エピソード10
毒の制御実験を繰り返した末、楓はようやく息を吐き出した。
掌に集めた毒の玉が静かに消え、洞窟内の紫の輝きが収束していく。
残るのは、深い静寂と、湿った石の匂いだけだった。
「ーーやっと、片付いたか。」
楓は岩壁に背を預け、大きく息を吸った。
毒に侵されていた空気が澄み、ようやく肺が楽になる。
休息を取った後、彼は洞窟の奥へと足を進めた。
既にモンスターの気配はなく、広大な空間は死の静けさに包まれている。
足音が響くたび、毒に侵され黒く変色した岩肌が、過酷な戦いの痕跡を語っていた。
やがて、かすかな風の流れを感じた。
「ーー出口、か。」
顔を上げると、遠くに淡い光が差し込んでいる。
それは夜明けのように柔らかく、暗闇に閉ざされていた楓の視界を照らした。
足を進めるごとに光は強まり、湿った空気に代わって乾いた風が頬を撫でる。
最後の一歩を踏み出すと視界が一気に開けた。
まぶしい。
楓は思わず目を細めた。
長い間洞窟に閉じこもっていた彼の瞳には、地上の光は鋭すぎるほどだった。
けれど、それは痛みではなく、胸を突き抜けるような清々しさを伴っていた。
眼前には、広がる森。
濃い緑の木々が風に揺れ、枝葉の隙間から光が踊る。
毒の濁流で満ちていた洞窟とは対照的に、生命の匂いが溢れていた。
「ーーこれが、外の世界か。」
楓は呟き、深く息を吸った。
肺の奥に、清らかな空気が満ちていく。
その感覚は、今まで毒とともに生き延びてきた彼にとって、初めての“解放”に思えた。
風に銀色の髪が揺れ、肌を撫でる。
洞窟の闇で培った力が、今この明るさの中でどう映えるのか
楓の胸は静かに高鳴っていた。
「ここからだな……」
握りしめた拳に、自然と力がこもる。
新たな舞台へ踏み出す、その始まりだった。
楓は足元の草を踏みしめ、森の奥へと進む。
洞窟の湿った空気とは違い、乾いた土の匂いと木々の香りが鼻をくすぐる。
光が差し込むたび、銀色の髪が輝き、白に近い肌を柔らかく包む。
猛毒のような濃い紫の瞳が周囲の景色を捉え、あらゆる動きを逃さない。
「ーーよし、まずは毒が周囲に広がってないか確かめるか。」
掌を前に出す。胸に溜めた毒の感覚を確認し、慎重に少量を外に放つ。
微かな紫色の光が空気に漂うが、すぐに楓の意識で吸い戻すことができた。
「ふぅ……かなり制御できてるな。」
心の底で安心しながらも、慎重さを緩めない。
洞窟で学んだこと――毒は強力だが、暴走すれば自分も環境も壊す。
その教訓が、今の楓の行動の基盤となっていた。
森の奥では、小さな動物たちがちらほらと姿を見せる。
リスやウサギの群れが、楓の存在に驚きながらも逃げていく。
その動きを観察し、毒が漏れていないことを再確認する。
「よし、今のところ安全だ。」
楓は掌に毒を集め、短く刃の形に変えてみる。
軽く振ると、空気を裂く感触とともに、手元で形が保持される。
森の小枝や石に触れても、瞬時に吸収できる。
制御の手応えを体で確かめ、心の中で微かに笑みがこぼれた。
しかし、完全に安心できるわけではない。
強い風や急な動きで毒が散る可能性もある。
楓は深呼吸をして心を落ち着け、慎重に森を進む。
目の前に広がる樹林の間から、光が差し込み、地面の苔や草を照らす。
進むうちに、楓は岩場に出た。
足元の小石を蹴り、毒を刃の形にして触れさせてみる。
岩を割らず、しかし接触した瞬間に紫色の光が表面に沿って流れる。
「ああ……こうすれば力を出しても環境を壊さずに済むな。」
楓は試行錯誤を続け、毒を自在に操作する感覚を確かめる。
刃、針、糸、盾……形を変えるたび、手に力が伝わり、胸の奥で脈打つ感覚が身体にフィードバックされる。
森の中ではまだ小動物たちが警戒しており、触れることなくそのまま観察できた。
「ーー完全制御はまだだな。でも、以前とは比べ物にならない。」
楓は毒を小さくまとめ、掌に収めた。
制御の限界を知ることで、逆に自信も生まれる。
光と風、木々の香り。
洞窟の中で培った力は、この広大な自然の中でも息づいていた。
楓はゆっくりと一歩ずつ進みながら、地上での行動の幅を確認し続ける。
この先、森の生態系にどれだけ影響を与えるかは未知数だ。
しかし、楓は慎重に、そして確実に、自らの力を制御する道を歩んでいた。
「よし、これなら森の生態系にも害を与えずに済むな。」
さらに進むと、岩が積み重なった小さな崖に出た。
以前洞窟で苦戦した大型モンスターの類に似た影が、茂みの向こうに潜んでいる。
楓は足を止め、体内の毒を刃の形に変え、掌で軽く振って感触を確かめる。
「さて……どれだけ効くか、試してみるか。」
息を吐き、毒の刃を投げつける。
空中で形を維持した紫の刃が影に直撃すると、強烈な瘴気が立ち上がり、モンスターの動きが鈍る。
だが、力を完全に制御できていないため、楓の全身に軽く反動が返ってくる。
「くっ……まだ力の調整が甘い。」
しかしそれでも以前なら到底勝てなかった相手が、驚くほど簡単に倒れていった。
次に楓は毒を糸状に変化させ、周囲の岩に絡めて罠を作る。
複数の小型モンスターが近づいてくるが、毒糸に触れた瞬間に力が反応し、霧状に変化して吸収される。
「おお……これなら一度に複数も処理できる。」
毒を操る感覚は、まだ不安定ながらも以前より格段に向上していた。
さらに楓は盾状の毒を掌から展開して、進行方向を守りながら前進する。
岩や木の枝が衝突しても、紫の盾が瞬時に吸収し、散布されずに形を保った。
「なるほど……防御としても応用できるな。」
次は毒を霧状に広げ、空中で槍や刃に変化させる実験。
複雑な形を同時に作ることで、攻撃と防御を連動させる感覚を体で覚える。
小さな失敗もあったが、数回繰り返すうちに毒は楓の意思通りに動くようになっていった。
森の中では日が傾き始め、光が柔らかくなる。
楓は深呼吸をし、掌に残った毒を吸い戻す。
「ふぅ……やっと、ここまで操れるようになったか。」
胸の奥の重さは少し和らぎ、洞窟の中で積み重ねた努力が確かに形になったことを実感する。
だが、地上にはまだ未知の危険が潜んでいる。
大型モンスターが潜む森の奥、川や沼地、広大な草原。
楓は足を止め、目を細めた。
「まだまだ試せることは山ほどあるな……」
体に宿る毒を自由自在に操る力は、これからの戦いで楓の最大の武器となる。
その感覚を確認しつつ、楓は森の中をゆっくりと進む。
光と影、風と葉の音、そして体内に宿る紫の力。
すべてが一体となり、楓は新たな世界での一歩を踏み出していた。
目を細め、遠くに広がる森を見渡す。
頭上には眩しいほどの青空が広がり、鳥の影がゆるやかに弧を描いていた。どこかで小川のせせらぎも聞こえる。洞窟の闇とは対照的に、すべてが鮮やかに色づいているように思えた。
しかし同時に、楓の心には一抹の不安がよぎる。
――自分が放つ毒。このまま何も知らずに歩みを進めれば、無意識に周囲を侵すことになりかねない。
だからこそ、楓は《万毒を統べし者》の中でも、まだ試したことのない能力を使おうと決めた。
力の中に刻まれた文字列のような感覚。その一部に確かに――
《毒生命創造》
という名がある。
「使い魔……か。もしうまくいけば、俺の代わりに周りを探らせることができる。」
楓は深く息を吸い、右手を前に突き出した。
掌に意識を集中させると、内側から黒紫色の光が滲み出る。熱でも冷たさでもない、不思議な圧迫感が皮膚を通じてあふれ出てくる。
その毒の塊を、楓は「形」にしようと念じた。
最初はぼやけた煙のようだったが、やがて骨格のような軸が現れ、肉をまとい、さらに膜のような翅が生えてくる。まるで粘土を押し固めて彫刻するように、毒が姿を変えていった。
そして数秒の後――。
「ーー出たか。」
楓の前に、漆黒の小さな獣が浮かんでいた。
四足の体に、蛇のように長い尾。背には半透明の羽根が二対あり、かすかに震えるたびに毒の粒子を撒き散らしては空気に溶けていく。瞳は深紅に輝き、楓をまっすぐに見返していた。
思わず息を呑む。
まるで自分の一部が外に出て具現化したかのような、奇妙な親近感があった。
「ーーなるほど。これが《毒生命創造》。」
次の瞬間、視界が二重になった。
一つは楓自身の目で見た風景。もう一つは、使い魔が空に舞い上がって眺める広大な景色。二つの映像が頭の中で重なり合い、めまぐるしく切り替わる。最初は酔いそうなほどだったが、すぐに「慣れる」感覚が訪れた。
「へぇ……便利だ。」
使い魔は高く舞い上がる。
地上を歩く楓の姿が小さく見えるほどの高度に達すると、四方八方へ視界が広がった。
そこには、果てしなく続く森林地帯があった。木々の間にはいくつもの川が縫うように走り、ところどころに岩山が突き出している。森の緑と川の青、岩肌の灰色が交錯する景色は、雄大でありながらもどこか荒々しい。
さらに視界を伸ばす。
羽音が空を切り裂き、風圧が毒の翅に流れ込む。遠く遠く、森の端を越えたあたりに――。
「ーーあれは。」
楓の胸が高鳴る。
木々の切れ間、その先に、規則正しく並ぶ小さな建物群が見えたのだ。屋根が陽光を反射し、細い煙がいくつも上がっている。自然に生まれるものではない。明らかに「人の営み」がそこにあった。
「村……だな。」
声に出した瞬間、楓の心に複雑な感情が渦巻いた。
安堵。人がいるという事実は、自分が異世界で孤独ではないと証明してくれる。
だが同時に恐怖。毒を持つ自分が近づけば、人々に害を及ぼすかもしれない。理解される保証もない。拒絶され、狩られる可能性さえある。
掌を握りしめ、深く息を吐く。
「ーーまずは観察だ。近づくのは、それからでいい。」
使い魔はさらに旋回を続け、村の外郭や周囲の地形を探る。
その間も楓は、共有される視界の鮮明さと、命令に対する使い魔の反応の速さに驚かされ続けた。まるで自分の分身が空を飛んでいるかのようだ。
毒の翅を震わせ、使い魔はさらに高度を上げた。
その視界は、楓にとって新しい地図を描き出していく。まるで空に浮かぶ鳥のように、大地の輪郭を俯瞰することができるのだ。
「ーーまずは、この森を抜けなければならない。」
楓は使い魔の目を通し、眼下の森林を観察した。
樹々はどれも背が高く、まっすぐ空へと伸びている。幹は人が三人がかりで抱えるほど太く、葉は濃い緑に染まり、昼間でさえ地表に届く光はわずかだ。木の間に点々と獣道らしき影が走っているが、人が整備した道は見当たらない。
さらに目を凝らすと、ところどころに異様な光景も見えた。
一本の木が紫色に変色し、枝からはどろりとした液体を垂らしている。森全体に混じって、毒の気配を孕んだ樹木がいくつも点在しているのだ。
「ーーあれは俺の毒の影響か、それともこの世界が元から持っているものか。」
楓は眉をひそめた。洞窟内での実験で、自分の毒が環境に干渉し、植物の形質を変えてしまうことは理解している。だが、この森に広がる毒樹は、どこか「古くから存在していた」ような気配を纏っていた。
使い魔は枝葉を掻き分けながら、さらに奥へと進む。
その途中、四足の獣が群れをなして駆ける姿も見えた。黒い毛並みを持ち、牙は異様に長い。まるで狼に似ていたが、背に骨の突起が並び、目が赤く光っている。毒の獣か、魔物か。いずれにせよ、危険な存在であることは疑いない。
「森を通るには、相応の備えがいるな……。」
楓は唇を噛んだ。
使い魔は森を抜け、次に広がる川の流域へと差しかかった。
森を縫うように流れる川は幅広く、両岸は白い岩肌に縁取られている。陽光を受けてきらめく水面は美しいが、その輝きの奥には得体の知れぬ力が潜んでいた。
視界を共有している楓は、水中に蠢く影を認めた。
大きな魚かと思ったが、尾の先には鋭い棘が並び、背には硬質の甲殻が輝いている。水を裂いて泳ぐその動きは獰猛で、川を渡ろうとする獣に飛びかかり、瞬く間に引きずり込んでいった。
「ーーこの世界の川は、ただの川じゃない。命を奪う罠そのものだ。」
渡河は容易ではない。泳げば捕食され、迂回すれば距離が倍増する。
楓は毒の使い魔に指示を出し、川の上流と下流を見させた。上流は岩が連なる急流で、下流は湿地に広がって消えていた。どちらも危険が多い。
「川を越える手段を考えないとな……。」
さらに使い魔は翼を震わせ、川を越えた先の山岳地帯へと飛び込んでいった。
そこには切り立った崖と、鋭い峰が連なる光景が広がっていた。灰色の岩山は、ところどころ赤黒い鉱石を露出させている。日差しを受けると不気味な光を放ち、毒気に似た瘴気を漂わせていた。
崖の影からは、大きな翼を持つ影が舞い上がった。
鱗に覆われた身体、鋭い爪。竜を思わせる姿だったが、その口から吐き出されたのは火ではなく、紫の霧だった。霧に触れた草木が一瞬で枯れ果てていく様子を、楓は息を呑んで見つめた。
「ーー毒を吐く竜、か。俺と似た性質を持つ存在……。」
奇妙な共鳴のような感覚が楓の胸に広がる。だが同時に、その竜は圧倒的な脅威でもあった。今の自分では到底太刀打ちできない。
山を越え、さらに遠方。
そこには広大な草原が広がっていた。森や山と違い、遮るものの少ない大地。風に揺れる草は銀色に輝き、地平線まで続いている。
だが安心できる景色ではなかった。
草の中に潜む影が、時折うねるように動く。巨大な蛇のようなもの、あるいは草そのものが命を持って動いているかのような存在。
そして遠くでは、背の高い獣の群れが走っていた。鹿にも似ているが、角は樹木の枝のように広がり、先端からは淡い光が漂っている。
「ーー自然の姿か、それとも魔の産物か。」
楓は唇を噛み、視界の端に再び目をやった。
――そう、森と川と山を越え、さらに草原を抜けたその先に。
遠く霞む地平線の向こうに、あの「村」が確かに存在していた。
小さな煙が立ち昇り、屋根が点のように並んでいる。人の営みが、確かにそこにある。だが、その距離はあまりにも遠い。
森を越え、川を渡り、山を回避し、草原を横断して――ようやく辿り着けるほどの、隔絶された場所だった。
「ーー簡単には行けそうにないな。」
楓の胸に、孤独と希望がないまぜになった感情が渦巻く。
だが確かに人はいる。その事実だけが、彼の歩みを進める動機になり始めていた
楓は慎重に準備を重ねるつもりでいた。
――だが、その計画はすぐに大きく狂い始める。
洞窟を出て歩き出した瞬間、違和感に気づいた。
足が、異常なまでに軽い。地面を蹴るたび、まるで風に押し上げられるように体が前へと滑る。
森の木々を縫うように進むと、ほんの一歩が数倍の距離を稼いでいた。
「ーー速い?」
思わず呟く。
自分の肉体が持つ感覚と、実際の移動速度が釣り合っていない。
息は切れない。筋肉に負担もない。だが景色はどんどん後方へと流れていく。
やがて楓は悟った。
――存在進化を遂げ《万毒を統べし者》を手にした結果、身体能力そのものが飛躍的に強化されているのだ、と。
毒を操るだけではなく、毒を内包する肉体自体が常人の域を超え、次元を違えてしまった。
彼は足を止め、大きく息を吐いた。
静かな森に、わずかに湿った吐息が溶ける。
「ーーこれなら、移動で苦労するどころじゃないな。」
予定していた「慎重な進軍」という計画は、既に意味を失っていた。
その証拠に、森の奥で遭遇した一匹の魔獣。
全身を棘で覆い、体高は馬より大きい。かつての楓なら恐怖に震え、逃げ道を探しただろう。
だが――今の楓は違った。
魔獣が唸り声をあげて突進してくる。
楓はただ、右手を軽く振るった。
次の瞬間、透明な糸のような毒が空間を走り、獣の喉元に絡みつく。
力強く締め上げられた魔獣は、抵抗する暇もなくその場に崩れ落ちた。
動きが止まったと同時に、毒が肉体を侵食し、灰色の霧のように分解していく。
「えっーー弱い。」
その一言は、驚きと困惑の入り混じったものだった。
かつてなら命懸けだったはずの敵が、今はただの雑草のように散っていく。
さらに森を進むうち、狼型の群れや、天井から落ちてくる巨大蜘蛛、毒液を吐き出す蟲に遭遇した。
しかし、どれもが一瞬で蹂躙された。
毒糸に絡め取られ、毒霧に包まれ、あるいは一瞥を浴びせられただけで痙攣して動かなくなる。
楓の中で次第に、一つの認識が強まっていく。
――俺は、強すぎる。
足の速さ。反応速度。毒の浸透力。
それら全てが、常識的な戦闘の範疇を超えていた。
「これじゃあ……『慎重に進む』なんて言葉は意味を持たないな。」
楓は苦笑した。
だが同時に、強大な力を得たという実感が、少しずつ心を軽くしていく。
孤独に抗うように、彼の歩みはますます加速した。
夜明けまでに、彼は想定していた数日分の距離を進んでしまっていた。
森を抜け、大河の手前へと辿り着いたとき、楓はその事実に思わず息を呑んだ。
「ーーここまで、もう来たのか。」
地図で見れば、まだ村までは遠い。
だが移動速度を考えれば、数日どころか、状況次第で一気に辿り着くことも可能かもしれない。
ただ――そのためには次の障害、大河を越える術を見つける必要があった。
楓は川面を見つめ、深く息を吸った。
毒の力があれば、この川ですら――
川は、あまりに雄大だった。
対岸は霞んで見えるほど遠く、流れは激しく、渦を巻いてうねりを上げている。
ただ渡るだけなら命懸け――普通の人間ならば、の話だ。
楓はその場に立ち尽くし、腕を組んで考え込んだ。
「どうする……。泳ぎは無理だな。流れに呑まれれば、いくら力があっても引きずられる。」
大河の水面を凝視する。
波間に光る鱗――巨大魚が潜んでいるのも見えた。
牙を剥いた頭部が時折跳ね上がり、激流を逆らうように泳いでいく。
ただ泳いで渡ろうとすれば、餌食になるのは目に見えている。
楓は小さく息を吐き、毒を巡らせた。
「……試すか。」
彼が最初に行ったのは、毒糸の生成だった。
右の掌から伸ばした糸を木に絡め、川へと投げ込む。
毒で編まれた糸は細く透明でありながら、鉄よりも強靭。
水流に負けることなく、岩へと食い込み、しっかりと固定された。
「ーー橋にできるか?」
楓は数本、数十本と糸を繰り出し、川幅いっぱいに網を張り始める。
やがて、水面に黒い影が現れた。
先ほどの巨大魚だ。
糸に触れた瞬間、獲物は痙攣し、体をよじって泡を吹く。
毒が水に溶け、即座に浸透したのだ。
巨体はやがて力を失い、流れに押し流されていく。
「ーーよし。これで少なくとも、邪魔は減る。」
次に楓は、筏の構築を試みた。
毒の力で木の幹を腐食させ、崩し、再び固め直す。
毒によって分解と再構築を繰り返し、木材を自在に組み替えるのだ。
結果、わずかな時間で毒によって黒く染まった筏が出来上がった。
木の繊維は毒に強化され、通常よりもはるかに頑丈だ。
「ーー使えるな。」
楓はその上に立ち、川へと押し出した。
激流が筏を揺らす。
だが楓は、足元から再び毒糸を伸ばし、水底や岩に絡めて舵を取る。
まるで水蜘蛛のように、糸を操って筏の進路を安定させていった。
途中、水中のモンスターにより渦が立ち塞がる。
筏ごと呑み込まれるかと思った瞬間――楓は毒を霧状に広げた。
霧は瞬時に水中へと拡散し、渦の中心にいるモンスターを麻痺させる。
暴れる影が沈んでいき、渦の勢いが僅かに和らぐ。
その隙を突き、筏はゆっくりと抜け出した。
楓は冷静に判断しながら、次々と川を制圧していく。
やがて、彼は対岸に辿り着いた。
筏を押し上げ、岸へと降り立つ。
振り返れば、渡り切った大河が広がっていた。
水面はまだ荒れ狂っている。
しかし楓の足跡は、確かにその流れを越えた証となって残っていた。
「ーーやっていけそうだな。」
小さく呟き、楓は再び歩き出す。
その先にあるのは――遠く霞む村。
だが、その歩みはもはや迷いではなかった。
《万毒を統べし者》として、世界を渡り歩く者の確かな歩みだった。
大河を渡り切った楓は、岸辺の湿った土に足を踏みしめながら深く息を吐いた。
目の前には、先ほどの川を越えた森が広がる。木々の間から、遠くに村の光がかすかに見える。
その距離は、歩けば数日の道のり――だが今の自分なら、通常の人間の何倍もの速度で進めるだろう。
「ーーだが、油断はできない。」
楓は心の中で警告を発した。
毒の力は強大になった。しかし、洞窟内のように閉鎖的で管理可能な空間とは違う。
広大な森や川、村周辺の生態系に対して無制御に毒を撒けば、自然や人々に多大な被害を与える。
彼は一度立ち止まり、掌に力を集めた。
猛毒の感覚を体内に押し込め、外に出さずに制御する――自分自身の毒を「閉じ込める」こと。
毒操術を覚えた今、これは可能だ。だが力の完全な制御には、まだ時間が必要だった。
楓はまず、森の中で小さな実験を行った。
毒を少量だけ外に出し、葉や小石に触れさせる。
すると、微細な黒い霧が触れた部分だけに広がり、毒の侵食は局所的に留まった。
その範囲を徐々に広げ、徐々に毒を吸収するように体内に戻す――まるで川の水を手のひらで掬い、再び壺に戻すような感覚だった。
「ーーなるほど。範囲を限定すれば、自然への影響を最小化できる。」
彼は深く頷き、再び歩みを進める。
森の小径を辿りながら、楓は周囲に毒を意図的に出し、吸収することを繰り返した。
その過程で、毒操術の精度はさらに高まる。
小石や枝の隙間に流れる毒、地面に微かに染みる毒の粒子――それら全てを意識的に制御できるようになった。
進む途中、幾つかのモンスターが現れた。
巨大な狼や、体長二メートルを超える猪型の獣。
以前なら恐怖の対象であり、戦うには相当な準備が必要だった。
しかし楓は今、恐怖を感じなかった。
全身を支配する毒と、その圧倒的な肉体能力――それが彼に自信を与える。
まず、一歩踏み出すだけで獣たちは楓の気配に反応し、威嚇してくる。
楓は掌を軽く振り、毒の糸を獣たちの足元に走らせる。
糸が絡みつき、体を拘束する。
「……このレベルのモンスターでもまだ余裕だな。」
小さく笑いながら楓は言う。
獣たちはもがき、唸り声を上げるが、毒が浸透すると瞬く間に動きを止める。
攻撃の必要もなく、ただ糸の圧迫だけで制圧できる。
以前の戦いを思い返すと、信じられないほどの圧倒的差があった。
歩みを進めるごとに、楓は森の起伏や障害を毒操術で確認しながら進む。
倒木や崖の縁、湿地帯――すべて毒の感覚で「触れて」位置を把握し、安全なルートを選択できる。
同時に、毒の力を最小限に出すことで、森の生態系への影響もほとんどない。
小さな虫や樹液には微量の毒が触れるだけで済み、数時間後には体内に吸収される。
まるで自然の循環の一部になったかのような感覚。
数日かけて森を抜け、楓はようやく草原に到達した。
見渡す限り、風に揺れる草が一面に広がる。
遠く、丘の向こうには、村の煙突から上る白い煙がかすかに見えた。
「……あそこか。」
楓は深く息を吸い込み、足を止めた。
視界に入る景色は、これまで見た洞窟や森とは全く異なる色彩に満ちている。
光と風と土の匂い――すべてが鮮明で、彼の感覚を研ぎ澄ます。
そして楓は、体内に蓄えた膨大な毒を再び確認した。
毒操術を極限まで使うことで、彼はこの力を「環境を変えずに自分だけが制御する」ことができる。
遠くの村までのルートも、毒を媒介にした使い魔で偵察済み。
安全な道筋は、ほぼ確定したといってよかった。
村に近づく前、楓は立ち止まり、静かに呟いた。
楓は小高い丘の上に立ち、眼下に広がる景色をじっと見つめていた。
鬱蒼とした森を抜け、さらに半日ほど進んだ先――そこに「村」と呼べるものが確かに存在していた。
粗削りながらもきちんと並んだ木造の家々。
煙突からは白い煙が立ちのぼり、風に流されている。
中央には井戸らしきものと、広場のような空間。
村の外周には簡易的な柵が築かれ、外敵の侵入を防ぐ意図が見える。
楓は目を細めた。
洞窟から地上に出て初めて見つけた「人の営み」のような光景に、心が揺れる。
楓は掌を開き、再びで小さな“毒の使い魔”を生み出す。
指先から霧のように滲み出た毒が凝縮し、やがて黒紫色の小さな鳥の形を取る。
翼を広げたそれは、揺れるように羽ばたき、風に溶け込むかのように空へ舞い上がった。
「……頼む、周りを見てきてくれ。」
楓の意識が鳥と繋がる。
その視点から、村の様子が鮮明に流れ込んできた。