二十五
二十五
「その望みが叶ったんです。
そして今日も、夫婦のような顔をして、二人連れで、お稲さんの墓参りに来たんです。――夫は私がこうするのを、お稲さんの霊魂が乗り移ったんだと言って、無性に喜んでいるんです。
殺した妹の墓の土もまだ乾かないのに、私といっしょに墓参りをして、仕立てたばかりの洋服の襟に乙女椿の花を挿すと、ごらんなさい、お稲はこの花のような娘だったなどと平気で言います。
なにをしても、言っても許される、色男の気でいるんですからね」
若紳士は小刻みに足踏みをして、震わせた身体が浮きあがるようになったが、握りこぶしでカッと耳を押さえると、そのまま卒倒しそうになって、松崎が留めたにもかかわらず、たちまち射られたように町のほうへ駆けだした。ちょうど礫のような大粒の雨が降りだしたから、彼の様子も人々には滑稽に思われないだろう。
雨の音が強くなると、逆に周囲がひっそりと感じられた。雲にむせたかのように息が詰まった。
「幕の内の人」
美しい女は、吐息をして、あらためて呼びかけた。
「お前さんが言った、その二度添いのことは、今の私の話でわかりましたか?」
「それから」
と、雨に濡れたような声で言う。
「このことが世間にしれたら、二人の男はどうなります。その親兄弟は? その家族はどうなると思いますか。それが最後の幕なのです」
「さて、その後はどうなるのじゃ」
「あら……」
なんとももどかしい。
「お前さんも根掘り葉掘りしたがるのね。それでいいではありませんか」
「いや、よくはないわいの。まだ肝心なことが残ったぞ」
「肝心なことってなんです?」
「はて、そなたのことじゃが……」
不意に雨を意識したような気配がして、
「知れたことじゃ……肝心のその二度添いはどうなるかいの」
もう我慢できないとばかりに、美しい女は眦を吊り上げた。
「ええい、回りくどい! 私ですよ」
と、怒りを露わにして、急に行燈の傍を離れると、舞台を横切って幕の出入り口に近づいた。舞台の上を流れるようなその動きは、斜めに射しこむ電光にサッと送られた。……
「わかっているがの」
と、落ちついた声で言って、
「さてじゃ、結局のところ、そなたの身はどうなるのじゃ」
「…………」
美しい女は、ふと黙って、行燈の前にしょんぼりと残っていたお稲の姿にその眦を返しながら、
「お前さんのほうの芝居は? ここにいるこの女はどうなるっていう筋書きですか?」
「おいの……やっ、気が紛れて声をかけるのを忘れていたじゃで、お稲はけなげにずっと舞台じゃった。――雨に濡れように……せっかくの御見物じゃ、幕切れのあれだけでも見せようかの」
と言ったかと思うと、突然どろどろと太鼓が鳴った。その音とごちゃ混ぜに、波うつように雷が鳴る。
猫が一匹と鼬が出てきた。
すると無残にも、行燈の前に仰向けになったお稲の頭を、一人が持ち上げ、もう一人が白い足を持って宙に吊り上げると、輪が緩んだ扱帯がほどけて、紅の裏地が肩をすべり落ちた。……雪女は細りとした裸体をあからさまにしたかと思うと、肩から斜めにすらりと落とした腕にくっつくほど、がっくりと頭を下げて、目をつぶった。その面影に長い黒髪がサッと乱れて蔭を落とす。筵の舞台よりも長く曳いた髪を、凶悪怪異な面が、行燈よりも高いところを、ただ面だけが浮かぶように見せながら、美しい女の前をずるずると引いていく。
幕内にそれが消えたとき――雨に交じって、電光の青い光のなかを、虚空から風が投げ打つかのように落ちてきたのは、朱鷺色が八重に縫い重ねられたかのような乙女椿の花一輪。はたと幕に当たって崩れもせず……玉のようなお稲の胸にぴたりと乗って、たちまち消えた。
美しい女は筵につま先立って身悶えしながら、
「お稲さんは、お稲さんは、これからどうなるんです、どうなるんです」
「むむっ、くどいの。あとは魔界の者じゃ。雪女となっての、三ツ目入道、大入道の酌など伽などしようぞいの。わはは」
と笑った。
美しい女は、つかんだ幕に額をあてて、
「生意気なことをお言いでない。幕のなかの人。悪魔め。私も女だよ、十九だよ……お稲さんと同じ死骸になるんだけれど、だれが、だれが、酌なんかするもんですか。……かわいそうにお稲さんを――女はね、女はね、そんな弱いものじゃない。私をごらん」
どろどろと雷が鳴り轟く。
南無三宝、なんたることか。電光に浮かんだのは、幕だけが残った無人の舞台。
「あれえ」と叫び声が聞こえた。
その瞬間、松崎はためらったが、続いて編み笠をかぶった鳥と古女房が、サッと幕を揚げて逃げこんだのを見ると、棄ててはおけなかった。
幕に手をかけると、手に触れるものはなにもなく、篠を突く雨が簾のように落ちた。
見ても、いままで語っていた者の姿はどこにもない。三ツ目入道、狐、狸、猫も鼬もごちゃごちゃと小さく固まっていたが、突進した松崎の気合いに打たれたか、ばらばらと奥へ遁げる。果てしない野原のような広がりのなかに、土饅頭の墓を崩した空洞かと思える穴がぽっかりと大きくえぐれていて、蜂の巣を広げたようなその穴のなかへ、すぽん、すぽんと一体ずつ飛びこんで、まるで貝鮹というもののように頭だけを出して、ケラケラと笑って消えていった。
なんの魔物の仕業か。やつらが群がっていた土間に、引きむしられて雨に打たれた艶やかな衣があって、いかん、あの美しい女が踏みにじられているのかと見ると、帯だけが、扱帯だけが、花びらだけが、葉だけが乱れ散っていた。
とたんに海のような、真昼の光景が広がった。
目の前の広場は、荒廃して年月を経た染め物屋のようである。縦横に並んでいたのは、どれも絵の具の大瓶だった。
ああ、せめて、あの女を偲ばせる紫の瓶だけはあってほしくない。……すると、遠くにあった、鉄のひび割れたような壁際の瓶の穴に、美しい女の姿があった。その頭を、編み笠の変化が抱えている。手も胸も面影も白白と、あの舞台のお稲そのままに見えたが、もうすでに空洞に入って、底から脚を引くものがあるのだろう、美しい女は半身をのけぞらせながら、腰のあたりはもう沈んでいた。
雪のような胸には、舞台で見たのと同じ朱鷺色の椿が乗っている。
松崎は、叫びながら駆け寄っていった。瓶の置き場を区分けする板につまずいて倒れた手に、ハッと移香の香りがして、ひやひやと氷のような感触を残したのは、まさにあの面影から、垂れた腕に乗せながら土間を渡り敷いて、長くそこまでなびいていた、美しい女の黒髪の先なのであった。
この黒髪は、二筋、三筋ほどが指にからまって、手に残った。
海に沈んだかのように、手にした髪以外はなにも見えない。
四方の壁は、流れる稲光と輝く雨である。どろどろと鳴る神鳴は、大海原の波の唸りである。
「おでんや――おでん」
戸外を行く屋台の、しかも女の声がした。
われに返って、這うようになりながら、空き家の木戸を出ると、雨上がりの星がきらめいている。
後で伝え聞いたところによると、同じとき、同じ場所から、その法学士の新妻の行方がわからなくなったのは事実だったらしい。……松崎は実は、うら若い娘のあまりにもはかない身の上を思って、亀井戸詣での帰り道に、その界隈で評判を呼んでいた巫女を訪ねて、その口寄せを聞いたのであった。……霊が降りた様子は秘密だから言わないでおく。魂が上がってきたとき、巫女は空を探って、なにもないところから、弦にひっかかった三筋ばかりの長い黒髪を、お稲の記念だと言って松崎に授けた。さて、それをどうすればいいかと、まだ迷っている。
黒髪は消えなかった。
(了)