エピソード24
朝のギルドはいつもざわめきに包まれていた。木製の大扉を押し開けて中へ入った楓は、ほんの少し息を吐く。外の冷たい風から逃れてきた冒険者たちの体温と、漂う酒と食事の匂いが、ひとつの空気に溶け合って広間を満たしていた。
壁一面に掲げられた依頼掲示板には、すでに何人もの冒険者が群がっている。安定した護衛依頼を探す者もいれば、ひと儲け狙いで討伐依頼を探す者もいる。ちらりと横目で眺めると、彼らの目は鋭く光り、少しでも有利な依頼を取ろうと競い合っていた。
楓は人混みを避けるように一歩下がり、空いたタイミングを見計らって掲示板に近づいた。彼の心には、いまや余裕があった。Cランク冒険者として認められたことで、以前では受けられなかった依頼が受けれるようになったからだ。
「ーーふむ」
目に留まったのは、やや古びた紙。だが、その内容は決して軽くはない。
⸻
依頼内容
「蟻型魔物の増加による被害調査と討伐」
報酬:討伐数に応じて加算
依頼者:農村連合
⸻
楓は紙をじっと読み込み、思わず苦笑した。
「蟻……か」
日本で暮らしていた頃、公園や庭先で見慣れていた小さな虫。砂糖や飴玉を落とせば、たちまち集まって群れで運んでいく勤勉さ。どこにでもいる、取るに足らない存在――それが彼の中の「蟻」のイメージだった。
だからこそ、最初は気楽に考えていた。蟻ならば、いくら数が多くとも、冒険者が相手をすれば大した脅威ではないだろう、と。
だが、横からひそひそ声が耳に入る。
「おい、またあの蟻の依頼かよ……」
「やめとけ。前に挑んだパーティー、半壊したって噂だぞ」
「農家の畑が荒らされる程度ならまだしも、家畜まで持ち去るって話だからな。あれは洒落にならねぇ」
楓は足を止め、眉をひそめた。半壊、家畜、持ち去る。どう考えても、彼の知っている蟻の規模ではない。
背後から声がかかった。
「楓さん、その依頼を見てるんですか?」
振り向けば、ギルド受付嬢のエマが心配そうにこちらを見ていた。栗色の髪をきちんとまとめた彼女は、常に冷静な態度を崩さないが、楓に対してはどこか特別な柔らかさを見せることがある。
「ええ。そんなに危険な依頼なんですか?」
「ーー危険です。報告によれば、蟻の大きさは大人の馬ほど。中にはそれ以上の個体もいると。顎の力で木の柵を粉砕し、牛や羊を丸ごと運んでしまうそうです」
「ーー馬の大きさ、ですか」
楓は軽く目を見開いた。想像していた「日本の蟻」とはあまりにも違いすぎる。もはや虫ではなく、獣の領域だ。
エマはためらいがちに続けた。
「他の冒険者は、危険を察して手を引いています。ですが……依頼は残り続け、農村の人々は困窮しているのです。せめて数を減らすだけでも、というのが依頼人の願いで」
楓は短く息を吐いた。頭の中ではすでに計算が始まっていた。自分の現在の力で、どこまでやれるか。毒を使わずとも一匹なら討伐可能だろう。だが群れとなれば話は別。
それでも――。
「ーー受けましょう」
エマは驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頷いた。
「ーー分かりました。ですが、どうか無理だけはなさらないでください」
楓は苦笑しつつ、依頼票を受付に差し出した。
「安心してください。無茶は……なるべくしませんから」
彼の心にわずかな緊張が走った。日本で見ていたあの小さな蟻と、馬ほどの大きさを持つ魔物の蟻。その差がどれほどの脅威となるのか――それは現地に行かなければ分からない。
依頼を受けた翌日、楓は荷を軽く整え、街を出発した。目的地は農村地帯の外れ、森に近い丘陵地帯にあるという。そこに蟻型魔物の巣が存在し、周囲の農家や牧場に被害を与えているらしい。
街道を進む馬車や行き交う人々を眺めながら歩を進める。道沿いの農地は、すでに一部が荒れていた。麦畑は踏み荒らされ、牛舎の柵は無惨に折れ曲がっている。人々の顔には疲れと不安が色濃く刻まれていた。
「ーー本当に出るんだな、あの化け物蟻」
「昨日も羊が二頭、いなくなったってよ」
「もう畑も放棄するしかねぇ……」
すれ違う農夫たちの声が、楓の耳に否応なく飛び込んでくる。その表情を見て、楓の胸に静かな決意が芽生えた。
「これは……軽い仕事じゃなさそうだ」
やがて日が傾き始めたころ、目的地の丘陵地帯が視界に入った。周囲の草地は掘り返されたように荒れており、大地に大きな穴が口を開けている。巣の入口だろう。
楓は身を低くして様子をうかがった。
――ギチ、ギチ、ギチ……。
不気味な甲高い音が響き、やがて土煙の向こうから「それ」は現れた。
「ーーっ!」
楓の目が大きく見開かれる。そこに姿を現したのは、彼の想像をはるかに超える存在だった。
漆黒の外殻に覆われた蟻型の魔物。大きさはまさに軽自動車ほど、体長は二メートル半はあるだろう。顎は鎌のように湾曲し、光沢を帯びた鋭い刃を思わせた。赤黒い複眼がぎらりと光り、触角が空を切り裂くように動いている。
「ーーこれが、蟻……?」
日本で見てきた小さな生き物の面影は一切なかった。むしろ装甲を纏った戦車のような迫力がある。
魔物は土を踏み砕きながらゆっくりと進み、やがて家畜小屋の方角へと鼻を利かせるように動いた。楓は素早く草陰から飛び出し、短剣を抜いた。
「試しに、一匹……!」
魔物の側面に回り込み、素早く飛び込む。顎が迫る寸前、体をひねって回避。外殻の隙間を狙い、短剣を突き立てた。
――ギチィィィッ!
耳障りな悲鳴とともに魔物が暴れる。楓は刃を引き抜き、すぐさま後方へ飛んだ。
「ーー硬いな。だが通る」
確かな手応えがあった。毒を使わずとも、自分の力と武器で仕留められる。だが、問題は群れだ。一匹ならば対処できても、数十、数百と押し寄せられればどうなるか。
魔物は怒り狂い、顎を振りかざして突進してくる。楓は地面を蹴り、低く滑り込むように足下へ潜り込んだ。短剣を突き上げ、腹部の柔らかな部分を抉る。
巨体が大きくのけぞり、断末魔のような音を響かせて倒れ込んだ。
砂塵が舞い、しばし静寂。楓は立ち上がり、息を整える。
「ーーよし、一匹。今の俺なら問題ない」
短剣の刃を拭いながら、楓は冷静に状況を分析する。だがすぐに、巣の奥から新たな振動が伝わってきた。地面が小さく震え、複数の影がぞろぞろと現れる。
「ーーやはり、一度に多くは相手にできないか」
楓は素早く後退し、距離を取った。毒を使うべきかどうかを迷いながらも、まだ踏みとどまっている。
楓は巣の前に立ち尽くし、迫り来る複数の蟻型魔物の影を睨みつけた。
一匹だけならまだしも、今や五、六匹の群れが一斉に地面を踏みしめて迫ってくる。
大地が震え、耳障りなギチギチという音が木霊する。
「ーーこれ以上は、短剣じゃ追いつかない」
自分の身体能力がどれほど高くても、数の暴力には限界がある。
群れを相手にするなら――封じていた力を解放するしかない。
楓は一瞬、深く息を吸い込んだ。
冒険者として、人前で毒を使うのは極力避けたい。だが、今は人影がない。ここで試すしかないだろう。
「ーー仕方ないな。人の目がない時くらい、使わせてもらうか」
右手をかざすと、掌からじわりと毒素がにじみ出す。紫がかった靄が空気を歪め、独特の匂いが漂った。
その瞬間、日本で暮らしていた頃の記憶が頭をよぎる。
夏場、アリが台所に侵入してきて、駆除のために「アリの巣コロリ」を置いたことがあった。
無数のアリが餌に群がり、巣ごと壊滅していた――あの単純で、しかし効果的な方法。
「ーーそうだ。あれを応用できる」
楓は甘そうな香りの毒を凝縮し、摂取したら継続して毒を広げ、伝染することをイメージし、小瓶ほどの大きさに丸める。
小さな玉が空中でぷかりと浮かび、やがて重みを持って手のひらに落ちた。
「これを、蟻たちの通り道に置いてみよう」
彼は慎重に巣穴の出口へと近づき、いくつかの地点に毒玉を転がして配置した。
外殻を硬質化させた個体でも、食物や匂いに敏感な蟻なら必ず触れるはずだ。
――ギチギチ。
巣から次々と魔物蟻が顔を出す。触角を震わせ、毒玉に群がりはじめた。
外殻の間から舌のような器官が伸び、毒玉を取り込もうとする。
楓は息を潜め、距離を取った。
「ーーさて、効くかどうか」
最初の数分は、何も変化がなかった。
「ーーやはりそううまくはいかないか」
蟻たちは毒玉を触り、巣へと運び込んでいく。
しかし、それから数時間様子を見ていると――。
――ドサッ。
一匹が急に痙攣し、その場に崩れ落ちた。
さらに二匹、三匹と、次々に硬直して倒れていく。
巣の中からも不気味な音が響き、地面が震えた。
次の瞬間、地表近くにいた蟻たちが一斉に痙攣し、黒い塊となって動かなくなった。
「ーー効いてる」
楓の口元がかすかに吊り上がる。
日本の「アリの巣コロリ」を真似ただけだが、この世界の魔物にも通用するとは。
――しかし、その効き目は楓の予想をはるかに超えていた。
巣穴の奥から悲鳴のような音が響き、さらに大きな揺れが伝わる。
地中深くで何百、何千という蟻が、毒に蝕まれながら絶命しているのだ。
その時だった。
――【レベルが上がりました】
――【レベルが上がりました】
――【レベルが上がりました】
「ーーっ、またか!」
久々に耳の奥に響くシステムの声。
前は意識が朦朧としていた時だったが、今回ははっきり聞こえる、そして止まらない。
【レベルが上がりました】
【レベルが上がりました】
【レベルが上がりました】
数十、数百の声が途切れず押し寄せ、楓は思わず頭を押さえる。
「まさか……巣全体が……!」
恐る恐る視線を巣穴へ向けると、黒い煙が立ち昇っていた。
それは毒が濃縮されすぎた証拠であり、地下の生命が一掃された証でもあった。
――ギチ……ギチギ……。
最後に聞こえたのは、女王蟻らしき存在の断末魔。
それすらもやがて途絶え、巣全体が沈黙に包まれた。
楓は膝に手をつき、深く息を吐いた。
「ーーやりすぎたな」
だが、その胸には新たな重みが刻まれていた。
――【称号:《黒毒の群葬者》を獲得しました】
視界の端に浮かぶメッセージ。
群れ全体を毒で葬り去った者に与えられる、禍々しい響きの称号だった。
「ーー毒の群葬者、か」
楓は苦笑し、空を見上げた。
称号の響きはあまりにも中二的で、どこか気恥ずかしい。だが、その効果は無視できない。
体の奥に、新たな力が確かに宿った感覚がある。
「ーーともあれ、これで依頼は達成どころか……過剰達成、か」
丘陵一帯に広がっていた蟻の群れは、跡形もなく消え去った。
静まり返った大地に、ただ楓の呼吸音だけが残る。
依頼書に記された条件は「周辺住民を脅かす蟻型魔物の駆除」。
楓は確かにその任務を果たした。いや、それ以上に――巣ごと、群れごと壊滅させてしまった。
「ーー依頼は完了。問題は……どう説明するか、だな」
毒の存在を知られるのは避けたい。
正面から短剣だけで群れを倒したと信じる者などいないだろうが、それでも細部はぼかして報告するしかない。
楓は地面に転がった蟻型魔物の死骸をいくつか解体し、素材を証拠として回収した。
その上で街のギルドへ戻り、受付へ依頼書と素材を提出する。
「お、お帰りなさい、楓さん。討伐の進捗は……?」
いつも応対してくれる受付嬢のルアが、不安げに問いかけてきた。
彼女の知る限り、あの蟻の巣を攻略するには小規模パーティーでも数日かかるのが常識だった。
楓は静かに言う。
「依頼は完了しました。あの蟻の群れはもう、この世にいないと思います」
その言葉に、ルアの目が大きく見開かれる。
「ーーえっ? 依頼完了って……まさか、全滅……?」
楓は頷き、持ち帰った素材を机に置いた。
そこには女王蟻の外殻の一部らしきものまで含まれていた。
「巣ごと壊しました。今後、周辺に被害は出ないはずです」
ルアは一瞬、言葉を失う。
次の瞬間、慌てて奥に駆け込み、上級職員や鑑定士を呼び寄せた。
やがて、ギルドの一室に楓は案内された。
卓上には素材の山が並べられ、数人の職員が血相を変えて鑑定に取り掛かる。
「ーー間違いありません。これは確かに群れの女王個体の外殻。通常、最深部で護衛に囲まれているものです」
「女王の討伐となれば、報酬は依頼金額の十倍でも安いくらいですよ……」
ざわめきは収まらない。
依頼を単独で受けて帰ってきた青年が、一日足らずで蟻の巣そのものを消し飛ばした――誰が信じられるだろうか。
「楓くん、一体どのような手段を……」
「ーーいや、詳細は言えません。ただの工夫の積み重ねです」
楓は涼しい顔で答える。
毒の存在を打ち明けるつもりはない。だが完全に嘘をついているわけでもない。実際、あれは「工夫」であり、「応用」にすぎないのだから。
沈黙が重く落ちかかる。
だがやがて、ギルドマスターが立ち上がり、楓に向けて深々と頭を下げた。
「ーー楓。君は間違いなく、この街を救った。ギルドを代表し、感謝を申し上げる」
その場にいた全員が息を呑んだ。
ギルドマスター自らが頭を下げるなど、そうそうあることではない。
楓は少し困ったように微笑み、軽く会釈した。
「ーー依頼を受けただけです。それ以上でも以下でもありません」
その夜。
酒場に立ち寄った楓は、背後から冒険者たちのひそひそ声を聞いた。
「おい、聞いたか? 蟻の大群、全部一人で片付けた奴がいるらしい」
「馬鹿言え、そんなこと出来るわけ……いや、でもギルドが認めたんだろ?」
「名前は……確か楓とかいう新人だって」
「ありえねぇ……一人で群れを葬るなんて……」
楓は苦笑し、グラスの中の琥珀色の液体を揺らした。
ギルドの酒場を後にし、宿の静かな部屋に戻った楓は、深い息をついた。
周囲に聞かせられない“声”が、頭の奥にまだ響いていたからだ。
――称号《黒毒の群葬者》を獲得しました。
――新たなスキルが解放されます。
――基礎能力が大幅に上昇します。
ただのシステムの声――だが、それはこの世界に来てから楓を導き続けている。
そして今回は、過去にないほど大きな変化を告げていた。
楓は手のひらをじっと見つめる。
いつもと同じ、自分の掌。
けれど、ほんの少し拳を握るだけで、骨の軋む音が強く響いた。
「ーー力が、増してる……?」
軽く立ち上がる。
体が、驚くほど軽い。
背筋を伸ばした瞬間、今まで感じたことのない充実感が全身を駆け抜けた。
そして次の瞬間、心臓が鼓動を速める。
(これは……落ち着いて試した方がいいな)
誰かに見られるのはまずい。
楓はそっと窓を開け、夜の街路へと姿を消した。
人の少ない裏路地を抜け、郊外の森へ。
月明かりだけが頼りの夜道を、楓は静かに駆け抜けた。
だが、その“駆け抜ける”感覚が――すでにおかしかった。
「ーー速すぎる」
走っているのに、ほとんど疲れない。
風景が視界の端で流れ落ちるように動いていく。
地を蹴るたびに、全身が宙を舞うような浮遊感を覚える。
気づけば森の外れまで、数分もかからずに到達していた。
「これ……もう人間の速さじゃない」
自分で呟きながら、喉が乾く。
心は昂ぶっているが、どこか冷静でもあった。
力が“暴走していない”。すべて自分の意思で制御できている。
近くに倒木があった。
両手で抱えるには大人三人は必要そうな大木。
楓は何気なく手を伸ばし――それを持ち上げてしまった。
「ーー嘘、だろ」
筋肉に負担を感じない。
ただ重量が“存在している”と理解できるだけ。
次の瞬間、彼は軽々とその大木を放り投げていた。
ドンッ――!
投げられた木は地面に叩きつけられ、土煙を上げる。
「ーーこれが、俺の力……」
楓は唇を噛んだ。
力の増加は想像以上だ。
自分が“力加減”を誤れば、簡単に人を傷つけてしまうだろう。
だが同時に、不思議な安心感もあった。
制御できる。
あの投げ飛ばした瞬間でさえ、楓は確かに“まだ抑えていた”。
そして――スキルの確認。
深呼吸を一つ。
そして意識を集中すると、頭の奥に“新しい感覚”が生まれる。
(ーー広がっていく……?)
それは自分の体から放たれる黒い霧の感覚。
ただ目に見えるわけではない。
まるで“空気の流れ”を指先で感じるように、毒の粒子がどの方向に漂い、どのように集まるかを直感できた。
「ーー群れ全体を覆うように操れるのか」
試しに地面へ手をかざす。
紫黒の霧が静かに広がり、半径十メートルほどの草木を包み込んだ。
音もなく、しかし確実にその命を蝕んでいく。
やがて、広がった範囲の草が一斉にしおれ、黒ずんで崩れ落ちた。
「これが、新しい……スキル」
直感的に分かった。
――《黒毒領域》。
範囲そのものを毒に変える、群れを葬るための力。
「うわ、これ《毒支配領域》よりもかなり強力だな」
楓はすぐに毒を引き戻す。
霧が消えた瞬間、腐敗の進行も止まった。
広げすぎれば森ごと死んでしまう。
だからこそ、この力は極めて危険だ。
「でも……これなら一瞬で討伐数を稼げる」
称号の意味が分かってきた。
群葬者――群れを毒で葬り去る者。
アリの巣を全滅させたあの出来事は、偶然ではなく必然だったのだ。
毒の領域を展開して群れを葬る――それだけではあまりに大雑把すぎる。
楓はもっと精密な技を試したくなった。
「ーー糸を刃にできるか?」
指先に集中すると、細い毒糸が生まれる。
それを緊張させ、鋭利な線のように伸ばした。
そして小枝へ軽く触れさせる。
――スッ。
ほとんど抵抗を感じることなく、枝は二つに切り裂かれた。
「ーーいける」
ーー《毒糸刃》。
毒を帯びた糸が刃のように対象を断ち切り、切り口から毒を流し込む。
もし生き物に触れれば、切創と同時に毒が侵入するだろう。
楓はさらに数回試す。
草、葉、岩の表面――どれも容易に切断された。
制御が難しいが、慣れれば強力な武器になる。
毒の力にばかり目を向けてはいけない。
肉体の強化も、確かめなければ。
楓は立ち上がり、近くの岩場へ駆け出した。
足を地に着けた瞬間、爆発的な推進力が生まれる。
土が抉れ、跳躍した体は五メートルの岩壁を軽々と飛び越えた。
「ーー本当に、人間の限界を超えてる」
次は木の幹に足をかけ、垂直に駆け上がる。
以前なら無理だった動作が、まるで当たり前のことのように成功する。
木の上で軽く跳ね、枝から枝へと音もなく移動していく。
力だけではない。
速度と精度が増していた。
「ーー技術を磨けば、俺はもっと強くなれる」
自分の力に酔わないよう、冷静に分析する。
称号が与えたのは怪物の力。
だが、それを人の技で制御すれば――楓は確実に“最強”へと近づける。
次に楓は力加減を試すことにした。
拳を握り、近くの小石を軽く叩く。
パリン、と表面が砕けただけで、石自体は原形を保った。
「ーーよし、加減できる」
次に少し力を込めて殴ると、石は粉々に砕け散る。
さらに力を込めると、地面ごとえぐり取ってしまった。
「ーー危険すぎるな」
それでも、驚くほど精密に力を調整できている。
称号が与えたのは、単純な怪力ではなく“制御された強化”なのだ。
そして楓は腰に差していた一本の短剣を抜き取った。
それは、かつて山道で襲いかかってきた盗賊から奪ったもの。
黒鉄の刃には奇妙な文様が刻まれており、手にするとわずかに冷たい瘴気を放つ――呪いの短剣だ。
当初は気味が悪くて放置していたが、今なら試す価値がある。何故が使えそうな気がした。
楓は深呼吸し、掌に毒の力を流し込む。
すると、刃に刻まれた文様がぼんやりと赤黒く輝き、まるで吸い込むように毒を取り込んだ。
「ーーおいおい、勝手に馴染むのか」
軽く木の幹を斬りつける。
一瞬はただの切り傷に見えた。
だが、数秒後――切断面が黒く染まり、じわりと毒が広がり始める。
「これは……」
楓の目が細くなる。
直接毒を操っているようには見えない。
あくまで短剣の“呪い”が、切り口に毒を付与しているようにしか見えないのだ。
試しに小石を斬ってみると、表面がすぐさま腐食して崩れ落ちた。
楓の毒が短剣を通じて浸透し、自然な現象のように発現している。
「ーーこれなら多少使っても、ただのレア武器の効果ってことで通るな」
呟きながら刃を振るう。
短剣は、毒の力を濃縮し、まるで呪術的な刃に変える。
通常の攻撃に見せかけながら、確実に相手を蝕んでいく。
楓はその相性の良さに、背筋が粟立つほどの興奮を覚えた。
「いい。これなら……隠す必要もない」
毒を自在に操る証拠を隠しつつ、力を実戦に持ち込める。
呪いの短剣は、楓にとって最高の“仮面”になり得た。
「ーーさて、こいつの本領を見せてもらおうか」
腰の鞘から黒鉄の短剣を引き抜く。
刃の表面をなぞると、赤黒い光が微かに灯り、毒が反応しているのを感じた。
まるで、刃そのものが呼吸をしているようだ。
楓は小走りで木々の間を駆け抜ける。
――速い。
以前よりも明らかに体が軽い。
木の根に引っかかることもなく、地を蹴る度に弾丸のように加速する。
「ーーすごいな、俺」
苦笑が漏れる。だが、胸の奥には高揚がある。
茂みの奥から、野犬のような魔獣が二体、唸り声を上げて現れた。
牙を剥き、こちらに飛びかかってくる。
「おお、ちょうどいい」
楓は構えを低くし、突進を真正面から受ける。
瞬間――視界が遅くなる。
敵の動きが鈍重に見える。
短剣を横薙ぎに振る。
ほとんど力を込めていないのに、魔獣の体が裂かれた。
その瞬間、切り口から黒い靄が噴き出し、血管を駆け巡るように広がっていく。
――ドサリ。
一匹は、斬られたことすら気づかぬまま絶命した。
「速すぎて……当たった感覚すらない」
もう一匹が恐怖を感じたのか後退する。
楓は軽く地を蹴った。
たった一歩で距離を詰め、肩口に短剣を突き刺す。
黒い文様が刃から脈打つように広がり、毒が魔獣の体内に流れ込む。
苦悶の咆哮が夜に響くも、数秒で動かなくなった。
「ーーなるほど。毒が、刃を媒介に自然と流れる。しかも直接操ってないから、俺のスキルだとバレない」
楓は短剣を見つめ、ぞくりとした。
ただの呪われた武器ではない。
自分の毒と共鳴し、進化している。
再び森を駆け、岩肌を蹴り、倒木を飛び越える。
体は信じられないほど軽快に動き、反射も強化されている。
拳を軽く振るだけで、幹の太い木がバキリと折れるほどの威力。
「制御も効く……。」
楓は深呼吸し、短剣を鞘に収めた。
月明かりの下で汗を拭いながら、自分の力に震える。
「称号の力か……。それとも、この刃が引き出したのか……」
呟きは、夜の森に吸い込まれていった。
森の静寂を破るのは、虫の羽音と夜鳥の鳴き声だけだった。
楓は再び短剣を手に取り、握りを確かめるように何度も振ってみる。
黒い刃は夜気に溶け込むように闇と同化し、手に持つと不思議としっくり馴染む。
「ただ斬るだけじゃなく……使い方はいくらでもあるはず」
楓は短剣を逆手に持ち替え、しばらく無言で呼吸を整えた。
そして、ふっと力を抜き、刃を投げ放つ。
――シュッ。
空気を切り裂き、黒い軌跡が木の幹へ突き刺さった。
刃が触れた瞬間、そこから黒い煙が滲み出す。
幹に巣食っていた虫たちが一斉に飛び出すも、飛びながら次々と地面へ落ちていく。
「ーー投げても毒が発動するのか」
楓は幹に近づき、手を伸ばして短剣を引き抜く。
刃の根元に、まるで血管のような黒い紋様が脈打っていた。
――自分の毒と刃が完全に結びついている証だ。
「なら、毒の濃度を変えることも……」
楓は今度、刃を軽く振り下ろして小さな石を切った。
直後、石の表面に黒い点が浮かび、すぐに粉々に砕け散った。
しかし先ほどよりも煙の量は少ない。
「ーーなるほど。力の加減で毒の濃さも調整できるわけか」
強烈に即死させる毒もあれば、じわじわ効いて動きを鈍らせる毒もある。
状況に応じて使い分ければ、より自然に戦える。
楓はさらに数歩後退し、今度は二度三度と連撃を繰り出した。
軽い斬撃でも刃が触れるだけで毒が走り、草や小枝が黒く枯れていく。
「ーー短剣と俺の毒。これは、武器というより……俺の一部だな」
その言葉に自分で背筋が寒くなる。
だが同時に、これ以上ない手応えがあった。
跳躍。
地を蹴った瞬間、体が羽のように軽く浮かび上がり、十メートル近い木の枝へ一気に跳び上がる。
着地も滑らかで、枝がほとんど揺れなかった。
枝の上から森を見下ろす楓は、まるで夜の支配者のように見えた。
「速さも、力も、技術と合わせて完全に噛み合ってきたな……」
以前はスキル頼りだった。
毒の力で相手をねじ伏せるばかりで、体の動きそのものは素人に近かった。
だが今は違う。
冒険者仲間に教わった立ち回りや武器の扱いが、自分の怪物じみた身体能力と合わさり、恐ろしく洗練されてきている。
「ーーこれなら、Cランクの冒険者だって……いや、下手すれば上位でも――」
言葉を飲み込み、夜風に吐き出す。
己の力を誇ることはしない。ただ、受け止める。
やがて枝から軽やかに飛び降り、月明かりの差す地面に立つ。
自分の影が伸び、黒く歪む。
その姿は、人の形をしていながら人ならざる存在に見えた。
十分に試したあと、楓は深夜の森を後にした。
街の灯りが遠くに見えてくると、ようやく胸の中に静けさが戻ってくる。
宿の「緑の樫亭」へ戻り、自室に入る。
仮面を机に置き、銀色の髪をほどいて深呼吸した。
「ーー怪物みたいな力。でも、俺はまだ人間のつもりだ」
椅子に腰掛け、窓の外の夜空を眺める。
強さを手に入れても、心を失えば本末転倒だ。
力を誇示せず、必要な時にだけ使う。
それが、この世界で生きる自分のやり方。
楓は机の上に短剣を並べ、その横に小瓶を三つ置いた。
毒を込めた試作品だ。
見た目は無色透明だが、中身は誰よりも危険な毒。
「ーー力を隠しながら、生き抜いてみせる」
静かに誓いを立て、ベッドに身を沈める。
瞼を閉じると、不思議な安堵感と共に眠りへと落ちていった。