エピソード22
数日後――。
楓はいつものようにギルドに顔を出していた。
依頼板には大小さまざまな依頼が並んでいるが、彼が目を止めたのは「地下道清掃依頼」だった。
(またか……でも、気楽にやれる仕事だしな)
地下道は街の下に張り巡らされた古い排水路や倉庫跡で、魔物や不浄な存在がたびたび湧く。そのため定期的な掃討が必要とされ、冒険者たちにとっては定番の依頼だった。
受付に依頼書を持っていくと、受付嬢のルアが柔らかい笑みを向ける。
「地下道ですね。……お気をつけて」
楓は軽く頷いて出発した。
石造りの階段を下り、湿った空気の漂う地下道に足を踏み入れる。
かつて自分が仕掛けた毒の罠は、今もこの空間にしみ込んでいるはずだ。
(さて、今日はどんなのが出てくるか……)
だが。
通路を進む楓の目に飛び込んできたのは――無数の魔物の死骸だった。
鼠型の魔獣、腐肉を纏ったゾンビ、翼をもつ巨大コウモリ……。
すべてが床に転がり、動く気配すらない。
「ーーは?」
思わず声が漏れる。
どこを見ても、魔物は死んでいた。しかも死に方が異様だった。
皮膚が黒ずみ、血管が浮き上がり、毒に蝕まれたような有様。
(ーーこれ、俺の毒か?)
以前設置した罠――毒の霧や糸。それらが思った以上に地下に残り、広がり続けていたらしい。
「おいおい……地下丸ごと死んでるんじゃないか」
楓は額を押さえた。討伐どころではない。ほとんどの魔物が既に壊滅していたのだ。
(これ、ギルドにどう報告すればいいんだ……?)
そう思いながらも、彼は最低限の清掃を済ませ、一応討伐証拠として死骸の一部を回収した。
地下道から戻った楓は、手にした布袋を受付カウンターへと置いた。
中には討伐証拠の魔物の部位がいくつか入っている。
「ーー依頼が終わりました。証拠はこれです」
受付嬢ルアはにこやかに受け取ったが、その笑みはすぐに固まった。
ギルドカードを確認した瞬間、瞳が大きく見開かれる。
――討伐件数。
通常なら一度の依頼で十や二十も倒せば上出来とされる。
だが、楓のカードに刻まれていた数値は……桁が違っていた。
「ーーっ!?」
ルアは声を出しそうになり、慌てて口を押さえた。
(こ、こんな数字……普通はありえない!)
震える手を抑えながら、もう一度見直す。
やはり間違いではない。討伐数は数百を超え、四桁に迫る勢いだった。
楓は少し困った顔をしていた。
「ーーあー……やっぱり、出てるんですね。全部、俺がやったわけじゃないと思うんです。前に仕掛けた罠で、勝手に死んだみたいです」
「ーーそ、それは……」
ルアの声はかすれていた。
楓は軽くため息をつき、真剣な目を彼女に向ける。
「頼みます。このことは黙っててもらえませんか」
「ーーえ?」
「俺がこんな数字叩き出してたなんて知れたら、目立ちすぎます。面倒ごとになるのはごめんです。……あなたに迷惑はかけませゆ。ただ……記録は、適当に処理してほしいです」
静かな声。しかしその奥には、決して冗談ではない切実さが宿っていた。
ルアは息を呑み、唇を震わせた。
「ーーわ、分かりました。でも……これは私一人の判断じゃ……」
その日の夜。
ルアはギルドの奥、マスター室を訪れていた。
扉の向こうで待っていたのは、歴戦の冒険者であり、今はギルドを束ねる男
「ーーどうした、ルア。遅い時間に」
「マスター……実は……」
ルアは楓のカードを差し出した。
そこに記録された討伐件数を見て、目が細まる。
「ーーほぅ」
その声は驚きというより、唸りに近かった。
「一人の新人が、これを……? いや、本人の言葉どおり、罠が作用した結果か、いやでも、こんなの聞いたことが、、」
「は、はい……。でも、このまま放置すれば……ギルドの中でも、すぐに噂になります。数字は誤魔化せません」
「ふむ……。確かに隠しきれるものではない。だが、本人が言うとおり、この件はあまり騒ぎ立てるべきではないな。目をつけられるのは我々にとっても不都合だ」
「ーーでは、どうなさいますか?」
ギルドマスターは大きく腕を組み、少し考え込んだ後――にやりと笑った。
「単純な話だ。ランクを上げてやればいい」
「えっ……!」
「通常よりも早い昇格は珍しくない。実績があるのだから、正当な理由になる。……ただし、一気に三段階だ。そうすれば、異常な討伐数も“ランクに見合った成果”として処理できる」
ルアは思わず息をのむ。
「さ、三段階……!? そんな大幅な昇格、聞いたことが……
「だからこそ、逆に怪しまれにくいのだ。才能ある者が一気に駆け上がった――そう処理すればいい」
「ーなるほど……」
ルアはようやく納得したように頷いた。
翌日。
楓はギルドに顔を出すと、ルアから呼び止められた。
「か、楓くん。少し、こっちへ……」
奥の小部屋へ案内され、椅子に座らされる。
そこに現れたのはギルドマスター本人だった。
「この前以来だな、楓」
「ーーはい」
「話は聞いている。地下道での異常な成果について、だ」
楓は眉をひそめ、受付でのやり取りを思い出した。
「ーールアさん、言ったんですか」
「すみません……一人では抱えきれなくて」
ルアは小さく頭を下げた。
ギルドマスターは手を上げ、宥めるように笑った。
「安心しろ。余計な詮索をするつもりはない。……ただ、この功績は正当に評価せねばならん」
机の上に置かれたのは、新しいギルドカードだった。
新しく渡されたカードを見下ろし、楓は思わず眉をひそめた。
そこには――はっきりと「C」の文字が刻まれていた。
「ーーおい。これ……間違いじゃないのか?」
楓の声には、戸惑いと警戒の色が混じっていた。
Fランクとして登録したばかり。通常なら、数か月から年単位の活動を経て、ようやくEランクへ上がれるのが普通だ。
それを飛び越して、一気に三段階昇格――。
「お前を、ランクFからランクD……いや、一気にランクCに引き上げる」
「ーーは?」
楓の目が丸くなる。
「ーーいや、待て。一気に三段階……? そんなの、やりすぎじゃないか」
「お前が叩き出した数字を見れば当然だ。むしろ、これでようやく帳尻が合う」
ギルドマスターの言葉は断固としていた。
ルアも横で小さく頷いている。
「ーー目立ちたくないんですが」
「むしろ、このままランクが低いままでは余計に怪しまれるぞ。黙っていてほしいと言ったな? ならばこちらの策に従え。これが一番安全だ」
ギルドマスターの眼差しは真剣そのものだった。
ギルドマスターは腕を組み、揺るがぬ口調で答えた。
「お前の討伐件数を見れば、むしろ妥当な昇格だ」
「ーー罠を仕掛けただけで、俺は大したことしてない」
「結果は結果だ」
ギルドマスターの視線は鋭い。
「討伐証明はギルドカードに記録されている。これは言い逃れのできない“実績”だ。……その数字を持ってFランクに据え置けば、逆に目立つ」
横に控える受付嬢ルアも、神妙な面持ちで頷いた。
「楓くん……。私も最初は驚いたけど、マスターの言うとおりなの。Fのままでは、他の冒険者から必ず疑われる」
「ーー」
楓は口を閉ざした。
ルアの言うことはもっともだ。
“力を隠して平穏に暮らす”――それが自分の望み。
だが、皮肉にも力を隠すために、目立つ昇格を受け入れなければならない。
(ーー結局、どこにいても“普通”ではいられないってことか)
楓はしばらく黙り込み、やがて観念したようにカードを手に取った。
「ーー分かりました。あなたのやり方に従います」
「それでいい。……お前はまだ若い。だが、この街にとっては貴重な存在だ。無用な争いを避けたいなら、こちらも最大限配慮しよう」
楓はカードをじっと見つめ、ため息をついた。
「ーー結局、目立つことになるのか」
ルアが慌てて言葉を添える。
「だ、大丈夫です! 少なくとも私たちは、楓くんのことを守りますから……」
楓は小さく苦笑し、肩を竦めた。
「ーーお願いします」
翌朝。
ギルドの掲示板の前は、いつもどおり依頼を吟味する冒険者たちで賑わっていた。
そこに現れた楓に、いくつもの視線が集まる。
「ーーあいつ、見ろよ。昨日までFランクだったろ?」
「カードの色……緑色だな。Cランク……? 一気に三段階昇格かよ……」
「はは、冗談だろ。どうせ裏があるんだろ」
ざわめきと視線の圧力。
楓は軽く肩を竦め、聞こえないふりをした。
(ーーやっぱり目立つよな)
小柄な体格、奇妙な仮面――ただでさえ浮いている。
そこに異例の昇格が重なれば、目を引かないはずがない。
ルアがカウンターの奥から心配そうにこちらを見ていた。
だが楓はあえて目を合わせず、静かに依頼掲示板の前に立つ。
依頼を一つ手に取った後、楓は受付に向かった。
依頼書を差し出すと、ルアが小声で囁いた。
「ーー楓くん大丈夫? 周りの視線、気にしてない?」
「慣れてます。……俺は、目立つ体質だから」
「ーーでも」
ルアは少し躊躇ったあと、言葉を続けた。
「ギルドとしても、楓くんの功績は正当に扱わざるを得ないわ。どうか、ご理解してね」
楓は一瞬目を伏せ、それからゆっくりと頷いた。
「ーー分かってます。ルアさんが悪いわけじゃないです。……ただ、面倒ごとは避けたいので」
「約束するわ。私もマスターも、楓くんを無用に晒すことはしない。……どうか安心して」
その言葉に、楓はほんの少しだけ表情を和らげた。
「……わかりました」
数日が経ち。いつものように掲示板の前に立った楓は、人々のざわめきを背に淡々と依頼票を眺めていた。
「ーーふむ」
依頼の紙には、こう記されていた。
【依頼名】街道沿いの魔物掃討
【依頼内容】街道西側に群生する魔物(牙猪・毒蛇・羽虫など)の数を減らし、旅人の安全を確保せよ
【推奨ランク】C~B
Cランク冒険者である楓にとっては、ぎりぎり挑める範囲。
「ーー街道なら、下水道より人目につきやすいな」
楓は心中でつぶやく。
「罠の置き方を工夫するか」
紙を剥がし、受付に向かう。
ルアが控えめな笑みを浮かべ、依頼票を確認する。
「ーーこれでいいの?」
「はい。資金も増えましたし、多少大きい依頼を試すのもいいと思いまして」
ルアは頷き、カードに刻印を押す。
その手元を見ながら、楓はふと口を開いた。
「ーー街道の魔物、そこまで増えてるのですか?」
「はい。ここ最近、商隊が襲われる被害が相次いでいるの。特に牙猪と呼ばれる獰猛な獣が群れを成して……普通はD~Cランクが合同で当たる依頼なの」
「ーーなるほど」
楓は短く返し、受領済みのカードを受け取った。
街を出て西の街道を進む。
石畳の続く道の両脇には草原が広がり、遠くに小高い丘や林が見える。
楓は歩を進めながら、何度も周囲を観察する。
風に揺れる草の中から、ちらりと牙猪の影が覗いた。
重低音のような唸りが、地面を震わせる。
「ーー本当に群れてるな」
通常の牙猪は一頭で人を襲うことは少ない。
だがここでは、十数頭が連なり、地面を踏み鳴らしていた。
さらに木陰からは、羽音を立てる巨大な虫の群れも見える。
楓は口元を覆う仮面に手を添え、静かに息を吐く。
「ーーよし」
街道脇の林に足を踏み入れると、楓は腰の小瓶を取り出した。
紫色に濁る液体――彼自身が生み出した毒を、わずかに薄めてある。
地面に掘った溝に注ぎ込み、そこに草や枝を被せる。
やがて紫がかった湿地が広がり、微かな毒気が漂った。
「小沼……完成だ」
さらに、糸のように細い毒を木々の間に張り巡らせる。
獣や虫が勢いよく突っ込めば、その身に絡みつき、痺れさせる仕掛けだ。
「ーーこれで準備完了」
楓は木の上に身を潜め、気配を消して待った。
やがて、草原から群れが突進してきた。
牙猪が地面を蹴り、蹄で土を巻き上げる。
背中には泥がこびりつき、牙は岩をも砕くほど鋭い。
「ブォォォン!」
轟音が街道に響いた。
その直後、先頭の一頭が足を踏み外し、紫の小沼に沈み込む。
「ギャァァン!」
獣の叫びが響き、後続の牙猪たちが次々とぶつかり合い、毒の罠に突っ込んでいった。
羽虫の群れもまた、毒糸に絡まり、痙攣しながら地に落ちる。
木陰からそれを見下ろし、楓は仮面の奥で表情を変えない。
「ーー想定どおりだな」
二刻も経たぬうちに、街道を脅かしていた魔物の大半が地に伏した。
牙猪の群れは泡を吹き、羽虫の死骸は山のように積み上がっている。
楓は木から降り、毒に触れぬよう死体を確認していった。
「ーーこれだけいれば、討伐数は……かなり跳ね上がるな」
ギルドカードを翳すと、紫色の光が死骸に反応し、討伐数が次々と刻まれていく。
小さな数字が連続して表示され、瞬く間に二桁、三桁と積み上がった。
「ーーこれ、また面倒になるかもしれないな」
苦笑しつつも、楓は戦利品として牙猪の牙や虫の羽を袋に詰めていく。
これもまた、換金すれば馬鹿にならない収入だ。
夕陽が西の空を朱に染める頃、楓はゆっくりと街道を引き返していた。
背中の大きな袋には、牙猪の牙や毛皮、巨大な虫の羽根などがぎっしり詰まっている。
まるで小さな山のように膨らみ、歩くたびにカサリと音を立てた。
「ーーやりすぎたかもしれない」
毒の小沼と糸罠。
たったそれだけで、街道に群れていた魔物の大半を駆逐してしまった。
ギルドカードに刻まれた討伐数は、本人でさえ数える気が失せるほど多い。
(ーーまたルアを困らせることになるな)
仮面の奥で、楓は小さく溜め息をついた。
夕闇が迫るころ、楓は街の門をくぐり、冒険者ギルドの大扉を押し開いた。
酒場兼事務所の中は相変わらず賑わっていた。
冒険者たちが大声で戦果を語り、酒を酌み交わしている。
楓は彼らを横目に、静かに受付へと歩み寄った。
ルアが帳簿をまとめていたが、楓の姿に気づくと顔を上げ、柔らかく笑った。
「お帰りなさい。……随分早いですね」
「ーーそうかな?」
楓は無造作に袋をカウンターに置く。
中から牙猪の牙がゴロゴロと転がり出し、周囲の空気が一瞬止まった。
「え……?」
ルアの目が丸くなる。
次いで、彼女はギルドカードを手に取り、魔力で読み取った。
そして――顔色が一気に蒼白になる。
「ーーっ……!」
カードに浮かび上がった討伐記録は、常識外れの数字だった。
牙猪だけで数十、羽虫系は百を超える。
短時間で、通常なら小隊規模で挑むべき掃討を、たった一人で成し遂げていた。
「ーーか、楓くん……これは……」
声を震わせるルア。
だが楓は仮面越しに静かに言った。
「……ルアさん」
「……は、はいっ」
「……黙っててください」
その言葉は淡々としていた。
けれど、強い圧を含んでいる。
ルアはしばし口を開きかけ――そして飲み込んだ。
しかし帳簿に数字を写し取る手は震えを隠せなかった。
受付の帳簿を閉じながら、ルアは心中で必死に考えていた。
(ーーこの討伐数は異常です。もし他の冒険者や街の役人が知ったら……)
(ーー彼をただのCランクに留めるのは、危険すぎる)
彼女の額に汗が滲む。
同僚の受付嬢が訝しげに声をかけてきたが、ルアは慌てて手を振り、
「少し休憩を取ります」と言い残して奥へ駆け込んだ。
ギルド奥の執務室。
机に山積みの書類の向こうで、筋骨たくましい壮年の男――ギルドマスターが眉をひそめた。
「ーーまたか」
ルアは必死に報告していた。
街道掃討の依頼で、楓が記録した討伐数。
そして彼自身が「黙っててくれ」と頼んできたこと。
ギルドマスターは大きく息を吐き、頭を抱えた後、椅子に背を預ける。
「ーー内部昇格は避けられん。FからCまで飛ばした時点で覚悟はしていたが……」
「ーーですが、表向きにBランクを与えてしまえば、目立ちすぎます」
「分かっている」
ギルドマスターは顎に手を当て、しばし沈黙した。
やがて低く結論を下す。
「ーー楓は内部的に、すでにBランク以上として扱う。依頼の割り振りも、それに準じてだ」
「表向きは……?」
「Cのままだ」
ルアは息を呑む。
「ーーですが、それでは……」
「いいかルア。あいつは力を隠したがっている。なら、我々がそれを守らねばならん。ギルドが彼を守るんだ」
その言葉に、ルアは目を伏せ、静かに頷いた。
その頃、楓は宿へ戻る途中だった。
夕闇の街を歩きながら、袋を肩に担ぐ。
(ーーギルドに借りを作ったな)
仮面の奥の瞳が細められる。
けれど彼の足取りは、どこか軽やかだった。
「ーーま、当分は食いっぱぐれないな」
小さく呟き、夜の街へと姿を消していった。