがじんわりと溶け込むような感覚が広がる。
モンスターの残滓が楓の体に流れ込み、わずかに力へと変換されていく。
だが同時に理解した。いまのままでは、毒を使うたびに自分も死の淵に追い込まれる。このまま正面から戦えば、長くはもたない。
「ーーもっと工夫しなきゃ……」
現場で学んだ知識が、頭の中に次々とよみがえる。
杭を打って足場を固めたこと。水を流す方向を変えて作業をしやすくしたこと。あれらはすべて「人より不利な環境を工夫で覆す」ための知恵だった。
毒も同じだ。
撒き方を工夫し、流れを制御すれば、もっと楽に敵を倒せるかもしれない。
楓は血のにじむ唇を拭い、苦笑した。
「ーー俺、土木現場じゃなくて……毒の現場監督だな」
誰もいない洞窟に、乾いた笑いがこだました。
楓は肩で息をしながら、崩れ落ちたモンスターの死骸を見下ろした。
その体を取り巻く瘴気が溶けるように散り、楓の中へと流れ込む。
確かに強くなっている実感はある。けれど、代償はあまりにも重い。
「一匹仕留めるだけで、ここまで苦しいんじゃ……長くはもたないな」
頭の奥が割れるように痛み、胃がひっくり返ったように吐き気がこみあげてくる。
それでも楓は、地面に膝をつきながら立ち上がった。
今度はもっと効率よく毒を使う。
毒そのものの量は増やせないが、設置の仕方を工夫すればいい。
楓は記憶を呼び起こした。
――泥水が思わぬ場所に溜まり、足場を崩したこと。
――斜面に水が流れ込むと、小さな流れでも人を倒すほどの力を持つこと。
「なら、毒だって流せるはずだ」
楓は小さな岩をどかし、床の傾斜を確かめながら細い溝を掘っていった。
ただの手作業だが、夢中で取り組むと頭の痛みすら和らぐように思えた。
やがて細い流路が完成した。楓は掌をそっと溝にかざす。
体の奥からじんわりと毒をにじませ、少しずつ垂らしていく。
すぐに紫の液体が溝を伝い、じわじわと奥へ流れていった。
これなら広い範囲を一度に覆える。モンスターが通れば、毒の川を渡ることになるのだ。
仕掛けを終えると同時に、また気配が近づいてきた。
今度は二匹。鼻をひくつかせ、低く唸る音が洞窟に響く。
「ーー上等だ。試してやる」
モンスターたちは楓に気づくと一斉に駆けてきた。
四つの爪が岩を削り、獣の息が白く光る。
その瞬間――。
ばしゃり。
二匹同時に溝へ足を踏み入れた。
毒の液体が跳ね、すぐさま皮膚へ染み込んでいく。
モンスターは一瞬動きを止めたが、すぐに牙を剥いて突進を続ける。
「まだ効かないか……っ!」
楓は必死に横へ転がり、かろうじて突進を避ける。
岩壁に叩きつけられる痛みをこらえながら振り返ると、二匹の動きが不自然に鈍っていた。
唸り声が濁り、脚がもつれる。
それでもなお、執念深く楓へと迫ってくる。
「ーーくる、なっ!」
楓は震える手でさらに毒を垂らし、床へ広げる。
そのたびに反動が背骨を駆け抜け、吐き気と痺れで意識が遠のく。
だが二匹は毒の幕を何度も踏み抜き、その度に紫色の斑点が全身へと広がっていく。
やがて――一匹が崩れ、洞窟の床を血と泡で濡らした。
続いてもう一匹も、痙攣の末に力尽きた。
「ーーっ、はぁ……はぁ……」
楓は壁に寄りかかり、呼吸を荒げながら二体の亡骸を見下ろした。
勝った。だが全身が重く、今にも倒れそうだ。
ふと、視界の端に何かが光った。
――『新スキルを獲得しました:継続毒』
頭の中に響く声とともに、新しい感覚が広がる。
毒の反動をわずかに抑え込み、設置した毒が今までよりも「長く留まる」ようになった。
「ーーこれが……継続毒……!」
楓は痛みに顔を歪めながらも、思わず笑った。
努力は無駄ではなかったのだ。
楓が継続毒の試行で二体を倒し、肩で息をついていたその時だった。
洞窟の奥から、ざわざわと羽音のようなものが響いてきた。
耳を澄ませると、それは確かに羽ばたきの群音だった。
高い天井の闇から、いくつもの赤い光が降りてくる。
「ーー今度は、上か」
闇を裂くように飛び込んできたのは、コウモリに似たモンスターだった。
だが通常の蝙蝠よりもはるかに大きく、翼を広げれば楓の身長を優に超える。
その牙は毒蛇のように鋭く光り、眼は血に濡れたような赤だった。
一匹、二匹……いや、数える暇もない。
十体近くが群れを成し、旋回しながら楓を取り囲んだ。
「くそっ……地面の罠じゃ、相手にならない……」
先ほど作った毒の溝は、床を這う敵にしか効果がない。
飛行する相手にどうやって毒を浴びせるか。
――山中の法面工事。
――吹き付けたコンクリートが乾くまでのあいだ、雨水を上から流し落とした光景。
そのとき、楓は思いついた。
「ーー上から垂らせばいい」
震える手で岩壁を叩き、表面を砕きながら小さな凹みを作る。
そこに掌を押しつけ、毒を染み込ませるようにして溜めていく。
すぐには落ちない。だが、限界まで貯まれば――重みに耐えきれず滴となって落下する。
頭の奥が焼けるように痛い。
反動で視界が揺れ、口からは血の味が広がった。
それでも楓は、必死で毒を壁に仕込んでいった。
その時、一匹が急降下してきた。
楓はとっさに身を捻るが、爪が肩を裂き、熱い血が飛び散る。
「ぐっ……!!」
痛みに顔を歪めながら、楓は思わず叫んだ。
「今だ――落ちろッ!」
岩壁に仕込んだ毒の溜まりが、ぽたり、と大粒の滴を落とした。
それはちょうど急降下していたモンスターの翼に当たり、じわじわと染み込んでいく。
数秒後、モンスターの翼が痙攣した。
飛行のバランスを崩し、洞窟の床へ叩きつけられる。
「ーー効いた!」
だが残りはまだ九匹。
次々に旋回しながら襲いかかってくる。
楓は血まみれの肩を押さえつつ、壁や天井の突起を利用して毒を溜め、滴を雨のように降らせていった。
毒の雨に触れたモンスターは次々と飛行を乱し、互いにぶつかって墜落していく。
しかし、毒を垂らすたびに反動が増し、楓の体は悲鳴を上げた。
足が震え、吐き気が込み上げ、視界は赤黒く染まる。
「ーーまだだ……ここで倒れるわけには……」
最後の一滴を天井に仕込み、楓は力尽きるように膝をついた。
そして――。
滴が連続して落下し、三匹の翼を直撃した。
悲鳴のような金切り声が洞窟に響き、やがて全ての飛行モンスターが床に転がった。
その瞬間、楓の体へと膨大な瘴気が流れ込んでくる。
痛みと吐き気に押し潰されそうになりながらも、その奥で確かに新しい力が芽生えていた。
――「スキル《継続毒・滴下》を習得しました」
頭の奥で声が響いた瞬間、楓は思わず笑みを浮かべた。
「ーーこれで、上の敵にも……対抗できる……」
血と汗と毒にまみれた顔で、楓はゆっくりと立ち上がった。
飛行モンスターを退けた楓は、肩の傷を押さえながら洞窟の奥を進んでいた。
呼吸は荒く、吐き気はまだ完全には収まらない。
しかし、今の戦いで確かに力が強化された実感がある。
だが、休む間もなく次の気配が押し寄せてきた。
地鳴りのような振動。
それは無数の小さな足音が一斉に迫ってくる音だった。
「ーー次は数で押してくるか」
闇から姿を現したのは、甲殻を持つ巨大な蟻に似たモンスターだった。
一匹の大きさは犬ほどもあり、鋭い顎で岩すら砕けそうな迫力を持っている。
そして何より恐ろしいのは、その数だった。
十匹、二十匹……次から次へと湧き出し、あっという間に洞窟の床を黒く埋め尽くす。
背筋に冷たい汗が流れる。
「正面から殴り合ったら……確実に喰われるな」
楓は冷静に周囲を見回す。
洞窟の床は凹凸が多く、通路も狭い場所がある。
蟻型モンスターが群れで突っ込んでくれば、自然と詰まってしまうだろう。
「ーーよし。まとめてやる」
楓は壁に掌を押し当て、毒を流し込む。
新しく得たスキル《継続毒・滴下》を利用し、天井や壁の突起からじわじわと毒液を垂らす仕組みを作り出していった。
さらに床の隙間にも少量ずつ毒を流し込み、蟻たちが通るルート全体をじわじわと汚染していく。
頭が割れそうなほど痛い。
吐き気も増し、膝が震える。
だが楓は歯を食いしばり、作業を続けた。
やがて群れが一斉に突進してきた。
甲殻が岩を叩く音、牙が擦れ合う音が洞窟全体を満たす。
「来い……!」
先頭の数匹が楓へ迫った瞬間、毒の滴が次々と落ち、床からも紫の瘴気が立ち上った。
蟻型モンスターたちがそれを吸い込み、脚を痙攣させて転倒する。
後続がその上に乗り上げ、動きが鈍る。
数の勢いは確かに脅威だった。
だが、群れれば群れるほど毒の影響を避けられない。
一匹が苦しげに顎を振り回し、壁に頭をぶつけて自壊する。
別の一匹は泡を吐きながら仲間の背にのしかかり、全体の動きを止めてしまう。
やがて連鎖的に崩れ始め、群れは次々と倒れていった。
「ーーふ、は……っ」
楓は膝をつき、荒い息を吐いた。
洞窟の床は黒い蟻の死骸で埋め尽くされ、紫色の瘴気が薄く漂っている。
頭の中に、再び声が響いた。
――『一定量に達しました。レベルが上がります』
――「スキル《継続毒・濃霧》を習得しました」
新しい応用が生まれた。
滴下だけでなく、周囲に霧のように毒を漂わせ、継続的に敵を蝕む能力。
だが喜ぶ余裕はない。
楓の体は毒の反動で痙攣し、血を吐きながら地面に手をついた。
耐性が「中」になっていても、この負担は凄まじい。
「ーースキルが増えれば増えるほど、反動も……」
だが、それでも前に進まなければならない。
ここで立ち止まれば、群れに飲み込まれたのと同じだ。
楓は震える足で立ち上がり、毒に満ちた空気を切り裂いてさらに奥へと歩を進めた。
蟻の群れを突破し、楓はさらに奥へと足を踏み入れた。
壁の隙間からは紫の霧がじわじわと漏れ出し、まるで洞窟全体が毒に侵されているようだ。
だが、その中心でただ一つ、異様な影が蠢いていた。
――蟻の女王。
体長は楓の身長の二倍を優に超え、全身を漆黒の甲殻で覆っている。
頭部からは触角が伸び、毒々しい緑色の光を放ちながら周囲を探っていた。
楓はためらわず、習得したばかりの《継続毒・濃霧》を展開する。
紫の瘴気が一帯に満ち、空気そのものが毒へと変貌していく。
だが。
「ーーっ!? 効いてない……!」
女王蟻は平然と歩みを進め、瘴気を纏いながらも一切の動揺を見せなかった。
むしろその甲殻から淡い緑色の蒸気を放ち、紫の毒霧を中和していく。
《毒耐性か…..》――そうとしか思えない防御力。
楓の全力が、まるで無意味のようにかき消されていく。
女王の巨体が迫る。
振り下ろされた前脚が岩を砕き、石片が飛び散る。
楓は間一髪で横に跳び、肺の奥から血を吐いた。
毒の反動と、疲労と、恐怖。
すべてが重なり、視界がぐらぐらと揺れる。
「ーーこのままじゃ……押し潰される……」
楓は必死に思考を巡らせた。
毒を濃くしても無効化される。
ならば――毒そのものではなく、環境を利用するしかない。
目に入ったのは、天井にぶら下がる鍾乳石。
楓は過去の現場経験を思い出した。
コンクリートを打設する際、弱い箇所に圧をかければ一気に崩れる……。
「あれを落とせば……!」
楓は《継続毒・滴下》を天井に展開し、石の隙間に毒を染み込ませていった。
毒は岩を腐食し、やがて亀裂が走る。
女王蟻が迫り、再び前脚を振り上げた瞬間
ドゴォォンッッッ!
鍾乳石が音を立てて崩落し、女王蟻の背に直撃した。
甲殻が砕け、緑色の体液が噴き出す。
その隙を逃さず、楓は全力で毒を叩き込んだ。
甲殻の裂け目へ、滴下毒を集中させる。
女王蟻が絶叫のような振動音を響かせ、もがき苦しむ。
「今度こそ……効けぇぇッ!」
毒が内部に浸透し、体液を濁らせていく。
やがて女王蟻の巨体が崩れ落ち、洞窟全体が静寂に包まれた。
楓は膝をつき、全身を痙攣させながらも勝利を噛みしめる。
――「スキル《持続毒・侵蝕》を習得しました」
――「スキル《毒耐性・大》に進化しました」
耳の奥で響く声。
確かに新たな力が芽生えた。
反動で血を吐きながらも、楓の唇にはかすかな笑みが浮かんでいた。
女王蟻を倒した楓は、ふらつく足取りで洞窟のさらに奥へ進んだ。
勝利の余韻も、反動の苦痛も、すべてを背負ったまま。
壁には緑色の苔が広がり、空気は異様に重く淀んでいる。
――そこに「それ」はいた。