四
四
屋台の正面を横向きに見せて、両方に立てた柱を白木綿で巻いているのは寂しいけれど、そこに紅の金巾の布を、左右に渡してひらりと吊って、下に掛かった横長な行燈に、芝居の招き看板のような文句が書かれている。
一 ………………………………板東よせ鍋
一 ………………………………尾上天麩羅
一 ………………………………大谷おそば
一 ………………………………市川玉子焼
一 ………………………………片岡 腕盛
一 ………………………………嵐 お萩
一 ………………………………板東あべ川
一 ………………………………市村しる粉
一 ………………………………沢村さしみ
一 ………………………………中村 洋食
初日出揃い 出演者一同 精一杯に相務め申し候
名前の上に、下にいくほど次第に濃くなる紫で描いた藤の花が描かれ、口上のあとの余白には、赤い福面女に、黄色い瓢箪男、蒼い般若の恐い面。黒の松茸、浅黄色の蛤、ちょっと蝶々もあしらって、薄くぼかした霞をたなびかせている。
引きよせられて追い求めてきた囃子の音には、これほど似つかわしいものはない。だが松崎は、板東あべ川、市村しるこ……と読み返してみて苦笑いした。
彼は筆名を春狐と称する、福面女に、瓢箪男、般若の面が踊るような、色物芝居の駆け出しの座付き作者だったから。――
「冗談じゃないぜ」
思わず、独り言が声に出てしまう。
「親仁さん、おう、親仁さん」
この木賃宿の国、行燈の町に、壁から抜けだした落書きのように、陽炎のように現れて、浅黄の頭巾をかぶった、自分をからかうかのような人物は、いったい何者なのか?
屋台の様子からして、子供を相手に新粉細工の菓子を売っているらしい。片岡牛鍋、尾上天麩羅などという名前に、新粉にかけた春狐も並べるつもりか。
「おい、お爺い」
あまりに反応がないので、つい言葉が荒くなる。わざとむかっ腹を立てたように呼んでみたが、静かなことといったら黒子のようである。
糸の切れたあやつり人形のように、手足を伸ばしたまま、ぐったりと寝ている。居眠りの様子をよく船を漕ぐというが、これは筏を流すといったところ。
そんな相手に対して、そのままひらりと袂を分かつというのは、あちらこちらを飛び回って羽繕いをする蝶のようで、松崎は自分でも、気ままなものだと思うほどに浮かれていた。
そこからまだ十歩も離れていない。
綿入れを着たその物売りの、丸い背中の斜め向こうに、同じ木賃宿の歪んだ角から、その区画だけ苗代を囲ったように広く取った場所があって、意外なほどに屋根瓦を高く積み上げた一軒の家屋が建っていた。鯉の背中の鱗を見るように、中空へと斜めにそびえ立ち、電信柱のかなたに軒が霞んで見えている。
そこは空き家なのか。皮をめくった顔に大きな二つの節穴が残ったように、窓や入り口が、がっくり窪んだ眼に見える、骸骨を重ねたような家である。
それでも、月に薄を合わせるように、廂に伸びた若草も春めいて、町から路地裏に引っこんだだけ、生ぬるく思えるほどほかほかとしている。
周辺では見かけない大構な空き家の前に、二間ほどの船板塀が立っているのも、水のぬるんだ川水をせき止めている堰のように見える。その前に、おたまじゃくしがみっしりと群がるように、大勢の子供が集まっていた。
おけらのようなその子らは皆、もじゃもじゃもじゃとどよめいている。
そのくせ、静まりかえって声を立てない。
すぐ傍にいた物売りの前に立っていても、この混みあった小さな群衆に気がつかなかったのは、そのせいである。上演中に、ひっそりとした見物人のいる桟敷席の後ろから覗いているようなものだと思ったのは、松崎には芝居小屋の生活がすっかり身に染みているからである。
役者は舞台で飛んだり、跳ねたり。子供芝居がばたばたと演じられていた。