エピソード15
石造りの階段は、延々と下へと続いていた。湿った空気が肌にまとわりつき、灯した松明の炎が時折ぱちぱちと音を立てる。足音が響き、何度も同じ段を踏んでいるような錯覚に陥る。
「ーーどこまで続くんだろう」
楓は小さくぼやいた。
後ろをついてくるミリアの鱗が、階段の石に擦れる音がした。彼女は弓を背負ったまま、油断なく辺りを警戒している。
「古代遺跡は、地中深く造られることが多いの。外敵を遠ざけるためと、宝を守るため……」
「守りすぎだろ。こんなの、入る前に挫折する人が多いんじゃないか」
そんな軽口を叩きつつも、楓の視線は鋭く周囲を探っていた。長い石段の途中、微妙に違和感のあるブロックを見逃さない。踏めば落とし穴かもしれないし、壁から矢が飛んでくるかもしれない。
階段を下りきると、広大なホールに出た。石柱が林立し、天井からは長い 鍾乳石のような鉱石が垂れ下がっている。そこに刻まれた文様は、見慣れない古代文字だった。
「ーーあれ、文字かな?」
「ええ。でも私にも読めないわ。古すぎるもの」
「ふーん……」
楓がぼんやり見ていると、ふと空気が変わった。鼻腔を刺激する、かすかな甘い匂い――。
「ミリア、止まれ!」
叫んだ時には遅かった。ミリアの尾が床のタイルを押し込む。ガチャン、と機構が動く重い音が鳴り、壁の隙間から霧が噴き出した。
「っ……!?」
白い霧が広がり、鼻を突く刺激臭が漂う。ミリアはとっさに口元を覆ったが、一瞬遅れて吸い込んでしまったらしい。
「くっ……身体が……重い……」
膝をつき、彼女の顔色がみるみる青白くなっていく。
楓は霧に一歩踏み込み、深く息を吸い込んだ。
「ーー毒か」
だが彼の身体は一切反応しなかった。むしろ、体内に取り込まれた毒素が溶けるように消え、熱に変換される。魔力が微かに膨らみ、血が沸き立つ感覚がある。
ミリアの腕を掴み、楓はその顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「ーーだめ、力が……」
そのまま意識が遠のきかける。
楓は迷わず彼女の体を抱き寄せ、自分の掌を彼女の背中に当てる。毒素の流れを感知し、吸い上げるように取り込んでいく。
じゅわり、と熱い液体が逆流してくるような感覚。ミリアの体を蝕んでいた猛毒が、楓の中に流れ込んでいく。しかし彼には害どころか、まるで滋養のように馴染み、魔力の奔流をさらに強めていった。
「ーーはぁ、吸いすぎると胃がもたれそうだな」
軽口を叩きながらも、楓は慎重に毒を引ききる。やがてミリアの表情が和らぎ、呼吸が落ち着きを取り戻した。
「ーー助けて、くれたの?」
弱々しい声がこぼれる。
「まあな。」
楓は肩をすくめた。
ミリアは驚きと困惑の混じった目で彼を見つめる。
「そんな人間……聞いたことない……」
「人間じゃないのかもしれないな。俺もよく分からん」
霧が消え、空気が澄んでいく。ミリアはまだ尾を震わせながらも、何とか立ち上がった。
「恩に着るわ。……でも、気をつけて。ここから先はもっと危険なはず」
「分かってる。今のが前菜だろ」
二人は再び歩き出した。
さらに地下へ続く回廊は狭く、時折仕掛けられた矢が飛び出し、床が崩れ、壁から槍が突き出す。ミリアは驚きながらも必死に避けるが、楓はまるで見えているかのように軽やかに歩を進め、矢を指先で弾き、崩れる床の先に軽く跳んで着地した。
「ーーあんた、本当にただの冒険者?」
「しつこいな。ただの見習いだって」
涼しい顔で答える楓に、ミリアは呆れと半ば感心を隠せない。
そうして幾つもの罠を突破し、やがて巨大な石扉の前に辿り着いた。高さは十メートルを超え、扉には炎を纏った犬の姿が彫刻されている。
ミリアがごくりと唾を飲み込む。
「ーーこの先、間違いなくボスがいるわ」
「だろうな。三つ首の犬の彫刻なんて、分かりやす過ぎる」
楓は扉に手を当て、深呼吸を一つした。
――毒も罠も、ここまでは問題じゃなかった。
だが、この奥に待つのは本物の試練だ。
石扉が軋みを上げて開かれる。熱風が吹き出し、炎の揺らめきが闇を裂いた。
そこにいたのは、三つの首を持つ黒き獣――ケルベロスだった。赤い瞳が二人を射抜き、地鳴りのような唸り声が響く。
広間に入ると、三つ首を持つ巨大なケルベロスが鎮座していた。赤く光る三つの目が床を睨み、長い毛が逆立っている。前足で床を掻き、石の床が震動し、炎の吐息が微かに漏れ出す。楓は息を整えながら考えた。
短剣を握りしめ、周囲を観察する。ケルベロスの動きは遅いが、一撃の威力は絶大だ。楓はその一撃を想像し、体の感覚を研ぎ澄ます。
ミリアも少し離れた位置で構え、緊張した表情を見せている。彼女の心拍が伝わる。楓は自分の心を落ち着けつつ、ミリアを守らなければならないという責任感を強く感じた。
(ミリアが危険に晒されるわけにはいかない……まずは観察だ)
左の首が低く唸り、炎の吐息が飛び出す。熱風が背中をなぞり、床に小石が散る。楓は反射的に横に跳んで回避。短剣を軽く振り、石片を蹴り飛ばして首の動きを測る。
(炎のタイミングは読めた。だが、この広さじゃ回避だけで時間稼ぎは厳しい……)
中央の首が前足で床をえぐる。振動が全身に伝わり、耳が一瞬痛む。楓は床の亀裂を踏み、体をひねって回避する。ミリアの視線が背後から鋭く飛んでくる。
「楓、大丈夫!?」
(これ以上、俺の力を見せるわけには……いかない)
右の首が牙をむき、前方に突進してくる。楓は回避するが、爪が床をえぐり、微かに膝に衝撃が走る。
(うっ………甘くみすぎた)
楓は息を整えつつ思考する。
(このままだとミリアも危ない……まずは回避に徹して、攻撃のパターンを読むしかない)
幻蛇を呼び出し、右の首に絡ませる。首の動きがわずかに制限される。左の首が炎を吐くが、紫の瘴気でわずかに炎の勢いを押し返す。
ミリアも毒の霧を避けつつ短剣で支援。楓は一瞬彼女の目を確認し、笑みを浮かべる。
だが、三つ首の攻撃は連続してくる。炎、牙、爪。回避のタイミングが一度でも狂えば、即死級の威力だ。
楓は紫の瘴気を全身に巡らせる。体が熱を帯び、瞳が深く紫に光る。毒の力を開放し、幻蛇と毒鞭を同時に展開。周囲の空気が紫に染まる。
(よし……これで動きを制限できるはず)
左の首が突進してくる。楓は回避しながら毒鞭で牙を絡める。中央の首は前足で攻撃、楓は幻蛇で絡めつつ短剣で切りつける。右の首の爪も、毒鞭で絡めて動きを封じる。
ミリアが前方で手を振り、楓に指示する。
「楓、左からも来る!」
楓は短く頷き、首ごとに毒を調整して攻撃と防御を同時に行う。三つ首は低いうめき声を上げ、炎と爪の勢いが徐々に弱まっていく。
毒を全身に巡らせた楓の瞳は濃い紫に光り、体から漏れる瘴気が広間の空気を満たす。ケルベロスの三つの首は鋭くうなり、怒りと混乱が入り混じった唸り声を上げる。中央の首が勢いよく楓めがけて突進する。
(まずい……このままだとミリアまで巻き込まれる……)
楓は回避の軌道を計算しつつ、毒鞭と幻蛇を駆使して首の動きを制御する。しかし、三つ首の力は想像以上で、前足が床を叩くたびに震動が全身に伝わる。
「きついな…でも、これ以上引き延ばすと……」
左の首が火球を吐き、楓の横をかすめる。毒の力で炎を部分的に吸収しつつも、周囲の岩に小さな亀裂が入り、破片が飛び散る。楓は瞬時に毒の霧を展開して飛来する破片を溶かし、身を守った。
ミリアは少し離れた位置で短剣を構え、動きを見極める。彼女の視線は緊張と驚愕に満ちていた。
「楓……この力……」
楓は微かに笑みを返すが、心の中ではまだ葛藤がある。あんまり力を見せるわけにはいかない、でもこのままでは負ける――。
「ーーやるしかないな」
楓は深呼吸をして自分の体内の毒を開放する決意を固める。体から紫色の瘴気が溢れ、空間に漂う。毒鞭と幻蛇の動きがより自在になり、三つ首を縛り上げるように攻撃を同時に行う。
「これで動きを封じられる……後は反撃だ」
右の首が爪を振るうが、幻蛇が絡みつき動きを封じる。中央の首は前足で床を叩き、岩を砕くが、楓は素早く毒で形成した防御壁で跳ね返す。左の首は炎を吐き続けるが、瘴気で勢いが削がれ、火球は空中で解ける。
楓の思考は冷静で的確だった。
(ここで力を集中させれば……三つ首の動きを完全に制御できる……)
一瞬の隙をついて楓は毒鞭で首の間を切り裂き、幻蛇で絡め、さらに毒の瘴気を吐き出す。三つ首は激しくうめき、前足で暴れようとするが、すべての動きが制御される。
ケルベロスは巨体を揺らしながらも、炎の勢いは衰え、牙の威力も徐々に弱まる。楓は微妙に体勢を変え、左右に飛びながら攻撃を分散させる。
「これで……やっと……」
ミリアは短剣で後方から支援し、楓の攻撃が通るように邪魔にならない位置を取る。
「楓…頑張って……!」
楓は瞬時に毒の霧を拡散させ、三つ首の動きを封じると、幻蛇を駆使して首の動きを制限しつつ、一気に毒の力で制圧。三つ首は低いうめき声を上げ、最後の力を振り絞るが、楓の猛毒の攻撃に圧倒される。
最後に楓は毒を全身に集中させ、幻蛇と鞭を絡めた攻撃で三つ首を完全に固定する。ケルベロスは低いうめき声をあげ、崩れ落ちる。床に大きな振動が響き、岩屑が舞い上がる。
楓は体勢を整えながら息をつき、ミリアに目を向ける。彼女は驚きと安堵の入り混じった表情で、楓を見つめる。
(よかった……なんとか、守れたな……)
廃墟の遺跡の奥深く、湿った石壁に囲まれた広間。楓とミリアは荒い息をつきながら、倒れたケルベロスを前に肩を落としていた。長く重い戦いの余韻が、静かな広間にまだ残っている。
楓はケルベロスの倒れた巨体を背に、深く息をついた。体全体に紫色の瘴気がまとわりつき、瞳の紫色は通常よりも濃く輝いている。力を振るった戦闘は体に負担をかけた。
(やっぱり……少し無理したか……)
ミリアも短剣を握りしめたまま、息を整えている。戦いの後の彼女の顔は、安堵と驚きが入り混じった表情だった。
「楓……よく倒せたな……!」
しかし、楓は微かに笑い、肩をすくめる。
「これ以上お前に力を隠して倒すのも無理だった……」
ミリアはその言葉に少し戸惑うが、すぐに理解したように頷く。
「ーーこれがあなたの力なのね……」
楓は苦笑いしながら頷いた。
その時、倒した三つ首のケルベロスが黒煙のような残滓が空へ散り、床に淡い光を残した。
光が収束していくと、そこには一本の腕輪が静かに横たわっていた。黒銀の輪に、青白い宝石のような核が埋め込まれており、見たことのない紋様が刻まれている。
「ーーこれは?」
楓は警戒しながら拾い上げる。手に取った瞬間、不思議と心臓の鼓動が強まるのを感じた。
ミリアはそれをじっと見つめ、眉をひそめる。「こういうのはね……大抵、ただの装飾品じゃないの。つけてみないと分からないわ」
楓は小さく息をのみ、恐る恐る手首にはめてみた。
すると、宝石が淡く輝き、次の瞬間――楓の頭の中に声のような感覚が響いた。
《アイテムボックス・ユニット起動》
《ユーザー登録を開始します》
「ーーっ!」楓は思わず息を止めた。視界の端に、小さな枠がいくつも並ぶ。見覚えのない空間が、まるで脳裏に広がっているようだった。
ミリアが目を細め、驚きの声を漏らす。「まさか……アイテムボック?それも腕輪型なんて……かなりレアよ。普通は魔道具でも指輪やネックレス型が多いのに。しかも登録制……一度使った人しか扱えない仕様ね」
楓は恐る恐る、落ちていた短剣を「しまう」と意識した。次の瞬間、短剣は音もなく消え、腕輪の枠の一つに小さく表示される。
「ーーほんとに入った……!」
楓は驚愕と興奮で声を震わせるが、すぐにミリアに腕輪を外そうとした。
「こんな貴重なもの、ミリアが使った方がいい。何度も助けてもらったし、俺なんかが持ってるより――」
だがミリアは首を横に振り、楓の手を制した。
「違うわ。楓、これはあなたが持つべきよ。さっきの戦いで、あなたが前に立ってなければ私は助からなかった。命を守ってくれたあなたにこそ必要な道具よ」
真剣な眼差しに押され、楓は言葉を失う。腕輪の宝石はなおも淡く光り続け、まるで持ち主を選んだかのように、彼の手首にしっくりと馴染んでいた。
「ーー分かった。大事に使う」
楓は静かにそう告げ、ミリアと視線を交わした。二人は深く頷き合い、再び歩き出す。
遺跡の暗がりの先で、腕輪はこれからの冒険を象徴するかのように輝きを放っていた。
楓は静かにケルベロスの体があった所を見下ろした。
(これで……遺跡の探索は終わりか……日本へ帰る手掛かりになりそうなアイテムも手に入らなかったな)
倒れたケルベロスの奥、古代の仕掛けが目に入る。大きな石の扉に複雑なレバーと歯車が絡み合っている。楓は慎重に観察し、操作する。
「なるほど……ここで地上に出られるのか」
触れた瞬間、床の石板が静かにずれ、遺跡の奥にあった通路が徐々に開く。光が差し込み、外の空気と風が感じられた。楓は深呼吸し、地上の匂いを全身で感じる。
「やっと……外に出られる……」
ミリアは短剣を握りしめ、少し微笑む。
「楓……お疲れ。本当に無事でよかったわよ」
楓は頷き、少し笑いながら答える。
崩れた石段の隙間から吹き込む風が、戦いの熱を冷ましていく。
「ーーここでお別れね。」
ミリアが静かに言った。彼女の瞳には疲労の影があったが、それ以上に柔らかな光が宿っていた。
楓は思わず問い返す。「本当に一緒に来ないのか?」
「私は村に戻らなきゃ。村を守るのが私の役目だから。」
ミリアは迷いなく言い切り、遺跡の奥に続く裏道へ視線を向ける。そこは村へと繋がる出口だ。
楓はしばし言葉を探し、やがて肩を落とす。「ーーそうか。俺は人間の国を目指すよ。帰る方法が見つかるかもしれないし、そこなら手がかりもあるだろうから。」
そのとき、ミリアが一歩近づいて声を落とした。
「楓。あなたの“力”……あの毒のこと。誰にも言わないわ。心配しないで。あれはきっと、あなたにとって武器でもあり、弱点でもあるものだから。」
楓は驚いたように目を見開き、それから小さく息を吐いた。「ーー助かる。ありがとう。」
「無茶だけはしないように!……楓の道中の安全を祈ってあげるわ」
ミリアは優しく微笑み、手を差し出す。
楓はその手をしっかり握り返した。戦いの中で支え合った温もりが、確かにそこにあった。
やがて二人は手を離し、ミリアは裏道へと歩き出す。その背中が闇に消えていくまで、楓は立ち尽くしていた。
「ーーありがとう、ミリア。」
小さな呟きが石壁に吸い込まれる。
楓は前を向き直り、外の光が差し込む出口を見据えた。
人間の国へ――新たな旅路を歩み出すために。
楓は深呼吸し、紫色に輝く瞳を空に向ける。装備は軽装だが、手にはケルベロス戦で得た装備がしっかりと馴染んでいる。
「まずは人間の国まで無事にたどり着かないとな……」
森を抜ける道中、楓はこれまでの旅を振り返る。洞窟の毒の制御、モンスターとの戦い、村での救援、ミリアとの協力……全てが自分を強くしたと実感する。
「よし……行くか、人間の国へ」
独り言をつぶやき、楓は森の小道を進む。道中で気をつけるのは、野生のモンスターや盗賊の存在。しかし、楓は今や自分の毒と力で多くの危険を難なくかわすことができる。以前なら苦戦した相手も、今では圧倒的に安全圏で倒せる。
陽光が差し込む森の中、楓の影が長く伸びる。背後では小さな使い魔が森の隅々まで監視している。
楓は足取りを軽くしながら、人間の国へ向けて旅を続ける。遠くに見える山々を越え、川を渡り、森を抜ける。道中、時折立ち止まり周囲を確認する。遠くの小さな集落や見え隠れする丘の上の塔に目を凝らす。
「あそこが……人間の国の入り口か……」
楓は心の中で自分に言い聞かせる。
(日本に帰るための手がかりはまだない……でも、ここなら何か見つかるかもしれない……)
歩きながら、楓は自分の装備とスキルを改めて確認する。毒操術の威力と制御は、旅の道中で必ず役立つ。必要に応じて戦い、必要に応じて隠す。自分の力を理解し、慎重に使うこと。それがこれからの旅の鍵だ。
森を抜けた先に、楓は小高い丘にたどり着く。そこから人間の国の城壁や街の輪郭が見える。都市の規模は想像以上に大きく、楓は少し息を飲む。
「よし……ここからだ……」
紫色の瞳が光を反射し、楓の決意は固まる。ここから先は未知の世界、人間の国。これまでの洞窟や村での戦いとは比べ物にならない規模の冒険が待っている。
だが、楓は怖くない。自分の力と知識、そして経験がある。どんな困難も乗り越えられると確信していた。