身代わり
夏が、嫌いだ。
うんざりする蝉の鳴き声。ゆらゆらと泳ぐように遠のく景色。全てを飲み込むような海。
そして、
私から全てを奪う。
「お願いだから起きてよ、七緒」
返事は無かった。
患者には直接当たらないようにと調整されたエアコンの風が頭上で広がる。
外からは微かに聞こえる子供達の無邪気な声。それとは対照的に静かな病室。
目の前のベッドに横たわる女の子。
長く緩やかな癖毛はシーツ上で無造作に広がり少しつった瞳は硬く閉ざされている。
名前は藤堂涼香。
高校二年生のお見舞いに来てくれるような友達もまともにいない女の子。
それが私だ。なのに。
改めて手元を見る。
少し骨ばった日焼けした手。所々にある細かい傷痕。腕に巻かれた願掛けのミサンガ。
幼馴染の世乃七緒の手。
私達は五日前に自宅近くの海で溺れた。
その時の記憶は朧げだけど何故か、一緒に溺れた私達は入れ替わり、私の体は気を失って入れ替わった七緒ごと目を覚さなかった。
ガラッと横スライドのドアが開く。
入ってきたのは私の…今は七緒の担当看護師だった。
「こんにちは、世乃君。今日もお見舞いかな?」
ニコッと人当たりのいい笑顔を浮かべる彼女は書類を挟んだバインダーとペンを片手に部屋に入ってきた。
毎日の定期検査の時間。眠っている状態なので経過観察しか出来ないそうだが。
女の体ということもあり彼女が担当として抜擢されたと聞いた。
緩やかに過疎化が進む子の町では数少ない女性看護師であり他の女性患者も担当しているため本来は忙しいはずだがそれは顔に出さない。
私が返事に困っていると彼女はテキパキと呼吸状態の確認や床ずれを防ぐためだという、体の向きを変えたりと動く。
自分の体が他人に動かされている。そしてそれを他者の目で見ている。何とも不思議な光景だと思う。
「世乃君も体の具合はどうかな?退院したからといって無理は禁物だよ」
「いえ、俺は。もう体も動くし平気です」
口から出る声も低い七緒の、男の子の声。
確か七緒の一人称は「俺」だった。ちゃんと七緒だと思われているかな。
溺れて緊急搬送されて。この七緒の体は数分で意識を取り留め、五日経った今はいつも通りの調子にまで回復していた。
けれど一緒に溺れた私の体は未だに意識すら取り戻さず昏睡状態だった。
自分のお見舞いだなんて気分のいいものじゃないけれど目覚めた時に七緒は混乱するだろうしもしも目覚めなかったら…なんて最悪の想像までしてしまって毎日欠かさず来ていた。
今は夏休み中。
状況を知っている七緒の両親(今は俺の、だけども)も止めることなく行かせてくれた。
学校が始まるまであと三週間。
それまでに、いや、そんなの構わないから。どうか。
顔色が悪かったのか処置が終わった看護師がこちらを見つめる。
「早く目覚めるといいね。彼女さん」
「は…?」
彼女…?
私がポカンとしている…七緒の顔だけど。顔が面白かったのかふふ、と微笑む。
「世乃君、毎日お見舞いに来ているもの。聞いたよ?幼馴染なんだってね。心配だよね、カノジョさん」
悪戯な顔で微笑む彼女。何だかとんでもない勘違いをされている気がする。
「違います!俺達そんなんじゃ
「うんうん!わかるよ!高校生なんて付き合う付き合わないって小っ恥ずかしいよね!大丈夫、私わかってるからー!!」
そう言いながらさささっと病室を出ていってしまう。
必死の弁解も彼女からすれば甘酸っぱい照れ隠しにしか見えないらしい。
違うよ…。だって私達付き合ってないし。…付き合えるわけないよ。
「ねえ、どうする?七緒」
ベッドに横たわる私(今は七緒…ああ、ややこしい…)を見つめる。
少しずらされた寝姿に相変わらず硬く閉じた瞳は変わらない。
自分の体だが呑気だと感じるくらい反応は無い。
いや、今は眠っていて丁度よかったかも。
「私達、彼氏と彼女だって。…馬鹿みたいだよね」
あなたに面と向かっては絶対に言えない言葉。
でも本当は言いたいの。なのに。
「ごめんなさい…。ごめんなさい…」
エアコンの微かな動作音だけが響く部屋でポタポタとシーツにシミが出来る。
私の涙だ。
私が泣く資格なんてどこにも無いのに。
しばらく涙は止まらず、病院を出る頃にはうっすらと目は腫れていた。