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エピソード34


 朝早く、楓はギルドの大扉を押し開けた。

冒険者たちが集まる酒場兼受付ホールは、まだまばらで、夜遅くまで飲んでいたであろう者たちが眠そうに欠伸をしている。

 そんな喧騒を横目に、楓は静かに受付へ向かった。


「おはようございます」

「おや、楓さん。今日は依頼じゃなくて?」


 いつもの受付嬢が不思議そうに首を傾げる。

 楓は軽く頭を下げて答えた。


「ええ。今日は……ギルドの図書館を使わせてもらいたくて」


「図書館、ですか? 珍しいですね」

「ちょっと調べたいことがありまして」


 受付嬢は少し意外そうに目を丸くしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。


「もちろんご利用いただけます。Bランク以上の冒険者であれば、許可証は不要ですから」

「助かります」


 楓は礼を言い、奥の扉から図書館へと足を踏み入れた。


 ギルドの図書館は、石造りの高い天井に、木製の書架がずらりと並ぶ荘厳な空間だった。

 冒険や魔術に関する記録、古い地誌や地図、珍しい魔物の生態記録。

 中には古代語で書かれた貴重な巻物もあるらしい。


 楓は深呼吸をしながら、書架を見渡した。


(ーーここに、帰るための手がかりがあるかもしれない)


 彼が求めるのは――異世界と繋がる術。

 召喚、転移、空間魔法……どんな小さな情報でもいい。


 ひとつひとつ背表紙をなぞり、目に留まった本を机に運んで読み始める。

 リリスは静かにその隣に立ち、周囲を見回していた。

 彼女にとっては、こうした「知識の場」は退屈なのかもしれない。

 けれど、邪魔をすることなく、ずっと楓の隣を守るように立っている。


「ーーふむ。やはり、空間転移の魔法は古代に研究されていたようだ」


 手にした分厚い本には、遠い昔に「大陸間転移」を試みた魔導師の記録があった。

 だが、それは失敗し、彼自身も行方不明になったと書かれている。


(やっぱり、簡単じゃないよな……)


 ページをめくるたび、希望と絶望が入り混じる。

 召喚に関する記録もあった。だが、召喚された者が元の世界に戻れた例は、見つからなかった。


「ーーカエデ様」

「ん?」

「難しい顔をされていますね」


 リリスが覗き込むように言った。

 楓は苦笑する。


「まあな。思った以上に、簡単にはいかないらしい」

「当然です。次元を越えるなど、本来なら神の御業。

 ……ですが、カエデ様なら、きっと何かを見つけられます」


 真っ直ぐな視線に、楓は少しだけ救われる思いがした。



 数時間後。

 何冊もの本を読み漁ったが、明確な帰還方法は見つからなかった。

 それでも、いくつか気になる記述はあった。


 ――「魔大陸」と呼ばれる遥かな地には、今も古代魔法が眠るという。

 ――災害の後に現れる「空間の歪み」から、異界の存在が流れ込むことがある。


 楓は眉をひそめる。


(魔大陸……リリスもそこから来たって言ってたな)


 そこに手がかりがあるのかもしれない。


「ーーそろそろ、今日はここまでにしよう」


 本を閉じて立ち上がる。

 リリスは無言で頷き、彼の後ろにぴたりとついてきた。


 図書館を出ると、外の光が眩しかった。

 楓は小さく息を吐く。


「次は、公爵家の資料を当たってみるか」


 彼の呟きに、リリスは小さく笑った。


「頼りにされるご身分ですね、カエデ様」

「ーーそういうわけじゃないけど、縁は大事にしないとな」


 自嘲気味に言う楓を、リリスはどこか誇らしげに見つめていた


 街の中心にそびえる公爵邸。

 白い石造りの壮麗な建物の前に立ち、楓は小さく息を吐いた。


「ーーさて、行くか」

「ええ、カエデ様」


 隣で優雅に歩くリリスは、今日も人々の視線を独り占めにしている。

 通りすがる人々が息を呑み、ある者は顔を赤らめ、ある者は思わず立ち止まって見送る。

 それだけの美貌と存在感を、彼女は生まれながらに纏っていた。


 しかし楓にとっては心配の種だった。


「リリス、言っておくが……今日は絶対に余計なことを言うなよ」

「余計なこと、ですか?」

「相手はこの街を治める公爵様だ。俺が前に世話になった相手でもある。失礼は許されない」


 リリスは小首を傾げ、妖艶な笑みを浮かべた。


「ーー理解できませんわね。カエデ様ほどの力をお持ちなら、人間ごときに気を使う必要などないでしょうに」


 楓は額を押さえた。


「ーーだから、そういう発言が余計なんだって。力だけが全てじゃない。世の中は、立場や繋がりで成り立ってるんだ」


「立場、繋がり……。なるほど、そういうものですか、人間は面倒な生き物ですね」


 渋々と頷くリリス。

 ただし口元には「退屈そう」とでも言いたげな笑みが浮かんでいた。


 重厚な扉が開き、応接室に入ると、すでに公爵が待っていた。

 立ち上がり、楓を迎える表情は以前会ったときよりも柔らかい。


「来てくれたか、楓」


「ご無沙汰しております、公爵閣下」

 楓は深く頭を下げる。


 以前、病で命の危機にあった娘リシェルを救った。

 楓が持ち込んだ素材と、ミルダの知恵で作った特製薬。その薬がリシェルを救い、公爵家は深い恩義を抱いている。


 公爵は楓の肩を叩き、微笑を浮かべた。


「おかげでリシェルも元気を取り戻した。今は庭を走り回るほどだ。

 その恩は、我が家は決して忘れぬ」


「ーーそれは何よりです」


 心から安堵する楓。

 彼にとっては「救えた」という結果そのものが、なによりの報酬だった。


 公爵は楓の隣に立つ人物に視線を移し、わずかに目を見開いた。


「ーーそして、そちらの淑女は?」


 漆黒の髪に透き通る肌、堂々とした立ち姿。

 ただ者ではない気配をまとったリリスに、公爵はただならぬ印象を受けたのだろう。


「リリスと申します。カエデ様に仕える者でございます」


 リリスは優雅に裾をつまみ、一礼する。

 その声音は丁寧で、笑みも浮かべているが――どこか挑発的な響きが混じっていた。


 公爵の眉がわずかに動いた。

 その気配を感じ取った楓が、慌てて言葉を補う。


「彼女は……冒険者としての仲間であり、今では私にとって信頼できる協力者です」


 公爵は楓を一瞥し、そして静かに頷いた。


「ふむ……。そなたがそう言うならば、信じよう」


 言葉は柔らかいが、その瞳はなおリリスを観察している。

 怪しげな力を感じ取っているのだろう。


 リリスは涼やかに笑みを浮かべ、公爵の視線を受け止めた。


 その態度は、むしろ「試してご覧なさい」と言わんばかりで――楓は心の中で大いに焦った。


(頼む、リリス……! 今だけは大人しくしてくれ!)


 ひとしきり視線を交わしたのち、公爵は楓へ向き直った。


「さて。今日はわざわざ何の用件で?」


「はい。実は……空間魔法等に関する資料を探しておりまして」


「ーーふむ、空間魔法、とな」


 公爵の表情がわずかに硬くなる。

 だが以前の恩があるからか、否定も嘲笑もせず、真剣に耳を傾けてくれた。


「この邸には古くから伝わる記録や伝承が数多く保管されております。

 楓殿ほどの恩人の頼みならば、閲覧を許すのもやぶさかではない」


「感謝いたします」


 楓は深々と頭を下げる。


 リリスは横で、退屈そうに爪を弄りながらも、公爵の言葉を聞き流していた。

 だがその仕草一つですら、侍女たちを息を呑ませるほどに美しい。


公爵との面談を終え、資料室に案内される前。

 応接間の扉が勢いよく開いた。


「――あっ! 楓さん!」


 透き通るような声とともに、リシェルが駆け込んできた。

 金色の髪を陽光に揺らし、頬を紅潮させながら走り寄るその姿は、以前病に伏していた少女とはまるで別人のようだ。


 楓は思わず微笑んだ。


「リシェル嬢……元気そうで何よりです」


「はい! あの時助けてもらってから、ずっと会いたかったんです! なのに、全然来てくれなかったじゃないですか」


 ぷくっと頬を膨らませ、恨めしげな視線を向けてくる。

 楓は困り果て、頭をかいた。


「すみません、依頼やら色々あって……」


「口実です! 絶対に!」


 リシェルがぴたりと楓の腕に抱きつく。

 細い腕の温もりが伝わり、楓は一層気まずさを覚えた。


 その瞬間、隣にいたリリスの瞳が妖しく細められる。

 微笑を浮かべながらも、その空気は氷のように冷たい。


「ーーカエデ様。ずいぶんと、懐かれていらっしゃるのですね」


 声は丁寧だが、背筋が凍るような迫力を秘めていた。


「え、ええと……まぁな、前に助けた縁で……」


 楓が慌てて取り繕うと、リリスはすっと彼の反対の腕に絡みついた。


「ふふ、困ったものですわね。カエデ様は私の“ご主人様”でございますのに」


 ――ご主人様。

 わざとらしい言葉に、リシェルの目がまん丸になる。


「えっ……ご、ご主人様って……ど、どういうことですか楓さん!?」


リシェルがぐっと楓の腕を抱きしめ直す。

小さな体からは想像できないほどの強い意志が宿っていた。


「認めるも何も、事実ですもの」

リリスは余裕たっぷりに笑い、指先で楓の袖をなぞった。

「カエデ様は、私の愛(毒)を受け入れ、この身を選んでくださった。ねぇ、そうでしょう?」


「いやいやいや! 俺は何も選んでないからな!?」

楓は即座に否定するが、リシェルは耳まで真っ赤に染めながら叫んだ。


「楓さん! 私に隠し事してませんか!? もしかして……もしかして、そういう仲なんですか!?」


「違う! 絶対違う! リリスが勝手に言ってるだけだ!」


「まぁ……“勝手”だなんて。酷いですわね」

リリスは唇を尖らせ、しなだれるように楓の肩に頭を寄せる。

「私はただ、事実を申し上げているだけですのに……」


「そ、それが誤解を招くんだって言ってるんだ!!」


 リシェルはぷるぷると肩を震わせ、決然と立ち上がった。


「ーーいいでしょう。リリスさん、でしたっけ。あなたがどれだけ楓さんを慕っているかなんて関係ありません。

 私だって楓さんを助けてもらって……ずっと、ずっと恩返ししたいと思っていたんです!」


 少女の瞳が強く燃える。

 その姿は、ただ守られるだけの病弱な娘ではなく、意志を持った一人の女性だった。


「ですから――絶対に負けません!」


 リリスは一瞬驚いたように目を瞬かせ、やがて楽しげに笑みを深めた。


「ふふ……いいですわね。その眼差し。まるで小鹿が必死に角を突き立ててくるみたい」


「小鹿じゃありません! 私は公爵家の娘です!」


「まぁ、それは失礼いたしましたわ。では“お嬢様”……負けませんことよ?」


 二人の間に、見えない火花が散る。


 楓は両腕を取られたまま、完全に板挟み状態。

 左には熱烈な少女。右には妖艶な悪魔。

 両者の視線は彼の存在を中心にぶつかり合い、まるで決闘前の剣士のような張り詰めた空気を生み出していた。


「お、俺を巻き込むなぁぁ……!」

心の中で絶叫するが、もちろん届くわけもない。


 公爵はというと、口元に手を当てながら穏やかに笑っていた。


「ーー楓、娘がここまで積極的に誰かに懐くのは初めてでな。少々やきもきもするが、悪い気はせん」


「公爵閣下!? 止めてくださいよ! これ以上ややこしくなりますから!」


「ははは、若いというのは良いものだな」


 部屋の隅で控えていた侍女たちは、目を輝かせてひそひそ声を交わしている。


「まあ……まるで恋愛劇ですわ!」

「お嬢様があんなに感情を露わにされるなんて……」

「リリス様も恐ろしいけれど、美しすぎて目が離せません……」


 楓は頭を抱えた。


「ーーやめてくれ、もう……」


「カエデ様」

リリスがふっと耳元に囁いた。

「どちらを選ばれるのか、今ここで答えていただいてもよろしいのですわよ?」


「なっ……!? い、今決めろとか無茶言うな!」


「え!? 選ぶって……楓さん、私とリリスさんのどちらかを!?」

リシェルがぱっと顔を上げ、涙目で楓を見つめる。


「ち、違う! そういう意味じゃ……!」


「では、どういう意味ですの?」

リリスは楽しげに問いかける。


「ーーっ!」


 楓は完全に言葉を詰まらせた。


 そんな修羅場の空気を切り裂くように、公爵が軽く咳払いをした。


「さて、茶番はこの辺にしておこう。楓殿、資料室を案内しようではないか」


「た、助かった……」

楓は心底ほっとした表情を浮かべた。


 だが両腕に絡みついた少女と悪魔は、最後まで離れる気配を見せなかった


公爵は執務机の奥にある扉を開き、楓を手招きした。

 そこは、貴族の中でも限られた者しか立ち入れないという「資料室」だった。


 分厚い扉が重い音を立てて開かれた。

 目の前に現れたのは、圧倒されるほど荘厳な空間だった。


 天井は高く、アーチを描く梁には金色の細工が施され、壁一面を埋め尽くす巨大な本棚がどこまでも続いている。背表紙の革は深い茶色から黒へと色あせ、所々に異国の文字や魔法の刻印が浮かび上がっていた。

 中央には長いテーブルがあり、燭台に灯された魔導灯が柔らかな光を投げかけている。その光はどこか神秘的で、時を超えて残された知識を照らし出しているようだった。


「ーーすごいな」

 楓は思わず感嘆の声を漏らした。ギルドの図書館も大きかったが、それ以上に、この資料室には重みと威厳があった。

 ただの蔵書ではない。権力と財力、そしてこの街を支える知の結晶――そう呼ぶにふさわしい空間だった。


 公爵が微笑を浮かべ、楓に向かって言った。

「楓の探し物に、どれほど役立つかは分からぬが……この街でもっとも古い記録がここにある。自由に調べると良い」


「ありがとうございます、公爵様」

 楓は深々と頭を下げた。日本での会社員時代、こんな風に頭を下げることは何度もあったが、今は心からの礼だった。


 隣に立つリリスは、書棚を見上げて肩をすくめる。

「ふん……見た目は立派ですけれど、蜘蛛の巣一つ張られていない時点で、実用性に欠けますね」


「いやいやいや、本に蜘蛛の巣張られてたら大問題だからな!」


「ですが、ご主人様。蜘蛛の糸で作られた本棚は千年単位で劣化しませんのに」


「その時点でホラーだからやめてくれ!」


 楓の小声のツッコミに、公爵とリシェルは顔を見合わせ、苦笑していた。


 調査はすぐに始まった。

 分厚い羊皮紙の書物を一冊、また一冊と机に積み重ね、楓は食い入るように読みふける。リシェルも傍らで手伝い、書物を運んだり目次をめくったりしてくれる。


「こちらの巻には、“空間の歪み”という言葉が出てきます」

 リシェルが指さしたのは、数百年前の年代記だった。

 そこには「大災厄により空間が裂け、異形のものが流れ込んだ」と記されていた。


 楓の心臓が跳ねた。

(……空間の歪み、か。俺がこの世界に飛ばされたのも、それに近い現象なのか?)


 ページをめくる指が止まらない。

 続く記述には「裂け目は閉じられたが、時折、別の世界の者が現れる」と書かれていた。

 異界渡り――まさに自分のことではないか。


 しかし、そこから先はぼんやりとしていて、「渡った者は大抵、還る術を見出せず」「そのままこの世界に生を終える」とだけ記されていた。


「ーー帰れない、ってことか?」

 楓は低く呟き、拳を握りしめた。


 その時、リリスが机の上に頬杖をつきながら、退屈そうに笑った。


「ご主人様……ほんとうに貴方は、この世界の人間ではなかったのですね」

 楓は顔をしかめ、彼女を睨む。


「小声で言え! リリスにしか話してないことだろ、それ」


「ふふふ、ご安心ください。私は口の堅い女ですのよ……ご主人様に命じられたことなら」

 わざとらしく囁き、妖艶に笑うリリスに、楓はぐったりと肩を落とすしかなかった。


 公爵は記録を眺めながら静かに言葉を継いだ。

「古代の災厄が生んだ裂け目……それがいまだに残っているかどうかは不明です。ですが、かつて“魔大陸”で似た事例があったと記されています」


「魔大陸……」

 楓が呟くと、リリスが即座に反応した。

「まあ……やはりこの国の人間は、魔大陸をご存じないのですね」

「どんなところなんだ?」

「魔族が支配する大陸。強者だけが生き残れる地獄。……ご主人様のような方なら、きっと歓迎されるでしょうね」

「いやいや、俺は観光気分で行けるような場所じゃねぇだろそれ……!」


 こうして資料室での調査は続き、最終的に「帰還の方法そのもの」は見つからなかった。

 だが、“空間の歪み”“異界渡り”“魔大陸”――三つのキーワードが、確かな糸口として楓の胸に刻まれた。


 羊皮紙の匂いと、古びたインクの匂いが漂う空間で、時間はあっという間に過ぎていった。

 楓は読み込んだ記録をメモのように頭へ刻み込みながら、深くため息を吐いた。


「ーー結局、直接“帰れる方法”は見つからなかったな」

 閉じた本を軽く叩きながら、ぽつりと呟く。


 隣で椅子に座っていたリシェルは、心配そうに楓を見上げた。


「楓様……とても残念そうです」


「いや、ヒントが見つかっただけでも前進です。“空間の歪み”“魔大陸”……これがキーワードになると思います」


 楓の言葉に、公爵は顎に手を添えて頷いた。

「魔大陸の記録は、我々の大陸ではほとんど残されていない。危険すぎる地ゆえ、調査に行ける者もいないのだよ」


「そうですか……」

 楓は小さく呟き、目を伏せる。胸の奥に重たい感情が渦巻いていた。


 そんな空気を破るように、リリスがふわりと笑った。


「ご主人様。――情報が足りないのなら、わたくしにお任せくださいませ」


「ーーは?」

 楓は首を傾げた。リリスは背もたれに寄りかかり、長い脚を優雅に組みながらこっそり楓だけに言葉を続ける。


「わたくしは“分体”を作れますの。ほんの小さな蜘蛛――肉眼でやっと見えるくらいのサイズの。それをこの街中に放てば、耳や目を張り巡らせることなど造作もありませんわ」


「……」

 楓の顔が引きつった。

「いやいやいや……待て。それ完全に盗聴と盗撮の親玉だろ」


「ふふふ、表現が庶民的で面白いですわね。けれど実際、効率的でしょう?」

 リリスは唇に笑みを浮かべながら身を乗り出し、楓の耳元へ囁くように言った。

「ご主人様が求める情報……わたくしが全部、集めて差し上げます」


「……」

 楓は頭を抱えた。想像してしまったのだ。街の路地裏、酒場、冒険者ギルド……至る所に小さな蜘蛛がちょろちょろ動き回り、人々の秘密を拾っていく様を。

(うわぁ……それ、絶対バレたら街中の人間から怒られるやつだろ……!)


 だが同時に、リリスの言うことは正しかった。

 自分一人で聞き込みして回るより、ずっと広い範囲から情報を集められる。しかも、彼女の分体なら誰も気づかない。


「ーーわかった。ありがとな、リリス」

 しぶしぶそう言うと、リリスは目を輝かせた。

「まあ! ご主人様からお褒めの言葉をいただけるなんて……」

 両手を頬に当て、うっとりと身を震わせる。


「いや、褒めてるっていうか……まあ役立つなってだけで……」

「ご主人様、もっとはっきりおっしゃってくださいませ。『リリスは天才だ』『最強の助手だ』と!」

「要求が面倒くせぇ……!」


 隣でリシェルは目を丸くしていたが、やがて小さく笑ってしまった。

「リリスさん、本当に……楓様に忠実なのですね」


 リリスは涼しい顔で答える。

「当然ですわ。ご主人様は、わたくしを唯一“屈服させた”お方なのですから」

 その言い方にまた余計な誤解が生まれそうで、楓は「言い方!」と即座に突っ込んだ。


 公爵は咳払いをして話を戻す。

「ともあれ、楓はこの街のために成果をあげ、娘の命も救った――、よければ今後も資料を調べる許可を与えよう」


「ーー本当に、ありがとうございます」

 楓は深く頭を下げた。その姿を見て、リシェルも穏やかに微笑む。


 楓の胸の中には、まだ重たい不安が渦巻いていた。だが同時に――新しい糸口を掴んだ確かな感触もあった。



 楓とリリスは、公爵家の重厚な門を出ると、夕暮れの街並みに足を踏み出した。空は茜色に染まり、石畳が赤く照らされている。

 背後では、リシェルが最後まで窓辺から手を振っていた。


「ーーあの子、本当に楓様に懐いてますわね」

 リリスが皮肉めいた笑みを浮かべる。


「いや、俺はただ助けただけだから。懐かれる理由なんて……」

「ご主人様はご自覚がないのです。優しくして、救ってあげたら、誰だって惹かれますわ」

「ーー誤解を招く言い方はやめろ」

「誤解、ですの?」

 わざとらしく小首をかしげるリリスに、楓は頭を抱えた。


 街の大通りを歩きながら、楓は今日得た情報を反芻する。

 帰る方法はわからなかった。けれど、“魔大陸”という手がかりが残った。そこに、自分の求める答えが眠っているかもしれない。


「ただ……魔大陸なんて危険地帯、俺ひとりの足じゃ限界がある」

 思わず漏らした言葉に、リリスが得意げに胸を張る。

「だからこそ、わたくしが必要なのですわ。ご主人様」


 楓は足を止め、リリスを真っ直ぐに見た。

「ーーリリス。分体の件だけど」

「はい」

「もし、街や旅先で何か少しでも情報を掴んだら、全部俺に伝えてくれ。どんな些細なことでもいい」


 リリスの赤い瞳が嬉しそうに揺れる。

「承りましたわ、ご主人様。小さな声も、影に潜む噂も、すべてわたくしの網にかけて差し上げます」

 そう言って、恭しく片手を胸に当てる。


「ーー頼りにしてるぞ」

 その一言に、リリスの頬が綻びた。

「まぁ……! ご主人様にそう言われては、わたくし全力を尽くさざるを得ませんわね」


 こうして楓は、正式にリリスへ“情報収集”を託すことを決めた。

 蜘蛛の糸のように広がっていくであろうその網が、いつか必ず――日本へ帰る道を指し示してくれると信じながら。


楓の家の居間。

食卓の上にはまだ昼食の片付けが残り、窓からは夕暮れ前の柔らかな光が差し込んでいた。


リリスはいつも通り楓の椅子の隣に腰かけ、妙に上機嫌な笑みを浮かべていた。

その表情に、楓は嫌な予感しかしなかった。


「ーーなんか、機嫌いいな」

「ふふふ、もちろんですとも。楓様に“お役に立てる姿”をお見せできるのですから」


リリスは胸を張り、わざとらしく髪をかきあげる。艶めく黒髪が光を受けて揺れる仕草は美しいが、彼女の自信満々な態度が余計に警戒心を煽る。


「ーーで、その“お役立ち”ってやつは?」

「お見せしましょう」


リリスは手のひらをすっと掲げた。

すると、その白い掌に黒い点がふわりと浮かび、やがて小さな脚を動かし始める。


「ーーえ、ちょっと待て。これ、まさか」


楓が目を凝らすと、それは人間の爪ほどの大きさしかない、小さな蜘蛛だった。

しかしただの蜘蛛ではない。八本の脚はしなやかに動き、まるで意思を持つかのように周囲を観察するよう首を振る。


「可愛いでしょう?」

「ーー可愛いかこれ? 普通にただの蜘蛛だろ。むしろ苦手な人の方が多いわ」


「まあ、見る人によってはそうかもしれませんね。ですがこの子たち……いえ、わたくしの“分体”は、わたくしと意識を繋げることで街の隅々まで潜り込み、音もなく情報を収集できますの」


「ーースパイ蜘蛛か」

「はい、楓様が求める“手がかり”を探し出すには、最高の方法だと思いませんか?」


リリスは誇らしげに笑みを浮かべる。

一方の楓は、机の上をちょろちょろと動く小さな蜘蛛たちを見て、思わず頭を抱えた。


「ーーいや、これ絶対街の人に見つかったら嫌われるやつだろ。なんか“魔女の呪い”とか言われそう」

「楓様、あまりに人間を過大評価していませんか? このサイズなら気づかれることはほとんどありません。仮に気づかれたとしても……ふふ、潰される前に逃げられますよ」


リリスはまるで無邪気に語るが、楓の背中にはぞわっと冷たいものが走った。

(いや、冷静に考えたら……便利だよな。聞き込みで怪しまれることもないし、足で稼ぐより効率的だし。……でも、蜘蛛ってところがなんか嫌なんだよな)


そんな楓の葛藤をよそに、リリスはさらに蜘蛛を生み出す。

掌の上だけでなく、床や窓辺にも小さな分体が次々と姿を現す。


「おいおい、ちょっと待て! 家の中で増やすな! 掃除が大変になるだろ!」

「ご安心ください。この子たちはわたくしの意思で消せますから」


リリスは指をぱちんと鳴らす。

すると、散らばっていた小さな蜘蛛たちは次の瞬間、黒い靄のように溶けて消えた。


「ーー便利すぎるな」

「お褒めいただき光栄です」


リリスは嬉しそうに両手を胸の前で組み、陶酔したように楓を見上げる。

楓は深いため息をつきながら、渋々口を開いた。


「ーーまあ、役には立つ。……助かるよ」

「っ、楓様……! そのお言葉だけで、生きている甲斐がございます!」


リリスは顔を赤らめ、身をくねらせながら喜びをあらわにした。

楓は机に突っ伏すようにして心の中で叫ぶ。


(ーーやっぱこいつ、絶対変態だよな……!)


翌日。

楓とリリスは、街の石畳の通りを歩いていた。市場が立ち、行商人の声や客のざわめきで賑わっている。


楓は周囲を観察しつつ、できるだけ人混みに紛れるように歩いていた。

一方のリリスは、黒髪を揺らしながら堂々とした足取りで進む。見惚れる者も多いが、彼女の鋭い視線と人を小馬鹿にしたような笑みのせいで、近づこうとする者はいなかった。


「ーーなあリリス、ほんとにこんな人混みでやるのか?」

「ええ、もちろんです。こういう場所こそ、情報が集まりやすいのですもの」


リリスは人混みの中で足を止めると、さりげなくスカートの裾を摘んで持ち上げるような仕草をした。

その瞬間――楓の足元に、黒い小さな影がいくつも走り出す。


(お、おい……堂々とやりすぎじゃないか!?)


人々は誰も気づかない。分体の蜘蛛たちは、ほんの数ミリ程度の極小サイズに縮められていた。

露店の下、樽の隙間、壁の影……気づかれぬまま、無数の小さな眼と耳となって街へ散っていく。


「ーーすげえな。気配が全然ない」

「ふふ、当たり前でしょう? これでもわたくし、【隠密】の心得くらいはありますのよ」


リリスは得意げに微笑む。その表情は「褒めろ」と言わんばかりだ。


楓は心の中で大きなため息をついた。

(こういうところだけ妙に素直なんだよな……。いやまあ、役に立つのは事実だけどさ)



市場の酒場の裏口。

小さな蜘蛛は、酔った男たちの会話をじっと聞いていた。


「ーーおい、聞いたか? 西の街道沿いの村で、魔物の群れが夜ごとに出るってよ」

「へぇ……ただの狼か猪だろ。どうせ誇張してるんだ」

「いや、どうも“見たこともねぇ影”だったって噂だ」


蜘蛛は会話の断片を拾うと、すぐさま別の路地へ移動した。


別の蜘蛛は、商人の話を聞いていた。

「この前、公爵家の倉庫から古文書を借りてきたんだがな……どうにも“古代の遺跡”の記録らしい。どこにあるかまでは書いてなかったが……」


蜘蛛は音もなく天井の梁を伝って去っていく。


さらに別の蜘蛛は、街の井戸端で話す老婆たちの噂話を聞いていた。

「最近、変な旅人を見たって子がいてね……黒いローブに、見たこともない紋様が刻まれてたとか……」

「怖いわねぇ。魔大陸の魔族かしら」


小さな分体たちは、それぞれ情報を集め終えると同時に、ふっと煙のように消えた。



夕方。

楓とリリスは、街外れの石垣に腰掛けていた。


リリスは両手を膝に置き、目を閉じて集中している。

やがてゆっくり目を開けると、楓の方に向き直り、にやりと笑った。


「ーーいくつか、面白い情報が手に入りましたわ」

「おお、ほんとか」

「ええ。西の街道沿いの村で“正体不明の魔物”が出没していること。そして、公爵家の倉庫から“古代遺跡”の文献が持ち出されたこと」


「ーー遺跡、か」

楓の胸が高鳴る。異世界に来てからずっと探していた、自分が元の世界へ帰るための手がかり――それに繋がるかもしれない言葉だ。


「もちろん、ただの噂話も多いですが……無駄にはなりませんわ」

「……すげえな。ほんとに情報が集まるんだな」


楓が感心したように呟くと、リリスの頬がふっと赤く染まった。


「そ、そんな……当然のことをしたまでですわ」

「いや、助かったよ。ありがとな」


「ーーっ」


リリスは目を潤ませ、両手で頬を押さえながら身をくねらせた。

「楓様に……褒められるなんて……! も、もっと言ってくださっても……」


「いや、もう十分だ」

楓は顔をそむけ、頭をかかえた。

(こいつ、褒めると調子に乗るんだよな……でも役立つから無下にもできねえし……めんどくせぇ!)

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