恋した乙女は決意した
彼の声を聞くだけで胸は高まり、その瞳に自分が映っただけで天にも昇りそうな心地だった。身分という理由だけでなく彼自身から光が溢れているように思え、その日以来彼の姿が頭から離れなくなった。
彼には既に婚約者が居たけど悔しさなんて微塵もない。だって彼女には家柄も美貌も頭の良さも全て揃っていて、何より努力をする人だった。そんな人と張り合おうなんて無理に決まっている。
だからこの想いを告げられなくても構わない。ただ遠くから姿を見つめて、ひっそりと彼の幸せを願っているだけで満足だった。
だがあの女が現れてから彼は変わってしまった。
伯爵家の私でさえ気安く話しかけるのは憚られるのに、たかが子爵家の娘が馴れ馴れしい態度で呼びかけて、なのに当の本人は嬉しそうに微笑むのだ。
どうして?あの女は婚約者が居る異性に距離を詰めるような恥知らずなのに、猫を被っているだけの性悪な人間なのに、マナーも所作も全然なってないのに。
どうしてそんな愛おしそうな目で見ているの?どうしてあの女の話に楽しそうに頷いているの?どうして手を握っているの?どうしてあの女の料理を口にしているの?
どうして……?どうして……?どうして……?
沢山のどうしてが降り積もって気が付けばあの女のノートを焼却炉に放り込んでいた。
一線越えたらタガが外れてしまったのか、隙を見て何度も教科書や筆記具などを盗んではゴミ箱に捨てたり壊したりを繰り返した。それだけでなく人混みに紛れて悪口を囁いたりもした。
本来は恥ずべき事だけど、全てはキャロライン様を差し置いて彼に馴れ馴れしくする罰だと自分に言い聞かせていた。
まさか私のやった事が全部キャロライン様の所為にされるとは思わなかった。
あの時に嫌がらせの犯人は自分だと正直に申し出るべきだった。でも衆目に晒されるのが怖くて、彼から侮蔑の目と罵倒を向けられるのが恐ろしくて、脚が凍り付いて動けなかった。
その後もずっと言い出せずいつも怯えて暮らしていた。 とうとう陛下からキャロライン様が婚約を解消され、あの女が彼と婚約をしたという宣言がなされたと聞いたとき、いつか自分には天罰が下されるのだと観念した。
だからだろうか。父から至急家に戻るよう連絡が来たのはあれからとても早かった。私は断罪を受ける死刑囚のような気持ちでネヴィル家へとやって来たのである。
家に迎えに来たネヴィル家と王家の使者に連れられて、父と私は彼女の住んでいた屋敷へとやって来た。
派閥が違う我が家はネヴィル家との付き合いは少ない。噂に聞いていただけだが権力も財力も本物らしく、応接室だけでもとても立派だった。
そこへネヴィル家当主ディレンブルク侯爵がやって来て、続いて更に田舎の領地にいる筈のキャロライン様も悠然と当主の隣へと座った。
驚いて目を見張る私と父に気付いた彼女は「田舎に向かったのは影武者です」となんて事ないように暴露する。
「これは陛下と王后陛下もご存知ですので、よろしくお願いします」
私はコクコクと必死で頷く。陛下達も関わっているならこの秘密は墓場まで持って行かなければならない。
「さてパトリシア嬢、我が家が密かに貴女を招いたのには心当たりはあるかな?」
侯爵の言葉にやはりと口の中が急速に乾き始める。両手を握り締め震えを抑え、霞みそうになる声を叱咤して是と答える。
「は、はい……。私は以前シャーロット様に嫉妬して嫌がらせを行ってまいりました。ですがそれは全てキャロライン様の罪にすり替えられ……、あの場で犯人だと名乗り出られず、キャロライン様はそのまま断罪されてしまいました…………」
「何だと!」
視界の端で父が凄い形相で振り返ったのが見える。自分の娘が濡れ衣の一端を担っていたと知れば怒るのは当然だ。いつかこうなると分かっていた筈なのに、何故もっと早く言わなかったのかと今更ながら後悔する。
「馬鹿者!何故言わなかったんだ!自分が何をしでかしたのか分かっているのか!?」
「ごめんなさい!ごめんなさい!!」
平手打ちしようとする腕をキャロライン様が抑える。
「あまりパトリシア様を責めないであげてください、あの断罪劇は吊るし上げのような酷いものでした。恐怖を覚えるのも仕方がない事です」
「しかし……」
渋る父に侯爵もキャロライン様も黙って首を横に振る。
でもそんな酷い場に彼女は立たされたのだ。私には泣く資格なんてないのに勝手に涙腺が緩んでしまう。本当に泣きたいのはキャロライン様の方なのに。
「それに今まで名乗り出なかったのはかえって正解かもしれないわ」
「え?」
正解とはどういう事なのか。本来私がやった事はこのような内々では済まされず、正式に抗議を受けたっておかしくない程の悪質なものだ。それで正解とは、と戸惑ってしまう。
「あの場で名乗り出たところで、シャーロット様は私に脅されて身代わりになっているだの何だの言い繕って結局私の罪にしようとしていたでしょうから」
「どうしてそこまで……?」
呆然と呟く私に彼女は遠くに居る誰かを唾棄するように鼻先で笑う。
「あの女はね、王妃に……つまりこの国で一番偉い女になりたいの。だから私を排除する為には、どんな手段を使ってでも私を悪役にしないと向こうにとって都合が悪いの。」
思い上がりも甚だしい考えに父も私も絶句する。しかしあの女ならやりかねない。自分が世界の中心のような言動をし、一部の極限られた生徒以外は存在していないかのように振る舞う。
あの女が欲しいものを手に入れる為、濡れ衣を着せてでも追い落とそうと画策していてもおかしくない。だって彼女は他人を自分と同じ人間とは見ていない。そんな人間に良心なんて無いのだから。
「そんな女が王妃になってしまうのですか……」
顔にハッキリと焦燥を出した父が肩を落として悲観する。父のこんな姿を見たのは初めてだ。
自分もあの女が王妃なんかになれば国や民は顧みられず政治は滞り、耳通りの良い言葉だけを吐く貴族だけ重用し、真に国を想う貴族は遠ざけられて国が荒れる。そんな未来が来てしまうのは分かっている。
でももう王が婚約を発表してしまった。未来が決まってしまった。
名乗り出てもダメだとしたら、あの女は最初から王妃になる道が約束されていたのだろうか。まるで天の采配のように。だとしたらこの世はなんて不条理だ。
「安心すると良い。まだ非公表だが、陛下も王后陛下もこの事態を重く受け止め、ジョエル殿下の王位継承権を剥奪するそうだ」
良かった、最悪のシナリオは免れたようだ。見ると隣の父も胸を撫で下ろしていた。ジョエル殿下が立太子しないのであれば、ミシェル殿下は病で床に伏しているし、親戚筋から優秀な人を養子にするのだろう。
ジョエル殿下……。今でも彼の事を想うと胸が苦しくて、目頭が熱くなって、心がフワフワして、そして張り裂けそうになる。
キャロライン様と微笑み合う彼はもう居ない。彼は陛下達に見限られ、今後は社交界から遠のくのだろう。そうなる以上、自分もこの気持ちに別れを告げなければならない。
「その上で2人に対し裁判を行う予定だ。パトリシア嬢には真犯人として証言台に立ってもらいたい。それをして頂けたらネヴィル家はそちらに対して慰謝料を請求しないし、縁談に不都合があれば紹介もしよう」
グッと奥歯を噛み締める。どんなにシャーロットが評判の悪い人間だとしても、攻撃をしたとなれば批判は免れない。だけど自分は罪を改めなければならない。そうしなければきっと何処にも進めない。
しかも破格な条件まで提示してくれていて、何故そんなにも良くしてくれるんだろう。内心疑問に思っているとキャロライン様が穏やかに口を開いた。
「真っ先に保身を考えるのも少なくない貴族の中で、パトリシア様はずっと罪悪感を抱いていると聞きました。私は貴女の良心に報いたいんです」
彼女の言葉で察する。これは彼等から与えられた罪の許しを乞うチャンスだ。それにこの機を無下にすれば、我が家があの女に追従した貴族達と同じ憂き目に合ってしまう。
私自身は針の筵にされようが構わない。でも家や家族には迷惑をかけられない。私は父と共に深く頭を下げた。
「分かりました……。裁判で証言いたします……」




