九
九
「狐か、狸か、今のはなんじゃい。どえらい目に遭わせくさった」
と饂飩屋は板塀のはずれで、空き家の大屋根ごしに空を仰いでぼんやりしている。
美しい女と若い紳士が、並んで立った影が動いて、二人とも木賃宿の羽目板があるほうを向いたから――舞台が寂しくなったので、もう帰るのであろうと思ったが、そうではない。
そこに小さな縁台を置いたのは、二人の間にいる、ちっちゃな円髷を結った頭をうつむけて、揉み手でお辞儀をする古女房だった。
「さあ、どうぞ、旦那さま、奥さま。これへお掛け遊ばして。いえ、もう汚いものでございますが、お立ちなさっていらっしゃいますより、ちっとはましでございます」
と、手ぬぐいでごしごしと拭きながら言うと、その手で、縁台に乗せて持ってきた、踏み台を下に下ろした。
「いや、俺たちは……」
若い紳士は、白いカフスの腕を上げて払いのけようとしたが、美しい女は、よく気づいてくれたという晴れやかな顔をして、黙ってそのまま腰を掛けたので、
「ありがとう」
彼もそれに合わせて、並んで座った。
「はい、失礼を。はいはい、はい、どうも」と古女房は、息つく間もなく早口にしゃべり続けながら、踏み台を手に提げて、子供たちの背後をちょこちょこと走ってくる。そして、松崎の背後へ廻りこんできた。
「あなたさまは、どうぞこれへ。はい、はい、はい」
「恐縮ですな」
松崎は、最初から期待していたかのように、ためらわず腰を下ろした。彼は、美しい女とその連れが、去る去らないにかかわらず――舞台の三人が鉦をチャーンと鳴らしたのをきっかけに、迷子の名を呼んだときから――とにかく、この子供芝居の、この一幕を見終わらないうちは、ここから離れまいと思っていた。
声々に、哀れに、寂しく、遠く幽かに声を引いて――そうして幽冥の境を暗から闇へ捜しまわると子供役者たちが言っていた、厄年十九歳だという娘の、お稲という名が耳に刺さった。それは、彼にとって、わけあって忘れられぬ人の名であるから。……
「おかみさん、この芝居はどういう筋書きなんだい」
「はいはい、いいえあなた、子供がでたらめに致していますから、とりとめのないものでございます。どういうことでございますか、私なんかにはいっこうにわかりません。それでも稽古だのなんだのと申して、それはそれは大騒ぎでございましてね。はい、はい、はい」
手を揉んでばかりで、正面には顔を上げずに、頭をひょこひょこさせながら言う。この古女房は、くたびれた藍色の半纏に茶の着物を着て、紺色の足袋に雪駄履きという姿である。
「馬鹿にしやがれ。ヘッ」
と、だしぬけに毒を吐いたのは、立ったまま居眠りをしていた頬被りの若者だった。懐で拳を握って、八つ当たりのように肘をぐいぐいと突き上げながら、
「あんたさんよ、面白くねえぜ。あなたさまお掛け遊ばせが聞いて呆れらあ。おはいはい、なんて金持ちにこびへつらいやがって。ヘッ。俺のほうが初手から立ってるんだ。くたびれるんなら、こっちが先だい。……着ているものが人間の本体じゃないぜ。服装で価値づけをしやがって、畜生め。あああ、人間、ああも下劣にゃなりたくねえもんだ」
古女房は聞こえないふりをして、ちょこちょこと走りながら去って行った。縁台までかかえて、いったいどこから出てきたのか、それはわからない。そして引き返していったのは町のほうだった。
そちら側には、さっきの編み笠を目深にかぶった新粉細工が、岬の端に霞んだ捨て小舟といったふうに、依然としてひっそりとしたまま一人でいる。頬被りはそっちのほうへひょこひょこと近寄ると、じろりと目をやって、
「ざまあみろ、巫女の取り持ち野郎。生きてる兄いの魂がわかるかい。ヘッ」と、肩をしゃくり上げるように突き上げて、そのままぶらりと観客の群を離れていった。
ついでに言っておく。黙ったまま籠と竹箸を構えた、人間を挟みそうな薄気味の悪い屑屋は、古女房がそちら側の二人に縁台を勧めたとき、縁台の側面に空いた穴をギロリと覗いたが、それっきりフイッといなくなった。……
松崎は、いま自分が腰かけている踏み台のなかを覗いたが、そこには一枚の紙屑もなかった。