エピソード27
昼下がりの冒険者ギルドは、いつも以上にざわめいていた。
木製の大広間には数十名の冒険者が集まり、掲示板を見上げたり、仲間と酒を飲んだり、次の依頼を相談している。ざらついた声や笑い声が飛び交い、ギルド独特の熱気が広がっていた。
そんな中、受付嬢リナが奥のカウンターから小走りに現れる。彼女の視線は真っ直ぐに、入り口近くに立っていた少年──楓を捉えていた。
「楓さん! ちょうどよかったです!」
突然の呼びかけに、周囲の冒険者たちの視線が一斉に集まる。
「ーー俺?」
自分を指さして首を傾げる楓に、リナは力強く頷いた。
「はい! あなた宛てにギルドからの指名依頼が届いています」
「指名依頼?」
その言葉に、場が一瞬だけ静まり返った。
指名依頼──それは、ギルドが仲介して依頼者を募るのではなく、依頼人やギルド側から「この冒険者にお願いしたい」と直接名指しされる特別な依頼のことだった。
功績や実力を認められなければ回ってこない。それも、Bランクに上がったばかりの冒険者に届くのは異例中の異例だ。
「おい……あのガキが、指名依頼だと?」
「蟻の件は知ってるだろ、あれで街じゃ噂になってる。やっぱり実力は本物かもしれねぇ」
「けどよ、まだ若ぇじゃねぇか。ほんとに大丈夫なのか?」
冒険者たちがざわめく中、楓は軽く息をつき、リナの手元の書類を見た。
「ーー内容を聞いていいですか?」
リナは真剣な表情で頷くと、依頼の詳細を読み上げた。
「今回の依頼は、街から東へ三日の道のりにある【エルダの森】の調査です。その周辺の村から、『森の奥から魔物が出てきている』という報告が相次いでいます。まだ大きな被害は出ていませんが、今まで出現しなかった種類の魔物が姿を現しているらしく……村人たちは不安を募らせています」
「なるほど……つまり、原因を探る調査ってことですか」
「はい。できれば魔物の数を減らしていただけると助かります。被害が出る前に動いておきたいと、ギルド本部から正式に依頼が来ています。
そして……今回の任務は、楓さんに白羽の矢が立ちました」
リナは少しだけ緊張した面持ちで楓を見上げる。
「蟻の件であなたの実力が広く知れ渡っています。ギルドとしても、信頼に足る人材であると判断しました」
楓は腕を組み、しばし考え込む。
森から魔物が出てくる……それは自然の異変か、あるいはもっと厄介な何かが起きているのかもしれない。
日本で暮らしていた頃なら想像もできない仕事だが、今の彼にとっては決して避けて通れないものだった。
「ーーわかりました、受けます」
「ありがとうございます!」
リナは胸に手を当てて深く頭を下げた。
周囲の冒険者たちは、その光景を息を呑んで見守っていた。
出発は翌朝と決められた。
楓は軽装備のまま、短剣を腰に提げ、背には最低限の荷物だけを背負って街を後にした。街道を東へと進む。途中、小さな集落や農村を横切りながら、馬車を追い越す。
太陽は高く、森を抜ける風が心地よい。
だが、旅の途中ですれ違う村人や商人たちの表情は曇っていた。
「エルダの森? 近頃はあそこから妙な獣の鳴き声が聞こえるって噂だ……」
「この前、森の近くで畑を荒らされたんだ。見たことのない大きな狼みたいな影があった」
不安を隠せない彼らの声を耳にし、楓は改めて任務の重要性を感じる。
三日目の夕暮れ、目的地の村が見えてきた。木造の柵に囲まれた小さな村で、畑と家畜小屋が点在している。村の外には見張りの村人が立ち、慌ただしく周囲を見回していた。
山道を越えてたどり着いた村は、こぢんまりとしてはいるが活気に満ちていた。木造の家々が並び、家畜の鳴き声や、子供たちの笑い声が響く。森と山に囲まれた土地であるせいか、村全体に漂う空気は素朴で、それでいて張り詰めた緊張感があった。
楓が村の門に足を踏み入れると、見張りをしていた二人の男が訝しげな表情で近寄ってきた。
「おい、あんた……見慣れない顔だな」
「冒険者か?」
楓は頷き、懐からギルドカードを見せた。カードにはCランクから昇格したばかりの「Bランク」の証が刻まれている。
「ギルドから依頼を受けてきました。森の奥で魔物の目撃が相次いでいると聞いたのですが」
二人の男は互いに顔を見合わせ、緊張を解くように息をついた。
「なるほど……そういうことか。あんたが来てくれて助かるよ」
「最近、森から出てくる魔物の数が妙に増えていてな。しかも、普段見かけない狼型や猪型までうろついている。村人が狩りに入るのも怖がって、もう食糧にも影響が出始めてるんだ」
「なるほど。被害は?」
「直接の被害はまだない。ただ……このままじゃ時間の問題だ」
楓は村の様子を見渡した。家々の前に積まれた薪や、干してある穀物が、いかにもこの村が自給自足に近い生活をしていることを物語っていた。森を恐れて狩りに入れなくなれば、すぐに生活が立ち行かなくなるだろう。
「詳しい話を聞かせてほしいです。村の責任者は?」
「村長の家だ。案内しよう」
案内された先は、村の中央にある一際大きな建物だった。木の梁が太く、壁には古びた装飾品が飾られている。村の歴史を感じさせる家だ。
中へ入ると、白髪交じりの老人が椅子に腰かけていた。しわ深い顔は険しく、しかしその瞳には確かな意志が宿っている。
「あなたが……ギルドから来た冒険者か」
「楓です。よろしくお願いします。」
村長は軽く会釈し、深いため息をついた。
「我が村はこれまで、大きな災害や魔物の襲撃を免れてきた。しかし最近になって森からの魔物の出没が増え、村人たちも怯えている。中でも気になるのは、森の奥から来たという噂だ。今まであの辺りに魔物が出たことはなかった」
「森の奥……」
楓は地図を広げ、村長に指で示してもらった。村の背後に広がる深い森。そのさらに奥に、村人が滅多に足を踏み入れない領域がある。
「そこに何かがあると?」
「分からん。ただ……家畜を襲った魔物の傷口には、不自然な痕があったと聞く。まるで……糸に締め上げられたような」
楓はその言葉に反応した。糸。
「その痕を見た者はいますか?」
「狩人のラガンだ。村の外れに住んでおる」
「分かりました。直接話を聞いてみます」
村外れの小屋を訪れると、筋骨たくましい男が猟犬を連れて出てきた。左腕には包帯が巻かれている。
「お前が冒険者か。……助かるぜ。俺も森であの“糸”にやられたんだ」
ラガンは包帯を解き、痣のような跡を見せた。赤黒く締め付けられた痕が生々しい。
「獲物を追っていたら、突然、木々の間に糸が張られていてな。俺も犬も絡め取られそうになった。なんとか逃げ出せたが、あの糸はただの罠じゃない。触れた瞬間に痺れるんだ」
「痺れる……毒か何かですね。」
「ああ。しかもその後、見慣れない魔物が俺を追ってきた。狼や猪だが……怯えたように、何かから逃げていたんだ。あれは、奴らも狙われているんだろう」
楓は黙って頷いた。
その晩、楓は村の宿に泊まった。
食堂では村人たちが噂を口にしていた。
「最近は森が静かすぎる」
「狩りに出た連中も戻らなくなった」
「子供たちがさらわれるんじゃないか」
彼らの恐怖は確実に膨らんでいる。
楓は席に座り、出されたシチューを口に運びながら考えた。
(やはり森の奥に原因がある。だが、村人を巻き込むわけにはいかない。一人で調べるしかないな)
夜が更けても、楓は眠らずに短剣を研ぎ、装備を整えていた。強い魔物との戦いになる――そう直感していたからだ。
翌朝。夜明けの冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、楓は村の外れに立っていた。
目の前には深い森が広がっている。朝日を遮るほどに高く伸びた木々は、遠目にはただの緑の海に見えるが、内部に一歩足を踏み入れれば視界は狭まり、常に何かに見られているような圧迫感を覚える。
「さて……行くか」
短剣を腰に差し、楓は森へ足を踏み入れた。
地面には朝露に濡れた落ち葉が散らばり、踏むたびにかすかな音が響く。森の奥へ進むごとに鳥の声は減り、代わりに湿った風と、土と草の匂いが濃くなっていく。
楓は慎重に足を運びながら、常に周囲に意識を張り巡らせていた。
森の中ほどに差しかかったときだった。
一本の木の枝が不自然に揺れていることに気づく。風はほとんど吹いていない。楓は足を止め、枝の根元を目で追った。
――そこにあったのは、銀色に輝く一本の細い糸だった。
朝日に照らされて微かに光っている。だが、ただの蜘蛛の糸とは明らかに違う。直径は指ほどもあり、触れるだけで獲物を絡め取りそうな強靭さを感じさせた。
「ーーこれか」
楓は腰を落とし、慎重に糸へ近づいた。短剣の柄で軽く触れてみる。
ビリリ――!
瞬間、短剣の柄越しに痺れるような感覚が走った。まるで帯電しているかのように、糸そのものが毒を帯びている。
「毒糸か……」
楓は思わず眉をひそめた。
自分には毒は効かない。だが、普通の人間なら触れた瞬間に筋肉が硬直し、動けなくなっただろう。
糸の存在を確認した直後だった。
森の奥からバキバキと枝を踏み割る音が響いた。
現れたのは、体高二メートルはある巨大な猪型の魔物だった。毛並みは乱れ、瞳は血走り、鼻息は荒い。だが――その様子は獲物を狙う者のものではなかった。
猪は背後を何度も振り返り、怯えながら楓の方へ突進してきた。
「ーー何かから逃げてる?」
楓は短剣を抜いた。迫る猪の突進を横にかわし、足首へ刃を滑らせる。
ズシュッ!
軽い抵抗の後、巨体が横転した。楓の動きは静かで無駄がない。
倒れ伏した猪の体を改めて観察すると、背中にはいくつもの線状の痕が残っていた。まるで何かの糸に締め上げられたかのように。
「ーー蜘蛛か?」
楓は表情を引き締め、さらに森の奥へと進んだ。
進めば進むほど、異様さは増していった。
樹々の間には無数の糸が張り巡らされ、まるで森全体が巨大な巣の一部になっているようだった。鳥や小動物の姿はなく、代わりに、糸に絡め取られ干からびた獲物の死骸が点々とぶら下がっている。
その光景に、楓は無意識に短剣を強く握った。
「ーー人間の村にまで影響が出る前に、元を断つ必要があるな」
足元に落ちていた糸の断片を拾い上げる。近くで見ると、糸はただの繊維ではなく、微細な毒の粒子が編み込まれているように見えた。まさに「生きた毒」だ。
そのとき、頭上から何かが降りてきた。
ドサッ!
降ってきたのは、楓の身の丈ほどもある巨大蜘蛛だった。八本の脚をギチギチと鳴らし、赤い複眼がぎらついている。
「来たか……!」
蜘蛛は糸を吐き出しながら突進してきた。
だが楓は一歩も引かず、短剣を構えた。
飛来する糸を身を翻して避け、脚が迫る直前に懐へ潜り込む。
刃が閃き、蜘蛛の脚を一本斬り飛ばした。
「ギィィィィ!」
蜘蛛が甲高い悲鳴を上げ、体をのたうたせる。その隙を逃さず、楓は逆手に持った短剣を胴へ深々と突き刺した。
黒い体液が飛び散り、蜘蛛は絶命した。
「ーーやはり糸はこれか。この糸の量だとかなり居るだろうな」
楓は短剣を拭い、さらに奥を目指した。
蜘蛛を倒した後も、森の奥には糸が増えていった。
まるで何か巨大な存在が、巣を広げているかのように。
楓は木々に絡まる糸の方向を慎重にたどり、進んでいく。
途中、怯えた狼型の魔物が現れたが、戦意を見せることなく森の外へ逃げ去っていった。彼らにとっても、この森の奥は恐怖の源なのだろう。
やがて、森のさらに奥へと糸が続いているのを確認する。
その先は、山を越えた方角だった。
「ーーあそこに巣があるっぽいな」
一度、村に戻り聞き込みを終えた楓は、日暮れ前に出立することを決めた。
村人たちは「危険だから」と何度も止めようとしたが、楓の決意が揺らぐことはなかった。彼にとって、魔物の発生源を放置することは何よりも不安材料だからだ。
「お気をつけください……!」
「どうか……無理はなさらないで」
村人たちの声を背に、楓は静かに頷き、森を越えて山道へと足を踏み出した。
道は険しかった。二つの山を越えると聞いていたが、実際には獣道すらない岩場を歩くような場所も多い。
時折、崩れ落ちた岩が足元を転がり、谷底に落ちていった。
楓は無言で進んだ。彼にとって、この程度の地形は障害にならない。だが、普通の冒険者や村人であれば、まず辿り着くことさえ難しいだろう。
「ーー人の手が入っていない。だからこそ、魔物が潜んでいる、か」
夕暮れが近づく頃、ようやく楓は目的の場所へと辿り着いた。
そこにあったのは、黒々とした岩山の裂け目。
人の背丈の三倍はあろうかという巨大な洞窟の入口が、口を開けていた。
洞窟周辺は異様なほど静かだった。鳥のさえずりも、虫の羽音もない。風さえも止んだかのように、重苦しい空気が辺りを支配していた。
そして――入口を覆うように、白銀の糸が何層にも張り巡らされている。
まるで来訪者を拒む結界のように。
楓はその糸を一瞥した。
「ーー毒が混じっているな」
短剣を抜き、そっと触れると、刃先がわずかに煙を上げた。
普通の人間が触れれば、皮膚はただれ、数分と持たずに痺れて倒れるだろう。
楓はため息を吐き、糸を一筋ずつ切り裂きながら中へと進んだ。
洞窟の中は、さらに不気味だった。
冷気が肌を刺すように流れ込み、空気には湿った毒の匂いが混じっている。
壁にはびっしりと糸が絡みつき、まるで白い血管が洞窟全体を走っているかのようだ。
足を踏み出すたびに「ギチ……ギチ……」と糸が軋む。
やがて、その音に混じって別の音が響き始めた。
「ーーカサ……カサ……ギチギチ……」
蜘蛛の脚音だった。
暗闇に浮かぶ赤い光が、十も二十も瞬いた。
洞窟の奥から湧き出すように、大小さまざまな蜘蛛が岩肌を伝い、天井から垂れ、地を這って楓を取り囲んでいく。
湿った空気がさらに重くなり、吐息が濁る。
蜘蛛たちが一斉に脚を鳴らすと、洞窟全体が不快な共鳴音に包まれた。
「ーー数で押す気か」
楓は低くつぶやき、短剣を握り直す。
先ほどまで外で感じていた沈黙は、いまや嵐の前触れのようだ。
最初の一匹が飛びかかってきた。
赤黒い毛に覆われた胴体は、人間の胴ほどの大きさ。剛毛の脚が空気を切り裂き、開いた顎からは滴る毒液が飛び散った。
楓は半歩退き、刃を横に払う。
金属が肉を裂く感触が手に伝わり、蜘蛛は甲高い音を上げながら床に崩れ落ちた。
すぐさま二匹目。
天井から垂れ下がる糸を伝って、背後に迫る。
楓は気配を感じ取ると同時に体をひねり、振り向きざまに突きを放った。短剣は複眼を貫き、蜘蛛の体は痙攣しながら静止する。
「ーー次」
声は冷静だが、心臓の鼓動は高鳴っていた。
闇の中で獲物を狩る捕食者同士が、ただ生存をかけて刃と牙を交わしている。
三匹目は素早かった。
低く地を這い、影のように楓の足元へ潜り込む。脚先の棘が膝に食らいつく寸前――楓は跳躍し、壁を蹴って反転。
逆さまに振り下ろした刃が、蜘蛛の頭部を縦に裂いた。
血飛沫が紫色にきらめき、湿った空気に鉄と毒の匂いが混じる。
「ふぅ……」
息を吐く間もなく、残りの蜘蛛たちが一斉に動いた。
十匹以上が脚をカサカサと鳴らし、天井、壁、床から同時に迫ってくる。
赤い光が無数に瞬き、闇そのものが動いているように見えた。
「数が厄介だな」
楓は指先に小さな毒玉を浮かべる。紫の光が滲み、次の瞬間、床に転がした。
ぱん、と小さく弾け、紫煙が広がる。
蜘蛛たちの脚が煙に触れた途端、痙攣し、動きが鈍った。
「今だ」
楓は一気に踏み込み、鈍った動きを逃さずに刃を閃かせる。
脚を断ち、胴を貫き、顎を裂く。金属の反響と肉を断つ鈍い音が交互に響き、洞窟は戦場の喧噪に満ちた。
一匹、二匹、三匹――。
次々と崩れ落ちる蜘蛛の影。
しかし数は尽きない。切り裂いても、後ろから新たな群れが押し寄せてくる。
楓の頬をかすめて糸が飛ぶ。
空気を裂く音とともに壁に張りつき、ジュッと煙を上げた。
「ーー毒糸か」
普通の冒険者であれば、触れた瞬間に腕がただれ、痺れで動けなくなっただろう。
楓は冷静に距離を詰め、糸を放った個体の脚を切り落とした。
黒い体液が飛び散り、鉄の匂いと甘い毒の匂いが混じる。
呼吸を吸うごとに、肺が焼けるような感覚が広がった。だが楓の口元はわずかに笑みを浮かべている。
――毒は敵ではなく、力になる。
数分後。
洞窟の床には無数の蜘蛛の死骸が散乱していた。
赤い複眼はすべて光を失い、ただの骸となって沈黙している。
楓は短剣を軽く振り、付着した体液を払った。
息は上がっていない。むしろ心は冴え、身体の奥に潜む毒が喜んでいるように感じられた。
「ーーまだ奥があるな」
洞窟の奥からは、なおも不気味な気配が押し寄せてくる。
いま倒した群れなど前哨戦に過ぎない。
楓は死骸を踏み越え、さらに闇の奥へと歩を進めた。
群れを退けた楓の前に広がったのは、息を呑むほどの光景だった。
洞窟の奥壁一面に、白銀の糸がびっしりと張り巡らされている。
細い糸が幾重にも重なり、層をなし、蜘蛛の巣というよりはむしろ雪に覆われた岩壁のように見えた。
だが近づけば、それはただの雪景色などではなく、粘り気を帯びた生きた繊維だ。
歩を進めるたびに、靴底が糸に触れてギチリと音を立てる。
その音に呼応するかのように、洞窟の空気全体がざわりと揺れた気がした。
楓は足を止め、しばし観察した。
糸はただ張られているだけではない。規則的な間隔で太い束が縦横に走り、支柱のように洞窟を補強している。
まるで巨大な建築物。蜘蛛たちはこの場所を巣窟として作り替えているのだ。
だが、目を逸らしたくなるのは構造の見事さではなく、その巣に捕らえられているものだった。
いくつもの繭が糸に吊り下げられている。
人の胴ほどの大きさ。中には獣の姿が透けて見えるものもあれば、異形の足が覗くものもある。
そして――楓の目は、その中の一つの繭に留まった。
白い繭の表面に、血がにじみ出ていた。
もぞり、とわずかに動いた。まだ生きている。
「……もう意識はないか」
楓は短剣を構え、繭に近づいた。
糸を裂くと、内部から弱々しい呻きが漏れる。
だが、吐き出されたのは言葉ではなく、息の途切れ途切れの音だった。
目を閉じた村の家畜と思われる牛――その胸には蜘蛛の牙痕がくっきりと残り、青黒い毒が脈打つように広がっている。
楓はすぐに理解した。助からない。
「運がなかったな、このままじゃ苦しむだけだから、悪く思うなよ」
刃を振るい、静かにその喉を切った。
短い呻きが洞窟に溶け、その体は二度と動かなくなった。
次に目に入った繭は、すでに干からびていた。
皮膚も肉も吸い尽くされ、骸だけが薄皮に覆われて残っている。
眼窩が空ろにこちらを見つめるようで、洞窟の冷気よりも重い寒さが背筋を走った。
その横には、獣と思しき繭。まだ体温があるのか、かすかに蒸気を上げている。
蜘蛛たちは獲物を時間をかけて味わう。すぐに殺さず、毒で弱らせ、保存する。
まるで自分の力を誇示するかのように、獲物を飾り立てるのだ。
楓は歩を進めるごとに、数え切れないほどの繭を見た。
狼、鹿、鳥、そして形がわからなくなったものたち。
その中には、腐敗が進み、吐き気を催す悪臭を放つものもあった。
吐き気はしなかった。ただ、目を細めただけだ。
楓にとって、これは恐怖でも哀れみでもない。
ただ「この巣がいかに巨大か」を示す証拠に過ぎなかった。
「これだけの数を狩って蓄えている……群れの中心は、もう目の前だな」
足を進めると、空気が変わった。
ただ湿っているだけの洞窟の風ではない。
鼻を突く、濃密な毒の匂い。
喉の奥がひりつき、目がじんわりと痛む。
普通の人間であれば立っていることさえ難しいだろう。
だが楓は、その毒を吸い込むごとに心が澄んでいく感覚を覚えた。
肺を焼く刺激が、むしろ血を巡らせ、思考を研ぎ澄ませていく。
刃を握る手に力がこもった。
その時だった。
奥の闇が、ぬるりと動いた。
糸の束を押し分けるように、巨大な影が姿を現す。
赤い複眼が、今までのどの蜘蛛よりも濃く、鋭く輝いた。
脚が一本、二本と前に出るたび、岩肌がきしみ、糸が震える。
全長は人の数倍。胴体は岩塊のように重く、毛に覆われた脚は一本で楓の体を砕けるほどの太さだった。
空気が震えた。
楓は深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。
――親玉が、ついに姿を現した。




