ミシェルの再始動
ミシェルは庭の散歩中、少し休憩をしようと近くにあったベンチに腰を掛ける。窓から見える景色も良かったが、動けるようになって以来庭師も張り切って整えているようで、何処も彼処も素晴らしい眺めだ。
そろそろ両親達への手紙が届いただろうかと彼は王都の方角へと思いを馳せた。フォルシカの医者が屋敷にやって来た日の事は今でも鮮明に思い出せる。
『問診と症状、外見に現れている顔のむくみ、乾燥肌、総合的に判断してレトラジ症と診て間違いないですな』
事前にいくら手掛りが見つかったと手紙が来ても、やはり実際に診てみてダメだったらと不安が拭いきれなかったミシェルに、医者はあっさりと言い切った。こちらが戸惑う程にあっさりだった。
余りにも衝撃でつい手紙にも書いてしまったが笑ってくれるだろうか。
そして慣れた手つきであれよあれよと薬が処方され、言い聞かされるままに飲んでからは劇的に変化した。
最初に起き上がるのが楽になったかと思えば食欲が増し、暇だなと思う余裕が少しずつ出てきた。それからはあっという間で4、5日経てば自分の足で立って動き回れるようになった。
レトラジ症を引き起こす寄生虫はしつこいらしいのでまだまだ投薬は必要だが、リハビリはして良いとの事なので今はこうして体力作りの為に庭を歩いている最中だ。
流石に五年間も寝込んでいた所為で少し動けばすぐに疲れてしまう。だが歩けるようになったお陰か食事は美味しいし毎日気分よく目が覚める。今日は何をして過ごそうかと考える気になれるし、何より「辛い」「しんどい」「何もしたくない」という気持ちが全く起きない。
久々すぎて忘れていた「健康」という感覚がこんなに清々しいなんてと感動さえしてしまう。
だからこそ手紙にあった自分と同じ病に苦しむ民達もどうにかしてやりたい。だるさや無気力に苦しむのは自分だけではなかったのは安心したが、彼等は今も不安を抱えながら病と闘っているのだ。
自分も同じ病にかかったからこそ、健康がいかに大事か、病気に対する知識が重要かが分かる。この国はもっと積極的に医療に関する知識を取り入れるべきだ。
「リハビリの調子はいかがですかな?」
「エバンズ医師」
穏やかな声が聞こえた方を振り向けば薬草を摘んでいたらしいエバンズ医師が近くへとやって来る。
インテリ然としておらず今の状態も相まって庭師に間違えられそうだが、彼こそフォルシカから招いた医者である。完治した後も彼には健康管理の為に屋敷に滞在してもらう予定だ。
「少しもどかしくはあるが、今は胸を張って元気だと言えるんだ。気長にやるさ」
「そうそう、殿下はお若い。自分では変わらないと思っていても身体は日々内側から変化しているものです。だからこそ焦らずゆっくりですぞ」
鷹揚とした雰囲気は亡き祖父を思い出させ自然と目尻が下がる。何気ない事でも相談出来て相性も悪くは無いし、フォルシカから彼が来たのは僥倖だった。
ベンチの隣を勧めるとエバンズ医師は「これはご丁寧に」と腰を落ち着ける。
「なにせ殿下は5年間ずっとご尽力なさったんですから」
唐突に頑張ってきたの一言に一瞬思考が止まる。寧ろ自分はこの5年間何も出来ていなかった。王族としての義務も果たせずただ無為に時間を過ごしていただけだ。その所為で弟にも重い責務を負わせてしまったのに。
「病と闘うというのは思った以上に気力を奪います。ましてや身体は明らかに不調を訴えているのに、原因が見当たらないと言われるのは余計に辛いものです」
それは自分も身に染みている。趣味のスポーツやボードゲームも楽しめなくなった状態にこれは単なる怠けではないと味方になってくれる者も居た。しかし同時に医者が診て何処も悪くないというのならただの仮病だと影で噂し合う者も居たのだ。
体の不調というものは本人でなければ分からない。どう足掻いても説明出来ないもどかしさに奥歯を噛み締めた事も何度もあった。
「私の国では風邪以外にだるさや無気力を感じたらレトラジ症を疑えと言うくらいこの病気はありふれたものです。だからこそ他国では馴染みが無いというのは医者にとっても盲点でした。
殿下の長年の不調とご苦労は、本来ならこちらから可能性を事前に提示すれば防げた事態なのです。これは我らフォルシカの落ち度です」
頭を下げられ慌てて上げるよう恐縮する。身近にあるものを他の場所では無いと想像するのは難しい。
確かに5年前、エバンズ医師の言う通りに対応してくれればこれ程苦労する事も無かった。しかしそれは結果論であって当時の彼等にそれを求めるというのは土台無理な話である。
でもそうか、自分はずっと頑張っていたのか。病の苦しみから、原因や治療法が見つからない不安から、周囲の無理解や悪意から、ずっと頑張ってきたんだ。そう思うだけであの頃の自分が救われるような気がしてきた。
「これは不可抗力だ、そなた達に落ち度はない。それに健康になった今でこそ言えるがレトラジ症になったのは悪いばかりでは無かった。お陰で復帰したらやるべき事が見えてきたからな」
この国にはまだまだレトラジ症のような未知の病で今も苦しんでいる民が居るかもしれない。反対に自国では周知されていても他国では未知の病があるかもしれない。
それを無くす為に周辺国と資料や事例を共有し合い、治療法を研究する機関を設立させたい。例え自分の代で叶わなくても子どもや孫に意思を受け継がせたいのだ。
「それは素晴らしい取り組みですなぁ……」
言うのは簡単だがやるのは難しい。今は情勢が安定していてもいつ崩れるか分からないのが国家間の関係性というものだ。
だがエバンズ医師は子どものような夢でも決して笑わず賞賛してくれた。それがとても心強い。
「さて休憩は終わりだ。やりたい事の為にもうひと踏ん張りしてくるか」
「殿下、あくまでお身体をご自愛しながらですぞ」
釘指しに相槌打って彼はまた歩く。一歩一歩、自分の体力に気をかけながら確実に。
なおミシェルの提唱したこの理念は後の世に地道な活動が実を結び、見事国際機関として樹立する事になる。




