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エピソード32

 村人たちから盛大に見送られ、楓とリリスは夕暮れの森を抜けて街道へと戻っていった。

 背後で子どもたちの声が響く。


「ありがとー! カエデお兄ちゃーん!」


 楓は苦笑しつつ軽く手を振るが、その横でリリスは顎を少し上げ、冷ややかに呟いた。


「ーーカエデ様を“お兄ちゃん”などと呼ぶなど、身の程知らずですわね。今度から、私が教育して差し上げます」


「いや、教育しなくていいからな? あれはただの感謝の声だ」


「ですが……っ、カエデ様に不用意に触れるのも呼びかけるのも、僭越というもの……」


「(ほんと面倒くさいやつ連れてきたな……)」


 楓は額を押さえ、森道を早足に歩き出す。

 リリスはすぐ横にぴたりとつき、まるで影のように寄り添った。


 夕焼けの光が山の端を落ち、やがて夜が森を支配する。

 焚き火を囲んで一泊することにした楓は、簡素な野営を整えた。

 火がぱちぱちと爆ぜ、暗闇に赤い灯が踊る。


 リリスはその光を見つめながら、ゆっくりと楓の方に身を寄せる。

 胸元を押さえ、頬を染め、囁くように。


「では……カエデ様。最初の、ご褒美をいただけますか?」


「ーーは?」


 楓は箸を持ったまま固まる。


「ご褒美……戦いの勝利の証として、勇者が戦利品を得るように。あるいは休息の恵みのように……。わたくしにも、カエデ様から“お慈悲”をいただきたいのです」


「ーー具体的に?」


 問い返すと、リリスは潤んだ瞳でじっと楓を見つめる。


「はい。わたくし……頑張りましたでしょう? ですから、ほんの少しで構いません。お手を、握らせていただければ……それだけで、生きている実感が湧きますの……」


 言葉の端々に恍惚とした響きが滲む。


「(ーー握手がご褒美? それでここまで必死に願うのか……?)」


 楓は呆れ半分、ため息半分で手を差し出した。


「ほら。これでいいだろ」


「ーーっ!」


 リリスの指が震えながら絡みつき、楓の手を両手で包み込む。

 その瞬間、彼女の全身がぶるりと震え、吐息が熱を帯びる。


「あぁぁぁ……っ……! カエデ様のお手……温かい……柔らかい……。わたくし、いま、幸せで死んでしまいそう……」


「いや死ぬなよ!?」


 楓は慌てて手を引こうとするが、リリスは必死にしがみついて離さない。


「いえ……離しませんっ。せっかくのご褒美ですもの……あと三十秒だけ……!」


「なぜ秒数を決めてるんだ……」


 結局、三十秒どころか数分ほど握られ続け、楓は観念した。



 翌朝、街道を歩く二人の姿があった。

 朝日が差し込み、鳥の声が響く。


「さて……ギルドに戻るか」


 楓がそう呟くと、リリスは瞳を輝かせ、嬉々として頷いた。


「はいっ! ギルドの方々にも、カエデ様の偉業を広めなくてはっ!」


「いや、広めなくていい。報告だけで充分だ」


「ですがぁ……! あの方々、カエデ様の偉大さを知らぬまま過ごすなんて……罪ですわ!」


「罪じゃねぇよ!」


 リリスはなおも「カエデ様の素晴らしさを伝えたい」とぶつぶつ呟きながら歩いていたが、楓は完全に無視して進み続けた。


 やがて街の城壁が見えてくる。

 門番に挨拶を交わし、街へと入った瞬間――周囲の視線が一斉にリリスへと注がれた。


 絶世の美女。艶やかに揺れる黒髪。

 蜘蛛糸で織られたドレスは、すでに街仕様へと整えられているが、それでも彼女の美貌は隠しきれない。


「な、なんだ……あの女……」

「美しすぎる……」


 人々がざわめき、足を止める。

 リリスはそんな視線を当然のものと受け止め、誇らしげに胸を張った。


「ふふ……皆の目線、心地よいですわ。ですが……」


 彼女はすっと楓の腕を取る。


「ーーこの身は、カエデ様だけのもの。他の誰にも触れさせません」


「おい、余計に目立つからやめろ!」


 楓の抗議を無視して、リリスは嬉しそうに腕を絡め続ける。


 二人はそのまま、冒険者ギルドの扉を押し開けた。


ギルドの扉を押し開けた瞬間、楓はすぐに後悔した。


「ーーやっぱり、目立ちすぎるな」

横を歩くリリスの存在感が、予想以上に強烈だったからだ。


昼下がりのギルドは、冒険者たちでごった返していた。酒をあおる者、次の依頼を探す者、仲間と談笑する者――喧噪に包まれていた空間が、楓とリリスが足を踏み入れた瞬間、まるで息を止めたように静まった。


「ーーっ!」

「な、なんだ……」

「すげぇ……女神みたいじゃねぇか……」


冒険者たちが次々と視線を向け、あからさまに息を呑む。豪胆なはずの戦士でさえ、武器を握る手を止め、魅入られたように目を奪われていた。


(おいおい、視線が突き刺さってるじゃねぇか……)

楓は心の中で盛大にため息をつく。予想はしていた。だが、ここまで一瞬で空気を支配するとは思っていなかった。


 リリスはというと、そんな周囲の視線など意にも介さない。冷ややかで威厳に満ちた表情で、ただ楓の背に寄り添うように歩く。

 ただし――楓にだけは、柔らかい笑みを浮かべ、上目遣いに視線を送ってきた。


「楓様……やはり、こういう場所はざわめきが多いのですね」


「ーーお前のせいで静まり返ってるけどな」


「ふふっ……私ごときに、皆様が圧倒されてしまったようです」


(自覚あるならもう少し抑えてくれ……)

心の中で突っ込みつつ、楓は受付カウンターへ向かった。


「か、楓さん!」

カウンターにいた若い受付嬢が立ち上がり、目を見開いた。

「ご無事で何よりです! 森に一人で向かわれたと聞いて、ずっと心配していたんですよ!」


「そうですか……心配をかけました」


楓は簡潔に答え、報告を始める。


「森から魔物が出てきていた件ですが、原因は解決しました。もう村に被害が及ぶことはないと思います。」


「本当ですか!」

受付嬢の表情がぱっと明るくなる。だが、安堵の笑顔はすぐに戸惑いへと変わった。楓の隣に立つリリスの存在に気づいたからだ。


「そちらの方は……?」


楓は言葉を選んだ。こいつが原因の蜘蛛の親玉でした、などと言えるはずもない。討伐対象にされかねないのだから。


「ーー今回の調査で出会った冒険者です。事情があって、俺とパーティを組むことになりました」


「パーティ……そうだったんですね!」


受付嬢は納得したように頷いた。だがその視線は、驚きと羨望とわずかな警戒を入り混ぜながら、リリスに釘付けになっている。


リリスはにこりと微笑み、柔らかく一礼した。


――その瞬間、受付嬢の頬がかすかに赤らんだ。


(おい、受付嬢まで見惚れてるぞ……お前、どんだけ男も女も虜にするんだよ……)

楓は内心で頭を抱えた。


もちろん、黙っていない連中もいた。


「おいおい、聞いたか? 楓のパーティにあんな美人が……」

「信じられねぇ……どんな手使ったんだよ、羨ましい……」

「はっ、どうせ口だけだろ。俺たちならもっと上手くやれるって」


 嫉妬と羨望と好奇心が入り混じった視線が、次々とリリスへ注がれる。やがて、数人の酔った冒険者が立ち上がり、酒臭い息を撒き散らしながら近づいてきた。


「なぁお嬢ちゃん、あんな陰気なやつと組むより、俺らと来ないか? 楽しいぞ?」

「そうそう! 美人にはもっと似合う男がいるってもんだ!」


リリスはゆっくりと彼らに視線を向けた。その瞳は氷のように冷たく、先ほどまでの柔らかな微笑みが嘘のようだった。


「……私に触れようとするなど、身の程知らずも甚だしい」


ぞくり、と空気が凍る。


「な、なんだと?」

強がって手を伸ばそうとした冒険者の腕を、リリスは指先で軽く弾いた。


――その瞬間。


「ぎゃっ……!? あ、腕が……!」


彼の腕が目に見えぬ糸に絡め取られ、ねじれ上げられるように床へ叩きつけられた。


「おい、てめぇ!」

仲間が慌てて武器に手を伸ばすが、リリスは冷ややかに笑った。


「あなたたち程度、私が本気を出さずとも……塵と消せるのよ?」


声と同時に、彼らの足元に糸が走り、体を縛りつける。動けなくなった冒険者たちは蒼白な顔で叫んだ。


「ひっ……ひいいっ!」

「ま、参った……もう二度と手を出さねぇ!」


リリスは鼻で笑い、冷たく言い放った。


「二度と、私の視界に入ってくるな屑。さもなくば……次はその舌をいただこうかしら?」


冒険者たちは情けない悲鳴を上げ、転げるように逃げ去った。



楓はというと――

(ーーやっぱりこうなるか。止める間もなかったな……)

内心で頭を抱えるしかなかった。


リリスはそんな楓に、急に柔らかな笑顔を向けた。

「ご安心くださいませ、楓様。私が興味を持つのは、あなただけですから」


(お前さっきまで氷の女王みたいな顔で脅してただろ……どんだけ切り替え早いんだよ……)


楓の心のツッコミも虚しく、ギルド全体は完全にリリスの存在感に飲み込まれていた。誰も近寄ろうとしない。視線を送るだけで精一杯だ。


受付嬢は震える声で言った。

「と、とにかく……森の件は解決として報告を上げておきますね!」


楓は軽く頷き、リリスを伴ってその場を後にした。


ギルドに残された冒険者たちは、ただ呆然と二人の後ろ姿を見送るしかなかった。


受付嬢が慌ただしく書類を整理していると、二階の執務室から重い足音が響いた。


「――随分と賑やかだな」


低く響く声と共に現れたのは、ギルドマスターだった。灰色の髭を撫でつけながら、鋭い視線を楓とリリスに向ける。


「楓、帰ってきたか」

「はい。森の件は解決しました」


楓が短く報告すると、ギルドマスターの眉がぴくりと動く。 


「ーー解決、だと? 本当にか?」


「ええ。森から魔物が溢れてくることは、もうありません」


楓の声は揺るぎなかった。

ギルドの空気が一層張り詰める。誰もがギルドマスターの返答を待っている。



ギルドマスターは腕を組み、低い声で問う。 


「詳しく話せ。何があった?」


楓は内心で息を整えた。――真実を話すわけにはいかない。リリスが原因である蜘蛛の親玉だったなどと言えば、即座に討伐依頼が出されてしまうだろう。


「ーー森の奥に異常な巣を張る魔物が潜んでいました。そいつを倒した結果、異変は収まりました」


「倒した……だと?」


ざわめきが広がる。楓一人で、そんな化け物を?


ギルドマスターの眼光がさらに鋭さを増す。


「お前……一体何を相手にしたんだ?」


楓は一瞬だけリリスに視線を送り、軽く頷いた。


「ーー新たに出会った冒険者と共に戦いました。彼女です」


リリスが一歩前に出て、優雅に頭を下げる。

「リリスよ。楓様のお力に惹かれ、この方にお仕えすることを決めたの。今回の件も、陰ながらお力添えしたのよ」


その声音はしとやかで美しく、ギルドの空気をさらに震わせた。


だが次の瞬間、彼女の視線が冒険者たちに向くと――冷ややかな刃のような笑みに変わる。


「もっとも……楓様がいなければ、あなた方ごときでは一歩も奥に入れなかったでしょうけれど」


「なっ……!」

「ぐっ……言わせておけば……」


 挑発に、何人かの冒険者が悔しそうに歯噛みする。しかし、先ほど糸で縛り上げられた者たちを思い出すと、誰一人反論できなかった。


(おいおい……余計に波風立てるなよ……)

 楓は額を押さえる。だが、リリスは涼しい顔で再び楓に向き直り、にこりと笑った。


「もちろん、楓様のお力がなければ私も……存分に楽しむことはできなかったけれど」


(……楽しむな)


ギルドマスターはしばし沈黙したのち、大きく息を吐いた。

「ーー報告の真偽については後日調査を出す。だが、村からの報告も確かに一致している。被害が収まったなら、それだけで十分な成果だ」


その声には重みがあった。

「楓。お前の実力は、もはやBランクを超えているのかもな。今回の件で、Aランクも検討する」


「ーーありがとうございます。」

楓は静かに頷いた。周囲の冒険者たちが一斉にざわめく。


「やっぱり……!」

「あの若造がAランクに……」

「いや、むしろ遅すぎたくらいじゃねぇか……」


羨望と嫉妬と畏怖が入り混じる視線が、再び楓に注がれる。だが楓はそれらを一切気に留めず、ただ淡々と受け止めた。


一方、リリスに向けられる視線は別種のものだった。

「なんなんだ、あの女……」

「楓の仲間? いや、どう見ても只者じゃねぇ……」

「美しすぎて、近寄れねぇ……」


先ほどちょっかいを出して返り討ちに遭った連中は、蒼白な顔で酒をあおっている。


「もう二度と関わらねぇ……あれは女じゃねぇ、化け物だ……」

「でも、あの従順な態度……羨ましい……」

「従順なの、楓にだけだろうがよ……」


そんなひそひそ話を背に、リリスはうっとりと楓を見上げる。 


「楓様……改めて、素晴らしいお力でございました。私の毒すら凌駕するその威力……胸が震えます」


(頼むから公衆の面前で変態発言するな……!)


楓は頭を抱えたくなるが、ギルド中の冒険者はただ呆然とその光景を眺めるしかなかった。


「ーーとにかく、今回の件はお前の大きな功績だ」


ギルドマスターは楓の肩をどん、と叩く。


「ただし、今後は一人で突っ走るな。どれほど強かろうと、油断すれば命を落とすのがこの世界だ」


「肝に銘じます」


「それと……リリスとか言ったな」

「はい」

「お前の実力、確かに見させてもらった。楓を支えるというなら、せいぜい足を引っ張らないことだ」


リリスは恭しく頭を下げた。

「もちろんよ。私は楓様に絶対の忠誠を誓っている」


ギルドマスターは一瞬だけ目を細め、そして笑った。

「ーー随分と変わった奴を連れてきたもんだな、楓」


楓は深いため息をつき、肩をすくめた。

(俺だって好きで連れてきたわけじゃないんだが……)



その後もギルドは一日中ざわめいていた。


「楓がまた何かやらかしたらしいぞ」

「隣の女……リリスだっけ? あれは人間か?」

「下手に手を出したら死ぬぞ。さっきの連中見ただろ」

「いや、それより……これから先、どうなるんだ……」


噂は瞬く間に広がり、楓とリリスの名前はその日のうちに街中で語られるようになった



 ギルドでの報告を終え、夜もすっかり更けていた。街灯の明かりが石畳を照らし、静けさが辺りを包む。

 楓は歩きながら、後ろをついてくるリリスをちらりと振り返った。


「ーーだから、ぴったり後ろにくっつくのはやめろって言ってるだろ」


「いえ、これは私の忠誠の証でして。ご主人様の影となり、呼吸の音さえ逃さず聞き取るのが下僕の務めです」


 自信満々に言うリリスの姿に、楓は思わず額を押さえる。


「お前、影どころか背後霊だろ……」


「まぁっ! ご主人様に“背後霊”と称されるなんて……光栄ですわ」


 声までうっとりと震わせるリリス。楓は一瞬、本気で頭を抱えそうになった。

 ギルドでも散々視線を集めた彼女だが、街中を歩いているだけでもすれ違う人々の視線が釘付けになる。

 長い黒髪、しなやかな肢体、妖艶さを纏った美女――しかも楓の後ろにぴったり張り付いている。


「はぁ……目立って仕方ない」


「ご主人様の栄光を引き立てるのが私の役目ですので。皆の視線は当然でございますわ」


 そんな調子でリリスはどこまでもポジティブだった。


 やがて楓の家に着き、扉を開ける。木造りの小さな家だが、きちんと整えられている。

 暖炉にはまだ炭がくすぶっており、帰宅の安心感が漂う。


「ふぅ……やっと落ち着ける」

「まぁ! これがご主人様のお住まい……なんと素敵な隠れ家でしょう」


 リリスは物珍しそうに部屋を見回す。壁の棚に置かれた書物や道具を眺めては、ふんふんと興味深そうにうなずいた。


「ーーあまり触るなよ。冒険の資料とか大事なもんもあるからな」


「もちろんですわ。私はご主人様に命も魂も捧げておりますもの。物品を壊すなんてとんでもない」


 そう言いつつ、彼女は棚に顔を寄せ、匂いを嗅ぐような仕草をする。

 楓は冷たい目でその様子を見ていた。


「ーー今、何してる」


「ええ、これらにご主人様の気配が染み付いているのを感じて……嗚呼、胸が熱くなりますわ」


「やっぱりお前、危ないやつだな……」



 暖炉に薪をくべ直し、簡単な食事を用意する。パンとスープだけだが、腹を満たすには十分だ。

 楓が食卓に腰を下ろすと、リリスも当然のように隣に座った。


「ーー正面に座れよ」


「いえ、下僕がご主人様と対等に座るなんて烏滸がましいことはできません。常に隣で、控えさせていただきます」


「ーーもう好きにしろ」


 楓は諦めてスープをすする。リリスは嬉しそうにそれを見守るばかりで、自分の分には一切手を付けようとしない。


「食べないのか?」

「私は、ご主人様が召し上がる姿だけで満たされますわ」

「ーーいや、それはそれで気持ち悪い」


 仕方なく楓が彼女の前にパンを置くと、リリスは頬を染めながらおずおずと手を伸ばした。


「ーーご主人様が与えてくださったのですもの。ありがたく頂戴します」


 まるで神聖な儀式のように、パンを両手で持ち、恭しく口にするリリス。

 楓は「何の茶番だ……」と内心で突っ込みつつ、話を本題に戻した。


「さて……今後のことを決めないとな」

「はいっ! 私はご主人様の決定に全て従います!」


 机に身を乗り出して瞳を輝かせるリリス。

 楓は少し間を置いてから、真面目な声で言った。


「ただでさえお前の存在は目立つ。村人たちには“仲間だ”って誤魔化したけど、ギルドで顔も割れたし、軽く済むとは思えない」

「問題ございません。私はご主人様の盾にも剣にもなります。例え街中の人間が敵になろうとも」


「そういうことを本気で言うから怖いんだよ……」


 楓は頭をかきながら続けた。


「今のところ、俺が選ぶのは二つだ。一つは……この街にしばらく腰を落ち着けて、依頼をこなしていく。もう一つは……いずれ魔大陸について調べる旅に出る。お前の話を聞いても、あそこがどういう場所か分からないしな」


 リリスは嬉しそうに両手を胸に当てた。


「ご主人様がどちらを選ばれても、私は常に傍らにおります。あぁ……この身を差し出せることが、どれほど幸福か」


「お前が幸せそうなのは分かった。だがな……」


 楓は真剣な目でリリスを見る。


「この先、俺の足手まといになるようなら置いていく。その覚悟はしておけ」

「ーーっ! ご主人様!」


 リリスは椅子をがたんと鳴らして立ち上がった。そして深々と頭を下げる。


「ご心配なく。私は絶対に足手まといにはなりません。むしろ、役立つために存在しております。ご主人様の影、道具、奴隷……何とでもお呼びください!」


「ーーお前、言葉の端々が重いんだよな」


 楓は思わずため息をついたが、同時に「まぁ、役に立つのは事実だ」とも心の中で思う。

 洞窟での戦いを思い返せば、彼女の戦闘能力は確かに高い。制御さえできれば、強力な戦力になるのは間違いない。


「ーー分かった。しばらくはここで依頼をこなす。お前もその間、俺に従え」

「は、はいっ! ご主人様ぁぁぁぁ!」


 リリスは歓喜の声を上げ、勢い余って楓に抱きつく。


「ちょっ……やめろ! 苦しい!」

「申し訳ございません! 嬉しさのあまり……つい」


 楓は必死に彼女を引きはがし、椅子に座り直した。


「ーー本当に疲れるやつだな」

「そんな……ご主人様をお疲れにさせてしまうなんて……ではもっと従順に……もっと静かに……いや、でもご主人様が怒るのも素敵で……」


「思考の迷路に入り込むな!」


 楓の突っ込みが響く夜だった。

 こうして、二人の奇妙な同居生活と、新たな冒険の幕開けが始まろうとしていた

 


 暖炉の火がぱちぱちと音を立てる中、楓は椅子に深く座り込んでいた。

 リリスは隣で背筋を伸ばし、まるで主人の言葉を待つ忠犬のように大人しくしている。

 だがその瞳は期待と熱でぎらぎらしていて、楓にとっては妙に居心地が悪い。


「なぁ……リリス」

「はい、ご主人様」

「ひとつ、話しておかないといけないことがある」


 リリスの表情がわずかに引き締まる。けれど声はどこまでも恭順だった。


「何なりとお聞かせください。私はご主人様の秘密を抱く器でございます」


 楓は一度息を整え、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。


「ーー俺には、みんなに隠してる力がある。毒だ」

「毒……でございますか」


 リリスの長いまつ毛が揺れた。けれど驚愕というより、むしろ嬉しさが滲んでいる。


「そうだ。俺が魔物を倒してきたのも、多くはこの“毒の力”を使ってのことだ。けど、冒険者仲間にも、ギルドにも、それは絶対に隠してる」


「ーーなぜ、隠していらっしゃるのです?」


 リリスは静かに問いかける。その声音は優しく、楓の胸にひっかかっていたものを引き出すようだった。


「単純な話だよ。毒ってのは、この世界でも忌避されやすい力だ。危険で、裏切りやすい。仲間の傍で不用意に使えば怖がられる。下手すれば討伐対象にされるかもしれない」


 その言葉に、リリスは目を伏せ、少しの間沈黙した。

 やがて彼女はゆっくりと顔を上げ、恍惚とした笑みを浮かべた。


「――なんと素晴らしい」

「ーーは?」


「ご主人様の毒は、人に疎まれ、恐れられる……だからこそ、唯一私だけがその真実を知り、讃えることができる! あぁ……背筋が震えますわ」


「お前、感動の方向性がおかしいだろ」


 呆れる楓。しかしリリスは真剣だった。


「誰にも理解されぬ力を宿しながら、孤独に耐えてきたご主人様……。そんな方に仕えることができるなんて、私はなんと幸せ者でしょう」


「ーーまぁ、話すのはお前だけにしておく。口が軽いやつじゃないってのは分かったしな」 


「ご安心を。この命にかけて、決して外には漏らしません」



 楓は暖炉の火を見つめ、しばし言葉を止めた。

 次に語ることは、毒の力以上に奇妙で、信じがたい話だ。

 それでも――リリスには話すべきだと思った。


「それと……もうひとつ。俺は、この世界の人間じゃない」

「ーー」


 リリスは瞬きを二度三度。まるで理解を確認するように楓を凝視する。


「異世界……“日本”っていう国から来た。気づいたらこの世界に放り込まれてたんだ」


 楓は淡々と告げるが、胸の奥はざわめいていた。

 これを口に出すこと自体、誰にもしたことがなかった。

 リリスは数秒沈黙し、それから――小さく肩を震わせた。


「ーーご主人様……異世界から……! はぁぁ……っ!」


「おい、なんでため息まじりで感動してるんだよ」


「いえ! いえ! ただ……そんな壮大な運命を背負った方に私は仕えているのだと……胸がいっぱいで……!」


 両手を握りしめ、目を潤ませるリリス。

 楓は内心(やっぱりこの女、根っからの変態だな……)とため息をついた。


「まぁ、そういうわけで……俺の本当の目的は、元いた世界――日本に帰る方法を探すことなんだ」

「ーー帰る、方法……」


 リリスの声がわずかに沈んだ。


「そうだ。今は冒険者として依頼を受けたりしてるけど、本当は全部……帰るための手段や情報を探すためだ。こっちの生活に完全に馴染む気は、まだない」


 楓の言葉を聞いたリリスは、しばし黙って楓を見つめ続けた。

 やがて――彼女は椅子から立ち上がり、片膝をつき、頭を垂れた。


「ご主人様」

「ーーなんだ」

「私が、その道を切り拓きましょう」


「ーーは?」


「魔大陸で生きてきた私には、この世界の常識から外れた知識もございます。ご主人様が望むなら、私のすべてを捧げて、その帰還の糸口を探し出します」


 その言葉に、楓は驚いた。

 彼女の態度は狂信的で呆れる部分も多いが、その忠誠心と行動力は本物だ。


「ーー本当にできるのか?」

「はい。ご主人様のためなら、どんな苦痛も喜んで受け入れます。血の海でも毒の沼でも、踏み越えてみせます」


 リリスの瞳には一切の迷いがなかった。

 楓はしばらく沈黙し、それから小さく息を吐いた。


「ーー分かった。もしお前の知識や力が役立つなら、それに越したことはない。だけど――俺の邪魔だけはするなよ」

「はいっ! ご主人様!」


 リリスは歓喜の声をあげ、勢い余って楓の手に口づけしようとする。

 楓は慌てて手を引っ込めた。


「やめろっ! そういうのはややこしくなる!」

「ーーぁあ残念」


 しょんぼりしたように唇を尖らせるリリス。その姿に、楓はまたしても頭を抱える。



 暖炉の火が弱まり、家の中に静寂が広がる。

 楓は寝床を整え、布団を敷いた。


「おいリリス。お前の寝る場所はあっちの床な」


「まぁ! ご主人様と離れて眠るなど……耐えられません!」


「耐えろ」


「ですが! 私はご主人様の影……ならば枕元に控えるべきで――」


「影って言うなら壁に張り付いてろ」


「ーーっ! はい、それでも幸せです……」


 リリスは本気で壁に背中をぴたりと付け、嬉しそうに目を閉じた。

 楓は枕に顔を押し付け、「本当にやばいやつを拾ってしまったな……」と呻いた。


 けれども同時に――誰にも言えなかった秘密を話せた安堵もあった。

 毒の力のことも、日本から来たことも。

 この世界で初めて、心の奥を打ち明けられる存在ができたのだ。


 その夜、楓は久しぶりに深い眠りに落ちていった

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