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(きつね)か、(たぬき)か、今のはなんじゃい。どえらい目に()わせくさった」

 と饂飩(うどん)屋は板塀のはずれで、空き家の大屋根ごしに空を仰いでぼんやりしている。

 美しい(ひと)と若い紳士が、並んで立った影が動いて、二人とも木賃宿(きちんやど)羽目板(はめいた)があるほうを向いたから――舞台が寂しくなったので、もう帰るのであろうと思ったが、そうではない。

 そこに小さな縁台(えんだい)を置いたのは、二人の間にいる、ちっちゃな円髷(まるまげ)を結った頭をうつむけて、()み手でお辞儀(じぎ)をする古女房だった。

「さあ、どうぞ、旦那さま、奥さま。これへお掛け遊ばして。いえ、もう汚いものでございますが、お立ちなさっていらっしゃいますより、ちっとはましでございます」

 と、手ぬぐいでごしごしと()きながら言うと、その手で、縁台に乗せて持ってきた、踏み台を下に下ろした。

「いや、俺たちは……」

 若い紳士は、白いカフスの腕を上げて払いのけようとしたが、美しい(ひと)は、よく気づいてくれたという晴れやかな顔をして、黙ってそのまま腰を掛けたので、

「ありがとう」

 彼もそれに合わせて、並んで座った。

「はい、失礼を。はいはい、はい、どうも」と古女房は、息つく間もなく早口にしゃべり続けながら、踏み台を手に提げて、子供たちの背後(うしろ)をちょこちょこと走ってくる。そして、松崎の背後(うしろ)へ廻りこんできた。

「あなたさまは、どうぞこれへ。はい、はい、はい」

「恐縮ですな」

 松崎は、最初から期待していたかのように、ためらわず腰を下ろした。彼は、美しい(ひと)とその連れが、去る去らないにかかわらず――舞台の三人が(かね)をチャーンと鳴らしたのをきっかけに、迷子の名を呼んだときから――とにかく、この子供芝居の、この一幕を見終わらないうちは、ここから離れまいと思っていた。

 声々に、(あわ)れに、(さび)しく、遠く(かす)かに声を引いて――そうして幽冥(ゆうめい)の境を(やみ)から(やみ)(さが)しまわると子供役者たちが言っていた、厄年(やくどし)十九歳だという娘の、お稲という名が耳に刺さった。それは、彼にとって、わけあって忘れられぬ人の名であるから。……

「おかみさん、この芝居はどういう筋書きなんだい」

「はいはい、いいえあなた、子供がでたらめに致していますから、とりとめのないものでございます。どういうことでございますか、私なんかにはいっこうにわかりません。それでも稽古(けいこ)だのなんだのと申して、それはそれは大騒ぎでございましてね。はい、はい、はい」

 手を()んでばかりで、正面(まとも)には顔を上げずに、頭をひょこひょこさせながら言う。この古女房は、くたびれた(あい)色の半纏(はんてん)に茶の着物を着て、(こん)色の足袋(たび)雪駄(せった)()きという姿である。

「馬鹿にしやがれ。ヘッ」

 と、だしぬけに毒を吐いたのは、立ったまま居眠りをしていた頬被(ほおかぶ)りの若者だった。(ふところ)(こぶし)を握って、八つ当たりのように(ひじ)をぐいぐいと突き上げながら、

「あんたさんよ、面白くねえぜ。あなたさまお掛け遊ばせが聞いて(あき)れらあ。おはいはい、なんて金持ちにこびへつらいやがって。ヘッ。俺のほうが初手(しょて)から立ってるんだ。くたびれるんなら、こっちが先だい。……着ているものが人間の本体じゃないぜ。服装(みなり)価値(ねだん)づけをしやがって、畜生(ちくしょう)め。あああ、人間、ああも下劣にゃなりたくねえもんだ」

 古女房は聞こえないふりをして、ちょこちょこと走りながら去って行った。縁台までかかえて、いったいどこから出てきたのか、それはわからない。そして引き返していったのは町のほうだった。

 そちら側には、さっきの編み笠を目深(まぶか)にかぶった新粉細工(しんこざいく)が、(みさき)(はし)(かす)んだ捨て小舟といったふうに、依然(いぜん)としてひっそりとしたまま一人でいる。頬被りはそっちのほうへひょこひょこと近寄ると、じろりと目をやって、

「ざまあみろ、巫女(いたこ)の取り持ち野郎。生きてる(あに)いの魂がわかるかい。ヘッ」と、肩をしゃくり上げるように突き上げて、そのままぶらりと観客の群を離れていった。

 ついでに言っておく。黙ったまま(かご)竹箸(たけばし)を構えた、人間を挟みそうな薄気味の悪い屑屋(くずや)は、古女房がそちら側の二人に縁台(えんだい)を勧めたとき、縁台の側面に空いた穴をギロリと(のぞ)いたが、それっきりフイッといなくなった。……

 松崎は、いま自分が腰かけている踏み台のなかを覗いたが、そこには一枚の紙屑(かみくず)もなかった。


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