エピソード19
街の西端にある排水路の入口は、鉄格子のはめ込まれた大口だった。
近くには苔むした石造りの壁が続き、微かな水音と共に、じっとりとした湿気が漂っている。人々の生活の裏側を支える施設であるはずなのに、どこか不気味な気配を帯びていた。
楓は入口の前に立ち、鼻をひくつかせた。
「ーーうわ、想像以上に臭いな。まあ、下水だし当たり前か」
鉄格子は既に外されていて、内部に入れるようになっている。依頼が続いているせいか、冒険者が出入りできるようにしてあるのだろう。楓は小さく息をつき、足を踏み入れた。
内部は思っていたより広い。
石畳の通路が両脇に伸び、その中央には濁った水が流れていた。水面に浮かぶ泡や油膜が、街の生活の残滓を物語っている。壁面には苔が張りつき、所々に亀裂が走り、そこから水がぽたぽたと滴り落ちていた。
(暗い……湿気もすごいな。音も反響して遠近感が狂う。普通の冒険者なら動きづらい場所だろうけど……俺には関係ない環境だな)
楓は仮面越しに辺りを観察し、人気がないのを確認してから、静かに片手を掲げた。
「――《毒操術》」
すぐに、手のひらに黒紫の液体がにじみ出す。
楓はそれを地面に垂らし、魔力を込めて広げていった。
石畳の隙間からじわりと広がるように、直径一メートルほどの小さな毒の沼が現れる。水面のようにゆらめきながらも、どこか不気味な紫色を帯び、見るだけで嫌悪感を催すような代物だった。
「まずは、通路を塞ぐ小沼……っと」
楓はさらに進み、曲がり角の壁に触れる。
指先から細く伸びる透明な糸――毒を魔力で硬質化させたものが、蜘蛛の巣のように張り巡らされていく。目を凝らさなければ見えないほどの細さだが、触れれば毒が体内に入り込む仕掛けだ。
「こっちは毒糸。小型のネズミでも引っかかれば一発で痺れるだろ」
さらに楓は手を握り、複数の毒の球を生み出した。
ビー玉ほどの大きさの毒玉は、ほのかに紫の光を宿し、カランと床に転がると、空気中に微かに毒素を放ち始めた。
「毒玉は通路に散らしておく。踏まれれば破裂して、周囲に毒霧が広がる……っと」
設置した罠は一見すればただの濡れた石畳や影にしか見えない。だが、この空間に棲むネズミや虫たちには致命的な障害になるはずだ。
楓は罠を一通り設置し終えると、流れに沿って少し離れた場所に腰を下ろした。
通路の隅、暗がりの中に身を潜め、じっと気配を消す。
「ーーさて、どんなふうにかかってくれるかな」
排水路の中は静かだった。
水の滴る音、遠くで小さな羽音が響く以外に、何も聞こえない。だが時間が経つにつれ、じわりと複数の気配が近づいてくるのを、楓は確かに感じ取った。
やがて、暗がりの向こうから「キィッ」という甲高い鳴き声が響く。
濁った水面をざぶざぶと揺らしながら、大きな影が複数こちらへと迫ってきた。
(ーー来たな)
姿を現したのは、普通のネズミの二倍はある巨大な個体だった。脂ぎった毛並みに、赤黒く光る眼。尾をうねらせながら群れで進んでくる様は、ただの害獣ではなく魔物そのものだ。
先頭の一匹が、角の先に張られた透明な糸に触れた。
次の瞬間――ビリ、と小さな火花のような光が弾け、ネズミが甲高い悲鳴を上げる。全身が痙攣し、その場で倒れ込んだ。
「キィィッ!!」
仲間の異変に気づいた後続が慌てて方向を変えたが、その足元で毒玉が破裂する。
紫の霧が一気に広がり、数匹のネズミが苦しげにのたうち回る。
さらに、別の個体が小さな毒沼に踏み込み、瞬時に足から腐食されて崩れ落ちた。
濁流の中に悲鳴が響き、血混じりの泡が浮かび上がる。
楓は暗がりからその様子を見つめ、低く呟いた。
「ーーうん、ちゃんと機能してるな」
罠にかかった魔物たちは次々と倒れ、残った数匹も混乱して逃げ惑う。
それを確認した楓は、ようやく立ち上がった。
「そろそろ、仕上げといくか」
再び掌に毒を集め、今度は鋭い針のように変形させる。
軽く指を振るだけで、数本の毒針が逃げるネズミの背に突き刺さり、即座に動きを止めさせた。
通路はすぐに静けさを取り戻す。
残るのは倒れた魔物の亡骸と、まだ薄く漂う毒霧の名残だけだった。
楓は通路を進みながら、一体一体の死骸を確認する。
(よし……ほとんど片づいた。けど、この程度で終わりじゃないだろうな。依頼にされるくらいなんだ、もっと大きな巣があるはずだ)
周囲を慎重に見渡し、さらに奥へと足を進めていく。
暗い地下排水路の中に、再び静寂が訪れていた。
倒れ伏した巨大ネズミや、毒に侵され動きを止めた虫型の魔物たち。その数をざっと数えてみただけでも、依頼に記されていた討伐数は余裕で達している。
楓は深く息をつき、仮面を少し持ち上げて吐息を吐いた。
「ーーこれで十分だな。あとはギルドに報告すれば完了か」
周囲に設置した罠はまだ残っている。毒沼、毒糸、毒玉――それらは時間が経てば自然に消えるように調整してあるが、しばらくは効力を持ち続ける。楓が再び訪れる頃には、残りの小型魔物が勝手に引っかかってくれているかもしれない。
「いやぁ……これは思ったより楽だな」
肩の力を抜きながら、楓はしみじみと呟いた。
普通ならば、暗い排水路で群れを成す魔物を相手にするのは危険な仕事だ。噛まれれば感染症や毒にやられる可能性もあるし、足場が悪ければ転倒してそのまま集団に襲われることもある。だからこそ冒険者ギルドに依頼が出されているのだ。
だが楓にとっては、この環境こそが有利に働く。
毒は影と湿気を好み、狭い空間では逃げ場を与えない。毒を操る彼にとって、地下排水路は庭のようなものだった。
「ーー罠を置いて、あとはしばらく待ってから見に行くだけ。これなら危険も少ないし、効率もいい。報酬も悪くない……」
楓は暗がりを後にしながら、自然と笑みを漏らした。
旅を続けるには、安定した収入源が必要だ。戦えば戦うほど強くはなれるが、食事や宿代は避けて通れない。今日の戦いで、自分にはこの依頼を「定期収入」にできる可能性があると確信した。
(しばらくは、この街に腰を落ち着けてもいいかもしれないな。俺一人で十分回せる依頼だし、いざとなればもっと上の依頼もできるだろう……)
地下排水路を後にし、夕暮れの街を歩く楓の足取りは軽かった。
討伐数は十分。依頼条件も満たしているはずだ。なにより、自分の毒の有効性を改めて実感できたことで、これからの生活の見通しが立ったのが大きい。
ギルドの扉を押し開けると、昼よりもさらに賑やかな喧噪が飛び込んできた。酒の匂いと笑い声、金属がぶつかる音が混じり合い、戦場の余熱を思わせる。
人々の視線が一瞬だけ仮面の小柄な冒険者へと向いたが、楓は気にせず受付へと進んだ。
「依頼の件、片付きました。報告をお願いします」
声をかけると、昼間も対応してくれた茶髪の受付嬢が顔を上げた。
「えっ……もうお戻りに? まだ数時間しか経っていませんよね」
驚きと困惑をにじませつつも、彼女は業務的な笑顔を取り戻し、机の上に置かれた楓のギルドカードを手に取った。
その表面には淡い光が走り、やがて小さな文字列が浮かび上がる。
「……ギルドカードの討伐記録を確認しますね」
受付嬢の目が大きく見開かれる。
「排水路ネズミ二十四匹、毒甲虫十六匹……合計四十体。すべて討伐済み……間違いありません」
周囲の冒険者たちも、ちらちらとこちらに視線を送ってくる。
普通なら数日がかりになる数を、わずか数時間で討伐完了――それは誰の目にも異常だった。
「ーーどうやって、こんな短時間で……」
思わず漏れた職員の疑問に、楓は肩をすくめて答える。
「それは企業秘密、ってやつです」
仮面越しの軽い言葉に、受付嬢は一瞬むっとしたが、すぐに苦笑を浮かべて帳簿を整えた。
「分かりました。方法はお聞きしません。ただ、記録は確かです。依頼はこれで達成。お疲れさまでした」
報酬袋が手渡される。
ずしりとした重みに、楓は内心で息を吐いた。
(ーーやはり便利だ。このカードさえあれば、討伐証拠を持ち歩く必要がない。俺の力とも相性がいい。毒で仕留めて数を稼ぎ、あとは確認してもらうだけ。これなら効率良く稼げる)
楓がカードを受け取り腰へ収めると、背後の冒険者たちが小声で囁き合っているのが耳に届いた。
「おい、あの小さい奴……数時間で四十体だと?」
「仮面なんてつけて怪しい奴だが……実力は本物か」
注目を浴びる視線。だが楓は気にせず、静かに踵を返す。
ギルドの扉を押し開け、夜風を胸いっぱいに吸い込む。
「ーーよし。これだけ稼げれば、しばらくは困らないな」
仮面の奥で紫の瞳が淡く輝く。
異世界での生活、その基盤が着実に固まりつつあった。
楓は「緑の樫亭」の木製の扉を押し開け、灯りの揺れる廊下を抜けて二階の部屋へと戻った。
軋む床板の音すら、今日一日を終えたことを実感させる。
部屋に入ると、ランプに火を灯し、外套を椅子にかける。
机の上に報酬の袋を置くと、じゃらりとした金属音が木の机に響いた。
中身を確認するつもりはなかった。重量感だけで十分に価値を伝えてくれる。
「ーーふう」
仮面を外し、ベッドの端に腰を下ろす。
この世界に来てから、気を張り続けていた身体が少しずつ緩むのを感じる。
今日、初めて街で稼ぎ、正式に冒険者として歩き出した。その手応えが、確かにあった。
楓は机に置かれたギルドカードを手に取り、淡い光を帯びる表面をじっと見つめる。
討伐記録が刻まれているその札は、ただの道具以上の意味を持っていた。
(ーー証拠の持ち帰りも不要。討伐数は自動で記録される。毒で仕掛けておいて、あとは待っているだけで数が増える……これなら、安定した収入が見込めるな)
毒の罠を仕掛け、時間を置いて回収する。
日本で言うなら、まるで漁師の網のように――仕組みさえ整えれば、効率よく獲物が入ってくる。
命を削るような戦闘を毎日繰り返す必要はない。
「ーーしばらくは、このやり方でいける」
楓は小さく呟き、立ち上がって窓を開けた。
夜風がひんやりとした空気を運び、遠くから酒場の歌声や笑い声がかすかに聞こえる。
見下ろした通りには、まだ人の影がちらほら。
屈強な冒険者風の男たちが笑いながら通り過ぎ、商人らしき人物が荷車を押している。
街は眠らない。誰もがそれぞれの事情を抱えながら、夜を過ごしているのだ。
(ーー俺も、この街で拠点を築く必要がある)
生活のためだけではない。情報収集――それこそが、楓にとって真の目的だった。
日本に帰る方法を探すのか、それとも、この世界で生きる道を模索するのか。
いずれにせよ、情報がなければ始まらない。
ギルドは冒険者の集まる場所だ。噂話や依頼の裏に隠れた真実が転がっているかもしれない。
それに、この街の図書館や商会に近づけば、古文書や地図、古代遺跡に関する資料が手に入る可能性もある。
「ーーまずは信用を得ること、か」
この街で「無害な存在」として振る舞いながら、少しずつ立場を固めていく。
あまり目立たず、しかし確実に成果を残す。
それが、今の楓にとって最善の道。
机の上に広げた紙片に、思いつく限りの行動計画を箇条書きにしてみる。
1.毎日の依頼は「排水路の討伐」を中心に。効率よく稼ぐ。
2.街の商人から物資の相場を調べる。お金の価値を把握。
3.宿屋の主人や店員から、さりげなく街の情報を聞き出す。
4.ギルドで冒険者仲間との関係を築く。信頼を少しずつ。
5.図書館や資料館にアクセスできる方法を探す。
「ーーよし」
こうして計画を紙にまとめるだけでも、不安が和らいでいく。
漠然とした不安のまま進むのではなく、道筋を見据えながら歩ける――それが楓にとって、何よりの安心だった。
ベッドに身を横たえ、薄い毛布を肩まで引き上げる。
目を閉じる直前、ふと自嘲気味な笑みが漏れた。
「ーー子供に見える見た目でも、やることは結局、計画表づくりか」
仮面を外した素顔は、どう見ても童顔。
街の人々から子供扱いされるのも無理はない、と改めて納得する。
だがその内側で、誰よりも冷静に未来を見据える意志が燃えていることを、この世界の誰も知らない。
夜の静寂の中、楓は静かに眠りについた。