盲目であるが故の決別
ミシェルは普段の生活ならば経験しない独特の揺れを感じながら徐々に意識を浮上させる。
扉越しから聞こえる男達の活力溢れる掛け声と、波の音、そこで漸く自分が今船の中に居るのだと思い出した彼は目元を指で擦る。
相変わらず身体は怠いし昨日の疲れも抜けきっていないが、喉も乾いたし少しでも腹に何か入れなければ。
ベッドに横たえていたい気持ちを誤魔化して何とか起き上がると一緒に船に乗った筈のクリスの姿を探す。
「分かった。ではそのように頼む」
「はい。何かあれば直ぐに報告いたします」
扉が開いて一瞬誰かの話し声が聞こえる。クリスともう1人は声の感じからしてこの船の責任者なのだろう。2人共穏やかな雰囲気で少し胸を撫で下ろす。
今回は単なる旅行と違うから目的地に到着するまでは気が抜けない。
「おはようございます殿下。お加減はいかがですか?食欲は?」
戻って来たクリスに挨拶を返し、まあまあとだけ答える。
調子は夜中に脱出の為に動いていたにしては良い方、食欲は正直無いがそうも言っていられない。
サイドテーブルに置いてくれた濡れタオルで顔を拭き、グラスの水を一気に飲み干せば気分が少しだけすっきりした。
その間クリスは椀に入ったスープをストーブの上で温め直し始める。1食分しかないのでどうやら彼は先に食事を済ませたようだ。
「今は首都を出て6時間程経ったところです。船も今のところ順調のようで、この分なら予定通りの時刻に着けるそうですよ」
クッションに凭れながら「そうか」と安堵する。今回の脱出計画は王家とネヴィル家合同で行われたかなり本格的なものだ。
旅券はミシェルの家庭教師を務めた夫人の親戚の名を借りているし、船までの移動中すれ違った貴族から悟られないよう貧乏貴族の変装だってした。おまけに野暮ったい雰囲気を演出する化粧付き。
加えて御者に変装したクロードからはこれから船に乗る瞬間まで王族ではなく一介の貴族の子息として接すると告げられた。
かなりの念の入れようだ。忠実な使用人達はいくら変装でもと色めき立ったが。
「私の娘の受け売りですが、昔ある国の国王夫妻が使用人に変装して亡命した際に、軍の上官が2人に向かって恭しく挨拶した所為で周囲に不審がられ、亡命が露見したという事件があったそうですよ」
クロードのこの言葉で皆一様に口を閉ざした。周辺国ではそのような話聞いた事がないので遠い国での出来事だろうか。
だからといって全く配慮がされていなかった訳ではない。船までの足に用意された馬車は外装は地味だが少しでも揺れがマシになるようクッションが敷き詰められていたし、船を選んだのも横になれれば多少はマシになれるだろうという理由からだ。
目的地である王家の直轄領までは馬車を使う方法と近場まで船で河を遡り、その後馬車に乗る方法がある。身体に負担が掛からず早いのは後者だが、その分準備が大変でもある。
余り時間が無かっただろうに労力よりも気遣いとリスクの低減を優先してくれたお陰で超突貫の旅でも何とかやって来れている。ここまで計画して実行に移してくれたクロードには感謝の念しかない。
目の前に置かれている野菜と豆がたっぷりのスープは柔らかく煮込まれているお陰で食べやすい。栄養と負担の軽減を両立しようとした料理長の苦心が見て取れる。
それでもこの身体では1杯食べるのが精一杯だ。同じ年頃の健康な男であれば2、3杯はペロリと平らげた上でパンにも手を付けるだろうに。
何とか最後の一口を無理矢理押し込むと深く息を吐きクッションに凭れる。すっかり筋肉が落ちて細くなった腕が視界の端に映った。
今頃城はどうなっているだろうか。あと数時間経てばジョエルが自分の不在に気付くかもしれない。そして何故こうなったのか考えずにどういう事だと騒ぐのも。
何故ジョエルは幼馴染よりも会って1年も経たない女の言葉を信用したのだろうか。王族だからこそ聞こえの良い言葉だけを言う人間には気を付けろと注意をされ続けていたのに。
権力のある人間にすり寄って甘い汁を吸おうと企む輩は多い。女だって側室の座を虎視眈々と狙う者はごまんといるのだ。
恋をするなとは言わないし言ったところで落ちるのが恋というものなのだろう。まだ落ちた事は無いので他人からの受け売りだが。
しかし恋をしたと幼馴染の言い分を信じないはイコールで結びつかない筈だ。弟はまだまだ未熟だが此処までではなかった。それでも伝え聞いた話の限りでは最近とみに思考が極端過ぎる。
人の思考や価値観は周りとの関わりで良い方向にも悪い方向にも変化する。シャーロットとかいう女の場合は毒にしかならない。例え本人にその意図が無かったとしても。
「どこでこうなったんだか……」
たらればを考えても仕方が無いが自分が健康だったなら引き留められただろうか。弟が辿る運命はもう二度と自分達と交わる事の無い所まで来てしまっていた。
それにどうしようもない寂しさと悲しみを覚えながらミシェルの視界は静かに暗転した。
「父上!一体どういう事ですか!?」
ミシェルが2度目の眠りについたその後、王城にいるジョエルは彼の予想通りに大層荒れていた。
「まだ挨拶も出来ていなかったんですよ!しかも早々に田舎になど……。これではまるで兄上を追いやるようではないですか!?」
王はどの口がと歯ぎしりする。原因を作った張本人はよりによってミシェルに女狐を紹介する予定だったらしい。無論宰相に止められたが。
妹のように可愛がっているキャロラインを貶めた相手を紹介して喜ぶとでも思っていたのか。そんな事すれば今度こそ本当にミシェルは卒倒してしまうかもしれないのに。
「この事態を招いた元凶が何を言っているのだ?」
「え?」
ポカンと口を開ける息子に王は嘆息する。想像力は人並みにあった筈だがいつの間にかこんなに欠如してしまっただろうか。
やはりあの女と早々に切り離しておいて正解だった。現在女狐用のアパルトメントへの引っ越し作業と使用人の選定は至って順調だ。これ以上女狐の思い通りにさせてはならない。
「良いか?お前の軽率な行動の所為でミシェルを反旗として担ぎ上げようとする者すら出て来る可能性がある。自分の娘をあてがおうとした上でな」
「そんな!何の為に……!」
「ミシェルを利用して成り上がる為だ!」
あの騒動は校長が居合わせた生徒に箝口令を敷いているが人の口に戸は立てられない。社交界に噂が浸透するのも時間の問題だろう。
貴族も一枚岩ではない。王家に忠誠を誓っている家もあれば権力の増大を企む家もある。後者のような家は常に他者を蹴落とす機会を虎視眈々と狙っており、それは例え王家であっても例外ではない。
そんな者達にとってスキャンダルは格好の餌だ。特に今回は婚姻で繋がりを得た上で政争に勝てば大きな権力を手に入れられる。内部紛争の危機だ。
だからこそ我々王族は常に考えなければならない。己の言動1つで多くの民や臣下の人生が変わる場合だってある。
その言葉は本当に口にして良いのか、本当に行動に移して良いのか。それが平民のような今日明日の生活を心配しなくて良い代わりに課せられた義務である。
それを全て丸っと落としてきたなどと王族として失格だ。
「故に病気療養という建前で逃がした。事前に手は打てたが付け入る隙を与えたお前には居場所は教えんし会わせんぞ」
ここまで説明してやっと気付いたのかジョエルは顔を蒼褪めさせる。
最初の勢いは何処へやら。意気消沈する息子にやっと煩くなくなったと後の事は監視に任せて部屋を出る。
ただでさえ仕事が山積みなのにこれ以上時間を取られてはかなわん。自分がもう1人ほしいくらいだ。
恋は良いものなら生きる糧になる。相手を想う喜びも、ままならない時の苦しみも失恋の痛みもいつかは自分の糧となる。
だが全てを相手に委ねてはいけない。支えと依存は全く違うのだ。その違いを理解出来ない者には真の幸せなど掴めやしない。
「今からでも弟を呼んで手伝わせる事は出来んか?」
「無茶を言いますね。恐らく断られますよ」
それはそうだと、王の脳裏に「え?普通に嫌ですけど……」と薄情にも逃げようとする弟の顔が浮かんだ。