エピソード36
翌朝。
街を出て二日目、楓とリリスはついに山脈の麓へ到着した。
鋭く切り立った岩肌は雲を突き抜け、濃い霧をまとっている。
「ーーなるほどな。これが“魔の山脈”か」
楓は険しい地形を見上げ、眉をひそめる。
断片的な図面には、この麓に遺跡の入り口があると示されていた。だが地図上の目印はかすれて不鮮明。
現地で探すしかない。
リリスは腕を組み、余裕の笑みを浮かべていた。
「いかにも“隠してます”といった感じの場所ですわね。人を拒むような地形、湿った霧……ふふ、蜘蛛の好む環境ですこと」
「お前にとっては快適かもしれんが、俺にはただ歩きにくいだけだ」
「まぁまぁ。楓様が歩きやすいよう、わたくしの糸で道を整えて差し上げましょうか?」
「いや、やめろ。目立ちすぎる」
「ケチ」
足を進めながら、楓は出発前にみんなから何度も言われた言葉を思い出していた。
『楓さん、山脈に近づくなんて危険すぎる!』
『魔獣の棲み処だ、戻ってこられないぞ!』
それでも、楓は笑って言ったのだ。
「必ず帰ってきます」
その約束を胸に、今ここに立っている。
リリスが横目で楓を見た。
「また真面目な顔してますわね。……まさか言われたこと、気にしていますの?」
「気にしてないと言えば嘘になるな。心配してくれる人たちを裏切りたくはない」
「ふふ、楓様らしい。けれど――」
リリスの瞳が妖しく光る。
「結局、楓様を止められる者など存在しませんわ。わたくしですら、こうしてついて来てるのですもの」
「お前の場合は止めても勝手についてくるだろ」
「正解」
霧が濃くなるにつれ、道はさらに分かりにくくなった。
断片図では岩壁の裂け目のはずだが、それらしき場所はいくつも存在する。
「ーーどう探すかだな」
楓が立ち止まると、リリスは嬉しそうに口を開いた。
「わたくしの分体を使うのはいかが? 小さな蜘蛛を何十、何百と放ち、入り口らしき場所を探させるのです」
「またそれか……」
楓は思わず顔をしかめた。
「お前の分体は便利だが、正直に言うと見ててあまり気分がいいものじゃない」
「まぁ 楓様、嫌悪と称賛を同時にくださるなんて……ご褒美ですわ」
「ーーだからそういう反応を期待してるわけじゃないんだが」
「でも、お褒めいただいたので 頑張りますわね」
楓は額に手を当て、諦めの吐息をもらす。
「ーーああもう。頼む。だが、見つけたら必ず俺に報告するんだぞ」
「承知しました、楓様」
リリスは嬉々として手を振る。
その瞬間、彼女の背後から小さな蜘蛛が無数に湧き出し、霧の中へと散っていった。
分体が散っていくのを見送りながら、楓は岩に腰を下ろした。
「ーー本当に便利だな」
素直な感想が口をつく。
リリスは腰をかがめ、楓の耳元で囁いた。
「ふふ、そうでしょう? もっと褒めていただいてもいいのですよ」
「調子に乗るな」
「ええ、乗りますわ」
楓は呆れながらも、心のどこかで安心していた。
リリスがいれば、この険しい探索も乗り越えられる――そう思わせる強さが、彼女には確かにあった。
霧に包まれた山脈の麓。
静寂の中、かすかなざわめきが耳に届いた。
チリチリ……チリチリ……。
楓が耳を澄ませると、霧の向こうから黒い影が地を這ってくる。
無数の小蜘蛛。リリスが放った分体だ。
「ーー帰ってきたな」
楓が立ち上がると、リリスの顔が期待で輝いた。
「ふふ、わたくしの愛しい子たち。さて、どんな報告を持ち帰ってくれるのかしら」
数匹の分体がリリスの足元に集まり、糸で地面に図を描き出す。
――山肌をなぞるような線、その途中に小さな裂け目。
裂け目の奥に円を描き、そこに印をつける。
「ーーここだ」
楓は身を乗り出し、図を覗き込んだ。
「入り口らしき場所を見つけたということか?」
リリスが頷く。
「はい。通常の岩の裂け目に見えますが……中には人工的な石積みの痕跡があるそうです」
「人工的な……つまり遺跡の一部ってことか」
「ええ。分体の目は確かですわ。わたくし自身が確認するまでもありません」
楓は思わず息を吐く。
「やるじゃないか」
「まぁ! 楓様に褒められた これ以上の幸福はありませんわ」
リリスは頬を染め、体をくねらせてみせる。
「ーーその反応やめろ。こっちは真面目に言ってる」
「真面目に褒められるのが一番嬉しいのですもの。仕方ありませんわ」
分体の一匹が、楓の靴をちょんちょんと突いた。
「案内してくれるらしいぞ」
「頼もしい子たちですこと。さぁ楓様、参りましょう」
蜘蛛の小さな群れが先導するように霧の中を進んでいく。
岩壁はどこも似たような灰色で、楓ひとりなら迷うこと必至だっただろう。
だが蜘蛛たちは迷いなく進み、やがて一点で止まった。
そこには人一人が通れる程度の狭い裂け目があった。
周囲の岩肌と見分けがつかないが、近くで見るとわずかに規則性のある削れ跡が残っている。
「ーー確かに自然の風ではこうは削れないな」
楓は壁に手を当て、感触を確かめた。
リリスも覗き込み、唇を吊り上げる。
「ふふ……ここが“扉”ですわ」
楓は裂け目の前で深呼吸した。
「ーー見つけられるとは思っていたが、実際に立つと、妙に胸がざわつくな」
リリスがすかさず寄り添い、肩に手を置いた。
「当然ですわ。これはただの洞窟ではなく、楓様が探し求める“帰り道”に繋がる可能性があるのですから」
「ーーああ」
楓は短く応じる。
その声には希望と同時に、微かな恐れも混じっていた。
リリスはそんな楓を見つめ、優しく囁く。
「ご安心くださいませ。どんな道でも、わたくしが傍におります。毒も、闇も、全て楓様を傷つけることは許しませんわ」
楓は少し笑ってみせた。
「お前がいると心強いよ」
「ふふ、もっと言ってくださいませ」
「ーーはいはい」
呆れ混じりに返す楓の横顔には、しかし確かな安堵が浮かんでいた。
裂け目を前に、楓は背負った荷を確認した。
短剣、松明、予備の縄、乾いた食糧。
冒険者としての常備品は揃っている。
「よし……行くか」
楓が低く呟くと、リリスはわざとらしく胸を張った。
「当然ですわ、楓様。わたくしを誰だと思っているのです? 闇を見通す蜘蛛の女王、リリスですのよ?」
「ーーはいはい。調子がいいな」
「調子ではなく事実ですわ」
そう軽口を交わしながら、楓は裂け目に体を滑り込ませた。
内部はひどく狭い。
肩を擦りながら進まねばならず、岩肌は湿って冷たかった。
空気は重く淀み、呼吸するたびに土埃が鼻を突く。
リリスは不快そうに鼻を鳴らす。
「ふん……人間の遺跡というのは、どうしてこう不親切なのかしら」
「お前の巣も似たようなもんだろ」
「わたくしのは美しい芸術品ですわ! このただの岩の割れ目と一緒にしないでいただきたい!」
楓は苦笑しつつも、心のどこかで少し安心していた。
リリスの大仰な言葉が、この閉塞感を和らげてくれていたのだ。
やがて通路は緩やかに下り、ふっと視界が開けた。
松明の炎が、広い空間を照らし出す。
「ーーここは」
床は人工的に削られ、四角い石畳が敷かれている。
だが崩れ落ち、草が石の隙間から芽を出していた。
壁面には古い紋様が掘られているが、半分以上は風化して判別できない。
「間違いない。遺跡だな」
楓の声に、リリスは目を輝かせた。
「素敵ですわ……人間の歴史の残滓。腐敗し、崩れ、しかし未だ力を秘めている。わたくし好みです」
「お前の好みは偏ってるんだよ」
楓は慎重に石畳を踏みしめる。
――カチリ。
微かな音が足元から響いた。
「ーーっ」
とっさに身を引く。
直後、彼の前の床がガタンと落ち、鋭い槍が突き上がった。
リリスが舌打ちする。
「なるほど。まだ生きている罠があるようですわね」
「油断ならないな……」
楓は心拍を整えつつ、改めて周囲を観察する。
確かに遺跡は古い。だが仕掛けの一部は今なお稼働している。
誰かが手を入れて維持しているのか、それともこの時代の魔法技術がそれほど強靭なのか。
楓は思う。
――ここに「帰るための手がかり」が本当に眠っているのか。
もしそうなら……自分は日本に戻れるのか。
リリスや、この街の人々を置いて。
心がわずかに揺らぐ。
だが次の瞬間、リリスが無邪気に笑って言った。
「大丈夫ですわ楓様。罠ごとき、わたくしの糸で全部塞いで差し上げます」
糸が空中に広がり、次々と床の仕掛けを絡め取っていく。
見事な手際に楓は目を見張り――そして、心のざわめきがほんの少し和らいだ。
罠を越え、二人は進んでいく。
遺跡の奥へ進むほど、空気は冷たく、重くなっていった。
時折、壁の割れ目から青白い光を放つ鉱石が覗き、松明の炎と奇妙に混ざり合う。
「ーーただの古代遺跡って感じじゃないな」
楓の呟きに、リリスも頷く。
「ええ。この空気……魔大陸の洞窟に似ておりますわ」
その言葉に、楓の胸が高鳴る。
――もしかしたら本当に“繋がっている”のかもしれない。
二人は顔を見合わせ、さらに奥へと足を踏み入れた。
洞窟のように口を開ける石段を降りていくと、空気が一変した。地上では秋の風が心地よかったのに、ここでは冷気が骨まで染み込んでくるようだ。湿った空気に古い石の匂い、苔と土の甘ったるさが混じり合い、まるで時間そのものが止まったように感じられる。
楓は、足元の石段に苔がびっしりと生えているのを見下ろした。何百年、いや千年以上か──人の足が踏み入っていないのだろう。
「ーー思ったより深いな」
楓は思わず独り言のように呟いた。
その背後で、リリスが小さく笑う。
「楓様がこうしてご自身の足で奥深く進まれるお姿……とても勇ましくて、見ているだけで胸が締め付けられます。あぁ、もし私のような下卑た蜘蛛がご一緒してよいのか、と思ってしまうくらいで……」
「ーー別に、お前がいなきゃ不便だからな」
楓は苦笑しながら返す。
リリスの頬がぱっと赤く染まる。
「ひゃ、ひゃいっ……! その……不便ではなく、便利……あぁ、つまり……わ、わたくしが楓様のお役に立てているということで……! 今ので一日分幸せでございます……!」
楓は額に手を当てた。
(こいつ……また勝手に変な方向で喜んでるな……)
階段を降り切ると、そこには広大な石の回廊が広がっていた。
天井は高く、黒々とした岩を削り出して作られている。壁には古代文字と見られる文様が延々と刻まれ、ところどころに割れ目から冷たい水が滴り落ちていた。
「これは……」
楓が壁の彫刻に手を触れると、石粉が指にこびりついた。
「古代の魔法式……ですね。けれど……いくつも欠けております」
リリスは楓のすぐ後ろに控え、まるで侍女のように声を落とした。
「わたくしの目では完全に解読は叶いませんが、恐らく移転術式の一部かと」
「やっぱりそうか。けど……肝心なところは欠けてるな」
「はい……。あぁ、でも……楓様がこうして古代の謎を追っておられるお姿……本当に尊くて……。わたくし、ただ従うだけの存在でよかった……と、心から……」
リリスは陶酔したように頬を赤らめ、瞳を細める。その姿に楓は心の中でぼそりと突っ込んだ。
(いや、お前が勝手に悦んでどうするんだ……)
二人は回廊を進んだ。
足元には砕けた石像の残骸、錆びついた鉄具が散乱している。かつてここに人が入り、何かを守ろうとしたか、あるいは壊そうとしたのだろう。
リリスが肩を小さく揺らし、黒い小蜘蛛を一匹放つ。蜘蛛は床を駆け、壁を伝い、やがて暗闇の先へと消えた。
「先に偵察をさせます。……楓様を危険に晒すなんてとても耐えられませんので」
「助かる」
楓が素直にそう告げると、リリスは肩を震わせて恍惚とした表情を浮かべる。
「ーー楓様がわたくしを“助かる”と……!ありがとうございます……! わたくし、楓様に褒められるために生きております……!」
「いや、褒めたつもりじゃないんだけどな……」
(ーーでも、まぁ、素直に喜んでるんならいいか)
数分後、分体の小蜘蛛が戻ってきた。リリスは目を閉じ、映像を共有しながら報告する。
「奥に大きな広間がございます。……そこに何かが眠っております」
「眠ってる?」
「はい、動いてはいませんが、ただの石像ではございません。強烈な嫌な気配が」
楓は息を整え、腰の短剣に触れた。黒く妖しい光を放つその刃は、彼の心臓の鼓動に合わせてかすかに脈動している。
「進むぞ」
「はいっ! 楓様の御決断、なんと美しく、勇ましいのでしょう。わたくし、この目に焼き付けます!!」
「ーーリリス、声がでかい」
「あぁっ……す、すみませんっ! 楓様に叱られるこの感覚ぞくぞくしてしまって! い、いえ! 以後気をつけますわ!」
楓は心の中で深いため息をつきながらも、歩みを止めなかった。
(……まったく、ド変態なのは相変わらずだな)
二人は視線を交わし、暗闇の奥に口を開ける広間へと進んでいった。




