表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/37

エピソード14

 森を抜けた先、視界に現れたのは鬱蒼とした木々に半ば埋もれるようにしてそびえる古代の遺跡だった。西洋風の石造建築。灰色の石は長い年月に風雨にさらされ、角は丸く削られ、亀裂の隙間からは苔や蔦が這い回っている。


 楓は思わず足を止め、呼吸を忘れたかのように見上げた。

「ーーこれが、地図に記されていた遺跡か」


 高さ十メートル以上はあろうかという正面のアーチ。崩れかけた柱の間には、かつて豪奢であったであろう彫刻の断片が残されていた。獅子に似た怪物の像。王のような人物が杖を掲げる姿。誰が造ったのかも定かでない時代の遺物が、森の奥でひっそりと時を刻み続けている。


 隣を歩くラミアの狩人――ミリアは、蛇の下半身を器用にくねらせながら楓を追い抜き、蔦を払って入口に近づいた。

「へぇ、思ったより立派じゃん。森の奥にこんなのがあるなんて知らなかったよ」


 彼女は周囲を警戒する目で見回し、矢筒から一本矢を抜いて、先端で地面を突いた。砂がぱらりと落ち、石畳の隙間から冷たい空気が流れ出してくる。


「中は……湿気がひどそうだね。崩落もありそう」

「危険はあるだろうな」楓は答える。


 だが心の奥には奇妙な高揚感があった。未知の遺跡、古代の仕掛け、誰も見たことのない宝。何より、ここには――日本に戻る手がかりが眠っているかもしれない。


 もちろん、その考えは口に出さなかった。


 ミリアは振り返り、じろりと楓をにらんだ。

「ねぇ、あんた。正直に言ってよ。見習い冒険者だなんて言ってるけど、普通の新人がこんな場所に入ろうなんて思う? あたしは、あんたが何者か気になって仕方ないんだ」


 楓は小さく笑い、肩をすくめた。

「俺はただの見習い冒険者だよ。偶然ここに来ただけさ」

「ふーん。まぁいいけど」


 ミリアは鼻を鳴らし、再び正面へと向き直った。

二人はゆっくりとアーチをくぐる。


 途端、空気が変わった。外の森とは別世界。

冷え切った湿気が肌にまとわりつき、暗闇の奥からは水滴の音が規則正しく響いてくる。壁には苔が張りつき、黒ずんだ水が筋を描いて流れ落ちていた。


「ーーひんやりする」

ミリアの声も、吸い込まれるように響く。


 楓は腰に吊るしたランタンを灯した。温かな光が周囲を照らすと、壁一面に刻まれた古代文字が浮かび上がった。見たこともない形の記号が連なり、ところどころには獣や兵士を描いたレリーフが残っている。


「読めるのか?」

「残念だけど無理。言語研究者でもなきゃ解けないね。ただ……これ、戦いの記録っぽい」

ミリアは矢先で壁画の一部をなぞる。剣と盾を掲げた兵士たち。その前に立ちはだかる巨大な怪物。その怪物の身体には、不気味な紋様が刻まれている。


 通路は奥へ奥へと続いている。石の床はところどころ崩れ、瓦礫が積み重なって歩きにくい。だが二人は慎重に進んだ。


 ――冒険は、始まったばかりだった。


通路は幅三メートルほど。天井は高く、四メートル近くあるだろうか。積み上げられた石のブロックは所々がひび割れ、今にも崩れ落ちそうな雰囲気を醸し出していた。


 ミリアは矢を番えたまま、じりじりと進む。蛇の尾で床をなぞり、感触を確かめながら進むのが彼女なりの罠探知だ。


「足元、慎重にね。こういう遺跡って、まず最初にバカを落とすための罠が仕掛けられてるもんだから」

「バカを落とす……?」

「そう。欲に駆られて走り込む奴をね。たいてい床が抜けたり、槍が飛び出したり。古代人も芸が細かいんだよ」


 楓は頷きながらも、周囲の石壁に意識を向けていた。ほんの僅かだが、壁の隙間から冷たい風が漏れ出している。流れに逆らうように、空気の気配が渦を巻いている。


 やがて通路が開け、十字路に出た。左右にも同じような石の通路が延びている。


「どっちに行く?」ミリアが問う。

楓は少し考え、右手の通路を選んだ。空気の流れがこちらから来ているように感じたからだ。


 二人が進み出そうとしたその瞬間――。


 カチリ。


 乾いた音がした。

ミリアの蛇尾が踏み込んだ石床が、ほんの僅かに沈んでいる。


「しまっ――」


 壁の穴から、鋭い音を立てて何かが吹き出した。

次の瞬間、通路全体に紫色の霧が広がった。鼻を刺す刺激臭、目に沁みるような毒の気配。


「毒ガスっ……!」

ミリアが慌てて後退し、口元を布で覆う。


 だが楓は一歩前に出た。


「下がれっ」


 紫の霧は彼を中心に渦を巻き、吸い込まれるように消えていった。まるで彼自身が毒を飲み込んでいるかのように。


 ミリアは目を疑った。毒であれば、普通の生き物なら肺を焼かれ、数秒で倒れるはずだ。だが楓は眉一つ動かさず、ただ静かに呼吸を繰り返している。


 やがて霧は完全に消えた。通路は再び澄んだ空気に戻り、ただ湿った石の匂いだけが残った。


 楓はゆっくり息を吐く。

「ーーふぅ。どうやら止まったな」


 ミリアは愕然として彼を見つめていた。

「ーーちょっと待って。何したの、今?」


 楓は平然と答える。

「まぁ、ちょっとな毒をなくしただけさ」

「だけって……! 普通の人間ができる芸じゃないんだけど!」


 彼女の尾が床を叩き、石の欠片が跳ねる。

「毒の罠を浴びて無傷? それどころか吸い込んで消した? あり得ないよ!」


 楓は肩を竦め、苦笑した。

「だから言っただろ、俺はただの見習い冒険者だって」

「……嘘つけっ!」


 その瞬間、ミリアは彼の顔を覗き込んで気づいた。

――楓の瞳が、淡い翠色に揺らめいている。まるで光を帯びたように。


 普段は黒に近い紫の瞳なのに、毒を吸収した後だけ微妙に色が変わっているのだ。しかも、彼の周囲の空気がほんのりと震えているように見える。魔力が増幅している証。


「ーー瞳の色が、変わってる」

ミリアは小さく呟いた。


 楓は無意識に自分の手を握りしめた。確かに、体の奥で何かが渦巻いている。毒を取り込むたび、魔力が増していく感覚。冷たいはずの毒が、自分にとっては燃料になっている。


 それが何を意味するのか――彼自身にも分からない。


 ただひとつ、確かなのは。

毒という死の力が、彼にとっては生の力に転じるという事実だった。  


紫の毒霧を吸収して一息ついた楓とミリアは、通路の奥へと進む。石造の通路は薄暗く、ところどころにひび割れたブロックが落ちかかっている。歩くたびに不安定な石が軋む音を立てた。


 「次はどうする?」ミリアが声を潜めて問う。

 「慎重に、だな。罠はまだありそうだし」

 楓は足を止め、床と壁を丹念に観察した。通路全体がほのかに湿っており、冷たい空気が流れ込む場所がある。明らかに風の通り道が不自然だ。そこには何か仕掛けがあるに違いない。


 その時――ゴゴゴゴッ

 微かな振動が床を伝わった。ミリアが目を見開く。

「やっぱり……!」


 床板が一枚、静かに沈む。次の瞬間、天井から巨大な石板が振り子のように落ちてくる。


「うわっ!」ミリアが咄嗟に後退する。

 しかし楓は微動だにせず、わずかに体を傾けて石板の間をすり抜けた。石板は床に激突して砕け散り、粉塵を舞い上げる。


「なんだ……なんで避けられるんだ?」ミリアは驚愕した目で楓を見た。

「まぁたまたまさ」楓は肩をすくめ、淡々と答える。

「……はいはい」


 通路を進むたび、罠は次々に現れる。壁から飛び出す槍、床に潜む落とし穴、天井から垂れる鎖と鉄球。しかし、楓は全く慌てることなく、まるで罠を予知しているかのように歩を進めた。


 ミリアは呆れ果てた。「ーー見習い冒険者って、ただの言い訳じゃないの!? 本当に見習いなの!?」


 楓は微笑みながら答える。「まあ、俺はちょっと変わってるんだ」

 「ーー変わってるって、それだけじゃ説明にならないわよ」


 通路の奥には、複雑な仕掛けの連続する広間が現れた。床の一部が沈み、隠し扉が開閉し、壁面には回転する刃が縦横無尽に動く。


「ここが……本番って感じね」ミリアは息を整えながら言った。

 しかし楓は涼しい顔で一歩踏み出した。


 刃が目の前を斬り裂く。楓は僅かに身をひねらせ、無傷で通過する。さらに前方の床が沈み、床下から槍が飛び出す。楓は腰を低く落とし、回避と同時に槍を踏みつけて勢いを止めた。


 ミリアは肩を震わせる。「ーーすごすぎる……どうやって……」

 「んーなんだろ、よく見て流れを読むみたいな?」楓は落ち着いた声で言う。

 「ーーいや、普通は読めないって!」


 通路の途中、楓は壁の小さな溝から何かを掴む。毒の小瓶のような物体だ。以前なら触れただけで苦しんだはずの毒液も、今の楓には逆に魔力として吸収され、体内に取り込まれる。瞳の色が微かに濃くなり、体に力がみなぎるのをミリアも感じた。


 「ーーあんた、本当に何者……?」

 「ちょっといろいろあってな」楓は笑う。

 そのたび、毒を吸収するたびに、体の奥から魔力が湧き上がり、反応が研ぎ澄まされる。罠を避けるだけでなく、罠の力を逆に利用できるようになっていた。


 ミリアは呆れ果てつつも、息を切らしながら楓に続く。通路を抜けると、やがて石造の広間に出た。天井は十メートルほどあり、壁には古代の紋章が刻まれている。床には、さまざまな罠の残骸が散乱していた。


 「ーーここまで、あんな簡単に突破?」ミリアは息を整えつつ、呆れ混じりに言った。

 「うん、でもまだ力は制御しきれてない。加減ができなくて、時々予想外の動きをするんだ」楓は小さく微笑んだ。


 広間の中央には、巨大な石の扉が鎮座していた。扉には精巧な錠があり、何らかの仕掛けでしか開かないようだ。楓は手をかざし、壁の罠の力と同調させる。吸収した毒の魔力を使って、錠の罠を無効化する。


 「ーーまさか、そんな方法で扉を開けるなんて……!」

 ミリアは唖然とする。


 扉が重々しく開き、二人は次の通路へ進む。通路はさらに複雑に曲がりくねり、石造の階段や回転する壁が待ち構えている。楓は吸収した毒の魔力を微調整しながら、体の動きを完全にコントロールする。


 この先も、多くの物理トラップが待ち受けている。だが楓には、もう恐怖はない。むしろ、その力を利用する楽しみすら芽生え始めていた。


石造の通路を抜け、楓とミリアはさらに奥へと進む。通路は以前よりも狭く、天井から垂れる蔦や、ひび割れた石のブロックが床に散らばっていた。湿った空気に混ざる石材の匂いが、古代遺跡であることを実感させる。


 「ここも罠があるかもしれないな」楓は慎重に歩を進める。

 「ーーまた何かするの?」ミリアが不安そうに問う。

 「まあ、そうだな」楓は軽く肩をすくめる。


 通路を進むたびに、壁や床の微妙な違和感を感じ取る。小さな穴や溝、床板の不自然な傾き――。それらはすべて物理的な罠の前触れだ。楓は吸収した毒の魔力を微調整しつつ、全身の感覚を研ぎ澄ませる。


 最初の広間に入ると、天井から多数の鉄球が垂れ下がる仕掛けが待ち構えていた。床を踏み外せば、鉄球が勢いよく落下してくる。だが楓は一歩一歩、足を床板の傾きに合わせて沈め、鉄球が振り子のように揺れる隙間をすり抜ける。


 「ーーまた避けた……信じられない」ミリアは目を見張る。

 「揺れてるだけだしな」楓は笑う。


 広間の奥には、古代の宝箱が置かれていた。楓が近づくと、宝箱を囲むように小型の毒の罠が展開される。通常なら触れただけで皮膚がただれ、体内に毒が回るはずだ。だが楓は微妙に体を傾け、罠の毒を吸収する。魔力として体内に取り込むと、瞳の紫色がわずかに濃く輝いた。


 「ーーまた変化してる?」ミリアが小声でつぶやく。

 「少し魔力が増えたっぽい」楓は宝箱の鍵を手に取り、中身を確認する。中には古代の装飾品や、希少な鉱石、魔力を帯びた小型の宝玉が入っていた。


 「こんな物まで、罠が守っていたのか……」ミリアは呆れつつも興奮した声を漏らす。

 「おお、初の収穫だ」楓は淡々と答える。


 次の通路はさらに複雑だった。壁が回転し、通路が迷路のように入れ替わる仕組みになっている。楓は吸収した毒の魔力で、微細な振動や空気の流れを感じ取り、通路の動きを予測する。罠の動きに合わせて歩を進め、壁の回転を避ける。


 「ーー信じられない……どうやって読んでるの?」ミリアが呆れ顔で楓に尋ねる。

 「なんとなく?まぁ感覚だな。」楓は簡単に答える。


 途中、床から突き出す槍の罠が複雑に配置されている場所に差し掛かる。以前なら慎重に避けなければ命を落とす危険がある場所だ。しかし楓は一歩ずつ毒の魔力を流し込み、槍を微細に振動させて床の圧力を感じ取り、まるで磁力に引かれるかのように槍の間をすり抜ける。


 「ーーなんなのよこいつ……?」ミリアは息を切らせながらも半ば呆れ、半ば感嘆する。

 楓は肩をすくめる。


 さらに奥へ進むと、通路の壁に刻まれた古代の紋章が微かに光を放つ。楓はその光を感じ取り、手をかざすと壁面から小さな魔力の気配が流れ込む。吸収した毒の魔力と融合し、体の奥で新たな力が目覚めるのを感じた。瞳の紫色はさらに濃く輝き、体が軽く熱を帯びる。


 「ーーますます強くなってる」ミリアが小さな声でつぶやく。

 「まだ制御しきれてない感じだけどな」楓は慎重に進む。


 広間のさらに奥には、落とし穴と回転刃が組み合わさった複雑な罠が待ち受けていた。楓は吸収した毒の魔力を体全体に流し込み、刃の回転速度や落とし穴の圧力を感じ取りながら進む。足元を一瞬のズレもなく調整し、刃の間をすり抜け、落とし穴を飛び越える。


 「ーーえ、どうやって……?」ミリアは目を見開く。


 その先には、古代の宝箱と魔力を帯びた小型の石像が置かれていた。楓が触れると、石像から微細な毒の結晶が浮かび上がる。通常なら触れた瞬間に皮膚がただれるが、楓は全て吸収し、体内の魔力として取り込む。瞳の色がさらに濃く輝き、体全体が毒の魔力で覆われる感覚がある。


 「ーー吸収しすぎじゃない?」ミリアが心配そうに楓を見た。

 「たぶん大丈夫さ。まだ魔力の制御は完全じゃないけど、罠や毒を逆手に取ることでなんとかなりそう」楓は冷静に答える。


 広間を抜け、通路を進むたびに、罠と宝の配置が複雑さを増していく。しかし楓は恐れることなく、毒の魔力を吸収し、体を微調整しながら進む。ミリアも次第にその強さに圧倒され、言葉を失うことが増えていった。


 やがて、遺跡の最深部に近づくにつれ、罠は物理的なものから魔力を帯びた複雑な仕掛けへと変化していく。楓は毒の吸収能力をフルに活用し、罠の魔力を逆に取り込み、自身の魔力として流し込む。体の奥で力が研ぎ澄まされ、瞳は深い紫色に輝き続ける。


 「ーーこれが、人間の力なの……?」ミリアは息を切らせつつ、感嘆の声を漏らす。


 そして、遺跡の最奥に辿り着いた二人は、新たな宝や仕掛けが待つ空間に足を踏み入れる。楓の体には吸収された毒の魔力が満ち、制御する力もさらに強化されていた。遺跡内部の探索は、単なる冒険ではなく、楓自身の力を極限まで引き上げる試練の連続であった。


 石造りの回廊は果てしなく続いていた。壁に打ち込まれた鉄製の松明台には、もう火はなく、代わりに古びた燐光石が淡い青緑の光を発していた。その光は頼りなく、足元に伸びる二人の影を揺らし、巨大な口を開けた廃墟の怪物のように遺跡全体を包んでいた。


「ーーなんかさ、思ってたより規模がでかいな」

 楓が吐き出した声は、石の壁に反響し、奥から返事をするかのように微かに響いた。


「ええ。地図で示された範囲より、ずっと広い気がする。まるで……地下に街を造ったみたい」

 ミリアの声も、どこか緊張を含んでいた。彼女は弓を握りしめ、いつでも矢を放てるように神経を研ぎ澄ませている。


 二人が進む通路は、ところどころ崩落して瓦礫が散乱していた。足場は悪く、苔や湿気に覆われた石が滑りやすい。だが楓は軽やかに歩き、まるで慣れた散歩道を行くかのような余裕を見せていた。


「……あんた、本当に“見習い冒険者”?」

 とうとう我慢できなくなったのか、ミリアが低い声で呟いた。


「え? そうだよ。ただの見習い」

 楓は振り返りもせず、肩をすくめるように軽い口調で答えた。


「ただの見習いが……この瓦礫を、そんな平然と……」

 ミリアが言葉を詰まらせている間に、楓は瓦礫の山を飛び越え、ひび割れた石の板を踏んで先に進んでいた。


 その直後、カチリという金属音が響いた。


「っ!」

 ミリアが反射的に身構える。床の一部がわずかに沈み込んでいた。


 次の瞬間、通路の両側から鋭い矢が一斉に飛び出した。石壁の隙間から射出される鉄の矢は、迷いなく二人の頭部と心臓を狙っていた。


「――っと」

 楓は一歩踏み込み、宙に跳ぶ。ひらりと身を翻し、飛んできた矢の雨を紙一重でかわした。その動きは、まるで矢の軌道を事前に読んでいたかのように正確だった。


 背後にいたミリアも必死にしゃがみ込み、矢が頭上をかすめていくのを見送った。


 しばし沈黙。


「ーーあんた、本当になんなのよ、どこで育ったらそんなになるのわ?」

 矢が突き刺さった壁を見ながら、ミリアがかすれ声をもらす。


「んー……日本?」

 楓は首を傾げ、軽く笑って返した。


「にほん……? 聞いたことのない国名ね」


「そりゃそうだろ。こっちじゃない国だし」


 その曖昧な答えに、ミリアは眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。ただ、彼の背中を追いながら、確信だけは強めていた。――目の前にいるこの男は、常識の枠に収まる存在じゃない。


 さらに奥へと進むと、通路は大きな広間に出た。天井は高く、石柱が林立し、まるで巨大な神殿の内部に迷い込んだかのようだ。その中央には、奇妙な石像が立っていた。蛇と竜を混ぜ合わせたような異形の像。その目の部分には、紫水晶のような石がはめ込まれている。


「ーー嫌な感じがする」

 ミリアが小声で言った。


 楓も同意するようにうなずいた。視線を像から外そうとした瞬間、床の石がひとりでに動き、像の口から濃紫の霧が噴き出した。


「毒霧っ!」

 ミリアが顔を覆うが、霧は一瞬で広間全体に広がる。


「下がってろ」

 楓は軽く言い放ち、霧の中に踏み込んだ。


 普通なら即座に呼吸困難を起こすほどの濃度だった。だが彼の表情は微動だにしない。それどころか、霧は彼の周囲に吸い込まれていくように収束し、紫の渦となって彼の胸元に消えていった。


「な……何を……」

 呆然とするミリアの目の前で、楓の紫の瞳が一瞬、妖しく輝いた。


 全ての毒が吸い尽くされ、広間は一瞬にして澄み切った空気に戻った。


「ふぅ……ごちそうさまって感じ?」

 軽口を叩く楓の声は、まるで大したことでもなかったかのように軽い。


 だがミリアの背筋には、冷たいものが走っていた。――こんなな能力、聞いたこともない。


「ーーやっぱり、あんた、変よ!!」


 ミリアは思わず呟いた。だが楓は肩をすくめ、にやりと笑うだけだった。


紫の霧が完全に消え去った広間は、まるで嵐の後の静けさに包まれていた。

 ミリアは弓を構えたまま動けずにいたが、隣に立つ楓は平然と息をしている。彼の吐息には毒の痕跡すら残っていなかった。


「ーー毒をあんなに吸い込んで、何ともないなんて」

 ミリアは無意識に一歩退いた。彼の背中が、得体の知れない深淵のように思えたのだ。


「安心しろ。オレにとってはただの空気みたいなもんだ」

 楓は軽く言い、石像に近づいた。


 蛇竜を象った像の眼に埋め込まれていた紫水晶は、すでに光を失っていた。毒を吐き出す仕組みは完全に機能を止めたらしい。楓はそれをしばし観察し、石像の土台を軽く蹴った。乾いた音が広間に響く。


「まだ罠が仕込まれてそうだな」

「っ、ちょっと待って! そんな乱暴に――」


 ミリアの制止も虚しく、石像の下部が崩れ落ち、床に隠されていた通路が姿を現した。下へと続く石の階段。吹き上げてくる空気は冷たく、わずかに鉄錆びのような匂いが混じっていた。


「やっぱり奥があるな。行こう」

 楓は何の迷いもなく階段を降り始める。


「ーーあなたって、怖いくらい大胆よね」

 ミリアはため息をつきつつ、後を追った。


 階段はどこまでも深く、足音だけが反響する。やがて下りきった先に、再び広い空間が広がっていた。そこは迷宮のように入り組んだ石造りの回廊で、壁面には古代文字のような刻印が並んでいる。


「読める?」

 楓が何気なく尋ねると、ミリアは首を振った。


「いいえ。古代帝国時代のものに似てるけど……一部はまるで未知の言語ね。学者なら大喜びするわ」


「学者じゃなくてよかったな。オレらには罠と敵の方が厄介だ」


 その言葉と同時に、床石の一部がカタンと沈む音が響いた。


「また……!」

 ミリアが慌てて構えた瞬間、天井の隙間から巨大な石槌が振り下ろされた。


 轟音と共に石床が砕け散る。だがそこに楓の姿はない。彼は一歩先に進み、まるで石槌の動きを読み切っていたかのように無傷で立っていた。


「ーーっ!」

 ミリアは言葉を失う。


「ほらな。やっぱり物理の罠だ」

 楓は肩越しに笑みを投げかける。


「ーーあなたの余裕っぷり、腹が立つくらいね」

 ミリアは小声で吐き捨てたが、その頬は僅かに赤くなっていた。呆れと同時に、不思議な安心感もあったのだ。


 砕け散った石槌の残骸を踏み越え、二人は奥へと進む。

 回廊は複雑に枝分かれし、時折、壁に空いた亀裂から冷気が流れ込んでいた。苔のようなものが生えている部分もあり、長い年月を思わせる。


 やがて三つの通路が現れた。右は奥で光が揺れている。左は深い闇に沈み、中央は吹き抜けのように空気が流れていた。


「ーーどっちに行く?」ミリアが問う。

「真ん中だな」楓は即答した。

「理由は?」

「空気が動いてる。出口か、広い場所につながってるはずだ」


 軽い口調で言いながらも、楓はすでに足を踏み入れていた。ミリアは眉を寄せる。


(どうしてそんなに迷いがないの……。普通の冒険者なら、慎重に痕跡を調べるはず)


 通路を進むにつれ、足元の石床が湿り始めた。ぽたり、と水滴の音が響く。やがて天井が高く開け、巨大な空間へと出た。


 そこは地下湖だった。黒々とした水面が広がり、中央には小島のように石の台座が浮かんでいる。橋はなく、渡るには泳ぐしかないように見えた。


「泳いで行くしかないか……」ミリアがため息をついた瞬間、楓は腰を下ろし、靴を脱ぎ始めた。

「ちょっと! 本気で泳ぐつもり?」

「他に方法があるか?」

「でも、この水……何か嫌な匂いがするわ」


 その言葉を裏付けるように、水面の一部が渦を巻いた。次の瞬間、鱗に覆われた巨大な尾が水から跳ね上がり、轟音と共に叩きつけられる。水しぶきが視界を覆った。


「魔獣……!」ミリアは咄嗟に弓を構えた。

 姿を現したのは、蛇と魚を掛け合わせたような怪物。目は赤く光り、口からは鋭い牙が覗いている。


「ーー任せろ」楓は冷静に前に出る。


 怪物が再び尾を振り下ろす。しかし、楓はその動きを見切り、寸前で跳び退いた。しぶきの中、右手をかざすと――微かな毒霧が水面に溶けていく。


 怪物はそれを吸い込み、わずかに痙攣した。だが次の瞬間、怒り狂ったように唸り声を上げ、水面をかき乱す。


「効いてない……?」ミリアが息を呑む。

「いや、効いてる。……だが、相手がでかすぎる」


 楓は湖面に手をかざしたまま、さらに濃い毒を放つ。しかし、その濃霧が水中に溶け込んだ途端、逆に水面から紫の泡が立ちのぼった。


「これは……!」

「罠だな。この湖そのものが毒を溜め込んでる」


 怪物は毒をものともせず暴れ回るが、楓の体には逆に毒の気配が集まっていた。全身を包むように流れ込み、皮膚が微かに光を帯びる。


 ミリアはその変化を見逃さなかった。

「ーーあなた、この毒も……吸収してるの?」

「さっきも言ったろ。オレにとってはただの空気だ」


 彼の瞳が淡い紫に染まる。次の瞬間、怪物が突進してきた。

 楓は一歩踏み込み、毒を凝縮させた球体を掌に作り出すと、それを怪物の口内へ投げ込んだ。


 ――爆ぜた。

 水飛沫と共に、怪物の喉奥から紫煙が吹き上がる。絶叫が響き、やがて巨体が崩れ落ち、湖底へ沈んでいった。


 静寂が戻る。

 ミリアは唇を震わせながら楓を見た。


「……一体これはなんなのよ」

 楓はしばし黙し、やがて肩をすくめた。

「さあな。ただの……冒険者さ」


 ミリアは返す言葉を失い、ただ視線を逸らした。


湖の水面が静まり返ると、二人はしばし言葉を失ったまま立ち尽くしていた。

 やがて楓が黙って湖に足を踏み入れる。毒を含んだ水に浸かっているにも関わらず、その肌には何の異常も起きない。


「信じられない……」ミリアは呟き、仕方なく後を追った。

 膝まで水に浸かりながら、慎重に進んでいく。途中で不意に水底から泡が立ちのぼり、足をすくわれそうになったが、楓は迷いなくミリアの腕を掴んで支えた。


「おっと。……気をつけろ」

「……ありがとう」


 ようやく小島にたどり着くと、そこには古びた石造の祭壇があった。苔むした柱が四本、周囲を囲み、中央には円形の模様が刻まれている。


 ミリアが松明をかざすと、模様は複雑な紋様で織り成された魔法陣だった。だが、その線の一部は欠けており、崩れた石に埋もれている。


「古代の転移陣……? でも壊れているわ」

「なら、ただの飾りだな」楓は肩をすくめ、祭壇の裏へ回った。


 そこには階段があった。湖の小島の底へと続く暗い穴。石で組まれた急勾配の階段は、まるで地の底へと誘うようだった。


 ミリアが息を呑む。

「まだ下があるの……?」

「ここが本番だろうな」


 二人は松明を掲げ、慎重に降りていった。


 階段の先は長大な回廊だった。壁一面には西洋風のレリーフが施され、戦士や竜、異形の怪物たちが浮き彫りにされている。その表情はどれも歪み、見る者を不安にさせた。


 床には石畳の継ぎ目が等間隔で並び、どこか不自然だ。楓は一歩足を踏み入れると同時に、わずかな風の乱れを感じた。


「止まれ」

 楓は手を上げ、ミリアを制した。

「ーーなに?」

「床が怪しい」


 そう言うと、楓は自ら石畳を踏み込んだ。

 直後――壁の隙間から無数の矢が放たれた。


「楓っ!」ミリアが叫ぶ。

 しかし楓は体をひねり、矢をことごとく避けていく。矢が頬をかすめ、衣服を裂いたが、致命傷にはならなかった。


 最後の一本が迫る。だが彼はそれを素手で掴み取り、軽く床に落とした。


「ーー通れそうだ」

「な、なによ今の……人間技じゃないわよ……!」


 ミリアは呆然と立ち尽くし、楓は肩を竦める。

「大げさだな。ちょっと慣れてるだけだ」


 彼の涼しい顔に、ミリアは苛立ち混じりの溜息をついた。


 回廊を進むと、次は天井から石の刃が降り注いできた。しかも交差するように連続で落下する仕組みだ。

 普通なら通り抜けは不可能。しかし楓はわずかな間隙を見抜き、軽々と跳躍して駆け抜ける。


「ミリア、来い!」

「ーーちょっと待って!」


 ミリアは必死で楓の後を追うが、刃の動きに翻弄されて足を止めてしまう。

 その瞬間――楓が逆走して戻り、彼女の腰を抱え上げると、一気に駆け抜けた。


 刃が頭上をかすめ、石床に突き刺さる轟音が響く。

 二人は安全地帯に転がり込んだ。


「ーーっ、心臓止まるかと思った……!」

 ミリアが顔を真っ赤にして抗議する。

 だが楓はあっけらかんと笑った。

「案外、悪くなかったろ」

「冗談じゃないわ!」


 さらに奥に進むと、今度は石の広間に出た。天井は高く、中央には巨大な石像が立っていた。

 西洋風の甲冑をまとい、大剣を構えた騎士像。その目には赤い宝玉がはめ込まれている。


「ーー動くわね、あれ」ミリアが小声で呟く。

「ああ。仕掛けが露骨すぎる」


 楓が一歩近づいた瞬間、騎士像の目が妖しく輝いた。

 大剣が唸りを上げて振り下ろされる。


 轟音。

 石床が砕け、砂塵が舞う。


「やっぱり来たか……」楓は毒をまとわせた掌をかざした。


大剣が振り下ろされた衝撃で広間全体が揺れ、砂埃が渦を巻く。

 ミリアは思わず目を覆った。石の怪物が動き出す光景は、恐怖を呼び覚ますには十分すぎた。


「楓っ!」

 彼女が叫んだ時には、すでに楓の姿は砂塵の中に消えていた。


 次の瞬間――。

 重い音と共に、石像の刃がもう一度叩きつけられた。だがそれをかわし、楓は大剣の柄に飛び乗っていた。


「こいつ、動きが遅いな」

 呟きながら、彼は毒を纏わせた手を石像の肩口に押し当てる。


 毒が滲み出し、石の表面をじわりと侵食していく。

 だが……。


 ――パキィンッ!


 まるで拒絶するように、毒が弾かれた。

 石像の体は強固な結界で守られており、ただの毒では通じないらしい。


「ーーちっ、やっぱりそう簡単にはいかないか」

 楓が舌打ちすると、石像が振り払った腕で彼を弾き飛ばした。


「楓っ!」ミリアが駆け寄ろうとする。

 だが彼は軽やかに着地し、首を横に振った。

「来るな。こいつ、狙いが俺に絞られてる」


 石像の目の宝玉が光を増し、赤黒い瘴気を吐き出す。

 その瘴気は見るからに毒。普通の人間なら近づくだけで呼吸が絶たれるほどの猛毒だった。


「まずい……っ、楓、下がって!」ミリアが叫ぶ。

 だが楓は逆に一歩前へ出た。


「ーー面白い。どれだけ吸えるか、試してみるか」


 毒の霧が彼の体を包み込む。

 普通なら命を奪うはずの猛毒が、逆に彼の体へと吸い込まれていく。


 ゴウッ――と音を立てるかのように、瘴気が渦を巻き、楓の全身に染み込んでいった。

 やがて広間を覆っていた霧は晴れ、石像の吐き出した猛毒はすべて楓に吸収されていた。


「ーーはぁ。悪くない」

 楓は吐息をつき、瞳を開く。


 その瞳は一瞬だけ、深い紫に染まっていた。

 吸収した毒が魔力へと変換され、彼の体内を駆け巡っている証だった。


「い、今……目が……」ミリアは言葉を失う。

「まぁ気にするな」楓は短く返す。


 石像は苛立ったように再び大剣を振りかぶった。

 だが今度は楓の動きが違った。


 吸収した毒が全身の魔力となり、彼の身体能力をさらに底上げしている。

 跳躍一つで天井近くまで舞い上がり、石像の頭上に回り込む。


「返してやるよ」


 楓の掌に集まるのは、紫黒の光を帯びた球体――吸収した毒を凝縮したもの。

 それを石像の宝玉の眼に叩き込んだ。


 轟音。

 毒が結界を侵食し、赤い宝玉がヒビ割れる。


 石像は断末魔のような軋みを上げ、大剣を振り回して暴れた。

 床が抉れ、石片が飛び散る。ミリアは慌てて柱の陰に身を隠した。


「楓っ、危ない!」


 だが彼は冷静に動き、暴れる巨体を誘導するように走り回る。

 やがて石像の動きが鈍り、ついには膝をついた。


 宝玉が完全に砕け、紫の煙を吐き出しながら崩れ落ちる。

 最後に残ったのは粉々になった破片と、床に転がる一つの石片――毒を帯びた小さな結晶だった。


 楓はそれを拾い上げ、掌で転がす。

 紫色に輝くその結晶は、まだ微弱ながら毒の気配を放っていた。


「ーーこいつは使えるかもしれないな」

 そう呟いて腰袋にしまう。


 ミリアが駆け寄ってきた。

「ちょ、ちょっと……何なの今の!? 」


 楓は首を傾げ、肩を竦める。

「別に、大したことじゃない」


「大したことじゃないって……! 普通の人間なら一瞬で死ぬような毒を、まるで呼吸するみたいに取り込んでたのよ!? あれを“普通”って言うなら、私はとっくに化け物扱いされてるわ!」


 ミリアの声は呆れと驚きと恐怖が入り混じっていた。

 しかし楓は何も答えず、崩れ落ちた石像の奥にある扉へと歩き出す。


「行くぞ。まだ終わっちゃいない」


 背を向ける彼の姿を見て、ミリアは小さく息を吐いた。

「ーーほんと、何者なのよ、あんた……」


 彼女は追いすがりながらも、心の奥底でわずかな安心を覚えていた。

 これほどの異常な力を持つ楓と一緒なら――この遺跡の先で待ち受ける、さらなる恐怖にも立ち向かえるのかもしれない、と。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ