二十
二十
春狐は眉をつり上げた。
「なったんじゃない。……葬式にされたんだ。殺されたんだよ。だから言わないことじゃない。言語道断だ。道を外れているよ。妹を餌に、泥鰌が滝登りをしようなんて」
「ええ、そうよ。……ですからね、兄って人もお稲ちゃんが病院へ入って、もういけないっていうころから、しきりになにかを気にしてさ。嬰児が先に死ぬし、それに、この葬式の最中だというのに、兄嫁だわね、ご自慢の細君が病気になって、どっと寝込んでいるんだもの。ああ、稲が命を取りに来たって、蔭ではそう言っていますとさ」
「待ってました。そうでなきゃ。その、なんだ、ハイカラな叔母なんぞを血祭りに上げて、家じゅう皆殺しにしてほしいね。ついでに稲ちゃんのお父さんの中風だけ治してな」と言って、取って付けたように笑った。
「まあ」
と蘭菊は目をつぶって、
「冗談はやめてよ。人が本気で悲しんでいるのに」
「もちろん、冗談にはできない話だがね。とはいえ、女の言うことをみだりに信ずるべからず。今の話だって、半分は嘘だろう」
「嘘なもんですか」
「まあさ、お前の前だから言うけど、隣の女房というのがまた、なにを言うにも大げさなんですからな」
「勝手になさいよ。人にさんざんしゃべらせといて。嘘じゃないわ。ねえ、お稲ちゃん、女は女同士だわね」
と、手にした乙女椿に頬ずりをすると、ちり紙に乗せて立ちあがった。……
実際は、その様子を見てさえ、春狐は身に染みていた。
残りの椿は、と思って床の間を見ると、あとは蕾がまだ堅いのと、幽かに開いているのと、二輪だけ残っている。
「ちょっとお待ち」
「なあに」と、襖に手をかけていた蘭菊が応える。
「でも、少し気になるよ。焦がれ死にをされたほうの、肝心の法学士のほうには、特に噂になるような事件はなかったのかい」
「あちらさんでもね、お稲ちゃんの容体がよくないってのを聞いて、それは気の毒がってね。――その法学士さんというのが、若い奥さんに、真面目な顔で言ったんだって。
お前は二度目の妻だ。後妻だと思ってくれ。お稲さんとは、たしかに結婚したつもりだ、だって――」
春狐はふと黙って、それについてはなにも答えず……。
「ああ、その椿は、なるべく川に」
「流しましょうね。ちょっと拝んでから」
と言いながら、女房は二階を降りていく。……手にしていた一輪の朱鷺色さえ、消えた娘の面影を偲ばせた。
だが、彼が思い浮かべたのは幻の姿ではない。とりわけ目に刻まれて忘れられないのは、あの夕暮れどきの門に立って恍惚と空を眺めていた、おそらく宇宙の果てというのは、黒く艶やかなその一点に秘められているのだろうと思う、お稲の一対の瞳であった。
同じその瞳である。同じその面影だった。
――お稲です――
と言ってふり向いたときの舞台の顔といったら。
それどころか、本物になぞらえただけの小道具ではあるが、舞台のお稲の前には真っ青に塗られた姿見の行燈までも、あるではないか。
美しい女は若紳士のほうをキッとふり向いた。
「あなた」
若紳士は、ステッキを小脇に、細いズボン姿の脚を伸ばしながら覗きこんで、
「稲荷だろう、おい、狐が化けたという場面なんだろう」
舞台の子供役者の、羽織にショールを前結びに結んだいでたちは、またそれが人形に着せたようにしっくりと姿に合っている。その子がまっすぐに、こちらに向き直った顔を見よ。
「いいえ、私はお稲です」
紳士は、射られたように、縁台へ後ずさりした。
美しい女の着物は、真菰がくれの花菖蒲の柄であったが、その絵柄の褄が、すらりと筵の端にかかった。……
「ああ、お稲さん」
と、あたかも、そこにいるのがその人のように呼びかけて、
「そう。そして、どうするの」
お稲は黙って顔を見上げた。
小さなその姿は、ちょうど美しい女が、脱いだ羽織をしなやかに肘に掛けているといった位置にあって、なよなよとして見える。
「止せ! 品子さん」
「いいわ」
「みっともないよ」
「私はかまわないの」