真の夫人、真の貴族
屋敷での生活にも慣れてきた頃。
その日、屋敷の使用人たちの間に小さなざわめきが広がっていた。
「奥様が……お戻りに……!」
(奥様?)
聞けば、デュランの妻——つまり領主夫人が王都から戻ってくるという。
(ああ、来たか。ついにこのイベント……)
俺は、すでに展開を予想していた。
俺は知っている。こういう展開は王道だ。
屋敷に拾われた平民が、貴族の奥方に嫌われるのはお約束。
「この汚い平民は誰!? すぐに追い出しなさい!!」
——そう怒鳴られて、俺は屋敷を後にする。
ちょうどいい、また旅立ちのきっかけになるじゃないか。泣くけど。
(さよなら、俺の安息ライフ)
そんな覚悟を決めていたときだった。
屋敷の正面玄関に、優雅な馬車が滑り込む。
そして——
静かに、馬車の扉が開いた。
そこから降りてきたのは——
(な、なにこれ……)
今まで見た誰よりも、美しく、可憐な貴族婦人だった。
腰まで流れる銀髪、深い蒼の瞳、まるで絵画から抜け出したような完璧な姿。
気品に満ち、優雅で、でもどこか冷たく、そして神々しい。
(なんで……この人が……)
一瞬、息をするのを忘れた。
夫人の視線が、俺を捉える。
「この少年は……何者?」
その瞬間、空気が変わった。
空間ごと、押し潰されるような圧。言葉じゃない、“存在感”が襲いかかってくる。
(やっぱり……こわい人だ……さよなら俺の楽しい生活……)
俺が心の中で別れを告げようとしたその時——
「え、ええっと、奥様! あのですね、こ、こいつはですね、その、村で拾って、いやいや助けて……っ!」
デュランが珍しく噛みながら説明を始めた。
かみかみの説明を終えたその次の瞬間——
パァンッ!!
乾いた音とともに、デュランの巨体が宙を舞った。
「……え?」
あの体が、椅子から軽々と吹っ飛んだ。壁に激突した音が響く。
「旦那さまーっ!!」
使用人たちが駆け寄る。が、夫人はまったく意に介さず、静かに俺の方へと歩み寄ってきた。
「ひ……っ」
俺は思わず後ずさる。足が震える。逃げようにも、足がすくんで動けない。
(ああ、終わった……衝撃に備えないと……)
ぎゅっと目を閉じる。
そして——
あたたかい何かに包まれた。
「……え?」
恐る恐る目を開けると、俺の視界を埋めたのは、夫人の少しだけふくらみのある胸。
そのまま、ふわりと優しく抱きしめられた。
「辛かったでしょう……小さな子に、あんな過酷なことが……」
その声は、驚くほど優しかった。
気づけば、涙がこぼれていた。安心感が、胸を熱くした。
その後、俺は夫人とライルと三人で、暖炉のある小部屋で話をすることになった。
そこで初めて知った事実。
——デュランは、婿養子だった。
デュランは大事なことの報告をし忘れたため無慈悲にも宙を舞ったのだった
そして、この屋敷の本当の“格”を支えているのは、この美しくも圧倒的な力を持つ、真の貴族婦人だったのだ。
ライルは母に似てなかった。それだけが、ちょっと残念だった。
(続く)