表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/26

二十

二十


 春狐(しゅんこ)(まゆ)をつり上げた。

「なったんじゃない。……葬式(とむらい)にされたんだ。殺されたんだよ。だから言わないことじゃない。言語道断だ。道を外れているよ。妹を(えさ)に、泥鰌(どじょう)が滝登りをしようなんて」

「ええ、そうよ。……ですからね、兄って人もお稲ちゃんが病院へ入って、もういけないっていうころから、しきりになにかを気にしてさ。嬰児(あかんぼ)が先に死ぬし、それに、この葬式(とむらい)の最中だというのに、兄嫁だわね、ご自慢の細君が病気になって、どっと寝込んでいるんだもの。ああ、稲が命を取りに来たって、(かげ)ではそう言っていますとさ」

「待ってました。そうでなきゃ。その、なんだ、ハイカラな叔母(おば)なんぞを血祭りに上げて、家じゅう皆殺しにしてほしいね。ついでに稲ちゃんのお父さんの中風(ちゅうふう)だけ治してな」と言って、取って付けたように笑った。

「まあ」

 と蘭菊(らんぎく)は目をつぶって、

「冗談はやめてよ。人が本気で悲しんでいるのに」

「もちろん、冗談にはできない話だがね。とはいえ、女の言うことをみだりに信ずるべからず。今の話だって、半分は(うそ)だろう」

「嘘なもんですか」

「まあさ、お前の前だから言うけど、隣の女房(かみさん)というのがまた、なにを言うにも大げさなんですからな」

「勝手になさいよ。人にさんざんしゃべらせといて。嘘じゃないわ。ねえ、お稲ちゃん、女は女同士だわね」

 と、手にした乙女椿(おとめつばき)に頬ずりをすると、ちり紙に乗せて立ちあがった。……

 実際は、その様子を見てさえ、春狐(しゅんこ)は身に染みていた。

 残りの椿は、と思って床の間を見ると、あとは(つぼみ)がまだ堅いのと、(かす)かに開いているのと、二輪だけ残っている。

「ちょっとお待ち」

「なあに」と、(ふすま)に手をかけていた蘭菊(らんぎく)が応える。

「でも、少し気になるよ。()がれ死にをされたほうの、肝心(かんじん)の法学士のほうには、特に噂になるような事件はなかったのかい」

「あちらさんでもね、お稲ちゃんの容体がよくないってのを聞いて、それは気の毒がってね。――その法学士さんというのが、若い奥さんに、真面目な顔で言ったんだって。

 お前は二度目の妻だ。後妻だと思ってくれ。お稲さんとは、たしかに結婚したつもりだ、だって――」

 春狐はふと黙って、それについてはなにも答えず……。

「ああ、その椿は、なるべく川に」

「流しましょうね。ちょっと(おが)んでから」

 と言いながら、女房は二階を降りていく。……手にしていた一輪の朱鷺(とき)色さえ、消えた娘の面影(おもかげ)(しの)ばせた。

 だが、彼が思い浮かべたのは幻の姿ではない。とりわけ目に刻まれて忘れられないのは、あの夕暮れどきの(かど)に立って恍惚(うっとり)と空を(なが)めていた、おそらく宇宙の果てというのは、黒く(つや)やかなその一点に秘められているのだろうと思う、お稲の一対の(ひとみ)であった。

 同じその(ひとみ)である。同じその面影(おもかげ)だった。

 ――お稲です――

 と言ってふり向いたときの舞台の顔といったら。

 それどころか、本物になぞらえただけの小道具ではあるが、舞台のお稲の前には真っ青に塗られた姿見の行燈までも、あるではないか。

 美しい(ひと)は若紳士のほうをキッとふり向いた。

「あなた」

 若紳士は、ステッキを小脇に、細いズボン姿の脚を伸ばしながら(のぞ)きこんで、

稲荷(いなり)だろう、おい、狐が化けたという場面なんだろう」

 舞台の子供役者の、羽織(はおり)にショールを前結びに結んだいでたちは、またそれが人形に着せたようにしっくりと姿に合っている。その子がまっすぐに、こちらに向き直った顔を見よ。

「いいえ、私はお稲です」

 紳士は、()られたように、縁台(えんだい)へ後ずさりした。

 美しい(ひと)の着物は、真菰(まこも)がくれの花菖蒲(はなあやめ)(がら)であったが、その絵柄の(つま)が、すらりと(むしろ)(はし)にかかった。……

「ああ、お稲さん」

 と、あたかも、そこにいるのがその人のように呼びかけて、

「そう。そして、どうするの」

 お稲は黙って顔を見上げた。

 小さなその姿は、ちょうど美しい(ひと)が、脱いだ羽織をしなやかに(ひじ)に掛けているといった位置にあって、なよなよとして見える。

()せ! 品子さん」

「いいわ」

「みっともないよ」

「私はかまわないの」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ