エピソード35
夜。
月明かりが街の屋根を銀色に照らすころ、楓は自宅の窓から外を眺めていた。
石畳を行き交う人影も少なく、昼の喧騒が嘘のように静まり返っている。
「ーーで、本当に今夜やるのか?」
「ええ。むしろ夜のほうが、わたくしの分体は動きやすいのですわ」
リリスは椅子に優雅に腰掛け、グラスに注いだ赤ワインを指先でくるくる回していた。
その姿はどこか“これから狩りに出る猛獣”のようで、楓の背筋に冷たいものが走る。
「ーーあんまり派手にするなよ。ギルドや警備隊にバレたらまずい」
「ご心配なく。わたくしの分体は、人間どころか犬猫ですら気づきませんわ」
言葉と同時に、彼女の背後から“ぞわっ”と空気が揺れる。
次の瞬間、楓の目の前で――数百匹単位の極小蜘蛛が床を這い出した。
「うわぁぁぁぁ!? やめろ! 一斉に出すなっ!!」
「まぁまぁ、可愛いものではありませんこと?」
「お前にとってはな……!」
楓は慌てて椅子の上に足を上げた。だが分体たちは、まるで笑うかのようにサラサラと音を立てて窓の外へ消えていく。
リリスはグラスを傾けながら、艶やかな笑みを浮かべていた。
「さて――彼らに、真の仕事をしていただきましょう」
蜘蛛たちは街の闇に溶け込み、分かれて進んだ。
ある分体は、ギルドの書庫の裏口から忍び込む。
積み上げられた資料棚の隙間をするすると進み、古びた羊皮紙の帳簿に取り付いた。
その表紙には、こう書かれている。
――「古代遺跡の探索記録」。
分体の視界を共有していたリリスが、薄く笑みを浮かべる。
「ーーありましたわよ、楓様」
「マジか!?」
楓は思わず身を乗り出した。
リリスは瞳を閉じたまま、まるで夢を語るように続ける。
「そこには“北の森を抜け、険しい山脈を越えた先に……人ならざる文明の残滓がある”と記されています。ですが……ただし、封印が施され、入る者は命を落とすと」
「封印……か」
楓は唸った。
(けど、遺跡が本当にあるってだけでも大きな一歩だな)
別の分体は、公爵家の屋敷の中庭に忍び込んでいた。
夜警の兵士の足音をすり抜け、倉庫の隙間から入り込む。
そこには封印された木箱が並べられていた。
ひとつの箱の隙間から、古びた巻物の断片が覗いている。
蜘蛛はその上を走り、細い糸を落として印をつける。
リリスが報告する。
「そして、公爵家の倉庫にも……“転移魔法陣”に関する記録の断片が保管されているようですわ」
「ーー転移魔法陣!? それって、ひょっとしたら……」
「ええ。異なる大陸を繋ぐもの……あるいは異なる世界をも繋ぐものかもしれませんわ」
楓の心臓が高鳴る。
(来た……! これは……もしかして日本に帰る方法に繋がるかもしれない!)
やがて分体たちは全て消え去り、リリスは満足げに目を開いた。
「ーーご覧くださいませ、楓様。これが、わたくしの“真価”でございます」
「ーーいや、すごい。マジですごい」
楓は正直に口にした。
するとリリスの顔が一瞬で真っ赤になり、両手で口元を覆った。
「きゃぁぁ……楓様に“すごい”なんて言われる日が来るなんて……っ!」
「いや、別にそんな大げさな――」
「どうぞもっと……もっと罵って褒めてくださいまし……!」
「なんだその矛盾した願望は!?」
リリスは身をくねらせ、椅子から滑り落ちそうになっていた。
楓は額に手を当て、心底呆れた声を漏らした。
(ー!やっぱこいつ、めんどくせぇ……でも情報は本物だし、否定できないんだよなぁ)
公爵家の情報をどう得るか
「ーーさて。遺跡のことは後回しとして、問題は“転移魔法陣の記録”だ」
楓は机の上に散らばった羊皮紙を指でまとめながら、低くつぶやいた。
「おそらく……一番可能性が高いのは、公爵家の文献庫だろうな」
「なるほど……」リリスは長い睫毛を伏せ、顎に指を当てる。
「ですが、あそこはかなり制限がかかる場所みたいでしたわよ?」
「分かってる」楓はうなずく。
「本来なら直接行って、公爵に頼み込む手もあるけど……リスクが高すぎる」
リリスはふっと口元を歪め、妖艶に笑った。
「でしたら――わたくしの“分体”を、忍ばせるのが一番ですわね」
「おい……お前な」
楓は眉間を押さえた。
「前にも言ったけど、公爵家に分体を潜り込ませるって……完全にスパイ行為だろ」
「だって楓様が直接行かれるなんて、危険極まりないじゃありませんの」
「いや、でも――」
「それに……」リリスは身を乗り出して、楓の耳元で囁いた。
「楓様が“そんな危ないことやめろ”と、冷たく叱りつけてくださるのも……わたくしにはご褒美です」
「ーーお前、本当にどうしようもないな」
楓の頬がぴくりと引きつった。
「ご褒美扱いするなら、こっちは何を言っても止められないじゃないか」
リリスはくすくすと笑い、わざとらしく肩をすくめる。
「まぁ、そういうことになりますわね」
楓は深く息を吐いた。
正直、分体を使うのは抵抗がある。
けれど、現実的に考えれば――それが一番効率的で、安全でもある。
(ーー俺が動けば目立つ。リリスの分体なら、誰にも気づかれない)
「ーー分かった」楓は観念したように言った。
「ただし、絶対に痕跡を残すな。バレたら大問題だぞ」
「ふふ……承知いたしましたわ、楓様」
リリスはうれしそうに両手を胸の前で組んだ。
「楓様に“絶対”なんて言われると……あぁ……身が震えますわぁ……」
「いや、命令を変な意味で喜ぶな!」
「だって、楓様の“絶対”は絶対なんですもの」
楓は机に額を打ちつけたくなる衝動を抑えた。
リリスは立ち上がり、両の手を広げた。
「では……公爵家の文献庫へ、“我が小さき分体たち”を放ちましょう」
次の瞬間、部屋の隅にうごめく影が広がった。
ぞわり、と肌を撫でる感覚と共に、無数の小さな蜘蛛が壁や床から這い出してくる。
それぞれ、米粒ほどの大きさしかない。
「ーーうわぁ」
楓は思わず後ずさった。
(分かってはいたけど、やっぱ気持ち悪ぃ……!)
「どうかしら?」リリスは得意げに胸を張る。
「彼らは夜闇に紛れ、わずかな隙間からでも忍び込めますわ。音も匂いも残さず、ただ文書を写し取り、戻ってくる」
「ーー確かに便利すぎる」
「ふふ……楓様のためですもの」
楓はしばらく蜘蛛たちを見つめていたが、観念したように口を開いた。
「ーーすごいよ、リリス」
「っ……」
リリスの全身がぴくんと震えた。
「い、いま……“すごい”って……!」
「事実だろ。お前の力がなきゃ、こんな情報収集は不可能だ」
リリスは両手で顔を覆い、よろめくように膝をついた。
「はぁ…… 楓様に褒められるなんて……わたくし……このまま溶けて消えてしまいそうですわぁ……」
「勝手に消えるな! 頼りにしてるんだからな!」
「はぁい…… 絶対に、裏切りませんわ……絶対に」
蜘蛛たちはすでに窓の隙間から夜へと散っていた。
楓はその様子を見送りながら、胸の奥に熱いものを抱いた。
(ーー頼む。何か、日本に繋がる情報を……)
夜が更け、部屋に蝋燭の炎だけが揺れるころ――。
窓の隙間から、ひとつ、またひとつと米粒大の蜘蛛たちが戻ってきた。
「おかえりなさい、わたくしの愛しき分体たち……」
リリスが手を差し出すと、蜘蛛たちは整列するように手のひらへ集まり、体を震わせた。
次の瞬間――蜘蛛たちの腹から光が瞬き、糸のような輝きが走る。
床に落ちたその糸は、やがて編み上げられるようにして――羊皮紙に写された文字や図へと変わった。
「ーーこれが、公爵家の文献庫から写し取った記録、ですわ」
リリスは微笑み、布を広げるようにして楓に差し出した。
楓はそれを手に取り、慎重に目を通す。
そこには複雑な魔法陣の一部――幾重もの円と、文字に似た魔法文字の断片が描かれていた。
「ーー転移魔法陣の図面、だな」
楓の声が低く響く。
「ええ」リリスも真剣な表情に変わる。
「ですが……残念ながら完全ではありませんわ。分体たちが写し取れたのは“断片”のみ」
楓は図面を机に広げ、指でなぞる。
「ーー中央の式は転移の起点を示してる。でも……周囲の補助陣形がない」
「つまり?」
「このままじゃ動かない。ただの“模様”だ」
蝋燭の炎がぱちりと弾け、部屋の空気が重くなる。
リリスは腕を組み、顎に指をあてて考え込む。
「ーー記録の続きは別の場所に保管されているのかもしれませんわね」
「それもあるだろうけど……」
楓は羊皮紙の端に描かれた“地名”に目を止めた。
「ここを見ろ。“古き大地の記憶を宿す石窟”……ってある」
「石窟……?」
「多分、“遺跡”だ。ここに残りがあるんじゃないか」
リリスはぱちりと目を見開いた。
「つまり、まずはその遺跡を探し出し、調査する必要がある……そういうことですわね」
楓はうなずいた。
「そうだな。文献庫の断片だけじゃ帰る方法は分からない。……でも、この遺跡なら何かが見つかる」
リリスはそこで、にっこりと微笑んだ。
「でしたら――楓様とご一緒に、わたくしが調査のお供をいたしますわ」
「当たり前みたいに言うな」
「当然ですわ。だって、楓様はわたくしのご主人様ですもの」
「ーーはぁ」
楓は頭を押さえ、ため息をついた。
「ただし、調査となれば危険は必ずある。分体じゃなくて本体のお前を連れて行く。ついてこれるんだろうな?」
「もちろんですわ。蜘蛛の巣の迷宮だろうと、毒の海だろうと……楓様とならば」
「ーー真面目に言え」
「真面目ですわよ? “楓様と一緒”ってだけで、何よりも甘美なんですもの」
楓は椅子に深くもたれ、心の中で小さく呟いた。
(ーー結局、こいつがいなきゃどうにもならないのも事実なんだよな)
楓は図面を丸めて革筒に収めた。
「よし……決まりだ。次の目的地は、この“古き石窟”だ」
リリスは嬉しそうに楓の隣へ寄り添う。
「ふふ……では、旅の準備を整えなくてはなりませんわね。わたくし、装備も整えて……楓様のお役に立ってみせますわ」
「お前な……」楓は呆れ顔でリリスを見た。
「少なくとも“役に立つ”気はあるんだよな?」
「当然ですわ。ただ……それ以上に楓様に叱られたり、褒められたりするのが楽しみで仕方ありませんけれど」
「ーーどっちがメインなんだよ」
「ご想像にお任せしますわ」
蝋燭の炎が小さく揺れ、二人の影を壁に映した。
楓の旅路は、また新たな一歩を踏み出そうとしていた。
翌朝。
楓はいつものように軽装を整え、リリスを伴って街の中心へと向かった。
石畳の通りには市場が立ち、行商人の声と人々のざわめきが溢れている。
「ーー相変わらず賑やかだな」
楓が小さく呟くと、リリスは眉をひそめる。
「騒々しいですわね。楓様のお声がかき消されてしまいますわ……」
「いや、普通はこういうもんだから」
「“普通”ですって? 楓様といる時点で、すべてが非凡なのですわよ」
(ーーあー、もう始まった)
楓は心の中でため息をつきつつ、街の活気を眺める。
まずはギルドへ足を運ぶことにした。
重厚な木の扉を開けると、朝から依頼を受けに来た冒険者たちで賑わっている。
視線が一斉に楓とリリスに集まった。
リリスの美貌と異様な雰囲気――それだけで場の空気が変わる。
「ふふ……人間どもの視線、安っぽい欲望に満ちてますわね。楓様、目障りでしたら今すぐ黙らせましょうか?」
「やめろ。余計ややこしくなる」
「ーー残念ですわ」
楓は苦笑しつつ受付へ向かった。
顔なじみの受付嬢が、少し緊張した面持ちで迎える。
「古い遺跡のことを調べたいです。。ギルドに情報は残っていませんか?」
受付嬢は少し考えてから答える。
「遺跡ですか……詳しくは資料庫を確認していただくのが一番ですが、最近“山脈の麓で妙な光を見た”という報告が上がってます。それが遺跡かどうかは分かりませんが……」
「光?」
「ええ、夜になると山肌が一瞬だけ青白く輝いたとか」
リリスがにやりと笑う。
「ふふ……きな臭い話ですわね。ますます遺跡の可能性が高まりましたわ」
「だな」楓も頷く。
「ありがとうございます。資料庫も見せてもらいます」
受付嬢はこくりとうなずいた。
ギルドを後にした二人は、市場での買い物に向かった。
遺跡調査となれば食料や薬、装備の補充が必要だ。
「保存食を三日分、それと水袋も……」
楓が品を選んでいると、リリスが隣でじっと見つめてくる。
「ーー何だよ」
「楓様は実に合理的に物を選ばれますのね。ですが……わたくしには別の提案が」
「提案?」
「楓様専用の“蜘蛛糸製携行袋”はいかがかしら? 軽くて、丈夫で、どれだけ詰め込んでも破れませんわよ」
「ーーそれ、完全にお前が楽したいだけだろ」
「まぁ バレてしまいました?」
楓は思わず苦笑し、結局リリスに頼んで糸製の袋を作らせた。
見た目は黒い布袋のようだが、触ると驚くほど軽い。
(ーー便利なんだよな、結局)
買い物の途中、商人の一人がリリスに声をかけてきた。
「お嬢さん、美しいねぇ! ちょっと一杯どうだい?」
その瞬間、リリスの笑顔が氷のように冷たく変わった。
「ーー汚らわしい。楓様と肩を並べるわたくしに、下等な人間が声をかけるなど百年早いですわ」
商人は顔を引きつらせ、慌てて逃げ出す。
楓は頭を抱えた。
「お前なぁ……街で問題起こすなって言っただろ」
「だって、不愉快でしたもの」
「ーーはぁ」
だが、周囲の人間たちは誰もリリスに近づこうとはしなくなった。
買い物を終えた二人は、自宅へ戻った。
楓は机に資料を広げ、リリスと向かい合う。
「山脈の麓にある“青白い光”。それが次の調査場所だな」
「ええ、間違いありませんわ。遺跡の入口に違いありません」
楓は決意を固めた。
「よし、準備が整い次第出発する。目的はただ一つ――日本に帰る手がかりを掴むことだ」
リリスはにっこりと微笑む。
「ふふ……どこまでもお供いたしますわ、楓様♡」
夜。
石造りの一室で、楓は資料と地図を並べていた。
ろうそくの炎が、紙面と彼の表情を淡く照らす。
リリスは窓辺に腰をかけ、月を背にして楓を眺めていた。
長い銀糸のような髪が揺れ、闇に溶ける。
「……楓様、随分と真剣ですわね」
「当然だ。遺跡の断片的な図面しか手に入らなかった以上、下準備を徹底するしかない」
「けれど……」リリスは頬杖をつき、にやりと微笑む。
「“分からないことが多い”のは、わたくしにとって好都合。楓様にぴったり寄り添える口実になりますもの」
「ーーお前は真面目に言ってるのか、ふざけてるのか分からんな」
「両方ですわ」
楓はため息をつき、ペンを置いた。
「ーー正直に言うと、不安だ」
楓の言葉に、リリスが目を細める。
「不安……ですの?」
「日本に帰る手がかりを探すって決めた。だが、見つけられる保証はどこにもない。
遺跡に危険が待ち受けてるのは確かだろう。俺ひとりならまだしも、お前を巻き込むことになる」
リリスはくすりと笑った。
「まぁ……楓様ったら。わたくしを“巻き込む”ですって? 誤解もいいところですわ」
「誤解?」
「わたくしは望んで楓様と共にいます。危険だろうが、死地だろうが、あなたが進むなら――その影に従うのがわたくしの悦び。
それを“巻き込む”などと……あぁ、楓様ってば優しいのね」
「ーーそういう風に取るのかよ」
リリスはゆっくりと立ち上がり、楓の背後に回った。
両肩にそっと手を置き、耳元に口を近づける。
「不安を抱えるのは結構。ですが……わたくしがそばにいることだけは、疑わないでくださいまし」
「ーーリリス」
「蜘蛛は網を張って獲物を待ちます。楓様は歩みを進める。
その二つが合わされば――必ず道は開けますわ」
耳にかかる吐息が妙に熱く、楓は反射的に肩を竦めた。
「ーーお前、わざとだろ」
「ええ、もちろん」
楓は立ち上がり、窓辺へ歩み出た。
月明かりに照らされた山脈の影が遠くに見える。
「明日、あそこへ向かう。断片の地図でも、実際に見れば分かることがあるはずだ」
「ええ。蜘蛛の糸は、断片でも繋がれば網となる……遺跡も同じこと」
「ーーなるほどな。確かにお前の言う通りだ」
楓は拳を握りしめた。
「日本へ帰る。そのための手がかりを掴むまで、絶対に諦めない」
リリスはうっとりと微笑む。
「その決意……何よりも美味しそうですわ」
やがてろうそくの火が尽き、部屋は月明かりだけに包まれた。
二人はそれぞれの思いを胸に眠りにつく。
翌日――彼らはついに、山脈の麓に眠る“遺跡”へと向かうことになる。




