エピソード25
依頼達成の報告から数日後。
ギルドが組織した回収隊が、蟻型魔物の巣へと派遣された。熟練冒険者、荷運び用の魔獣、解体師や鑑定士、商人たちまでが大挙して押し寄せる。
彼らが目にしたのは、常識を遥かに超える光景だった。
かつて蟻が群れを成し、地を這い、巣を築いていた地帯。そこには黒光りする無数の死骸が折り重なり、まるで黒い丘のように積み上がっていた。
「ーーなんだ、これ……」
「数が……数が狂ってやがる……」
「百や二百じゃきかねぇ……。千、いやそれ以上か?」
外殻は硬質で、表面は鋼のような艶を放ち、顎は大人の腕すら一撃で噛み砕けそうな鋭さを保っていた。
死骸の裂け目からは魔石が青白く淡く光を放ち、乾いた大地に幻想的な輝きを落としていた。
解体師たちは興奮を隠せなかった。
「見ろよ、この外殻! 傷ひとつないやつもあるぞ!」
「顎の部分は武器素材になる! 普通なら一本手に入れるだけでも金貨十枚以上だ!」
「ーーまさか、これ全部、売れるのか……?」
彼らの声は、やがて狂乱に近いざわめきへと変わっていった。
数日がかりで運び出された素材は、街の倉庫をいくつも満杯にした。
外殻は鎧の素材に、脚部の関節は工芸品や魔道具の補強材に、魔石は魔法士たちの喉から手が出るほど欲しい精力源となる。
取引の初日だけで、街に流れ込んだ金貨は数千枚規模にのぼった。
それは地方都市の年間予算に匹敵する額であり、商人たちは狂喜乱舞し、貴族たちは競って買い漁りを始めた。
そして、その中心に――楓がいた。
討伐報告の依頼人として、彼には莫大な分配金が支払われることになったのである。
ギルドの帳簿係が震える手で告げた金額は、楓が聞いたことのない桁だった。
「し、支給金額……合計、金貨一万七千五百枚……!」
場にいた職員たちは息を呑み、ざわめきが広がる。
冒険者として十年活動しても到底稼げぬ額。
一生分どころか、一族を数世代に渡って養える資産だ。
楓は静かに数字を聞き取り、ゆっくりと頷いた。
(ーー日本に帰る方法を探すには、これくらいの資金が必要だな)
彼にとっては金貨の価値そのものに実感が薄い。
だが「莫大な情報を動かすには莫大な金がいる」という理屈は理解できた。
ならば、この財産はすべて「帰還」のための燃料となる。
蟻の群れを一人で壊滅させ、街に莫大な資源と富をもたらした数日後。
ギルドから受け取った報酬の重さは、楓自身の生活をも大きく変え始めていた。
宿の一室に戻り、机に積み上がった金貨袋を見つめながら、楓はふと深く息を吐いた。
「ーここじゃ、狭いな」
安宿の部屋は、冒険者のために用意されたごく普通のものだった。
木製のベッドが一つ、机と椅子、壁には小さな棚。
荷物を置けばすぐに足の踏み場がなくなり、報酬として受け取った金貨を全部置くには到底足りない。
それ以上に楓が気にしたのは――「人目」だった。
宿は便利だ。料理も洗濯も任せられ、費用も安い。だが壁は薄く、隣室の物音は筒抜けだし、誰かが勝手に自分の部屋へ入ろうと思えば、鍵を壊すのは容易い。
楓の部屋を出入りするたび、他の宿泊客や従業員に「大金を持っている」と気づかれてしまう可能性がある。
そして、彼には隠すべき秘密があった。
毒の力。新たに得た称号。そして、夜ごとに繰り返す鍛錬。
それらを安全に行うには、人の目を避けられる拠点が必要だった。
「ーー宿じゃ限界がある。だったら――」
楓の視線は窓の外へと向いた。夕暮れの街並み、煙を吐く煙突、石畳を行き交う人々。
その奥に広がる住宅街が、彼の目に強く焼き付いた。
「家を、買おう」
楓が「家を買う」と決めたのには、いくつかの明確な理由があった。
1.秘密を守るための空間
毒の研究、スキルの実験、体の強化具合を確かめる訓練。
それらを宿でやれば、必ず人に見られてしまう。地下室や広い庭があれば、こっそり試すことができる。
2.財産の管理
金貨を袋ごと宿に置くのは危険だ。家ならば隠し部屋や地下庫を作れるし、結界や罠を仕掛けて守ることもできる。
3.日本への帰還の準備
膨大な文献や情報を集めるには、保管場所がいる。古代語の書物や写本は重く、かさばる。広い書斎や書庫が必要だ。
4.心の安定
異世界に来てから、楓には「自分だけの場所」というものがなかった。
落ち着ける拠点を得ることで、精神的にも余裕が生まれる。
(ーーそうだな。俺はもう、ただの流れの冒険者じゃない。
だったら、拠点くらい持ってもいいはずだ)
楓は心の中で小さく頷いた。
翌日、楓は不動産を扱う商会を訪ねた。
豪奢な絨毯が敷かれた応接室に通され、商会の主らしき中年の男がにこやかに頭を下げる。
「いやぁ……お噂はかねがね。蟻討伐の英雄様にお会いできるとは光栄の至り。
それで本日は、邸宅をお求めとのことですが?」
「英雄だなんて、やめてください。
静かで、広くて、できれば地下室のある家が欲しいです。」
「ほぉ……なるほど。英雄様にふさわしい物件がございます。
実は、街の北側にございます元貴族の屋敷が空いておりまして――」
商会主は身を乗り出し、いくつかの物件を紹介してきた。
楓は一つ一つ条件を確かめながら、頭の中で思い描く。
・人通りが少なく、目立たない場所にあること。
・庭や空き地があり、鍛錬や実験に使えること。
・地下室、もしくはそれに代わる大きな倉庫があること。
・大金を払っても不自然に思われない程度に格式があること。
「では、三件ほど候補をご覧いただきましょう」
楓は馬車に乗せられ、街のあちこちを回ることになった。
一件目は街の南、商人街に近い邸宅。
石造りで堅牢だが、周囲に人が多く、夜も明るい。人目がありすぎると感じ、楓はすぐに首を横に振った。
二件目は街の外れにある農地付きの家。
広々としており、畑も使えるが、建物は木造で老朽化している。修繕に時間と金がかかるため、これも却下。
三件目――街北部の丘の上に佇む、二階建ての石造りの屋敷。
ここはかつて没落した地方貴族の邸宅であり、今は持ち主を失って数年が経つという。
「ーーここにします」
門をくぐった瞬間、楓は確信した。
人通りは少なく、庭は広く、建物は堅牢。
そして案内された地下には、大きな石造りの貯蔵庫があった。
湿気はあるが、修繕すれば訓練場にも実験室にもできる。
しかも外観は貴族の屋敷らしく立派であり、莫大な財を得た楓が住んでも不自然ではない。
屋敷を一回りして戻ってきた楓に、商会主が恐る恐る尋ねた。
「いかがでしょうか、英雄様……?」
「買います。すぐに手続きお願いします」
即答に、商会主は驚きの表情を見せた。
しかし次の瞬間、満面の笑みを浮かべて深々と頭を下げた。
「誠にありがとうございます! さすがは英雄様!」
代金は金貨千枚。
楓にとっては痛くもかゆくもない額だった。
購入手続きが終わり、正式に屋敷が楓のものになった翌日。
楓はいつも世話になっていた宿の受付に立ち、宿代をまとめて清算した。
「えっ、もう出ていくのかい?」
受付嬢は目を丸くする。楓は軽く笑って答えた。
「長く世話になりたかったのですが、拠点を持った方が便利なので。
でも、ここのご飯は美味かったです。また寄ることはあると思います」
そう言って金貨をいくつか多めに置くと、受付嬢は慌てて頭を下げた。
「そ、そんなに! でも……ありがとね!またいつでもおいで!」
宿の仲間たちも「寂しくなるな」「今度飲みに来いよ」と口々に声をかけてくる。
楓は一人一人に軽く頷き、背中に彼らの視線を感じながら宿を後にした。
ギルドからの帰り道、屋敷の門をくぐる時の胸の高鳴りは、これまでの宿暮らしでは味わえなかった感覚だった。重厚な鉄の門を開け、少し長めの石畳を歩くと、二階建ての屋敷が姿を現す。壁は白い漆喰で、所々に年月を感じさせるひびがあるものの、手入れすればまだ十分住める。屋根の瓦は濃い青で、夕陽を浴びて鈍く輝いていた。
「ーー本当に、俺の家になったんだな」
呟きながら、玄関の扉を押し開ける。中はひんやりとした空気が漂っており、長く人が住んでいなかったことを思わせた。廊下には薄く埃が積もり、窓ガラスは少し曇っている。けれど、逆にその分だけ「これから自分の色に染められる」と思うと、自然と口元が緩んだ。
まずは大広間に荷物を置き、窓を大きく開け放った。途端に新鮮な空気が流れ込み、屋敷全体が目を覚ますように空気が変わる。
楓は冒険者としての装備を脱ぎ、簡単な服装に着替えると、宿から持ってきた布や掃除道具を手に取り、まずは一階の掃除に取りかかった。
床を拭くたびに、木材が艶を取り戻していく。埃を払い落とすごとに、屋敷が息を吹き返していくようで、楓の胸に不思議な充足感が広がった。
「掃除なんて、日本にいた時以来か……いや、それでも一人暮らしの時はここまで大がかりじゃなかったな」
思わず苦笑しながら、ひと部屋、またひと部屋と整えていく。最初はただの「古びた屋敷」だったが、窓を磨き、床を拭き、家具を配置し直すにつれ、次第に「楓の居場所」へと変わっていった。
夜になるころには、最低限生活できる空間は整った。居間には簡易的な机と椅子を置き、寝室には寝具を運び込む。台所には持ち込んだ調理器具を並べ、まだぎこちないながらも「家らしい姿」を見せ始めていた。
翌日、屋敷をさらに見て回ると、地下へと続く階段を見つけた。分厚い木の扉を開けると、石造りの広い空間が広がっている。壁には古い松明の痕跡があり、中央には謎めいた魔法陣の跡がうっすら残っていた。
「ーー前の持ち主は、魔術師か錬金術師だったのか?」
楓は目を細めて壁を叩き、その強度を確かめる。厚い石造りで、防音性も高い。ここならば多少大きな音を立てても外に漏れる心配はない。
「ここは……鍛錬や研究に使えるな」
そう呟き、地下室を拠点の核心に決めた。武器の振り方を復習したり、毒の力を人目を忍んで試したりするには理想的な空間だ。
三日目からは、生活のリズムを整えることに集中した。
•朝:屋敷の庭を散歩し、軽く体を動かす。
•午前:街へ出て市場で買い物をし、情報収集を兼ねる。
•昼:簡単な食事を作り、午後は地下室で鍛錬やスキルの実験。
•夜:日誌をつけ、今後の計画を練る。
特に「日本に帰る方法を探す」ことを最優先にし、そのためにギルドや商人、学者などから少しずつ話を集め始めた。家を持ったことで、情報を保管・整理する場所もでき、活動の効率が一気に上がったのを感じる。
屋敷に移ってから一週間。楓は窓辺の椅子に腰を下ろし、夕暮れを眺めながら思った。
「ここに来てから、ようやく落ち着いた……かもしれない」
宿暮らしの時は、常に外の目や盗難の危険を気にしていた。だが、今は鍵をかければ誰も入ってこない屋敷があり、鍛錬も研究も思う存分できる。心に余裕が生まれると同時に、「この街でなら帰還方法を探し続けられる」という確信が少しずつ形になり始めていた。
楓が新しく購入した屋敷で目を覚ましたのは、まだ陽が昇りきる前だった。
柔らかい寝台に体を沈めたまま天井を見上げる。あの時――蟻の巣を一掃した瞬間から、何かが変わった。力も、周囲の見る目も、そして街全体の空気も。
「ーー今日あたり、ギルドに顔を出しておくか」
蟻退治の報告はすでに済んでいる。だが、その後どうなったかは確認していない。あれほどの規模の魔物の死骸を前にすれば、必ずギルドも動くだろう。楓は軽く伸びをして、身支度を整えた。
ギルドに近づくにつれ、妙なざわめきが耳に届いた。
人々の話題の中心は、やはり「蟻退治」だった。
「聞いたか? あの巣が丸ごと消えたんだと!」
「輸送路も安全になったし、農場の被害もなくなったらしい」
「いったい誰がやったんだ?」
楓は人混みをすり抜け、ギルドの重い扉を押し開けた。
中も外と同じく、ざわめきで満ちていた。
足を踏み入れた瞬間、楓は無数の視線を浴びた。
まるで熱を帯びたかのような期待と好奇の視線。それまで街角で会っても気にも留められなかった人々が、今は楓を値踏みするように見つめている。
「ーーなんだ、これは」
無意識に肩が強張る。だが、受付に向かって歩みを進めた。
カウンターの奥に座っていたのは、以前から楓の担当をしてくれている受付嬢のルアだった。
彼女は楓の姿を見つけると、ほっとしたような表情を浮かべ、すぐに小声で呼びかけた。
「楓くん……! ちょっと、こちらへ」
案内されたのは奥の小部屋。外のざわめきから隔離され、静寂が広がる。
「楓くん、本当に……あの蟻の巣を一人で……?」
受付嬢は信じられないという様子で楓を見つめる。
楓は肩をすくめ、簡単に事実だけを告げた。
「ああ。放置すれば被害が拡大すると思ったので。
……ただ、予想以上に効きすぎて、巣ごと全滅してしまいました」
「ーー予想以上に、ですか。確かに、あの現場を見た者は皆、言葉を失っていました。あの数……そして完全な壊滅。正直、討伐隊を数十人規模で編成しても苦戦したはずです。それを――」
受付嬢は言葉を切り、深く息を吐いた。
「今、街中がその話でもちきり。商人たちは大喜びでだし、農民や輸送業者からは感謝の声が届いているわ。被害が広がれば、街全体が飢える可能性もありるし。……楓くんの功績は、間違いなく街を救ったのよ」
楓は黙って聞いていたが、胸の奥がざわついた。
そんな大げさなつもりはなかった。ただ、依頼をこなしただけだ。
「ーー俺は、ただ依頼を受けただけです」
「それでも、事実は事実です。楓くん。
この件、すでに公爵家にも報告が上がっているのよ」
「公爵……に?」
思わず聞き返した楓に、受付嬢は頷いた。
「ええ。この街を治める公爵様は、街道や農業の安定を何より重視されているの。今回の蟻退治は、そのどちらにも直接関わる大事件だから。公爵様は『討伐に当たった冒険者を必ず調べよ』と仰せられたそうよ」
楓は沈黙した。
予想はしていた。だが、まさかこれほど早く貴族の耳に届くとは。
受付嬢は一枚の書類を机に置いた。
それは昇格推薦状だった。
「楓くん。ギルドとしても、もはやCランクに留めておける存在ではありません。これほどの功績を上げ、しかも証人と成果が揃っている。……正式に、Bランク冒険者として登録することになります」
「ーーBランクに、ですか」
楓は紙に目を落とし、心の奥で複雑な思いを抱いた。
本来ならば喜ぶべきことだろう。だが、この急な注目はリスクにも繋がる。毒の力を隠し通すことが難しくなるかもしれない。
それでも――表向きの肩書きが強化されれば、動きやすくなるのも事実だった。
ギルドの小部屋を出て、再び喧騒に満ちたロビーに足を踏み入れると、楓の姿を見つけた冒険者たちが一斉にざわめいた。
「あいつだ……!」
「本当に蟻の巣を潰したのか?」
「冗談だと思ってたが、ギルドが動いたってことは……」
楓は眉をひそめ、静かに扉を押し開けて外へ出ようとした。
だが、それより早く、数人の冒険者が駆け寄ってきた。
「おい、あんたが楓だろ?」
声をかけてきたのは大柄な斧使いだった。筋骨隆々の腕を組み、じろりと楓を見下ろす。
「ーーそうだが」
「やっぱりな! 噂じゃ子供みたいな奴だって聞いてたが……本当だったとはな」
周囲が笑いを漏らす。だが、その笑いには侮蔑はなく、むしろ驚きと敬意が混じっていた。
「子供みたいでも、やることは規格外か」
「俺たちCランク数十人でもきつい仕事を、一人で片づけるとは……」
外に出ると、さらに多くの人々が待っていた。
商人たちが深々と頭を下げ、農民たちが笑顔で駆け寄る。
「ありがとうございました! あの蟻さえいなくなれば畑を荒らされずに済みます!」
「輸送の馬車も襲われなくなった! これで商売が回復します!」
楓は圧倒されるように立ち尽くした。
これほど多くの人に感謝されるのは初めてだった。
「ーー俺は、ただ依頼をこなしただけなんですが」
そう呟く声は群衆の歓声にかき消される。
人々の熱気の中、同じギルドの冒険者たちが楓のもとに集まってきた。
「なあ楓、どうやったんだ? あんな化け物みたいな群れを、一人で……」
「毒か? 罠か? それとも隠しスキルか?」
好奇心に満ちた問いかけが次々と飛んでくる。
楓は軽く笑みを浮かべて肩をすくめた。
「企業秘密、だな」
「くっ、はぐらかしやがって!」
「まあいいさ。秘密の一つや二つ持ってるほうが、冒険者らしい」
その場にいた者たちがどっと笑い、緊張が解けていく。
楓が帰路につく頃には、街全体がすでに蟻退治の話題で持ちきりになっていた。
「銀髪紫眼の少年冒険者が、一夜にして蟻の巣を消し飛ばした」――そんな尾ひれのついた噂が、酒場や市場で飛び交っている。
緑の樫亭に立ち寄ると、女将まで目を丸くしていた。
「楓ちゃん、本当にあの蟻を……? まったく、見かけによらない子だねえ」
「ーー子、か」
楓は苦笑しながらも、温かな食事を受け取った。
だが、全てが純粋な賞賛というわけではなかった。
ギルドの隅や路地裏で、楓の名前を囁く声もあった。
「ーー 一人で群れを壊滅させるなんて、あのガキは何者だ」
「危険すぎる。もし敵に回ったら……」
称賛と同時に、畏怖と警戒も広がっていた。
楓はそれを敏感に感じ取り、改めて自分の立場の危うさを悟る。
「目立ちすぎたな……」
小さく呟き、空を見上げた。
だが――その時すでに、彼の名は公爵家の耳に届いていた。
蟻討伐から数楓が新居で生活を始めて数日。ようやく落ち着いて、日課となった冒険者稼業と街での情報収集を進めていたころだった。
ギルドからの使者が、立派な封蝋の施された書状を携えて訪れる。
「これは……公爵家からの、正式なご招待……?」
書状には、公爵直々の言葉で「蟻の脅威を退けた功績を称え、正式にお祝いの席を設けたい」と記されていた。
さらに追伸のように小さな文字で――
『あの時の約束、忘れてはいないでしょうね。今度こそ、必ず来てください。』
――リシェルの筆跡らしき柔らかい文字も添えられていた。
楓は思わず顔をしかめた。
思い出すのは、公爵令嬢リシェルが病から回復した時のこと。
彼女は笑顔で「時々遊びに来て、冒険の話を聞かせて」と言っていた。
だが楓は、忙しさと遠慮から、一度も顔を出していなかったのだ。
数日後、楓は公爵家を訪れていた。
広大な庭園を抜け、白亜の館の大扉が開かれる。
招かれた楓は、いつものように小柄な体に軽装、奇妙な仮面をつけて足を踏み入れる。
迎えに出たのはリシェル本人だった。
淡い水色のドレスを纏った彼女は、扇を持った手で腰に手を当て、ぷいと横を向く。
「ーー楓様。ひどいですわ!あれほど“お話に来てくださいね”とお願いしたのに、全然顔を見せてくださらないなんて!」
叱るような声音に、楓は思わず肩をすくめた。
「わ、悪かったと思ってます。ちょっと、色々忙しくて……」
「言い訳です!」
頬を膨らませて詰め寄るリシェル。
その後ろで、使用人たちがくすくすと笑いをこらえていた。
楓は内心冷や汗をかきながらも、どこか微笑ましく思う。
病に伏せっていた少女が、こうして元気いっぱいに怒っている――それ自体が嬉しかった。
やがて公爵が姿を現す。
威厳に満ちた佇まいのまま、楓の前に座ると、重々しい声で告げた。
「楓。この度の蟻討伐、街にとって計り知れぬ恩恵であった。
被害は止まり、輸送も再開され、人々の不安は和らいだ。
余に代わり、感謝を述べさせてもらおう」
深々と頭を下げる公爵に、楓は慌てて立ち上がり、手を振った。
「や、やめてください! 俺はただ依頼を受けて動いただけで……」
「謙遜は不要だ。ギルドからも報告を受けている。
そして――Bランクへの昇格、誠に見事であった」
その言葉に、広間がざわめく。
楓は思わず背筋を伸ばし、改めて自分が大きな功績を認められたのだと実感した。
公爵邸の大広間は、夜の光に包まれていた。
高くそびえる天井から吊り下がるシャンデリアには無数の蝋燭が灯され、黄金色の光が大理石の床と壁に反射して煌めく。
天井近くの壁には壮大な戦の壁画が描かれ、その下に並ぶ楽師たちが優雅に竪琴や笛を奏でていた。
大きな長卓には、所狭しと料理が並んでいる。
香ばしい焼き鳥肉の丸焼き、真紅のソースをまとった魚料理、野菜と香草をふんだんに使った温かなスープ。
果物は銀の器に盛られ、宝石のように輝いていた。
甘い香りの漂う焼き菓子や蜂蜜漬けの果実もあり、楓は思わず喉を鳴らす。
だが同時に――
(……う、居心地が悪い……)
仮面を外すべきか迷いながらも、楓は視線をあちこちへと泳がせた。
楓の席は、何故か公爵のすぐ近く。
さらに隣にはドレス姿のリシェルがぴたりと座り、にこやかに笑いかけてくる。
「楓様、これは“黄金鳥”と呼ばれる特別な鳥肉ですのよ。とても柔らかくて美味しいんです」
「あ、ああ……ありがとう。いただくよ」
ナイフとフォークをぎこちなく手に取り、楓が口に運ぶと、舌に広がるのは濃厚で甘みを帯びた肉汁だった。
普段、宿や屋台で食べている質素な食事とは次元が違う。思わず目を見張る。
リシェルはそれを見て、くすりと笑う。
「ふふっ。やっぱり楓様でも驚かれるのね」
「普段はこんなの食べられませんから……」
「では今日は、たくさん召し上がってくださいませ。わたくしが取り分けて差し上げますわ」
と、リシェルは自ら楓の皿に料理を次々と取り分けていく。
楓は困惑しながらも、拒むこともできずされるがままになった。
周囲の使用人たちや客人の視線が集まり、ざわめきが広がる。
「ーーあの方が、蟻の群れを退けたという冒険者か」
「随分と若く、小柄だが……噂は本当なのか?」
「公爵令嬢があんなに懐いているなんて……」
楓の姿は、客人たちの話題の中心になっていた。
仮面の下の素顔は隠されているものの、白銀に近い髪と紫の瞳はわずかに覗き、幻想的な雰囲気を漂わせる。
その異質な容姿に、好奇の視線が集まるのも仕方がなかった。
楓は内心落ち着かず、杯の水をちびちびと飲んでいた。
やがて料理が一段落すると、リシェルは楓の袖を引き、小声で囁く。
「楓様……例の蟻退治のお話、皆様に聞かせて差し上げて」
「えっ、ここで……?」
「ええ。わたくしも、もっと詳しく知りたいのですもの」
そう言って立ち上がると、リシェルは広間の中央に進み出て声を張った。
「皆様! ここにおられる楓様こそ、あの脅威を退けた英雄です!」
客人たちが一斉に視線を向け、拍手が沸き起こる。
楓は椅子から半ば無理やり引き立てられ、壇上に立たされた。
「ちょ、ちょっと……」
「恥ずかしがらないで。お願いしますわ」
リシェルが期待に満ちた瞳で見上げる。
楓は大きく息を吸い、言葉を選びながら語り始めた。
「……あの蟻は、とにかく数が多かったです。正面から挑めば、どんな冒険者でも飲み込まれて終わりだったと思います。だから、俺は……“時間をかけて仕留める”方法を選びました」
群れをどう避け、どう動き、どう罠を使ったか――
具体的な「毒」の部分は伏せながら、楓は工夫と戦術の物語として語った。
聴衆は次第に静まり返り、話に引き込まれていく。
やがて最後に、「街を守れたのは、依頼を託してくれた人たち、そして協力してくれたギルドのおかげです」と締めくくると、大きな拍手が巻き起こった。
リシェルは満足げに頷き、楓の腕を嬉しそうに握った。
拍手が収まると、公爵が立ち上がり、威厳ある声で言った。
「楓殿。改めて礼を言わせてもらう。
そなたの功績は、この街、この国にとって計り知れぬものだ。
そして――冒険者ギルドの報告を受け、正式にBランクへと昇格したことをここに公に称える!」
歓声と祝福の声が広がる。
楓は戸惑いながらも、深く一礼した。
(……これで、俺はもう“ただの新人”じゃないんだな)
心の中で呟き、噛み締めるように杯を傾けた。
祝宴が終わりに近づき、客人たちが次々と退出していく。
笑い声と楽器の音が遠ざかり、大広間は徐々に静けさを取り戻していった。
楓も帰ろうと席を立ったその時――
リシェルが裾を持ち上げながら駆け寄ってきた。
「楓様! ちょっと……待ってください」
振り返ると、淡い桃色のドレスを纏ったリシェルが、夜会の余韻に頬を赤らめて立っていた。
その姿は、祝宴の華やかさから切り離されたように、どこか可憐で自然体に見える。
「もうお帰りになられるのですか?」
「ああ、そろそろ……長居すると迷惑になりますから」
「……でしたら、少しだけ。お話をさせていただけませんか?」
遠慮がちなその声に、楓は少し考え、頷いた。
二人は、人気の少ない庭園へと出た。
夜の空気は涼しく、月明かりが白い石畳を照らしている。
花壇には夜でも香りを放つ花々が咲き、噴水の水音が静かに響いていた。
リシェルは石のベンチに腰掛け、楓に向かって微笑んだ。
「今日は、本当に楽しかったです。楓様のお話……皆様も魅了されていましたけれど、わたくしも夢中で聞いてしまいました」
「大げさですよ。俺なんか、ただ必死にやっただけです」
「それでも……あんなに恐ろしい魔物を退けたなんて、やはり楓様は特別ですわ」
リシェルの目は、尊敬と憧れで輝いている。
楓はその視線に気圧され、思わず視線を逸らした。
しばらく沈黙が流れ、噴水の音だけが響く。
やがて、リシェルが小さく口を開いた。
「……あの時、わたくしの病を救ってくださった薬。あれが無ければ、わたくしは今ここにいなかったでしょう」
「薬を作ったのはミルダです。俺は素材を集めただけですよ」
「いいえ。素材を集めてくださったのは楓様ですわ。それに……命を懸けて戦っている方が、“ただの素材集め”などと仰るのは、違うと思います」
リシェルの声は、少し震えていた。
それは、心からの感謝の気持ちが溢れている証だった。
楓は言葉を失い、ただ空を仰いだ。
月が静かに輝き、雲の切れ間から光が二人を照らす。
沈黙を破るように、リシェルが微笑んで楓に身を寄せる。
「あの……よろしければ、また冒険のお話を聞かせていただけませんか? 今日の宴では皆様に語ってくださったから……次は、わたくしだけに」
「……次は、リシェル様だけにですか?」
「はい。わたくし、楓様のお話を聞いていると、とても安心するのです。まるで自分も一緒に冒険しているようで……」
彼女の瞳は純粋な憧れで満ちていた。
楓は少し戸惑いながらも、その願いを断ることはできなかった。
「わかりました。また時間を作ります。……今度は、もう少し静かなところでお願いします」
「ええ、約束ですわ」
リシェルは嬉しそうに頬を染め、両手を胸の前で組んだ。
やがて屋敷の奥から使用人が迎えに来て、リシェルは名残惜しそうに立ち上がった。
「楓様……今日は本当にありがとうございました。どうか、これからも無茶をなさらぬように」
「努力はします。でも、仕事ですから」
「……だからこそ、どうか気をつけて。わたくし、またお話を聞ける日を心待ちにしています」
リシェルは小さく会釈をして去っていった。
残された楓は、しばらく夜空を見上げて立ち尽くしていた。
(……なんだか、不思議だな。俺がこんな場所で、誰かに感謝されて、尊敬されるなんて……)
胸の奥に、ほんのりと温かな感情が芽生えていた。