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エピソード11

 まず目についたのは、柵の外側を巡回する数体の影。

 遠目には人のようだったが、近くで見た瞬間、楓は息を呑んだ。


 ――皮膚の一部が硬い鱗で覆われた者。

 ――背に甲殻を背負い、節足動物のような脚を備えた者。

 ――頭部に角を持ち、口元から鋭い牙を覗かせた者。


「ーーやっぱり、人間じゃない……モンスター……だ。」


 楓は目を見開き、毒の鳥をさらに低空へと滑らせる。


 村の中も同様だった。

 家の前で水を運ぶ女――だが、その背には蝙蝠のような翼が生えている。

 子どもたちが追いかけっこをしている――だが、その姿は灰色の毛皮に覆われ、耳が獣のように尖っている。

 鍛冶場で鉄を打つ大柄な男――その腕は人間の二倍の太さがあり、皮膚は硬質化して黒く光っていた。


 にもかかわらず、彼らの営みは恐ろしく「人間的」だった。

 親が子を叱り、子が笑いながら逃げる。

 商人のような者が荷車を押し、物々交換をしている。

 料理の香りらしき匂いすら漂ってくる。


「ーー知性を持って……社会を築いている?」


 楓の心臓が高鳴った。

 これまで倒してきたモンスターたちは、知性を持たず、本能のままに襲いかかる獣にすぎなかった。

 だが、この村にいるのは明らかに違う。

 言葉を交わし、秩序を保ち、互いに助け合って生きている――。


 毒の鳥は、さらに村の広場を映し出す。

 中央の井戸の周囲では、数体のモンスターが集まり、談笑していた。

 その声は――楓にも理解できる人間の言葉だった。


『――北側の森は危ない、魔獣が増えている』

『狩りの班を増やす必要があるな』

『子どもたちには外に近づかせるな』


 会話の断片を耳にした瞬間、楓は思わず息を止めた。


「ーーやっぱり、言葉を……理解できる……!」


 楓は鳥を消し、しばらく沈黙する。

 心臓が早鐘を打つ。


 ――人間ではない。

 ――だが、獣でもない。

 ――秩序と知性を持つ“モンスターの村”。


「……どうする……俺は、ここに近づくべきなのか……?」


 初めて目にする「モンスターの社会」に、楓の胸は戸惑いと興奮で満たされていた。


 楓は丘を下り、村に近づくことを決めた。

 決して軽い判断ではない。

 モンスターの社会があるなど、想像だにしなかったからだ。

 だが、洞窟を出てから初めて「文明らしきもの」を見つけた今、無視することはできなかった。


「ーー危険かもしれない。でも……知る価値はある。」


 毒を操る力を持ち、既に数千もの魔物を葬ってきた。

 存在進化《毒を統べる者》に至った今なら、多少の危険には対処できる自信がある。

 その自覚が、楓の背中を押した。


 森の木々に身を隠しながら、楓はゆっくりと村の外縁へと近づいた。

 距離が縮まるごとに、生活の音がより鮮明に耳へ届く。

 子どもの笑い声、鉄を打つ金属音、家畜らしき鳴き声。


 ――その全てが、驚くほど「平和的」だった。


「ーーこんな、普通の……村みたいに……」


 楓は、幹に背を預けて息を潜める。

 視線の先には、木柵の外を歩く二体の見張りがいた。


 一体は身の丈二メートルを超える大男。

 腕は丸太のように太く、皮膚は黒い岩のように硬質化している。

 もう一体は、獣じみた体躯に狼の顔を持つが、腰に剣を差し、会話をしながら巡回していた。


『森の南側は静かだった』

『北は駄目だな。あの魔獣地帯がまた広がってる』

『ああ……放っておけば、村にも被害が出かねん』


 楓の心が一瞬跳ねた。


「魔獣……?モンスターのことか!?」


 楓はさらに観察を続けた。

 柵の隙間から覗くと、村の中には確かに人間と同じ営みが広がっていた。


 獣耳を持つ女性が洗濯物を干し、

 小さな翼を持つ子どもが走り回り、

 四本腕の男が器用に二本で鍬を使い、残りの腕で水瓶を担いでいた。


 人間であれば異形と呼ぶべき姿。

 だが――その暮らしぶりは人間と変わらない。

 いや、むしろ秩序だった生活を送っているようにすら見えた。


「ーーどうしてだ。モンスターなのに……人間みたいに……理性的に……」


 楓の脳裏に、これまで洞窟で倒してきた獰猛なモンスターたちが浮かぶ。

 彼らには理性の欠片もなかった。

 だが目の前の村人たちは、間違いなく「考え、選び、暮らしている」。


 楓は思わず拳を握りしめる。


「ーーもし、この世界には……“人間以外の知性ある種族”が普通に暮らしているとしたら……俺は……どう接すればいいんだ……?」


 答えは出ない。

 だが、ただのモンスターとして斬り捨てていい存在ではないことは、直感で分かっていた。


 楓はもう一度深呼吸し、村を観察する。

 焚き火の前で老人らしき者が子どもに物語を語っている。

 その声は穏やかで、村を包む空気には温かさがあった。


 ――あまりにも人間的で。

 ――あまりにも「モンスター」という言葉からかけ離れていて。


 楓は自分の目を疑うしかなかった。


「……近づきすぎるのは危険かもしれない。けど……もう少し確かめる必要がある。」


 楓は決意し、柵の間近まで移動した。

 もはや息遣いさえ聞こえそうな距離。

 下手に身じろぎすれば、巡回の見張りに気づかれるかもしれない。


 その危険を承知で、楓は目を凝らし村の内部を観察した。


 まず目に入ったのは――井戸だ。

 中央広場のような場所に深く掘られた井戸があり、そこから水を汲み上げるモンスターたちの姿がある。

 桶を滑車で下ろし、縄を軋ませながら引き上げる。

 使われているのは素朴な木製の道具であり、鉄の滑車は粗雑に打ち延ばされたものだ。


「ーー井戸水か。上下水道なんて当然ないな……」


 楓の頭には、日本の蛇口から当たり前のように流れる水の光景が浮かぶ。

 それと比べれば、ここは中世レベル。

 便利さでは遥かに劣っている。


 次に視線を巡らせると、家々の様子が見えた。

 壁は木材と土を組み合わせ、屋根は藁葺き。

 防寒性や耐久性には乏しそうだ。

 だが手入れはされており、壊れかけの家は見当たらない。


「ーー掘っ立て小屋ってほどじゃない。けど……少なくとも日本の住宅と比べたら数百年前だな。」


 楓は唇を引き結ぶ。

 文明の利器に囲まれていた生活を思い返すと、あまりにも原始的だ。

 電気もガスも、舗装道路もない。


 広場の脇では、市場らしき場所が広がっていた。

 布の上に並べられた野菜、干した肉、粗削りの陶器。

 金貨や紙幣のやり取りはなく、代わりに「物々交換」が行われていた。


『この干し肉と、この布を交換してくれ』

『ああ、それなら相応だな』


 会話は簡素だが理にかなっている。

 楓は思わず心の中で呟く。


「ーー経済システムとしては前近代。貨幣経済すら未発達ってことか。」


 さらに観察を続けると、畑が見えた。

 村の外周に広がるそれは、きちんと区画整理されてはいるが、農具は粗末な木製。

 肥料はどうやら獣糞をそのまま撒いている程度で、効率は悪そうだった。


「ーー農業も中世ヨーロッパぐらいか……いや、下手すれば縄文後期レベルかもしれない。」


 日本の近代農業の光景――機械で耕され、灌漑システムで水が行き渡り、化学肥料で豊かに実る――

 それと比べれば、ここはあまりに小規模で脆弱だった。



 楓は心の中で総括する。


「ーー文明レベルは日本の中世、いやそれ以下か。

 鉄は使ってるけど加工精度は低い。

 水は井戸頼み、生活は物々交換、農業は粗放的。

 でも……村としての秩序はきちんとある。」


 むしろ、外敵から守るための柵や、見張りの巡回。

 それらは「共同体としての自衛意識」が根付いている証拠だ。


「ーーただの集落じゃないな。小さくても、れっきとした“社会”だ。」


 楓の心はますます混乱した。

 モンスターなのに、ここまでの社会性を持つ。

 しかも彼らの会話は理解でき、感情も見える。


 その時だった――


 パキッ、と足元で小枝が折れた。


 楓の全身が凍りつく。

 近くにいた見張りの狼顔のモンスターが、ピクリと耳を動かした。


『ん? 今、音がしたか?』


 低く唸る声。

 楓は咄嗟に息を殺し、毒の気配を薄く抑える。


『気のせいじゃないのか?』

『いや、確かに――』


 巡回の二人がこちらに視線を向ける。

 緊張が楓の喉を締め付ける。


「ーーまずい……!」


 ――まさに、気づかれる寸前だった。


 ――カサリ。


 楓の足元で落ち葉が擦れる。

 狼面の見張りが、ぎろりとこちらを睨んだ。

 その金色の眼が、森の闇を射抜くように光る。


『そこか……! 誰だ!』


 低い唸り声と同時に、槍を構えた。

 隣のトカゲ顔のモンスターも反応し、身をかがめて地面の匂いを嗅ぎ取ろうとする。


「――っ!」


 楓の全身から汗が噴き出した。

 あと数秒もすれば、必ず見つかる。

 頭で考えるより早く、体が動いていた。


 彼女は森の奥へと駆け出した。

 枝を避け、根を飛び越え、影と同化するように走る。

 その瞬間、見張りの雄叫びが背後に響いた。


『侵入者だ! 捕らえろ!』


 咆哮が村全体に響き渡る。

 しばらくして、複数の足音と武器の金属音が一斉に迫ってきた。


 楓は息を整える間もなく走り続ける。

 

 すぐに決断する。


「ーーこれでどうだ」


 毒操術を発動。

 彼の背後に、淡く輝く毒霧が広がり、森の空気を濁らせる。

 霧は透明に近いが、肺に入れば呼吸を乱す。


 追ってきたモンスターの足音が、次々と咳き込みへと変わった。


『ぐっ……! 視界が……!』

『毒か!? くそ、鼻が焼ける!』


 その隙に、楓はさらに加速する。


 ――速い。


 走りながら楓は、自分の身体能力に驚いていた。

 以前ならすぐに息が上がり、長距離を駆けるなど到底できなかった。

 だが今は違う。


 存在進化《毒を統べる者》になったことで、筋力も敏捷も桁違いに上がっている。

 地を蹴るたび、まるで弾丸のように前へ進む。

 枝を踏んでも衝撃を殺し、岩を蹴れば勢いを増す。


「ーーっ、これなら……振り切れる!」


 森を抜け、岩場へと飛び移る。

 そのまま傾斜を駆け上がり、一気に高台へ。

 振り返れば、村の柵と、混乱するモンスターたちの姿が小さく見えた。


 彼らは必死に辺りを探しているが、毒霧のせいで嗅覚も聴覚も鈍っている。

 楓を追跡することはもうできないだろう。


「ーーふぅ……危なかった……」


 岩陰に身を潜め、楓は肩で息をついた。

 胸は高鳴っているが、疲労感は少ない。

 むしろ――体の奥から、力が湧き出すようだった。


 だが、心の中には別のざわめきがあった。


「ーーやっぱり……モンスターの村……か。」


 秩序だった生活。

 人と変わらぬ会話。

 それでも彼らは、楓を“侵入者”と断じ、容赦なく捕らえようとした。


 楓は、まだ彼らに近づくべきではないと悟る。

 だが同時に――


「ーーあんな村があるなら……この世界、やっぱりただのモンスターの巣窟じゃない。」


 心臓の鼓動と共に、未知の世界への興奮が膨らんでいく。


 岩場を駆け上がった楓は、しばらく身を潜めていた。

 追跡の気配が完全に消えたことを確認してから、深く息を吐く。


「ーーふぅ。逃げ切ったな。」


 額を拭うと、手には汗ではなく毒素が微かに滲んでいた。

 焦りと同時に、毒を操る自分の本能が、無意識に反応していたのだ。


 しばらく考え込んだ末、楓は決断する。


「ーー正面から近づくのは危険だ。なら――迂回して、別の角度から様子を見るか。」


 彼は森を回り込み、より高台へと移動する。

 枝葉をかき分け、岩の陰を選びながら、慎重に足を運んだ。


 やがて、見晴らしの良い崖上に辿り着く。

 そこからは、さきほどの村を俯瞰することができた。


 柵で囲まれた小さな集落。

 木と石で組まれた粗末な家々が十数棟、円形に配置されている。

 広場の中心には井戸があり、モンスターたちが桶を下ろして水を汲んでいるのが見えた。


 煙突からは細い煙が立ち上り、家屋の中に生活の気配があることを示している。

 子供のような小さなモンスターが駆け回り、年長と思われる者がそれを叱りつけている。


 先ほどの騒ぎの名残か、柵の周囲には武装したモンスターが巡回している。

 耳をそばだて、鼻を動かし、侵入者の気配を探っている。


「ーーやはり不用意に近づけば、即座に狩られるな。」


 楓は崖の影に身を伏せ、息を殺した。

 村を見下ろしながら、彼は次の行動をどうすべきか考える。


楓は視線を使い魔に重ね、村の暮らしをさらに観察した。


村はそれほど大きくはない。

ざっと見渡しても百戸に満たない程度だろう。

木材と土を組み合わせた家が並び、屋根は藁で葺かれている。

人間世界の中世以前に相当するような生活水準に見える。


 食料は畑で作られているようだ。

使い魔の目がとらえたのは、亜人たちが腰を曲げ、土を掘り返す姿。

作物は芋のような根菜や、硬そうな穀物らしきもの。

家畜代わりの従順なモンスターを繋ぎ、畑を耕させているのも見える。


「ーー人間と同じだ」


楓は思わず呟く。


ただ生きるために働き、子を育て、社会を営む。

そこに敵意も悪意もない。

だが、外見は恐ろしい。

牙を剥けば獣のようだし、爪は武器にもなり得る。

それでも、互いに争わず暮らしている。


 さらに観察を続けると、ある違和感に気づく。

——村の中では「理性ある亜人」と「従順な獣型モンスター」の間に、はっきりした境界線があるのだ。


 理性ある者は火を扱い、言葉を交わし、役割を持つ。

子供を育てる姿もある。

 一方、理性なき獣型はただの労働力であり、道具としてしか扱われていない。

まるで牛馬のように、だ。


「なるほど……これなら区別できる」 


楓は理解する。


——言葉と理性を持つ存在、それを「亜人」と呼ぶべきだ。

——理性なく襲いかかる存在、それは「モンスター」のまま。


名付けることで、世界の輪郭が少しだけ鮮明になる。


楓は息を整え、さらに使い魔を北の方角へ飛ばした。

そこには濃い森が広がっていた。


村の亜人たちは時折その森を気にしているように見える。

北の森から吹いてくる風に耳を澄ませたり、子供を森へ近づけないよう叱りつけたり。

井戸端での会話からも、楓は断片的に危機感を感じ取った。


やがて使い魔の目が、その「理由」を映した。


森の奥に、濃い瘴気が漂っている。

揺らめく靄の中から、無数の影が蠢く。

それは理性を持たぬ獣型のモンスターたちだった。


狼に似た群れ、異形の昆虫、鱗に覆われた獣。

数にして、数百は下らない。

しかも、ただ彷徨っているのではない。

確実に南へ——つまり村へとじわじわ迫っていた。


「ーーこれは、近いうちに村が飲み込まれる」


楓は唇を固く結ぶ。


村は小さく、防壁もない。

武器を持つ亜人の姿もあるが、その数は少ない。

このままでは到底抗えないだろう。


だが楓は迷った。


「俺は……どうするべきなんだ?」


亜人は人間ではない。

けれど彼らは、間違いなく「生きている社会」を築いていた。

モンスターに蹂躙されれば、その命も文化も失われるだろう。


楓の胸の奥に、かすかな葛藤が芽生える。


楓は息を潜め、使い魔の視界を通して村の中を観察した。


井戸のそばで、亜人たちが話している。


「北の森の気配がまたおかしい」

「数日前の異常な障気が原因か」

「昨日よりも群れが増えている」

「子供を外に出さないように」


——北の森の異変は日増しに悪化している。

亜人の言葉から、森の中でモンスターが増殖していることがわかる。


これが続けば村は飲み込まれるだろう。


使い魔をさらに森の奥に飛ばす。

霧の中に潜む獣型モンスターたちの姿が次々と映し出される。

数百、いや千を超えるのではないかという規模だ。


「ーー障気って俺の出したやつじゃ、、、」

「俺のせいでこんなにモンスター来てるんじゃ?」

「ーー助けるしかない、俺の力があれば、どうにかなるかもしれない」


楓は心の中で呟く。

しかし、力を使えば毒が広がる。

まだ完全には制御できていない。


使い魔は森の中を縫うように飛び、モンスターたちの動きを追う。

楓はその情報を咀嚼しながら、次の行動を考える。


——俺のせいで平和に暮らしてる亜人の命を失わせるわけにはいかない。

——だが、無闇に力を使えば環境も破壊する。

——毒を使うだけでなく、制御も必要だ。


楓は視線を閉じ、深呼吸を繰り返す。 


「ーーよし、やるしかない」


決意が固まった。


使い魔の動きに合わせ、楓は洞窟で培った毒操術を試す。

しかしまだ完全ではない。

毒を飛ばせば強力だが、暴走して地形を削り、森や土地に影響を及ぼす可能性がある。


「まずは監視だけでも……」 


毒を飛ばさず、使い魔に観察を任せる。

森の中で蠢くモンスターたちの数、動き、位置。

そして亜人の村との距離。


徐々に状況が見えてくる。

北の森の東側に小川が流れ、その両脇に茂みがある。

モンスターたちは茂みを利用して密かに村へ接近している。


「ーー迂回路か」 


楓は頭を巡らせる。

村の亜人たちは北の森の方向を警戒しているが、東側の茂みまでは気づいていない可能性が高い。

もしこのまま気づかれなければ、楓が介入すれば大打撃を与えられる。


森の様子を見ている間、楓は過去の戦いを思い出す。

洞窟で巨大モンスターと戦った時、毒の反動で苦しんだこと。

毒操術を学び、少量ずつ制御する術を身につけたこと。


「ーーあの時の自分なら、絶対ここまで考えられなかった」 


思わず笑みがこぼれる。


使い魔を村の北側に戻すと、亜人たちが森を警戒する様子が映る。

楓はその様子を見て、ひとつの作戦を思いつく。


「まずは情報収集。無理に戦わず、森の動きを完全に把握してから介入だ」


言葉にするだけで、心が落ち着く。


楓は洞窟で培った感覚を頼りに、毒操術を最小限に使う練習を始めた。

空気中に僅かに毒の霧を漂わせ、感覚を掴む。


「これなら暴走しない……うん、これでいける」


使い魔をさらに遠くに飛ばす。

森の北西端、丘陵地帯の先まで。

そこには森から南へ向かう獣型モンスターの小規模な群れが確認できる。

数は少ないが、先遣隊だろう。


「ーーこれが本隊の前触れか」


楓は唇を噛む。


——村を守るには、先にこの先遣隊を排除し、村の安全圏を確保する必要がある。


毒の範囲を少し広げ、空気中に流れる毒の感覚を手に入れる。

手先で微細に操作し、森の茂みに沿って流す練習。

目標は、森の中にいるモンスターを一網打尽にすることだ。


「ーーこれなら村を守れる」


楓は心の中で呟き、森と村の位置関係を頭に刻む。 


楓は静かに息を整え、洞窟で培った感覚を最大限に集中させた。

森の北西端から、微細に漂う獣型モンスターたちの動きを使い魔で追う。

視界に映るのは、草や低木の間を縫うように動く群れの姿。

その数は予想以上に多い。


「ーーやっぱり先遣隊じゃないか」


楓は小さく呟く。

この小規模な群れが村に接触すれば、警戒している亜人たちも対応が難しい。


楓は洞窟での経験を思い出す。

巨大モンスターを相手に、毒を少しずつ放ち、反動を制御する練習をした日々。

そしてついに、毒無効の身体を手に入れたこと。

今なら、自分の体を盾にしつつ、毒を自由に操作できる。


「ーーまずは距離を保って、群れを誘導する」 


手をかざすと、空気中の毒が僅かに揺れる。

微細な霧が風に流され、森の群れの進行方向に沿って漂う。

毒の刺激で、獣型モンスターたちは無意識に身を避ける。

直接殺すのではなく、動きを制御する。


楓は慎重に、森と村の位置関係を頭に描きながら操作する。 


「こうすれば、村には届かない……うん、これでいい」  


使い魔が飛ぶ先には、森の深部に入り込んだ群れの影。

楓は毒を微細に操りながら、群れを特定の空間に誘導していく。


村の亜人たちは、北西の森に目を光らせている。

しかしまだ群れの全容には気づいていない。

楓は自分の判断で行動するしかない。


「ーーよし、これで準備は整った」


息を吐くと、毒の霧を森の茂みに沿って広げる。

霧は微細だが、群れの行動範囲を限定するには十分だ。

毒は空気中に長時間漂い、獣型モンスターたちの動きを封じる。


楓は一旦身を潜め、森の反応を観察する。

獣型モンスターたちは無秩序に蠢くが、徐々に移動が制限されていく。

空気中の毒がほんのわずかな刺激を与えるだけで、群れは思い通りに誘導されていく。


「ーー面白い。これなら戦闘も少なく済む」


楓は笑みを浮かべる。

ただ、力の制御はまだ完璧ではない。

微細な毒の流れを押さえ込むだけで、全身の力を消耗する。


だが、森の群れの動きは完璧に楓の思惑通りに誘導される。

これなら村への被害は最小限で済む。


楓は村に近づき、亜人たちの生活を守るため、さらに細かく毒の流れを制御する。

微細な霧で群れの視界を遮り、茂みの方向に誘導し、戦闘を回避させる。

村の亜人たちはまだ気づかず、安心して日常を営むことができている。


楓は森の群れを誘導しながら、自分の体を微細な毒で覆う。

自分の周囲には毒の壁が形成され、接近してくる獣型モンスターを阻む。

戦闘の準備と同時に、村の防衛線を作る。


「ーーこれならいける」


楓は心の中で呟く。

毒の操作を押さえ込み、最小限の力で最大限の防衛を行う。

自分の体は毒に覆われているが、毒無効の身体は安全。

膨大な力を消耗せずに、群れを管理できる。


森の群れは徐々に、楓が意図した安全圏に収まる。

群れの動きは止まり、茂みの中で蠢くのみとなる。

村の亜人たちは、異変に気づく前に安堵の息をつく。


楓は微笑みながら、使い魔を飛ばして村の反応を確認する。

亜人たちはまだ森の脅威を認識していないが、楓の毒操術によって、村は安全圏に守られている。


「ーーこれで一安心か」


深く息を吐く楓。

自分の力を使いこなすための訓練は、まだ終わっていない。

だが今は、村を守る最低限の準備は整った。


北の森からの群れは予想以上の速度で村に迫っていた。

楓は使い魔で森の動きを監視していたが、群れの規模は日ごとに膨れ上がり、ついに村の安全圏を突破する勢いだ。


「ーーやばい」


楓は息を詰める。

自分の力を使わなければ、村の亜人たちは間違いなく被害を受ける。


森を覆う闇が、ざわりと揺れた。

北側の木々を押し倒しながら迫る影。

地鳴りにも似た振動が足元から伝わってくる。


楓は、額に浮かんだ汗を拭うことも忘れ、ただその黒い波を凝視していた。


「ーー数が、多すぎる」


押し寄せるのは無数の獣型モンスター。

狼のような姿、猪に似た巨躯、巨大な蜥蜴に翼を持つものまで――。

それらが群れとなって押し寄せる光景は、もはや「群れ」ではなく、「災害」そのものだった。


普通なら恐怖で膝が砕ける。

だが楓は、心の奥底に冷たい炎を灯し、視線を逸らさない。


彼には、守るべきものがある。

村。

先ほど観察したばかりの、あの異形の知性ある住人たち。

人ではない――しかし確かに生活し、言葉を交わし、子を育てていた。

そんな彼らを日本という平和な国に暮らしていた楓には見捨てることはできない。


「ーーあの村を、ここで飲ませるわけにはいかない」


呟いた声はかすれて震えていたが、その決意は揺るがなかった。


楓はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込む。

次の瞬間、全身の血管を逆流するような熱が走った。

胸の奥から溢れるのは、濃密で粘ついた毒。


今までも幾度となく毒を操ってきた。

だが――今、解き放とうとしているのは、そのすべてを凌駕する「領域」の力だった。


「ーー来い」


低く、命令するように声を吐いた。


周囲の空気が揺らぐ。

地面に染み込むように、毒の波が広がり始めた。

草の緑が変色し、花弁が枯れ、根が腐り、黒ずんでいく。


同時に空気が重くなり、喉に何か詰まるような息苦しさが広がった。

ただ立っているだけで、皮膚が焼け、肺が痺れるような錯覚。


——《毒支配領域ドミネーション・ゾーン


頭の中に鮮烈な声が響く。

それはスキルの名。

しかし同時に、それを発動した楓の存在を、この世界そのものが認めた瞬間のようでもあった。


目を開けると、景色が変わっていた。


足元の土は紫黒に染まり、微細な霧が立ち昇っている。

それはただの霧ではない。

一粒一粒が楓の毒。

彼の意思に従い、敵を絡め取り、蝕む生きた刃だった。


「ーー逃げ場は、もうないぞ」


楓の声は静かだった。

だが、その静けさが逆に、群れを飲み込む死の宣告のように響く。


群れの先頭にいた狼型モンスターが、領域に踏み込んだ瞬間、動きが止まった。

喉を鳴らし、苦しげにのたうつ。

毛皮が逆立ち、泡を吐き、膝から崩れ落ちる。


次の瞬間には、二体、三体と同じように倒れていった。


群れ全体が、一瞬で怯んだ。


楓は深く息を吸う。

領域内では毒が自動で循環し、彼の体内に補給される。

魔力も体力も消費しない。

つまり——今の楓は、無尽蔵に毒を操れる存在。


「ーーこれが、“支配”か」


彼は呟き、口元に薄い笑みを浮かべた。

毒の領域に踏み込んだものは、誰一人逃れられない。

これはただの毒ではない。

支配だ。

全てを縛り、覆い、逃がさない絶対の網。


森の中で、楓の周囲数百メートルが「彼の世界」と化した瞬間だった。


森のざわめきが、悲鳴へと変わった。


最初に倒れた狼型は、白い泡を吐きながら痙攣し、地面を爪で掻きむしった。

その爪が紫黒に染まった土に触れた瞬間、音を立てて爛れ、爪先が崩れ落ちていく。


後方にいた同族の狼たちが慌てて方向を変えようとしたが――遅い。

毒の霧は既に彼らの肺を侵食していた。

呼吸のたびに毒が流れ込み、血液に乗って全身を蝕んでいく。


「ガゥアアアッッ!!」

「ギャウウッ……!!」


断末魔が次々と重なり、群れ全体が混乱に陥った。


だが、それは楓にとって想定内の光景。

彼の視線は冷ややかに群れを追い、指先を軽く振るった。


すると、霧の一部が生き物のように形を変え、細い糸状になってモンスターの四肢へ絡みついた。


「ーー逃がさない」


糸は毒そのもの。

巻きつかれた瞬間、皮膚が溶け、肉が崩れ、筋肉が黒ずみ腐敗していく。

逃げようともがくほど、絡みは強まり、やがて地に伏せさせた。


——それはまるで蜘蛛の巣に絡め取られた獲物のようだった。


一頭、また一頭と倒れていく。

中には、異常な耐性を持つ個体もいた。

猪に似た巨獣は、毒霧を吸い込みながらも突進を止めず、牙を剥き出し楓に迫る。


その巨体が地面を揺らし、木々をなぎ倒す。

普通の冒険者なら、一撃で粉砕される迫力。


だが――楓は一歩も引かなかった。


「愚かだな」


次の瞬間、猪の足元の地面が波打ち、紫黒の沼と化した。

その沼から無数の腕のような毒の触手が伸び、巨体の四肢を絡め取る。


「グルゥゥアアアアッ!!」


凄まじい咆哮を上げて暴れるが、領域の中では楓の毒が絶対。

絡みついた部分から肉が崩れ、骨が露出していく。

それでも突進を続けようとしたが、ついに前のめりに崩れ、絶叫を上げながら泡と血を吐いた。


——そして沈むように、紫黒の沼へと引きずり込まれていった。


楓は一度も表情を変えなかった。

ただ淡々と毒を操り、群れを削り取っていく。


しかし、彼の耳には別の音が届いていた。


「……っ!?」

「な、なんだ……あれは……!」


村の方向。

視線を走らせると、柵の上や建物の影から、異形の村人たちがこの光景を見つめていた。


彼らは角を持ち、獣の耳を持ち、皮膚に鱗を宿す姿――人ではない。

だが確かに、知恵ある眼で「楓」を見ていた。


恐怖と畏怖と混じり合った眼差し。

それは、未知の災厄を目撃した者の反応そのものだった。


「ーー見られたか」


 楓は小さく呟く。

 彼の存在は、もはや隠しようがない。

しかし、今は考えている暇はなかった。


 群れはなおも途切れることなく押し寄せていた。

 森の奥から次々と姿を現す。

 領域内に足を踏み入れた瞬間に倒れていくが、数は減らない。


 楓は目を細める。

その奥に――感じる。

「源」がいる。

群れを率いる存在、異常な発生の原因となっている何かが。


「ーー倒す」


呟きと同時に、楓の背後で霧が渦を巻いた。

その渦は毒の嵐となり、空を覆い尽くす。

空から降り注ぐ細かな毒雨が、さらに群れを蝕んでいった。


村人たちの絶叫が遠くから響く。


「ーー毒の雨……」


「村ごと……飲まれる……」


だが楓は、その中心に立ち、ただ一人、全てを支配していた。


森の奥から、不気味な振動が広がった。

地鳴りのような低音に、村人たちがざわめき、柵の内側に逃げ込む。


「ーーくる」

楓は静かに呟いた。


やがて、木々を押し倒しながら姿を現したのは――異様な巨影だった。

全身を黒い甲殻で覆い、百の眼を持つ蜘蛛の怪物。

その大きさは十メートルを超え、背中からは無数の小蜘蛛が溢れ出している。


「“群れの母体”……か」


小蜘蛛たちは地面を埋め尽くし、黒い波のように押し寄せる。

村を襲う原因は、間違いなくこの怪物だった。


村人たちは絶望の声を上げる。


「だ、だめだ……」


「村が飲み込まれる……!」


しかし楓は、一歩も動かない。

むしろ口元にわずかな笑みを浮かべた。


「領域の中に入った時点で……終わりだ」


その瞬間、怪物の巨体が毒霧に触れた。

外殻がジリジリと溶け、甲殻の隙間から黒い血が滲み出る。

蜘蛛の百の眼が一斉にこちらを睨み、咆哮をあげる。


「ギィィィィアアアアアアアアアア!!!」


咆哮と同時に、鋭い脚が何本も振り下ろされる。

一本だけで家屋を粉砕する力を持つ一撃――。


だが、楓は指を鳴らしただけだった。


——瞬間。

脚が地面に届くより早く、毒の触手が何十本も絡みつき、節を引き裂いた。


「ギシャアアアアッ!?」


悲鳴を上げた巨体を、さらに毒雨が打ち据える。

降り注ぐ一滴ごとに甲殻が崩れ、内臓が腐り、眼が潰れていく。

蜘蛛の巨体は暴れ、のたうち、森を震わせたが――すでに抵抗は虚しい。


「支配領域においては……お前に選択肢はない」


楓の言葉と同時に、蜘蛛の巨体が沼へ沈み込む。

毒の沼は口を開けたように広がり、脚も眼も甲殻もすべてを飲み込み、跡形もなく消し去った。


最後に残ったのは、紫黒の静寂だけ。


——群れを率いた“母体”ですら、抗うことはできなかった。


楓は静かに息を吐き、指先を払った。

それだけで霧がゆっくりと薄れ、村の周囲から毒の気配が引いていく。


「ーー終わった」


振り返れば、村の異形たちがただ立ち尽くし、楓を凝視していた。

恐怖と敬意と、理解できぬ存在に対する戸惑いが混ざった視線。


「ーーあの方は……」

「……人間なのか……?」

「いや……災厄の化身では……」


ざわめきが広がる。

楓はそれを一瞥しただけで、何も答えなかった。


彼にとって、この程度の戦いは取るに足らない。

ただ、領域を広げ、毒を支配した――それだけ。


だが村にとっては、神話のような光景だった。


戦いの余韻は、しばし重苦しい沈黙として残った。

森には死骸ひとつ残らず、ただ毒に焼かれた土の匂いだけが漂っている。


楓は静かに領域を解除し、ゆるやかに息を吐いた。 


「ーーこれで、ひとまず脅威は去ったな」


その声に応える者はいなかった。

村の柵の内側、家の影から――無数の視線が、彼を射抜いている。


鱗に覆われた顔、二本の角、輝く瞳。

人間とは似ても似つかぬ異形たち。

だが、その眼差しにはただ畏怖と、そして感謝の色があった。


やがて、一人の大柄な異形が前に出た。

その姿は獣のようでありながら、動きには理性が宿っている。


彼は大きく息を吸い込み――そして、楓に向かってひざまずいた。


「ーー救っていただいた……!」


その声が震えていたのは、恐怖のためか、感動のためか。

直後、村の異形たちが次々にその場にひれ伏した。


「おお……!」

「命を……村を……助けてくださった……!」

「偉大なる御方……!」


幼い子供を抱く母親までもが涙を浮かべ、地に額をこすりつけるように頭を垂れる。

その光景は、まるで神に祈る信徒の群れのようだった。


楓は虚を突かれ、しばし言葉を失った。

彼の中では、恐れられることこそあれ、こうまで真摯な感謝を受けるとは想像していなかったからだ。


「ーーは、ただ……」

助けただけだ、と言いかけて、口をつぐむ。


異形たちの中から、先ほどの大男が再び口を開いた。


「我らは……あなたの御力がなければ、村も子らも……皆、魔群に呑まれていた……。

どうか……この恩義を、我らに拝ませてくだされ……!」


その言葉と共に、村人全員がさらに深く頭を下げた。

地面に膝をすりつけ、額をこすりつける姿は――疑いようのない誠意と感謝の証だった。


楓はようやく、小さく息を吐いた。


「ーー頭を上げろ。俺は神でも主でもない。ただの通りすがりだ」


しかしその声は、かえって彼らの信仰を深めるように響いた。


「ただの通りすがり」でここまでの力を振るう者など、この世界には存在しなかったからだ。


「ーー通りすがりの御方」


「我らを救いし、大いなる旅人……」


そんな囁きが村中に広がっていく。


楓の胸中に、不思議な感覚が芽生えていた。

恐れられるでもなく、排斥されるでもなく――感謝され、敬われる。

この異形の村で、自分は確かに“救いの存在”として受け入れられているのだ。


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