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エピソード23

 ミルダとの取引は、その後も途切れることなく続いていた。

楓が提供する毒をもとに調合された薬は、街の薬師ギルドや商人たちの間で評判となり、需要は衰えるどころかむしろ高まっていく。


「今週もありがとう、楓」

工房の奥でミルダは木箱を持ち上げ、笑みを浮かべながら楓に差し出した。

箱の中には、整然と並んだ薬瓶と共に、取引の代金が入った革袋も置かれていた。


「ーーいつもこんなにいただいて、いいんですか」

楓は袋の重みを手にして、眉をひそめた。


「当然よ。街で売れた利益の分、坊やにも渡すべきだもの。それに……坊やがいなければ、この薬は作れないんだから」


ミルダはそう言って、涼しげに肩をすくめる。

彼女にとっても楓の毒は、単なる素材ではなく大きな力の源になっていた。


宿「緑の樫亭」に戻ると、楓は自室の机の上に革袋を並べた。

数えてみると、最初に冒険者として得たわずかな報酬とは比べ物にならないほどの額が積み重なっている。


「ーーこんなに、か」


袋の口を閉じ、まとめて木箱にしまい込む。

ただのお金にすぎないはずなのに、胸の奥にじんわりとした安心感が広がっていく。


街で暮らすための宿代、食費、装備の修繕費――。

どれも冒険者にとっては重くのしかかる出費だが、今の楓にとっては十分に賄える余裕があった。


(当面の生活に困ることはない……。それなら、落ち着いて情報を集められる)


翌朝、宿の一階で朝食を取るときにも、その余裕は自然と行動に現れていた。

焼き立てのパン、温かいスープ、軽く炙られたベーコン。

以前なら注文をためらったであろう組み合わせを、今日は迷わず頼める。


「へぇ、今日は随分と豪華にしたね」

宿の主人が笑みを浮かべて声をかけてくる。


楓は少し気恥ずかしくなりながらも、小さく頷いた。

「ーーまあ、少しだけ余裕ができたので」


「はは、いいこった! 稼ぎが安定してる証拠だな」


そんな何気ないやり取りすら、今の楓にとっては心地よかった。


夜になると、楓は机に地図を広げ、蝋燭の明かりの下で未来のことを考えた。


(まずはこの街での基盤を固める。……ギルドでの信用、情報の収集、ミルダとの取引を続けながら)


毒を表立って使うわけにはいかない。

だが裏で活かすことならできる。


(焦らなくてもいい。……この資金がある限り、急がずに進める)


革袋の重みが、その考えを支えてくれていた。


寝台に横になり、天井を見上げる。

街の喧騒は遠く、宿の中は穏やかに静まり返っている。


(ーーあの洞窟で目覚めたときから考えると、随分と落ち着いた生活だ)


胸の奥に、かすかな安堵と、次の一歩を考える余裕が芽生えていた。


数日後の午後、楓がギルドの掲示板を眺めていると、受付嬢が小走りで近づいてきた。

「楓さん、ちょっといいですか?」


「ーーなんでしょう」

彼女の表情は真剣で、いつもの柔らかな笑顔は消えている。


「ギルドマスターからの伝言です。急ぎで話があるので、執務室に来てください」


(ギルドマスターから直接……? 普通はもっと上のランクの冒険者じゃないと呼ばれないはずだけど)


楓はわずかに眉をひそめつつも、頷いた。


厚い扉を開けると、ギルドマスターが机に地図や文書を広げていた。

白髪交じりの髭を撫で、鋭い眼差しを向けてくる。


「来たか、楓」

低く響く声に、自然と姿勢が正される。


「依頼の件……と伺いました」


「そうだ。――これは通常の掲示板には出せない、特別な依頼だ」


ギルドマスターは机上の羊皮紙を指で叩いた。

そこには周辺の山岳地帯が描かれ、赤い印がいくつもついている。


「最近、この山道を通る商隊が立て続けに襲われている。盗賊の仕業と思われていたが……どうも違う。目撃者の話では、“巨大な影”に馬車ごと押し潰されたという」


「ーー魔物、ですか」


「ああ。普通の獣ならここまでの被害は出ない。上位の魔物が縄張りを広げてきている可能性がある」


「依頼内容は調査と討伐。……だが、単独で任せるつもりはない」

ギルドマスターは視線を鋭くする。


「Cランク以上の冒険者を集めて、合同で動くことになる。楓、お前にも参加してもらう」


「合同……ですか」


楓は少し考え込んだ。

これまでは単独行動ばかり。仲間と動くことなど、ほとんどなかった。


(……人前では力を隠さないといけない。毒のスキルも使えない。……だが、それでもやれるかどうか、試す機会になるかもしれない)


「ーー分かりました。引き受けます」


ギルドマスターは重々しく頷いた。

「よし。詳細は後日、参加者を集めて説明する。準備を整えておけ」


街を歩きながら


ギルドを出た楓は、夕暮れの街を歩きながら考えを巡らせた。

商人たちが店じまいを始め、通りには灯りがともり始める。

人々の声や香ばしい料理の匂いが入り混じる中、楓は歩みを止め、空を仰いだ。


(ついに……他の冒険者たちと肩を並べる時が来るのか)


胸の奥に、小さな不安と、同じくらいの期待が芽生えていた。


顔合わせの日


数日後。

ギルドの大広間には、普段よりも緊張感のある空気が漂っていた。

壁際に立つ楓の視線の先、中央の丸い大テーブルには十数名の冒険者が集まっている。


武装も姿形もさまざま――

重厚な全身鎧に身を包んだ大男、弓を背負った俊敏そうなエルフ、双剣を腰に下げた軽装の青年、派手なローブを羽織った魔術師風の女。


どの顔もCランク以上、実力者ぞろいであることは一目で分かった。

街で見かける冒険者よりも、纏っている空気が明らかに鋭い。


(ーーやっぱり、強そうな連中ばかりだな。俺なんか混じって大丈夫か?)

楓は無意識に腰の短剣へ手をやった。


ギルドマスターが壇に立ち、全員の視線を集める。

「諸君、よく集まってくれた。依頼の内容は既に伝えてある通り――山岳地帯で発生している脅威の調査と討伐だ。これ以上の被害を出さぬため、合同で動く」


その後、順番に自己紹介が始まった。


「俺はガレン。Cランク戦士、前衛担当だ」

鎧の大男が短く言い放つ。声だけで威圧感がある。


「マイヤよ。遠距離は任せて」

エルフの女が弓を軽く掲げ、涼やかに微笑む。


「魔導師ギルベルト、火炎系なら任せてくれ」

ローブ姿の男は誇らしげに杖を掲げた。


次々と名乗りが続き、やがて楓の番が回ってきた。


「ーー楓。短剣使い。まだCランクになったばかりだ」


簡潔に言い、深くは語らない。

他の冒険者たちは一瞬「子供?」という目を向けたが、すぐに流した。


「へえ、ガキみてぇなのが混じってんのか」

双剣の青年がにやつきながら楓を見た。


「まあまあ。若いのがいるのも悪くないだろう。足手まといにならなきゃ、だがな」

大男のドランが低く唸るように言った。


(ーー子供扱いは相変わらずか。まあ、慣れてるけどな)

楓は肩を竦めて答えなかった。


地図が広げられ、ギルドマスターが説明を続ける。

「被害はこの街道沿いで集中している。魔物の正体はまだ不明だが、規模と被害状況から見て上位種の可能性が高い。調査隊と討伐隊を兼ねる形で向かってもらう」


マイヤが弓を指で弾きながら言った。

「索敵は私がやるわ。森や山道は得意だから」


「正面は俺とガレンが受ける。魔法は後衛に任せる」

双剣の青年が勝手に仕切ろうとする。


「ーー俺は補助に回る。前衛が崩れたらすぐに入る」

楓は口を開いた。


全員の視線が一瞬向く。

短い言葉だったが、迷いのない声音に意外そうな表情をする者もいた。


(ーー表立って毒は使えない。けど、罠を仕掛けたり、隠れて小さな毒玉を使うくらいなら気付かれないはず。短剣と身のこなしで、何とかやり過ごすしかないな)


楓は心の中で自分に言い聞かせる。

ここに集まった冒険者たちは経験豊富で、観察眼も鋭い。

下手に力を見せれば、すぐに異質さを悟られてしまう。


ギルドマスターが締めの言葉を述べた。

「明日の朝、街の東門に集合だ。物資はギルドが一部支給する。以上だ」


冒険者たちはぞろぞろと席を立ち、それぞれの仲間と談笑しながら出て行った。


楓は一人、静かに立ち上がり、扉へ向かう。

背後で、誰かが小声で呟くのが聞こえた。


「ーーあの小柄な奴、本当に戦えるのか?」


その声に、楓は表情を変えず歩き続けた。

(明日になれば分かるさ。俺がどれだけ“普通に戦えるか”ってことをな)


ギルドを出た楓は、夕暮れの街を歩きながら考えを巡らせた。

商人たちが店じまいを始め、通りには灯りがともり始める。

人々の声や香ばしい料理の匂いが入り混じる中、楓は歩みを止め、空を仰いだ。


(ついに……他の冒険者たちと肩を並べる時が来るのか)


胸の奥に、小さな不安と、同じくらいの期待が芽生えていた。


まだ朝の冷たい空気が残る時間、楓は他の冒険者たちとともに山岳地帯を目指していた。

 街を出発してすでに三時間。


 踏み固められた街道はやがて細い獣道へと変わり、緑深い森を抜けると、灰色の岩肌をむき出しにした斜面が続いていく。


 頭上には白い雲が流れ、風は冷たい。夏の陽射しは強いが、標高が上がるにつれ体温を奪われるような感覚がある。


「ここから先は、魔物が多い場所だ。気を引き締めろよ」

 リーダー格の戦士が振り返り、短い言葉を投げた。

 逞しい体格と分厚い鎧をまとい、大盾を背負う彼は、仲間たちから厚い信頼を寄せられているようだった。


 楓は静かに頷いた。

 Cランク冒険者としての初めての合同依頼。彼にとっても緊張感はあるが、顔に出すことはなかった。


 道を進んでいると、低い唸り声が森の奥から響いた。


「ーーゴブリンか」

 ガレンが即座に盾を構える。


 やがて藪をかき分けて、三体のゴブリンが姿を現した。粗末な棍棒や石斧を握り、黄色い目をぎらつかせている。


「やれやれ、景気づけにはちょうどいいな」

 双剣使いの青年、ロイが口元を歪め、素早く刃を抜いた。

 その動きは軽快で、まさに精鋭と呼ぶにふさわしいものだった。


「俺が先陣を切る!」

 ロイは一瞬で距離を詰め、鋭い二撃を浴びせる。

 ゴブリンの棍棒が受け止めるが、力負けし、甲高い悲鳴とともに一体が崩れ落ちた。


「ほら見ろ、こんなもんだ!」

 彼は誇らしげに振り返る。


 その隙に、もう一体が背後から迫った。


「甘いな」

 後衛の弓使い、マイヤが矢を放ち、矢は的確にゴブリンの首筋を貫いた。

 小柄な彼女は弓を収めると、軽やかに次の矢をつがえる。


「油断するな、ロイ」

「わ、分かってるさ!」


 最後の一体はガレンが盾で弾き飛ばし、戦斧で頭を砕いた。

 戦闘はわずか数分で終わった。


 その後も道中では、小規模な魔物との遭遇が続いた。


 岩陰から飛び出した牙獣を、ガレンが受け止め、ロイが斬り刻む。

 マイヤは離れた位置から矢を連射し、魔物を近づけさせない。


 回復役の僧侶、メルティは、仲間の小さな擦り傷を即座に癒やす。

 彼女の祈りの言葉が響くたび、温かな光が漂った。


「さすがCランクの精鋭だな……」

 楓は心の中でそう呟いた。

 彼自身も戦いに参加していたが、できる限り目立たないように短剣でとどめを刺す程度に留めていた。


 彼には毒という大きな切り札がある。しかし、それをここで使う気はなかった。

 この場で毒を見せれば、余計な詮索を招く可能性がある。

 だからこそ、彼は自分の存在を“ただの小柄な短剣使い”に見せるつもりだった。


 昼を少し回った頃、一行は小さな平地に腰を下ろした。

 岩場に囲まれたその場所は、風が穏やかで休息にはちょうどよかった。


 ガレンが火を起こし、鍋に水を張る。

 マイヤが香草を取り出し、干し肉を細かく刻んで鍋に入れる。

 湯気とともに食欲をそそる香りが漂い始めた。


 楓は少し離れた岩の上に腰をかけ、持参した干し肉をかじっていた。

 周囲の視線が時折自分に向いていることに気づく。


 ――信用されていない。


 それは分かりきったことだった。見た目は子供に近く、物静かで、戦闘でも積極的に前に出ない。

 だからこそ、周囲が「本当にこの少年はCランクの実力があるのか」と疑念を抱くのも当然だろう。


「なあ」

 焚き火を前にしていたロイが、立ち上がった。

 双剣を腰から抜き、肩に軽く担ぐ。


「休憩ついでに、ちょっと手合わせでもしないか?」


 その言葉に、他の仲間たちが「また始まった」といった視線を送る。


「理由は?」

 楓は短く問い返した。


 ロイはにやりと笑い、わざとらしく肩をすくめた。

「理由なんて簡単だ。あんた、どう見てもガキだし……今までの戦闘もほとんど見せ場がなかった。

 正直、信用できねぇんだよ。Cランクなんて、本当に持ってんのか?」


 焚き火の向こうでマイヤが「ロイ……」と呟くが、止めはしなかった。

 ガレンも腕を組み、黙って見ている。


 ロイの言葉は、挑発であると同時に、仲間としての本音でもあったのだ。


「……分かった。少しだけなら」

 楓はゆっくり立ち上がった。

 腰の短剣を抜き、軽く構える。


「言っとくが、本気は出さない。怪我をさせても困るから」


 その言葉に、ロイは鼻で笑った。

「ハッ、ずいぶん舐めた口を叩くじゃねぇか。すぐに後悔させてやる」


 二人は数メートルの距離を取り、仲間たちが自然と輪を作った。

 風が一瞬止まり、緊張感が場を満たす。


「いくぞッ!」

 ロイが地面を蹴った。


「はぁッ!」

 ロイの双剣が閃いた。

 彼は一歩で間合いを詰め、右の斬撃を横薙ぎに、続けざまに左で斜めの一撃を繰り出す。

 速い――冒険者として磨かれた技術、そして双剣使いならではの連撃。


 だが楓の瞳は、淡々と紫の光を湛えたままだった。


 ――遅い。


 本人は渾身の速度で振るっているのだろう。だが楓の目には、まるで木の枝がゆるりと揺れているようにしか映らない。

 軽く足をずらし、肩を傾けるだけで、双剣は紙一重で空を切った。


「なッ……!」

 ロイは驚き、さらに連撃を重ねる。

 突き、斬り上げ、回転斬り――。その全てを、楓は最小限の動きで回避していく。


 仲間たちは息を呑んで見守った。

 焚き火の音だけが、やけに大きく響いている。


「おおおッ!」

 ロイは気合を込め、渾身の力で二本の刃を振り下ろした。

 両の剣が交差し、必殺の一撃となる――はずだった。


 しかし楓は、ほんの一瞬前に半歩踏み込み、短剣を横に払った。


 ――ガンッ!


 金属音が山に響く。

 次の瞬間、ロイの手から双剣が弾かれ、空高く回転しながら飛んでいった。


「な、に……ッ!?」

 ロイの両手は衝撃で痺れ、思わず指先が震えている。

 彼はあまりの出来事に呆然とした。


 楓は淡々と短剣を収め、一歩後ろに下がった。


「ーーこれで十分だろう?」


 一瞬、誰も声を発せなかった。

 火の爆ぜる音と、山風が草を揺らす音だけが響く。


 最初に声をあげたのは、弓使いのマイヤだった。

「い、今……見えなかった……。いつ動いたの?」


 メルティも呆然と両手を合わせて祈るように胸元に置く。

「わ、私も……気づいたらロイの剣が飛んで……」


 ガレンは腕を組み直し、真剣な眼差しで楓を見つめた。

「ーーあれを“十分”と言うのか。とんでもないな」


 ロイは唇を噛みしめた。

 彼の誇る速さも技も、まったく通用しなかった。

 プライドは打ち砕かれたが、それ以上に――恐怖と畏怖が心を支配していた。


「お、俺の……動きが……全く、見えなかった……」

 絞り出すように呟く声は、まるで別人のように弱々しかった。


 楓は焚き火のそばに戻り、腰を下ろすと、再び干し肉を取り出して口にした。

 その姿は戦闘前と何一つ変わらない。


「ーー模擬戦だからな。力を抑えた。

 怪我をさせても困るし、これ以上は必要ないだろう」


 さらりと告げるその声音に、誰も反論できなかった。

 先ほどの一撃で、彼がどれほど危険な力を隠し持っているか、全員が理解してしまったからだ。


 ロイはなおも悔しそうに拳を握ったが、やがてその力を抜いた。

 勝ち目はない――それを認めざるを得なかった。


 ガレンが重い口を開いた。

「ーー楓。お前は一体、どこで修練を積んできた? その小さな体で、あの動き……ただ者じゃない」


「修練、というほどでもない。ただ……必要だっただけだ」

 楓は淡々と答える。


 マイヤは目を輝かせて前のめりになった。

「すごい! あんな動き、見たことないよ! あれなら大きな魔物だって……!」


「やめろ」

 楓は軽く手を振り、彼女の言葉を遮った。

「ーー俺は目立つつもりはない。ただ、依頼をこなすだけでいい」


 その言葉に、一同は黙り込むしかなかった。


 模擬戦はそれで終わりとなった。

 ロイは悔しさを噛みしめながらも、楓を敵視するような態度は見せなくなった。

 むしろ無言のまま、時折ちらちらと彼を見やる。その視線には、恐れと同時に認めざるを得ない敬意が混じっていた。


 焚き火の鍋から漂う香りが場を和ませ、やがて皆は食事を再開した。

 笑い声は少なかったが、それでも少しずつ空気は元に戻っていく。


 山岳地帯はまだ遠い。

 だが一行の中で、楓の存在は、もはや“ただの小柄な新人”ではなくなっていた。


 焚き火の明かりが揺れ、夜風が木々を揺らした。

 模擬戦からしばらく経っても、一行の空気には妙な緊張が残っていた。

 ロイは黙々と手元の食器を磨き、マイヤは何度もちらちらと楓を盗み見ている。

 メルティは不安そうに手を組み、ガレンは黙って薪をくべていた。


 その沈黙を破ったのは、意外にもロイだった。


「ーー悪かった」

 小さな声。

 焚き火にかき消されそうなほどの、か細い謝罪だった。


 楓は顔を上げ、彼を見る。

「何がだ?」


「お前を馬鹿にしたことだ。……俺、認めたくなくてさ。あんなに強い奴がいるなんて思わなかった」


 ロイの言葉に、仲間たちが驚いて視線を向けた。

 彼が素直に謝る姿は滅多に見られない。


 楓はしばらく無言で見つめ、それから小さく首を振った。

「気にしてない。冒険者なんて、実力で測られるものだろう。俺だって、最初から信じてもらえるとは思ってなかった」


 その言葉に、ロイは深く息を吐き、肩の力を抜いた。


 マイヤが待ってましたとばかりに身を乗り出す。

「ねぇ楓、本当にどうやってそんな速さ身につけたの? 私、弓を引くのも早いって言われるけど、あんなの全然比べものにならないよ!」


 目を輝かせ、矢継ぎ早に質問を浴びせるシアに、楓は少し困ったように眉を寄せた。

「ーー特別なことはしてない。ただ、生きるために必要だった。それだけだ」


「生きるために……か」

 メルティがぽつりと呟いた。

 彼女は優しく微笑みながら楓を見つめる。

「でも、そんなに強いのに無理に背負わないでね。あなたはまだ若いんだから」


 その母のような言葉に、楓は思わず視線を逸らした。

 心の奥にある“元の世界での孤独”が少しだけ疼く。

 それを知られたくなくて、楓は干し肉をもう一口かじった。


 ガレンが大きなあくびをして立ち上がる。

「まぁいいじゃねぇか。強さはもう分かった。これからは仲間として、助け合っていこうぜ」


 そう言って楓の肩を軽く叩く。

 その大きな掌の重さに、楓は少し驚いたが、不思議と嫌な感覚ではなかった。


 マイヤはにっこり笑い、ロイは照れ隠しのようにそっぽを向きながらも「……次は負けねぇ」とだけ呟いた。


 その夜、焚き火を囲む空気は少しだけ和らいだ。

 まだ完全に心を許したわけではない。

 けれど確かに、楓と彼らの間に“仲間の絆”の芽が生まれ始めていた。


 翌朝、山道を歩きながらマイヤが楓に話しかけてきた。 


「ねぇ楓、昨日の模擬戦すごかったよ! でも本気じゃなかったんでしょ?」


 楓は首を傾げる。

「どうしてそう思う?」


「だって……まだ余裕そうだったもん」

 マイヤは笑いながらそう言った。


 その無邪気さに、楓は小さく息を吐く。

「ーー余裕なんてないさ。ただ、力は隠しておかないと面倒だから」


 ロイが横から口を挟む。

「確かにな。あんな速さで本気を出されたら、俺の双剣なんか折れてたかもしれねぇ」


 悔しそうに言いながらも、その声音には尊敬が混じっていた。

 楓はほんの僅かに口元を緩めた。

「ーーそうならないように手加減しただけだ」


 そのやり取りに、仲間たちの間に小さな笑いが広がる。


 昼頃、休憩中にメルティが楓の前に差し出した。

「これ、食べて。甘い干し果実よ。疲れが取れるから」


 楓は一瞬迷ったが、受け取って口にする。

 優しい甘さが広がり、思わず頬が緩んだ。


「ーーありがとう」

 小さな声でそう告げると、メルティは嬉しそうに微笑んだ。


 その様子を見たロイがからかうように笑う。

「なんだよ、ちゃんと笑えるじゃねぇか」


「ーー別に、普通だろ」

 楓は少しだけむっとしたように顔を背けたが、耳が赤くなっているのをマイヤは見逃さなかった。

「ふふ、可愛い」

「やめろ」


 そんな他愛ないやり取りが続き、空気は次第に和やかになっていく。


 その夜、山岳地帯の手前で野営した時、ガレンがぽつりと呟いた。

「ーーお前と一緒なら、この依頼、きっと乗り越えられる気がする」


 楓は返事をしなかった。

 ただ静かに焚き火を見つめていた。


 けれど、胸の奥でほんのわずかに温かいものが灯った気がした。

 それが仲間との絆の始まりだと、楓はまだ自覚していなかった。


 山岳地帯へ向かう道中、休憩の時間。楓は腰に下げた短剣を眺めながら、仲間たちに声をかけた。


「なぁ、ちょっと聞いてもいいか?」


 不意に話しかけられ、焚き火の周りに座っていた仲間たちは顔を上げる。

 楓は真剣な表情で短剣を持ち上げた。


「俺、今まで戦いは……能力に頼ってばかりで、こういう武器を本格的に使ったことがあまりないんだ。だから……よければ教えてくれないか?」


 その言葉に、一同は一瞬ぽかんとした。

 自分たちよりはるかに強いはずの楓が、謙虚に頭を下げているのだから。


 最初に口を開いたのはロイだった。

「お、お前が俺たちに教えを乞うのか? 冗談だろ」


「本気だ。俺はまだ動きが粗い。昨日、お前の双剣を見て……無駄が少なくて綺麗だと思った。ああいう動きができたらいいなって思う」


 素直な楓の言葉に、ロイは耳まで赤くした。

「な、なぁに言ってんだよ。……けど、まぁ、教えるくらいならいいけどな!」


 彼は双剣を構えて、足運びや腕の振りを見せてくれる。

 楓は真剣に目を凝らし、何度も動きをなぞる。


「なるほど……こうすると、力が流れるのか」

「そうだ! そうそう、その調子だ!」


 ロイの声には自然と熱がこもっていた。


 次にマイヤが弓を抱えて歩み寄った。

「私の弓なんて地味だけど……興味ある?」


「もちろんだ。矢を放つ姿勢は無駄がないし、狙いがぶれない。俺にはできないから、ぜひ知りたい」


 マイヤは少し照れくさそうに笑った。

「そ、そう? じゃあ、姿勢からね。背筋を伸ばして、呼吸を合わせるの」


 楓は真似をしながら何度も構えを取る。

「ふむ……呼吸で安定するのか。俺は力任せにやってたな」


 その素直な反応に、マイヤの胸は不思議と温かくなった。


 メルティは楓に木の枝を渡した。

「杖術は少し特殊だけど……体の使い方なら役に立つと思う」


 彼女は軽く振りかぶり、足の踏み込みと同時に枝を突き出した。

「大事なのは、全身を連動させること。腕だけで振らない」


 楓は枝を構え、彼女の動きを真剣に真似た。

「なるほど、全身で流すのか……確かに軽く動かせる」


 その反応に、メルティは微笑んだ。

「強い人ほど学ぶことを忘れがちなのに……あなたは違うのね」


 最後にガレンが立ち上がった。

「よし、じゃあ俺の出番だな! 力じゃなく体の軸の使い方を教えてやる」


 彼は力強い腕で構えを示し、重心移動の重要さを語る。

「踏み込む時は腰からだ。上半身で戦おうとするな。体は一本の棒だと思え」


 楓は真剣に耳を傾け、何度も姿勢を直す。

「ーーうん、確かに安定感が違う」


「そうだ、それだ! お前、飲み込み早ぇな!」


 その様子を見ていた仲間たちは、ますます楓に対する見方を変えていった。


 仲間たちの教えを受けながら、楓は汗を流しつつ何度も構えを繰り返した。

 彼の額にかいた汗は、決して無駄なものではなかった。


「ーーありがとう。どれも知らなかったことばかりだ。やっぱり俺には経験が足りないな」


 その謙虚な言葉に、ロイが鼻を鳴らす。

「強いくせに偉ぶらねぇ。……なんか、余計にムカつくな」


 だがその声には、確かな尊敬が混じっていた。


 マイヤが微笑み、メルティが頷き、ガレンが豪快に笑う。

 ――楓は自然と、仲間の輪の中心に立ち始めていた。


山岳地帯に入ると、道は急に険しさを増した。

 ごつごつとした岩肌、切り立った崖、足場の悪い獣道。上空では鷹のような魔物が旋回し、岩陰からは四つ足の獣の唸り声が漏れていた。


 楓は短剣を握りしめながら、自然と周囲に意識を巡らせる。

(ーー空、地面、岩陰。どこからでも来るな)


 すると、先頭を行くガレンが低く声を上げた。

「前方、群れだ! ゴートウルフ!」


 灰色の毛並みをした大型の狼が、十数匹、岩場の影から姿を現す。黄色い眼がぎらつき、牙を剥き出しにして唸り声を上げる。


「来るぞ!」

 ロイが双剣を抜き、軽快に前へ飛び出す。

 マイヤは一歩引いて弓を構え、風を切るように矢をつがえた。

 メルティは杖を地面に打ち付け、即座に補助魔法を展開する。

「《加護の風》! 体が軽くなるはずよ!」


 身体にまとわりつくような風が楓を包み、筋肉の動きが滑らかになった。


 狼の群れが四方から襲いかかってくる。


 楓は一匹が跳びかかってきたのを見て、短剣を構えた。

(落ち着け……昨日教わった通りだ。腕じゃなく、腰を使う)


 踏み込みと同時に、短剣を横に払う。

 狼の顎が迫った瞬間、刃は正確にその喉元をかすめ、鮮血が散った。


「っ……よし!」

 楓は自分でも驚いた。力任せではない。体全体を連動させた動きが自然に決まったのだ。


「いいぞ楓!」

 ガレンの声が飛ぶ。


 別の狼が二匹同時に突っ込んできた。

 ロイが双剣で受け止めるが、力の差に押されそうになる。

「くっそ、重い!」


 楓はすかさず脇から斬り込んだ。

「横は任せろ!」


 狼の側面に短剣が突き刺さり、ロイの負担が一気に軽くなる。

 ロイは驚きと同時に笑った。

「お前、動きが速ぇな! さっきの教え、ちゃんと活きてんじゃねぇか!」


「お前の動きが参考になったからな!」

 楓も笑みを返す。


 上空から別の狼が飛びかかってきた。

「楓、頭上!」

 マイヤが叫び、矢を放つ。


 矢は狼の片目に突き刺さり、体勢が崩れる。

 楓は素早く身を翻し、短剣でとどめを刺した。


「ありがとう、助かった!」

「ふふ、ちゃんと見てたから」


 互いの視線が交わり、自然と信頼が芽生えていく。


 その間もメルティの支援魔法が絶え間なく飛ぶ。

「《硬化の術》! 防御を上げるわ!」

「《癒しの息吹》!」


 仲間の体が光に包まれ、傷の治りが早まる。

 楓は思わず振り返り、感謝を込めて叫んだ。

「メルティ、すごいな! 後ろからの支えがあると安心できる!」


 メルティは微笑み、頷いた。

「あなたたちが前で戦ってくれるからこそ、私は力を出せるのよ」


 戦いは激しかったが、連携は次第に洗練されていった。

 楓の短剣は確実に急所をとらえ、ロイの双剣は流れるように敵を切り裂く。

 マイヤの矢は空からの奇襲を封じ、ガレンの豪腕は突破口を作り出す。

 メルティの支援は全員を支え、戦況を常に有利に保った。


 やがて最後の狼が倒れ、岩場に静寂が訪れた。


「ーーふぅ。やったな」

 ロイが汗を拭い、双剣を納めた。


 休憩のため、仲間たちは焚き火を囲んで腰を下ろした。

 食事を取りながら談笑する中、ロイが不意に楓を見据える。


「なぁ、楓……さっきの戦い、正直驚いた。だがよ、やっぱり信じきれねぇ。お前の強さ、本物かどうか確かめたい」


 楓は短剣を置き、少し首を傾げた。

「確かめたい?」


「ああ。もう一度模擬戦だ。俺と手合わせしろ」


 マイヤが慌てる。

「ちょっとロイ! 今は休憩中でしょ」


「構わないさ」

 楓は静かに笑った。

「戦いの経験になるなら、俺も悪くない」


 岩場の広い場所に立ち、二人は向かい合った。

 ロイが双剣を構え、鋭く叫ぶ。

「全力で行くぞ!」


 楓は短剣を軽く握り、落ち着いた声で返す。

「手加減はしないよ」


 風が吹き抜け、緊張が張り詰める。

 次の瞬間、ロイが突進した。


 双剣が閃き、鋭い連撃が繰り出される。

 だが楓の目には、すべてがゆっくりと見えていた。


(ーーやっぱり、遅い)


 身体をわずかに傾けるだけで刃を避け、反撃に転じることもなく、ただ冷静に受け流す。

 ロイの顔に焦りが浮かぶ。


「な、なんで当たらねぇ!」


 そして次の瞬間――

 楓の短剣が一閃し、双剣を払った。


 金属音が響き、ロイの手から武器が弾き飛ぶ。

 その衝撃で腕が痺れ、彼は思わず後ずさった。


「っ……な、動きが全く見えなかった……!」


 まあが息を呑み、メルティが目を見開いた。

 ガレンは豪快に笑いながらも、感嘆の色を隠せない。

「おいおい、こりゃ本物だな!」


 楓は短剣を納め、優しく声をかける。

「ありがとう、ロイ。君とやり合って、また学べた気がする」


 ロイは悔しそうに唇を噛み、だが最後には苦笑いを浮かべた。

「……くそ。お前、強すぎんだろ。でも……嫌な気分はしねぇ。不思議だな」


 その言葉に、マイヤが頷き、メルティが柔らかく笑った。

「楓は強いけれど、驕らないからね」

「そういう人だから、安心して背中を預けられるんだと思うわ」


 焚き火の明かりに照らされる仲間たちの顔は、確かな絆で結ばれ始めていた。


 楓は焚き火を見つめ、心の中で静かに思った。

(ーー俺はまだ、この世界で学ぶことがたくさんある。だけど、この仲間たちとなら、前に進める気がする)


山岳地帯の空気は薄く、昼間でもひんやりとした冷気が肌を刺す。足元には大小の岩が転がり、切り立った崖の合間に獣道のような細い道が続いていた。風が吹き抜けるたびに砂塵が舞い、耳の奥で不気味な音を立てる。


「ーーここまで来ると、普通の魔物じゃ済まなさそうだな」

先頭を歩いていた大盾の戦士が、重々しく呟いた。背に負った塔のような盾が軋む。


楓はその背中を見ながら歩いていた。普段の依頼よりも格段に険しい道のり。仲間の動きからも緊張が伝わってくる。


「……」

楓は周囲の気配を探る。森や草原と違い、この岩場は音が反響し、獣の足音がすぐには判別できない。それでも確かに、どこかに“巨大な何か”がいる気配があった。


やがて、谷間を抜けた先の広場で――それは現れた。


ずしん、と地面が揺れる。


現れたのは岩の鎧を纏ったかのような巨体の魔物。全身を覆う灰色の甲殻はまるで天然の鎧であり、太い腕は岩をも砕きそうな重量感を持っている。


「ーーでけぇ」

ロイが思わず息を呑む。彼は軽口を叩くのが常だが、今は冗談の余地もなかった。


「岩甲オーガ……? なんでこんなところに」

弓を構えた冒険者が険しい声を漏らす。


その名が示す通り、岩甲オーガは通常のオーガよりさらに危険な存在。Cランク冒険者の小隊で挑むには、相性が悪ければ全滅もあり得る。


楓は短剣の柄を握り、喉の奥で小さく息を整えた。

――毒は使わない。ここでの自分はただの冒険者。仲間に怪しまれるわけにはいかない。


「来るぞッ!」

大盾の戦士の号令と共に、戦闘が始まった。


岩甲オーガが咆哮を上げ、巨腕を振り下ろす。衝撃で地面が割れ、岩が飛び散った。


「シールドバッシュッ!」

戦士が前に出て衝撃を受け止める。鉄と岩が激しくぶつかり合い、金属音が耳をつんざいた。


その隙に、ロイが左右から斬り込み、マイヤが矢を連射する。だが――矢は弾かれ、刃も甲殻を削る程度しか効果がない。


「ちっ……硬すぎる!」

ロイが舌打ちする。


楓は一歩下がり、その光景を見つめた。心の奥に湧き上がる感覚――毒を放てば、あの巨体を容易く蝕めるだろう。しかし、それは封じている。


今、必要なのは仲間としての動き。

彼らがどう戦うのか、自分にできることは何か――それを見極めなければ。


楓の紫の瞳が、鋭く魔物の全身を見渡す。

岩甲オーガの関節、その巨体を支える足の動き。攻撃が放たれるタイミング。すべてを捉える。


「ーーなるほど」

小さく呟き、短剣を握り直す。


彼はまだ動かない。ただ、仲間たちの奮闘を見つめながら、次の一手を見極めようとしていた。


「くっそおおッ! まだ効かねぇのかよ!」

ロイは、歯を食いしばりながらオーガの脇腹へ斬撃を叩き込んだ。双剣が残光を描き、連撃となって鎧のような甲殻に弾ける。


だが、削れたのは表面のかすり傷だけ。血の一滴も流れてこない。


「ロイ、深入りしすぎ!」

マイヤが叫ぶ。彼女の矢は矢筒から尽きることなく放たれ、岩甲オーガの目や喉を正確に狙っていた。しかし、それらすらも硬い殻に阻まれていた。


「大丈夫だ、これくらい……!」

ロイは強がりを返し、次の瞬間に巨腕の一撃をまともに浴びかけた。


「下がれッ!」

ガレンが叫び、盾で受け止める。衝撃が走り、彼の両足は地面に深くめり込んだ。それでも彼は倒れない。仲間を守る壁として、その場に踏みとどまった。


「ーーやれやれ、全然通らないな」

最後尾で杖を構えるのは魔術師の青年。淡い青光が杖の先に集まり、氷の槍となって飛ぶ。甲殻に突き刺さり、僅かに砕ける音が響く。しかし、オーガは怯みもしなかった。


「ーー氷結でも、これか」

魔導士は額の汗をぬぐいながら、冷静に次の詠唱へ移る。


楓はその光景を黙って見ていた。


(それぞれ……凄いな)


ロイの双剣は速い。刃こぼれしそうなほど全力で叩き込む姿勢に迷いがない。

マイヤの矢は正確だ。狙撃手としての腕前は群を抜いている。

ガレンは一撃ごとに潰されそうになりながらも、絶対に仲間を守るために立っている。


(ーーやっぱり、俺はスキルに頼ってきただけだ)


胸の奥がじわりと熱を持つ。

楓の短剣術は独学。毒の力を使えば強敵を葬れるが、それは力に任せた結果でしかない。今、目の前で命を懸けて戦っている仲間たちのように、“技”として戦ったことは一度もなかった。


「ガレン! もう一発、いくぞ!」

「受けてやる! 来い!」

「……ッ、氷壁展開!」


咆哮とともに、岩甲オーガが暴れ狂う。巨腕が振り回され、岩壁すら抉り取る。大地は揺れ、砂塵が舞い上がる。


その中で、仲間たちは必死に抗っていた。

小さな体で短剣を構える楓は、その背中を見つめながら、じわりと拳を握り締めた。


(俺も……俺なりに、できることをやらないと)


――毒ではなく、教わった動きで。

――スキルではなく、手にした短剣で。


紫の瞳が、獲物を見据えた。


「ーーロイ、下がれ」

楓は静かに声をかけた。


「は? てめぇが出たってどうにも……!」

ロイが反射的に言い返すが、その瞳に映ったのは紫色の光を宿す楓の眼差し。真剣で、迷いがない。


「ーー任せろ」

その一言に、ロイは息を呑んだ。


楓は短剣を両手に構えた。体は軽い。けれど、足はどっしりと地を踏み締め、仲間から教わった“基本”を思い出す。


――ロイが教えてくれた、敵の間合いの取り方。

――ガレンが示してくれた、衝撃を逃がす足の使い方。

――マイヤに指摘された、視線を逸らさない集中力。

――メルティが助言した、魔法に頼らない時の冷静な判断。


そのすべてを胸に刻み、楓は深く息を吸った。


岩甲オーガが吠える。大地を揺らしながら振り下ろされる拳――。


「ーーっ」


ガレンなら盾で受ける。ロイなら斬って逸らす。

けれど楓は、ただ身体を半歩だけ横へ滑らせた。


衝撃波が背後の岩を砕き、破片が雨のように降り注ぐ。

だが、その軌跡の中に楓の影はない。


「は……?」

ロイの口がぽかんと開く。


楓は無駄なく、舞うようにオーガの脇へ潜り込むと、短剣を振るった。甲殻を裂くには至らない。けれど確かに刃が通った感触があった。


「通った……!」

マイヤが叫ぶ。


楓の体は小柄だ。筋力も、冒険者たちに比べれば弱い。

だが、最小限の動きで急所を突き、相手の巨体を逆手に取る。その洗練された身のこなしは、力ではなく技術そのものだった。


「まだだ!」


オーガが巨腕を振り回す。

空気を裂く轟音。地面を抉る一撃。


楓はその合間をすり抜ける。

まるで一歩先を読んでいるかのように、動き出しが遅れることなく避け切る。


(ーーこれが、“技”なんだな)


毒に頼らずとも、動き方次第で避けられる。

力に任せずとも、急所を突けば傷を負わせられる。


「おいおい……動き、速すぎだろ……」

ロイが呆然と呟く。


楓は短剣を返し、オーガの膝裏へ斬撃を叩き込んだ。

巨体がわずかによろめき、バランスを崩す。


「今です、全員攻撃!」

メルティが叫び、仲間たちが一斉に動く。


ロイの双剣が閃き、マイヤの矢が飛び、ガレンの盾打ちが追撃する。魔法が甲殻を砕き、その隙を楓が突く。


一進一退。だが確実に、巨躯は削られていく。


楓は荒い呼吸を整えながら、仲間の背中を見た。

――自分は独りじゃない。

――技術を教えてくれる仲間がいる。


(俺、まだまだ下手だけど……みんながいるから、ここまでやれる)


紫の瞳がさらに輝きを増す。


楓はもう一度、短剣を握り直した。


楓、真の力を開放する


オーガの咆哮が再び響いた。

甲殻の隙間から血が滴り落ち、追い詰められているはずなのに、その動きはなお凄まじい。


「くっ……! 速くなってる!」

ロイが双剣で受け流しながら歯を食いしばる。


「無理に正面からはダメ!」

マイヤの声が飛ぶが、既に仲間たちは疲弊していた。

ガレンの盾は何度も叩き割られそうになり、メルティの魔力も底をつきかけている。


楓もまた、息が荒かった。

避けられる、斬れる、動ける。

けれどそれは、習った技に身を委ねているからこそ。

長引けば体力は尽きる――そう直感していた。


「ーーじゃあ、もう一歩、前へ」


短剣を握る手に力を込めた瞬間、楓の内に眠る“本来の力”が流れ出した。

体が軽い。視界が広い。

耳に届く風の音すら、敵の動きの前兆に思える。


――今なら、全部見える。


「来いよ、オーガ……!」


咆哮とともに振り下ろされた拳を、楓は寸前で回避する。

以前なら必死に避けた動きが、今は自然な一歩。

肩をすり抜け、懐へ滑り込むと、刃を一閃――。


「がああっ!」


オーガの腕から鮮血が散る。


「ーーすご……」

マイヤが呟く。


楓の動きはもはや別人だった。

技術を学んだことにより、力が“形”を持った。

ただ強いだけの無駄な動きではなく、洗練された流れに組み込まれている。


「ー」あれが、楓の本気……?」

メルティの声が震える。


オーガが猛然と反撃に出る。

だがその拳も蹴りも、楓には届かない。

半歩先を読み、刃を返す。

隙を突き、足を払う。

その度に巨体は揺らぎ、仲間たちが追撃を叩き込む。


「すげぇ……さっきまでギリギリだったのに、今は……」

ロイが呆然とする。


楓自身も驚いていた。

毒に頼らなくても、ここまで動ける。

学んだ“型”が、彼の潜在能力を完全に解放していた。


「――これなら、勝てる」


最後の一瞬、楓は地を蹴った。

視界のすべてがゆっくりになる。

振り下ろされる拳の死角へ潜り込み、膝を折り、跳ね上がる。


「はああっ!」


両手の短剣を交差させ、オーガの胸甲を斜めに裂いた。

硬質な甲殻が割れ、鮮血が噴き出す。

巨体が仰け反り、膝を突き、轟音とともに崩れ落ちた。


静寂。


「ーー終わった?」

ガレンが盾を下ろす。


楓は荒い呼吸を整えながら、振り返った。

仲間たちが目を丸くして見つめている。


「ーーお前、なんで隠してたんだよ……」

ロイが思わず笑う。


楓は苦笑し、肩を竦めた。

「隠してたわけじゃないよ。ただ……技を知らなかっただけ。教えてもらったから、ようやく力を使えるようになったんだ」


その言葉に、一同は息を呑む。

――圧倒的な力を持ちながら、自慢もせず。

――自分の弱さを認め、学び、仲間と共に成長する。


マイヤは微笑んだ。

「だから……あなたは尊敬できるのよ、楓」


楓は照れくさそうに頬をかきながら、仲間の方へ歩み寄った。


オーガの巨体が地に沈んだ後、しばらく誰も動けなかった。

ただ、荒い息と鼓動だけが耳に響く。


最初に口を開いたのは、双ロイだった。

「ーーお前、やっぱりヤバいな。さっきまで普通に戦ってたはずなのに……俺が見てきたCランクの誰より速かったぞ」


ガレンも額の汗をぬぐいながら頷く。

「正直……あのオーガ、俺たちじゃ削り切れなかった。楓がいなかったら全滅してたかもしれん」


「そうよ」マイヤが静かに微笑む。

「でもただ強いだけじゃない。戦いの最中に学んだ動きをすぐ実戦に組み込んで……あれは、努力してきた証よ」


楓は少し困ったように肩を竦めた。

「いや……俺、ずっと力に頼ってばかりだったんだ。さっきみたいに戦えるのは、みんなが基本を教えてくれたおかげだよ」


その言葉に、一瞬沈黙が流れる。

だがすぐに他の冒険者が吹き出した。

「ははっ……なんだそれ。普通は圧倒的な力を見せたら偉そうにするもんだろ? なのに感謝とか、むしろ俺たちが恥ずかしいわ」


ロイも笑いながら双剣を持ち直し、手を開閉してみせる。

「ーーまだ痺れてる。あんな簡単に弾き飛ばされたの、生まれて初めてだ」


「それはごめん……」

楓が小さく頭を下げると、ロイは一瞬ぽかんとした後、大声で笑った。

「謝るなよ! むしろ嬉しいぜ。あの瞬間、俺は『まだまだ強くなれる』って思えたんだ」


マイヤは少し真剣な表情に戻り、楓を見つめた。

「楓、あなた……強いのに謙虚。だからこそ、誰もが信頼したくなる。……きっとこれから、もっと頼られる存在になるわ」


楓は言葉に詰まり、少し視線を逸らした。

(……俺なんかが、そんな風に言われるのか)


オーガ討伐の余韻が残る荒野で、風が吹き抜ける。

仲間たちは疲れ切りながらも、どこか誇らしげに笑い合っていた。

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