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二十一

二十一


「ねえ、お稲さん、どうするの」

 と、また優しく聞いた。

「どうするって、なに。小母(おば)さん」

 役者は、自分のために羽織(はおり)を脱いでくれたご贔屓(ひいき)に対して、舞台の上にいながらも従順である。

「あのね、この芝居はどういう脚色(しくみ)なの? それが聞きたいの」

小母(おば)さん、見てらっしゃい」

 と言った。

 そうする間も、若紳士は気が気ではないようで、縁台(えんだい)に座ったり立ったりしている。

「おい、もう帰ろうよ、暗くなった」

 雲を見ても、人を見ても、松崎は胸が(とどろ)く。

「待っててください」

 と、美しい(ひと)は見返りもしないで、

「見ますよ、見るけれどもね、ちょっと聞かせてくださいな。ね、いい()だから」

「だって、(すじ)を言ったって、芝居を見るのと同じなんですもの。見ていらっしゃい」

「急ぐから、先に聞いておきたいの。ええ、それじゃあいけない?」

 お稲は黙って頭を振る。

「まあ、強情だわねえ」

「強情ではござりませぬ」

 と、思いがけず幕のなかから、しわがれ声がそれに応えた。美しい(ひと)は瞳を幕に(そそ)いだ。松崎は弾かれたように踏み台から立ちあがった。――その声は三ツ目入道がセリフに詰まったとき――紅蓮(ぐれん)大紅蓮(だいぐれん)と幕内からつけて教えた、目に見えぬ者と同じだった。

「役者は役をしますのじゃ。なにも知りませぬ。貴女(あなた)がお急ぎであればの、衣装(いしょう)をお返し申すがいい」

 と、なかば舞台の指図をしている。

「いいえ、羽織りなんかどうでもいいの。ただ私、気になるんです。役者が知らないなら、だれでもかまいません。差し(つか)えなかったら教えてください。ここはいったいどこなんですか」

六道(ろくどう)(つじ)の小屋がけ芝居じゃ」

 と、幕が動いて話すように、向こうで言った。

 松崎は思わず、紳士と視線を合わせた。このさい、小児(こども)などは眼中に入らない。男は二人だけだったから。

 美しい(ひと)は、かえって恐れがなくなったかのように、こう言った。

「ああ、わかりました。そしてお前さんは?」

「いろいろの魂を(かめ)に入れて持っている狂言方じゃ。たっての望みとあらば聞かせようかの」

「ええ、お願いします」

 そう答える(ひと)の声の若々しさが、あわれに聞こえた。

「そこへ……一人の髪結(かみゆ)いが出るわいの」

 松崎は、骨が硬くなるような感覚を味わった。

「それが、そのお稲の髪を結うわいの。髪結いの口からはの、若い男と美しい女とが祝言(しゅうげん)をして仲の(むつ)まじいといった話が出るのじゃ。

 その男というのはの、聞かっしゃれ、お稲の恋じゃわいの、命じゃわいの。

 もうもう、それ以前までもな、腹の汚い、欲に(まなこ)(くら)んだ、兄御(あにご)によって邪魔(じゃま)をされて、双方で思い思うた、(つな)がる(えん)が繋がれぬ、その切なさで、あわれや、かぼそい、白い女が、紅蓮、大紅蓮……」

 ああ、嫌な話だ。

阿鼻(あび)焦熱(しょうねつ)苦悩(くるしみ)から、手足が張り、肉を切り刻まれた血の池のなかで(もだ)え苦しんで、なかば()き、なかば死んで、生きもやらねば死にもやらず、死にもやらねば生きもやらず、(うめ)き苦しんでいたところじゃ。

 それでも万に一つのこともあるかと、はかない、細い、(はす)の糸を頼った(えん)は、髪結いのその話で、(ねずみ)(きば)にプッツリと食い切られたが……

 ドンと落ちた穴の底は精神病院入りじゃ。次の段になればの、狂乱の所作(しょさ)じゃぞや」

 と言う。風が吹き()ったのか、紙の幕が、(ひるがえ)る――翻る。お稲はことばに合わせて、これからやるべき(しぐさ)のことを思っているのか、うっかり表れた手振(てぶ)りに乗りながら、恍惚(うっとり)と目を見開いている。……


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