呪いの足跡
「クソッタレがよお!」
マークは突然、三歩ほど前へ踏み出し、道に降り積もった黄色い落ち葉を思いきり蹴り上げた。舞い上がった葉は、ほんのひととき命を吹き返したかのように宙を舞い、すぐに力尽きたように地面へ落ちていく。
その蹴り上げた足が大して高く上がっていなかったことに、ピーターはどこか哀愁を感じた。
再び二人は肩を並べて歩き出す。乾いた風が吹き抜け、道の左右に等間隔に並ぶ木々の枝から葉をもぎ取り、まるで子供がケーキにチョコスプレーを振りかけるように、道や停まっている車の上へと降らせた。
「どうしたんだよ、マーク」
ピーターが訊ねた。不機嫌な理由の見当はついているが、他に会話の糸口がなかった。
「ふん、こうも葉っぱが積もってたら、“足跡”が見えないだろうが。自分ちの前くらい掃除しろってんだ!」
「しょうがないさ。みんな外に出るのを怖がっているんだ。ほら、それに、あそことあそこは空き家じゃないか?」
ピーターはくすんだ水色の外壁の家と、屋根の一部が剥がれた白い家を指さした。水色の家の玄関ドアには飾りを外した跡があり、その部分の色だけ微妙に違っていた。白い家の前には植木鉢が倒れており、中の土は干からび、ひび割れていた。
「ふん、白いほうにはまだいるさ。ミーシャって痰吐きのばあさんがな」
「そうかい」
「たくよお、行政が何とかしろってんだ。おれたちから税金をふんだくってるくせによお」
「おれたちはもう大して払ってないだろ。むしろ、年金でもらっている立場だ」
「ふん! それはおれらが若いときに無理やりぶんどっていった分だろうが! それをいかにも『恵んでやってる』って顔しやがって。クソッタレな政府がよお!」
この町がこんなふうになる前から、マークは常に何かに文句を言っていた。きっと、死ぬ直前でさえ、そうやって何かに腹を立てているのだろう。たぶん、その場所は自宅のリビングで、相手はテレビのコメディアンだ。ピーターはそう思っている。
「なあーにが、『最後の足跡』だよ。クソクソクソッタレの誰が考えやがったんだ」
「この町の芸術家さ。もう死んでる。たぶん、彼が呪いをかけたんだ」
マークはぺっと地面に唾を吐いた。『呪い』については、どうやら同意らしい。
あるとき、この町で『最後の足跡』というものが流行した。
セメントで自分の足の型を取り、それを自分が死んだとき墓石に刻むというものだった。地元に戻ってきた芸術家の発案とあって、地元メディアが大々的に取り上げ、一時的にちょっとしたブームになった。マークとピーターも作った。(もっとも、二人ともすでに叩き割っていたが)
だがある日、自分の足跡が道端に現れるという奇妙な現象が起きた。それを踏んだ者は死ぬ――そんな『呪いの足跡』が。
噂が広まると、一部の住人(膝を上げるとき口元が歪まない者たち)は町を離れた。残った者たちは、日々怯えながら暮らしている。
ピーターとマークも例外ではなかった。二人とも外出時には地面を凝視して歩く癖がついた。マークはスーパーへの道すがら、必ず一度は「まるでゲイカップルだ。胸糞悪い」と吐き捨てた。
「ゲイのカップルはこの年まで生きちゃいないよ。みんなエイズで死んでる」。それが事実かどうかはさておき、マークの機嫌がよくなるので、ピーターはいつもそう返していた。
「ほら、あそこ。クソガキどもの仕業だ!」
マークが前方を指さした。斜め前に、血のように赤い足跡があった。ただし、一部がかすれたり、輪郭が欠けていた。本物の呪いの足跡はそんなふうにはならない。形は常に鮮明で、雨でも洗剤でも消えず、カラースプレーをかけても、必ず浮かび上がるのだ。その足の主が、そこに踏み込むまで。
「ああ、またか。赤いペンキだな。もう少し明るい色で描いてくれれば、見やすくて助かるんだがな」
「バカどもがよ、何考えてやがんだ」
「彼らは自分が死と無縁だと本気で思ってるんだよ。恐怖ともね」
「つまり何も考えてねえってことだな。クソがよ」
マークは赤い足跡に向かって唾を吐いた。ピーターは目を細め、それを見ていたが、命中したかどうかはわからなかった。ただ「ナイスショット」と言っておいた。
◇ ◇ ◇
『なに? 足が痛いって? 靴に嫌われたな!』
くたびれた一人掛けのソファに腰を下ろし、缶コーラを片手にテレビを眺めるのが、ピーターの定番の過ごし方だった。
テレビ番組は、自分が不感症かどうかを測る材料の一つだった。定年を迎えてから――あるいはもっと前からかもしれない――ピーターには、自分が心から笑った記憶がない。だが、それが老いによるものなのか、単に笑っていないだけなのか、本人にもわからなかった。
生まれ育ったこの町を四日以上離れたことは一度もない。母が生き、そして死んだこの家からも。
旅に出る予定はある。行き先は墓の中。ただし、その墓もこの町にある。
『足が骨折した友達に言ったんだ。「その場で足踏みする理由ができてよかったな」って』
やけに“足”に関する話ばかり耳に入ってくるのは、呪いの足跡の噂が広まってからだろう。無意識のうちに耳が拾っているのだ。衰えたものの、まだ使えるらしい。ピーターは少しだけ感心した。
ピーターはぼんやりと、まるで博物館の人形のように、一定の動きでコーラを口に運んだ。
じわりと尿意を感じ始めたそのとき、電話のベルが鳴った。
まだ電話の音は聞き取れた。ただし、ソファから立ち上がって受話器を取るまでに切れてしまうことも多かった。特に相手がマークのときは。
ピーターはゆっくりと立ち上がり、ため息をついて電話へ向かった。
「はい、もしもし」
『ピーター、おれだ、マークだ』
「マークか。君が七コールも待つなんて意外だな」
『九コールだ。そんなことはどうでもいい。外出の準備をしろ』
「それはいいけど、買い物は昨日済ませたはずじゃなかったか? 次は三日後の予定だったろ」
『お前が日にちを正確に覚えていることはめでたいが、今はそんなことはどうでもいい。早く公園まで来い。丘の上のだぞ。今、そこの公衆電話からかけてんだ。小銭がねえから、もう切るぞ』
言い終わるや否や、電話はぷつりと切れた。ピーターは長いため息をつき、のそのそと身支度を始めた。べつに急ぐつもりはなかった。坂を登って公園まで行くのは億劫だったし、どうせ時間をかければ、家を出たあたりでマークと鉢合わせするだろうと踏んでいた。
きっともう、しびれを切らしてこちらへ向かってきているに違いない。肩をいからせ、のしのしと道を歩くマークの姿を想像し、ピーターは口元をわずかに緩めた。
だが結局、ピーターは坂を登る羽目になった。
白い大きなタイルが敷き詰められた小さな丘の上には、木々や屋根など遮るものがなく、見晴らしはいい。ただし、見下ろした先が廃れきった町でなければの話だが。
マークは背中をこちらに向けて立っていた。肩をわずかに揺らし、苛立ちを滲ませるように足を交互に踏みながら空を仰いでは、また地面に視線を落としている。
「マーク」
ピーターが声をかけると、マークは弾かれたように振り返り、満面の笑みを浮かべた。あんなに嬉しそうな顔を見るのは、牛乳
配達員が自転車ごと派手に転んだとき以来だった。
「これを見てみろよ、ピーター!」
マークが腕をぶんと振り上げた。その動きはどこかぎこちなく、可動域の限られた人形のようだった。
「何を見つけたんだ、マーク。鴉のつがいの死骸か?」
ピーターは冗談めかして言ったが、笑うことはできなかった。タイルの中央にあったそれに、目が引き寄せられていた。黒い足跡。浅く凹み、まるで乾いた泥に墨を流し込んだようだった。
「おれの足跡なんだよ! ははは! おれにはわかるんだ!」
マークは興奮気味に叫び、自分の足をその足跡の隣に並べた。形も大きさも、まるで型を取ったようにぴったりと一致していた。
「まあ、若者のいたずらにしては、なかなか凝ってるな……」
思わずにやけるほど、かすれた声が出た。喉の奥で紙をくしゃくしゃにしたような音で、マークには何を言ったのかわからなかっただろう。ピーターは咳払いをし、マークの表情を伺ったが、彼は何も気にしていない様子だった。
「おれを待ってたんだよ……こいつを踏まないなんて、人生を否定するようなもんだ!」
「……なあ、マーク、帰ろう。まだ三時だが、今日はやけに冷える。これから風も強くなるだろう」
どこからか飛行機の音が聞こえ、ピーターは空を仰いだ。姿はまだ見えなかったが、咆哮のようなジェット音が近づいてくる。
もし、本当に飛行機が叫びながら飛んでいるとしたら、何が理由だろうか。子供が床にジュースをこぼしたからか。中年の男がトイレで小便を撒き散らしたからか。キャビンアテンダントと機内でファックすることなど幻想だと気づいたからか。あるいは、地上に痰を吐こうとしているのか。
上空から、私たちは見えていない。私たちの存在など、誰にも……。
ピーターもまた、その瞬間を見ていなかった。視線を空からマークへ戻したときには、彼はすでに足跡の上に立っていた。
マークは、まるで三時間かけて作った雪だるまを親に見せる子供のように、誇らしげに微笑んでいた。
その笑みは崩れなかった。ピーターが「すぐにそこからどけ!」と怒鳴っても、空から降ってきた飛行機の痰、あるいは糞が頭に直撃しても。
それが何だったのか、ピーターにはわからなかった。ただ、金属が何かに当たって跳ねるような音が耳に届いた。そして次に、マークが崩れ落ちる音も。
飛行機から落ちた部品か破片がマークの頭部を貫き、どこを通って抜けたのかはわからない。顎か、あるいは肛門か。ただ、マークの頭から流れ出た血が地面にゆっくりと広がり、陽光を反射してきらきらと輝いていた。マークは、その血の沼の中でまだ笑みを浮かべていた。
◇ ◇ ◇
ピーターは家に戻った。帰り道を自分がどのように歩き、何を考えていたのかはまったく覚えていない。
考えることはいくらでもあるように思えた。明日は買い物に行く日だったか? 新しい友人を見つけるべきか?
マークは近所に住んでいたというだけで、特別親しいわけでも、好感を持っていたわけでもなかった。ただ、向こうから会話を始めてくれる分、楽ではあった。
ヤカンの笛が鳴き、ピーターは思考を断ち切った。すぐにコンロの火を止めたつもりだったが、蓋の隙間から湯が噴きこぼれていた。
コーヒーを淹れる。マグカップを手に、ソファの横のローテーブルまで運んだ。途中、少しだけこぼれた。
テレビをつけて、ぼんやりと眺める。画面の中で誰かと誰かが会話している――その内容は夢の中にいるかのように、頭にも、耳にも入ってこない
視線が引っ張られるように横へ流れていく。
そこにあるのは知っていた。インスタントコーヒーの蓋を開けたときにも、ふと振り返ったときにも。マグカップにスプーンで粉を入れるときも、ヤカンから湯を注いだときも、何度も目に入っていた。
――あれは、ネズミのつがいの死骸などではない。
「私のだ……」
いつソファを離れて、床に彫られた足跡の前に立ったのか、ピーターには思い出せなかった。ただ、肉体より先に思考のほうが重力に引かれるように足跡へと落ちていく。
遠くからテレビの音が聞こえる。マークの、あの馬鹿みたいにはしゃいだ声も聞こえる――これは幻聴だ。電話のベルも。ヤカンが沸騰する音も。
ピーターはコンロへ行き、ツマミを回して火を消した。なぜもう一度ヤカンをかけていたのか、自分でもわからなかった。自分以外のものが出す音を、恋しがっていたのかもしれない。
視線は再び足跡に向かう。ピーターはそっと目を閉じ、ゆっくりと開けた。そして、台所にあった包丁に目をやり、それを手に取った。
◇ ◇ ◇
翌朝、ピーターは一人、黄色い落ち葉の絨毯の上を歩いていた。やはり、昨晩は風が強かったようだ。ただ、通りにはタイヤの跡もなく、この町に自分しか存在しないのではないかと錯覚するほど静かだった。
だからこそ、誰かと出会えたなら、きっととても嬉しいだろう――そう思った瞬間、口元が自然と緩んだ。
目指すは病院。古くて小さく、看護師も美人ではないが、そんなことは重要ではない。誰かがいてくれれば、それだけでいい。
呪いの足跡は、他の町にも広がりつつあるという。まるで、旅をするかのように。
ピーターはふと、歩いてきた道を振り返った。落ち葉が避けられ、地面の灰色が帯のように露出していた。
彼はふっと笑うと、前を向き直った。そして再び歩き出す。
線を引くような、不格好な足跡を刻みながら――。