交錯する想いと名乗らぬ声
市場を離れたノアは、裏路地の奥にある木造の倉庫の影に身を潜めていた。
打ちつけるような心臓の鼓動は、まだ収まらない。
脳裏には、あの忌まわしい一言が何度も反響していた。
(……本当に、小林先生が……)
思い出すのは、最後に交わした軽口。
「先生呼びはやめろっての——」
その声がもう二度と聞けない。そう理解した瞬間、全身の血が一度に冷えていった。
—
拳を強く握りしめ、ノアは深く呼吸を整える。
「……泣くのは、まだ先だ」
ここで立ち止まっている暇はない。
今は、戦うのではなく“知る”ときだ。
—
感知結界が反応を示した。
追跡者のうちの一人が、ゆっくりとこの倉庫へと向かってきている。
ノアは即座に《幻影歩法》を起動した。
足音を風に消し、気配を闇へ溶かす。
—
影の中を滑るようにして、倉庫の屋根をすり抜ける。
そのまま軒先の影に紛れ、追跡者の動きを見張る体勢を整える。
(……あいつら、どこまで掴んでる? 目的は?)
焦る気持ちを抑え、思考に集中していた——そのときだった。
—
「なあ……お前……ノア・セラン、だろ?」
背後から、突き刺さるような声が響いた。
思考が一瞬で吹き飛ぶ。
神経が跳ね上がり、全身の筋肉が硬直する。
何かが背後にいる——それも、“知っている”何かが。
—
振り返るその瞬間まで、ノアは息を止めていた。
ゆっくりと体をひねる。
そこにいたのは——
懐かしくもあり、決して油断できない存在。
勇者パーティーの面々だった。
空気が張り詰める。言葉も、呼吸も、すべてが止まる。
「……なあ、お前……ノア・セラン、だろ?」
その声に、ノアの動きは凍りついた。
振り返れば、確かにそこには勇者パーティーの面々がいた。
だが、ノアの瞳はわずかに揺れながらも、すぐに虚無の色を帯びた。
「……人違いだ。俺はユアンだ」
その言葉は感情を排した、冷ややかな響きを持っていた。
—
だが、蓮はまるで聞いていなかったかのように言葉を続けた。
「人違い? ハッ、そんな言葉じゃ誤魔化せねえよ」
蓮は一歩、ノアににじり寄る。
「俺たちと一緒に過ごした時間がな……その時の感覚がな……言ってんだよ。お前はノア・セランだってな!」
ドヤ顔で自信満々に言うその姿は、緊迫した空気の中でも妙に浮いていた。
—
(……あってるよ。でも、正直お前らとそんなに一緒に過ごした記憶、ないんだけどな)
「……ふざけるなよ」
その瞬間、空気が変わった。
「俺を、“国王暗殺の犯人”なんかと一緒にするな」
低く、鋭く、突き刺すような言葉。
—
だが、それに対して口を開いたのは、遥だった。
「……ノア・セランにかけられている罪状は、“国王暗殺”なんかじゃないよ」
ノアの目が見開かれる。
「え? じゃあ……俺は何で追われてんだ?」
ノアの声は、驚きと困惑、そして怒りが混ざり合ったような微妙な震えを帯びていた。
蓮は戸惑ったように眉をひそめたが、先に口を開いたのは遥だった。
「いや……追われてるっていうか……」
翔真と美羽も、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべながらも、柔らかく笑っていた。
「実はさ、行方不明者として……みんなで探してただけなんだよ」
「ギルドに依頼も出したし、正式な捜索任務として扱ってもらってたんだ」
「でも、姫がさ……父上が亡くなって、その直後に“唯一と言っていい友達がいなくなったってことで……完全に暴走して……」
「結果、国総出で探し始めちゃってね」
勇者四人は、にこやかに、どこか懐かしそうにそんな話を口にした。
—
ノアは言葉を失った。
(……え?)
(この三年間……俺、何してた?)
必死に身を隠して、生き延びるために、追っ手を撒いて。
魔法の訓練をして、疑心暗鬼で毎日を過ごして——
(……全部、誤解?)
—
(じゃあ……国王暗殺の罪は?)
(なんで……小林先生は……処刑されなきゃならなかったんだよ)
一つ一つの疑問が、怒りや悲しみよりも先に“虚無”を連れてくる。
心が、ゆっくりと軋む音を立てていた




