エピソード28
洞窟の奥から現れた巨影は、ゆっくりと姿をあらわした。
壁や天井に張り巡らされた糸が震え、洞窟全体が生き物のように蠢いている。
赤黒い複眼が八つ、同時に楓を睨み据えた。
その光は小蜘蛛たちのものと似ていながら、比べものにならないほど濃く、鋭く、まるで魂の奥底を射抜かれるようだった。
楓はほんの一瞬、足が重くなるのを感じた。
獲物として認識された感覚。肉を裂かれ、血を吸われる未来を幻視したかのような圧力。
だが、次の瞬間には口元がわずかに歪む。
恐怖を押し潰すのではなく、呑み込む。
むしろその恐怖を糧にするかのように。
巨大蜘蛛は動かない。
洞窟の奥に鎮座し、その脚だけをゆっくり動かしている。
岩盤を叩くたび、ドン、ドン、と重低音が響き、細い石片が落ちた。
楓はその場で呼吸を整えた。
浅い呼吸は毒で喉を焼く。深く吸えば肺に熱が広がる。
だが、その熱は楓の身体を内側から研ぎ澄ます。
「ーーいいな。これくらいでなきゃ、やりがいがない」
洞窟の冷気と毒の濃度が増すなか、楓は逆に生きている実感を得ていた。
周囲を見渡せば、無数の繭が吊り下がり、犠牲者たちが揺れている。
中にはまだ血の気が残るものもあり、まるで「次はお前の番だ」と語りかけているかのようだった。
楓は一瞥するだけで、視線を戻す。
敵は一つ。
いまはただ、その巨体の動きを読み切ることに意識を集中させる。
洞窟の壁から、細かな蜘蛛たちが姿を現した。
親玉の護衛か、あるいは従属する群れか。
数は少なくない。だが楓は一歩も退かなかった。
巨大蜘蛛がゆっくりと頭部を下げた。
顎が軋むような音を立て、滴る毒液が糸を焼いた。
洞窟全体に、不気味な緊張が走った。
それは嵐の前の静けさ。
息を呑めば、すべてが崩れ落ちるような緊迫。
楓は短剣を構え、地を蹴る体勢を取った。
次に来るのは嵐。
その嵐を正面から迎え撃つ覚悟を、すでに決めていた。
――やがて、沈黙を破る音がした。
巨大蜘蛛の脚が、岩盤を強く打ち据える。
ドンッ、と空気を揺らす衝撃と同時に、無数の小蜘蛛たちが四方八方から飛びかかった。
楓の視界に赤い光が溢れる。
戦いの幕が、今まさに開け放たれようとしていた。
――ドンッ。
巨大蜘蛛が脚を鳴らすと同時に、洞窟の壁や天井から小蜘蛛たちが一斉に溢れ出した。
赤い複眼が無数に瞬き、闇の中でじわじわと楓を包囲していく。
「ーーやっぱり、数で押すつもりか」
楓は淡々と呟き、短剣を握り直した。
一匹ずつは大した相手ではない。だが、二十匹、三十匹と集まれば話は違う。
普通の冒険者なら、糸と毒に絡め取られて終わるだろう。
だが楓には――毒は通じない。
先頭の蜘蛛が糸を吐き出す。
紫がかった粘糸が地を這い、足首を狙って絡みつこうとした。
楓はそのまま踏み出す。
――ベリッ、と嫌な音を立て、糸が逆に裂ける。
毒を含んだ糸も、楓にとってはただの障害物に過ぎない。
「無駄だ」
彼は地を蹴り、宙に跳躍した。
迫りくる三匹の頭部に刃を突き立て、まとめて貫く。
岩に落ちるより早く、短剣を引き抜き、血飛沫を払った。
次の瞬間、左右から六匹が一斉に突進してきた。
糸を絡め、脚を振り下ろし、牙を剥き出しにして。
楓は一歩も退かない。
逆に踏み込み、最短の軌道で脚を断ち、胴を切り裂き、顎を砕いた。
――一閃。
――二閃。
――三閃。
刃が閃くたび、赤い複眼が潰れ、体液が洞窟の床を染めていく。
「次ッ!」
振り返りざま、飛びかかってきた蜘蛛を肩越しに斬り捨てる。
振り払った短剣が残光を残し、追いすがる二匹の脚を切り落とす。
蜘蛛たちは毒を吐き散らすが、楓には届かない。
霧のように広がる紫煙の中を、ただ一人、平然と駆け抜けていく。
「ーーやはり毒が効かないと知れば、力で潰すしかないか」
群れの動きが変わった。
毒の霧や糸での足止めを諦め、ひたすら肉体の重さと数で押し潰そうとしてくる。
数十の脚音が重なり、洞窟の床が揺れる。
楓はそれを真正面から迎え撃った。
飛びかかる一匹を斬り伏せ、その死骸を蹴り飛ばして壁際へ叩きつける。
それが盾となり、別の二匹の牙を阻む。
楓は隙を逃さず、低く潜り込み、三匹目の胴を横薙ぎに裂いた。
次から次へと迫る群れ。
だが楓の動きは淀まない。
一匹仕留めるたび、次の位置に自然と体が移動していた。
殺意の奔流の中で、彼はむしろ冷静だった。
十分ほど経った頃、洞窟の床には小蜘蛛たちの死骸が山のように積み上がっていた。
赤い複眼の光は次第に減り、やがて最後の一匹が短剣に貫かれて絶命する。
「ーー片付いたな」
楓は体液を払うように軽く刃を振り、静かに息を吐いた。
肩も呼吸も乱れていない。
ただ、洞窟に残るのは重苦しい静寂と――。
奥から響く、低い軋み音。
巨大蜘蛛が、ついに動き出した。
甲殻が擦れ合うたび、耳を劈くような音が響き渡る。
八本の脚が岩盤を抉り、毒を滴らせながら前へ進む。
その存在感だけで、空気が凍りつくようだった。
楓は短剣を構え直し、低く呟いた。
「さあ――次はお前の番だ」