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エピソード30

 暗闇は深さを増し、洞窟の中はほとんど何も見えなくなっていた。

 濃厚な煙が漂い、天井から垂れる糸がわずかな光さえも奪っている。

 岩肌に広がる白銀の糸は冷たく湿り、触れればたちまち捕らわれるだろう。


 その中心で、楓はじっと息を潜めていた。

 血が流れる肩口の痛みを感じながらも、心は不思議と静かだった。


 「ーー獲物を追い詰めたつもりか。強いな、これはやばいかも」


 蜘蛛は煙の中に紛れ、音もなく動く。

 糸を通じて楓の位置を察知し、動きを待ち伏せしている。

 完全に獲物を追い詰める狩人の戦術だ。


 だが――楓の口元に僅かな笑みが浮かぶ。


 「だけど、理屈を知っていれば逆に利用できる」


 蜘蛛は糸で世界を把握する。

 振動を通して獲物の位置を読み、どこに逃げようとしても捕まえる。


 それなら――逆に、糸に偽の情報を与えればいい。


 楓は懐から、小さな毒玉を取り出した。

 煙を撒き散らすタイプのそれを、足元にそっと転がす。


 ――パシッ。


 わずかな音と共に、紫煙がゆっくりと広がる。

 そして、糸に触れた煙が「揺らぎ」を生んだ。


 蜘蛛の複眼が、煙の向こうで赤く光る。

 その光は、獲物を見つけた証だった。


 「ーーかかったかな」


 蜘蛛は一気に飛び出した。

 八本の脚で岩を砕き、空気を切り裂いて迫ってくる。

 楓の“残り香”に反応しているのだ。


 だが、そこに楓の姿はなかった。


 楓は既に別の壁面に身を潜め、短剣を逆手に構えていた。

 自らの足音も呼吸も殺し、糸に余計な振動を与えないように動いたのだ。


 ――ドガァァン!


 蜘蛛は狙いを外し、床を砕いた。

 岩盤が陥没し、毒の液体が飛び散る。


 「なるほど。やっぱ、糸に頼りすぎてるな」


 楓は静かに壁を蹴り、別の位置へと移動した。

 蜘蛛は再び糸を張り巡らせ、振動を探る。

 しかし、そこに伝わるのは煙玉が撒き散らす細かな揺らぎばかり。


 楓は毒無効のスキルを持つ。

 だからこそ、煙の中でも平然と動ける。

 その有利をようやく最大限に活かす時が来たのだ。


 「次はこっちの番だ」


 楓は短剣を床に突き立て、あえて大きな音を響かせた。

 糸が振動し、蜘蛛の複眼がぎらりと光る。


 親玉蜘蛛は待っていたとばかりに天井から急降下してきた。

 岩を抉る脚が楓を捕らえにくる――。


 だが、その瞬間には楓の姿はもうなかった。


 音を囮にして別方向へ移動していたのだ。

 蜘蛛は空振りし、再び床を砕いた。


 「これならどうだ。捕まえられないだろ?」


 楓の声が、煙の奥から響く。


 蜘蛛が怒り狂ったように糸を乱射する。

 しかし楓は既に煙と囮を駆使し、蜘蛛の感覚を翻弄していた。

 獲物と狩人の立場が、ゆっくりと逆転していく。


 楓の目が鋭く細まる。

 蜘蛛の動きは大きく、だが無駄が多い。

 感覚に頼り切った狩人は、情報を乱されれば途端に鈍重な獲物となる。


 「お前の狩場……強いな。だけど、今は俺が優勢かな」


 楓は壁を蹴り、闇の中を駆けた。

 狩人を狩るための一撃を放つべく。



 洞窟は酸の網に覆われ、逃げ道は完全に塞がれていた。

 楓は右腕の焼ける痛みに歯を食いしばりながらも、蜘蛛の複眼を睨み据える。


 「ーー酸も糸も、全部獲物を逃がさないための仕掛けか。徹底してるな」


 蜘蛛は答えず、甲殻を鳴らしながら低く姿勢を落とす。

 その巨体から放たれる圧力は、まさに捕食者の頂点そのもの。

 赤黒く光る複眼が、楓の一挙手一投足を逃さず捉えている。


 普通なら、ここで諦めるしかない。

 毒は効かず、糸も炎も通じない。酸すら操るこの化け物に、勝ち目はないと誰もが思うだろう。


 だが楓は、小さく笑った。


 「ーーお前も毒耐性持ちだろ?。俺の毒は、どんな耐性も無効化する」


 その瞬間、洞窟の空気が変わった。


 楓の足元から紫黒の霞が滲み出す。

 床を這い、壁を伝い、天井へと昇っていく。

 やがて洞窟全体が、ゆっくりと紫に染まり始めた。


 「《黒毒領域》」


 吐息混じりに告げられた言葉が、宣告のように響く。

 酸の糸は紫の毒に触れた途端、音もなく崩れ落ちていった。

 壁に張り巡らされた糸も、蜘蛛の仕掛けた狩猟網も、すべて毒に飲まれて融解していく。


 蜘蛛が咆哮した。

 その複眼に、初めて「焦り」の色が宿った。


 「まだ終わりじゃない……行くぞ」


 楓は左手を振る。

 空間に溶けた毒が収束し、糸のように伸びていく。

 細く、鋭く、そして禍々しい光を放ちながら。


 「――《毒糸刃》」


 刹那、空気を裂く音が響いた。

 蜘蛛の脚の一本が切断され、断面から紫色の毒が流れ込む。

 体液と混ざり、瞬く間に内部へ浸食していく。


 「ギチギチギチギチィィィッ!」


 蜘蛛が断末魔のように絶叫する。

 どれほどの耐性を持っていようと、楓の毒は必ず効く。

 甲殻の硬さも、酸の糸も関係ない。

 切り口から流れ込む毒は、命そのものを削り取っていく。


 蜘蛛は残った脚で暴れ、岩盤を砕きながら反撃に出る。

 だが、その動きは明らかに鈍っていた。

 毒が神経を麻痺させ、筋肉を侵している。


 楓は避け、斬り、毒を流し込む。

 脚、腹部、顎――次々に《毒糸刃》を突き立て、蜘蛛の巨体を切り刻んでいく。


 洞窟全体が蜘蛛の悲鳴で震えた。

 毒の領域は濃度を増し、生き物にとっての「空気」を奪っていく。


 「ーー逃げ場はない」


 楓の声は冷え切っていた。


 ついに蜘蛛は最後の力を振り絞り、全身を硬直させた。

 甲殻が膨れ上がり、腹部が脈打つ。

 切り札――自爆にも等しい毒液の大噴出を準備しているのだ。


 「ーー来るか」


 楓は一歩踏み込み、毒糸をさらに伸ばす。

 《黒毒領域》の中心で、己の毒を極限まで濃縮させた一撃を放つために。



 洞窟の奥に轟く断末魔。

 巨大な毒蜘蛛の親玉は、楓の毒を浴び、八本の脚をばたつかせながら、なおも抵抗するように糸を吐き散らしていた。しかし、すでにその糸に鋭さも力もない。巣を揺らすような重圧感も消え、ただの痙攣にも似た動きとなっていた。


「ーー終わりだな」


 楓は吐息をつき、構えていた毒糸を下ろす。だが油断はしない。

 相手はこれまでの魔物とは格が違う存在だった。まだ最後の一撃が残っている可能性もある。


 その瞬間、蜘蛛の体表が淡い光を帯びた。

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