エピソード29
群れを屠り尽くした楓の前に、洞窟の主が姿を現した。
巨大蜘蛛――洞窟を支配する親玉。
その体躯は人ひとりを丸呑みできるほど膨れ上がり、脚を広げれば岩壁の端から端までを覆い尽くす。
甲殻は黒曜石のように硬質で、表面には紫色の光沢が走っていた。
「ーーデカっ」
楓は呟き、短剣を構え直す。
ただの大きさだけではない。
目の前に立つと、肌に突き刺さるような圧迫感があった。
獲物を見下ろすその複眼には、単なる獣の本能ではない、明確な敵意と冷酷な知性が宿っている。
蜘蛛が脚を鳴らした。
――カンッ。
乾いた音が響き、洞窟全体が振動する。
それを合図に、戦いが始まった。
最初の一撃は、脚による叩き潰しだった。
まるで丸太が落ちるかのような質量が、楓を押し潰そうと迫る。
「速い……っ!」
楓は身を捻り、紙一重でかわす。
地面に突き刺さった脚が、岩を砕き、粉塵を巻き上げた。
その衝撃に、耳鳴りがするほどだ。
避けた瞬間、別の脚が横から薙ぎ払ってくる。
楓は低く転がり、刃を閃かせ、脚の節を狙った。
――ガキンッ。
刃が弾かれる。
親玉の甲殻は、小蜘蛛たちのように柔くはない。
刃を振るった楓の手が、衝撃で痺れる。
「ーーっ硬いな」
蜘蛛は牙を剥いた。
紫に濡れた牙先から、毒液が滴り落ちる。
普通なら、それだけで勝敗は決していただろう。
だが楓は一歩も退かない。
毒は効かない――それを知っているからだ。
「俺には届かないさ。お前の切り札はな」
低く呟く声に、蜘蛛の複眼が一斉に光った。
まるで言葉を理解したかのように、怒気が増す。
戦いはすぐには動かない。
蜘蛛はただ力任せに突っ込むのではなく、獲物の動きを探っていた。
脚で牽制し、牙をちらつかせ、糸を飛ばして間合いを乱す。
楓もまた即座に攻め込まない。
小蜘蛛とは違い、安易な一撃では傷ひとつ与えられないと悟っていた。
刃を滑らせ、硬い甲殻の隙を探しながら、じりじりと間合いを調整する。
「ーー駆け引きってわけか」
互いに一歩も譲らず、洞窟の空気が張り詰めていく。
蜘蛛が再び動いた。
上から降る脚を避けた瞬間、逆方向から別の脚が迫る。
楓は跳躍してかわし、壁を蹴って背後へ回り込む。
そこへ、白銀の糸が閃いた。
背中を狙う鋭い一線――。
楓は刃で弾き、糸を切り裂く。
切れ端が火花のように散り、空気を焼いた。
「ーーただの糸じゃないな」
糸は毒を帯び、粘りも異常に強い。
受け止めた瞬間、刃にまとわりつく感覚があった。
もし普通の冒険者なら、武器を奪われた時点で命を落としていただろう。
数合、激しい応酬が続いた。
脚を避け、牙を避け、糸を払いながら、楓は少しずつ動きを見極めていく。
蜘蛛の脚は見かけよりも速い。
しかも攻撃にばらつきがなく、常に正確な位置を狙ってくる。
楓が半歩でも遅れれば、即座に叩き潰されるだろう。
「……力も速さも、想像以上だな」
冷や汗が伝う。
毒は効かないが、油断すれば一撃で骨ごと砕かれる。
楓は息を整えた。
目で追うのではなく、音と気配で動きを読む。
蜘蛛が脚を振り上げる――床がきしみ、風が唸る。
その瞬間を捉え、逆に踏み込む。
「そこだッ!」
脚の付け根、甲殻の隙間へと短剣を突き立てる。
――ズブッ。
鋼のような殻を貫き、刃が肉を裂いた。
蜘蛛が甲高い悲鳴を上げ、洞窟の天井を震わせる。
だが仕留めきれなかった。
楓はすぐに刃を引き抜いたが、体勢を崩す暇もなく脚が横薙ぎに襲いかかる。
「くっ……!」
咄嗟に腕で受け、岩壁に叩きつけられた。
衝撃で肺の空気が抜け、骨が軋む。
それでも楓は立ち上がった。
毒は効かない――だからこそ、蜘蛛は力で押し切ろうとしてくる。
「いいじゃないか……。俺も、真正面から斬り裂いてやる」
短剣を構え直し、血を吐き捨てる。
その眼差しは、獲物を狩る者の冷徹さを帯びていた。
洞窟の闇に、ふたたび甲殻の擦れる音が響く。
親玉蜘蛛と楓。
互いの呼吸と気配が絡み合い、次の一手を探っていた。
決着は、まだ遠い
蜘蛛は甲殻を震わせ、低く鳴いた。
ギチ……ギチギチ……と洞窟全体を震わせるその音は、ただの威嚇ではない。
次の瞬間、天井に張り巡らされた糸が一斉に振動し始めた。
「ーー合図か」
楓は目を細めた。
振動は単なる音ではなく、網そのものを通じた情報伝達だった。
外敵の位置を、細かく感知している。
親玉蜘蛛はただの怪力の化け物ではない。
獲物を追い詰め、逃げ道を狭め、確実に仕留める狩猟者だった。
突如、洞窟の灯りが揺らめいた。
いや――灯りなど最初からない。
見えていたのは、壁に染みついた微弱な燐光と、楓の研ぎ澄まされた感覚が描き出した像にすぎない。
だが今、その燐光さえも闇に呑まれていく。
蜘蛛が腹部の奥から濃密な煙を吐き出していた。
糸ではなく、黒い靄だ。
「視界を……奪うつもりか」
じわじわと広がる煙は、毒を含んでいる。
楓には効かない。
だが、煙の奥で何が動いているのかは掴めなくなる。
次の瞬間――。
「っ……!」
背後から鋭い衝撃が迫った。
反射で身を翻す。
だが遅い。肩口を掠める鋭脚が肉を裂き、岩壁に叩きつけられた。
血が滲む。
楓は舌打ちを漏らした。
「ーー効かない毒でも、痛みは残るか」
毒を含んだ脚に裂かれれば、麻痺はせずとも傷は確実に残る。
しかも煙の中では、どこから狙いが来るか分からない。
蜘蛛は煙の中を滑るように移動していた。
糸の網を通じて楓の位置を完全に把握しながら、自らは姿を隠す。
獲物だけを丸裸にし、自分は気配すら残さない。
「ーー完全に狩りに入ったな」
楓は呼吸を整え、耳を澄ませる。
糸が震える音、岩が擦れる音、毒の滴が床を溶かす音――。
だが、蜘蛛の本体は掴めない。
突如、右足に冷たい感触。
振り下ろされた糸が、足首を絡め取っていた。
「しまっ――!」
強烈な力で引き上げられ、楓の身体が宙に舞う。
天井へ。暗黒の糸の網へと。
視界が逆さまになり、血が頭に集まる。
楓はすぐに短剣で糸を斬った。
だが、その瞬間を蜘蛛は待っていた。
頭上――いや、真下から迫る影。
巨大な顎が開き、紫黒の唾液を滴らせながら襲いかかる。
「くっ……!」
ギリギリで身体を捻り、岩壁へと飛び移る。
顎は空を噛み、岩盤を粉砕した。
石片が飛び散る中、楓は膝をついた。
肩の傷が再び開き、血が滴る。
蜘蛛は低く鳴き、次の狩りの準備を始める。
煙はさらに濃くなり、視界はほとんど奪われた。
楓は動きを探られている。
ただでさえ数的不利の蜘蛛の群れを突破してきたばかりで、疲労も溜まっている。
「ーーやるじゃないか」
口の端から血を拭いながら、楓は呟いた。
蜘蛛の狩猟本能は人間の戦術家に匹敵する。
このままでは確実に捕らえられ、八本の脚に引き裂かれるだろう。
だが――それでも楓の目には、微かな光が宿っていた。
「なら、こっちも……一歩踏み込むしかない」
親玉蜘蛛の新たな狩猟手段に追い詰められながらも、楓はまだ倒れてはいなかった。
静かに刃を構え直し、闇の中で次の機を待つ。
戦いは、ますます深みに入り込んでいく




