二十四
二十四
「いいえ、ご心配には及びません」
松崎が答えるのに先んじて、美しい女が言った。……そしてその女は、測りきれないほどの深みをもつ水底のような瞳を、鋭く紳士の顔に流して、
「私は確かです。発狂するならあなたがなさい。御令妹のお稲さんのために」
と、さっぱりと言った。
「私とは、他人なんです」
「他人とは、なんだ、なんだ」
と、紳士は喘ぐ。
「ですが、私に考えがあって、ちょっと知り合いになっただけなんです」
美しい女は、そんな者はどうでもいいと打棄る風情で、また幕にキッと向かうと、言った。
「そこにいる人……お前さんは何もかも、不思議とよく知っておいでだね。地獄、魔界のことまでご存じだね。偉いのね。でも悪魔、変化ばかりではなく、人間にも神通力があります。私が訊ねたらお前さんは、ここを去って聞けと言いましたね。
私は即座に、その二度添い、そのうわなり、その後妻に、いまここで聞きました。……
お稲さんが亡くなってから、その後妻が演じる芝居の筋書きを、お前さんに聞かせましょうか。聞かせましょうか。それともお前さんはご存じかい」
幕の内から、
「朧気にしか知らん。冥途の霧で朧気じゃ。はっきりしたことを聞きたいのお」
「ええ、聞かせてあげましょう。――男に取り換えられた玩弄は、古い手につかまれた新しい花は、はじめはなんにも知らなかったんです。清い、美しい、朝露に、朝日に向かって咲いたのだと、人並みに思っていましたですが、蝶が来て、いっしょに遊ぶ間もなかったんです。
お稲さんのことを聞かされました。玩弄は取り換えられたんです。花は古い手に摘まれたんです。……男は、潔い白い花に向かって、後妻になれと言いました。
贅沢です。生意気です。行き過ぎています。思った恋を成し遂げられないでも、相手が引き下がったのなら諦めればいい。でもそのために恋人が、そうまでして生命を棄てたと思ったら、自分も死ねばいいんです。死ななければ、死んだ気になって、お念仏を唱えていればいいんです。
男に力が足りないせいで、殺させた女を前妻だ、と一人で勝手に決めて、そのうえ新妻に、後妻になれ、後妻にする、後妻の気でおれと、いけしゃあしゃあとして、髪を光らせながら、鰌髭の生えた口で言うなんて、なにごとでしょうかね」
「いよいよ発狂だ。人の前でみっともない」
若紳士は肩で息をした。その手は松崎にすがっている。……
「ええ、人の前でみっともないと言ったって、ここには何人の人がいますか? 指を折って数えるほどもいませんよ。けれども夫が私を後妻にしたのは、大勢の前、世間の前、何千人、何万人の前だかわかりません。
夫も夫で、お稲さんの恋をひどい男。そこにおいでの他人も他人の男も含めて、みんな、女の敵です。
幕のなかの人、お聞きなさい。
二度添いにされた後妻はね……それから夫のことばに、わざと喜んで従いました。
涙を流して同情して、いっそ後妻というんなら、お稲さんの妹分になって、お稲さんにあやかりましょう。その生まれ代わりになりましょう、と言って、それを実現する、つてを求めるふりをして、お稲さんの実家に行ったのです。そして私を――その後妻を――兄さんの妹分にしてください、と言ったんです。
その兄さんが、そこにいる他人さんです。言われた他人さんは、涙を流して喜びました。もっとも、そこにいるようなハイカラさんは、若い女から、兄さん、と言われただけで、なんでもかんでも涙を流すに決まってます。
私はせっせとその家に通いました。その兄さんのほうも、毎日のように訪ねて来るんです。そして、兄さん、兄さんと言い続けていれば、しかも奥さんがずっと病気で伏せっているんですから、きっとその気になって誘惑してくるに決まってるんです。私はそれを望んでいました」
稲光が川を射て、南辻橋、北の辻橋、菊川橋、撞木橋と、橋々を輝かせたのか、その閃光が町を照らした。